第1話-3
用意された夕飯を、ディエイラはがっつくことなく食べ始めた。最初は恐る恐るといった調子だったが、毒や呪いが込められているわけではないと判断したのかある時から食べるスピードが上がっている。身に着けているのはクラウドの子供時代の服で、白いシャツ、群青色の後ろだけ長いベスト、同色の膨らんだズボンだ。ざんばらの髪は赤いリボンでまとめられている。それなりに良い作りの服だが、ディエイラは着心地が悪そうな様子を見せない。カトラリーも躊躇なく使用している辺り、本家の親戚から聞いた通り、彼女の一族は秘匿ではあるが未開ではないようだ。
「もういいのか? 遠慮しないでおかわりするといい。たくさん用意させているぞ」
がっつきはしないがパクパクと口に運んでいたため早くもディエイラの皿は空になっていた。手にしていたナイフとフォークを置こうとした彼女を留め、クラウドが指で招くと、先ほどの三つ目の使用人が次の皿を持って来る。皿を入れ替えられたディエイラは少々戸惑った様子を見せる。だが、空腹と魔力不足には耐え切れなかったのか「すまない」と一言謝り再び口に運び始めた。
それを見守り、クラウドもワイングラスを傾ける。中身は赤い液体。ワインではなく、血液だ。大昔には人や他の種族――エルフやドワーフなど「ウォルテンス」と大別されるものたち――を襲って食事としていた。クラウドが生まれるよりも前に血液の供給を受ける契約を結べたため、今は供給され保存されているものが与えられている。
クラウドは皿に置かれた摘みたての花を持ち上げ唇を花びらに当てた。途端に、花はしおれ、彼が口を離した時には茶色く変色して手の中で崩れてしまう。それを皿に置き直したクラウドは、そこでようやくディエイラの視線が自分に向いていることに気がついた。
「どうかされたか?」
「――あ、失礼した。他の種族――まして吸血鬼の食事風景など見たことがなくて、つい見入ってしまった。ご不快にさせてしまっただろうか?」
申し訳なさそうにディエイラが眉を歪める。クラウドは軽く微笑み首を振った。
「吸血鬼の食事は特殊だから仕方ないだろうよ。こちらこそ気が利かず申し訳ない。吸血鬼も普通の物は食せるのだが、私は食事を必要としない種族との間に生まれたもので、あまり普通の食事を取る機会がなくてね。つい普段通りの物を用意させてしまった。次からは同じ物を――」
「いや、クラウド殿。気にしないでくれ。ここは其の館だ。此に合わせねばならぬ理由は無い。むしろ、此が其に合わせるべき所だろう」
「それこそ気にしすぎだ、ディエイラ殿。客人をもてなすのは家主の義務。遠慮せず食べて欲しい」
互いに気を遣い遠慮し合いのやり取りが続き、ふと止まる。そして一瞬の間を空け、ふたりは同時に笑みを浮かべた。
「どうやらお互い気にしすぎなようだ。好きに食べるとしよう」
「そうだな。お言葉に甘えさせていただく。ありがとうクラウド殿」
ナイフとフォークを両手に握ったまま笑顔で礼を述べるディエイラの表情は、ここではじめて年相応なものとしてクラウドの目に映る。そのことが何故か無性に嬉しく、彼の表情は一層柔らかいものに変わった。
「ところで、クラウド殿。これは余計な好奇心なので、ご不快なら答えなくていいのだが――」
浮かべていた笑顔をふっと収め、控えめにディエイラはクラウドを窺う。クラウドが軽く首を傾げて先を促すと、ディエイラは思いきったように疑問を口にした。
「先ほどの話だとクラウド殿はハーフらしいが、どの種族とのハーフなのだ? 見たところ分かりやすい異形は出ていないから人型の一族だろうか? 此の拘束具をあっさり切れた所を見るに鬼族ではないように思える――と、すまない。少し調子に乗ってしまった……」
これまでで一番饒舌な様子を見せたかと思うと、ディエイラははっとして口を手で塞ぐ。好奇心を爆発させながらも自分で再度制御出来る辺り、その辺りの大人よりもよっぽど自制心が強そうに思えた。少し面食らったものの、特に気分の悪くなる問いかけではない。再び申し訳なさそうにしているディエイラに、クラウドは軽く微笑んだ。
「いい。子供は本来好奇心が強いものだ。ましてこれまで他の種族とは交流がないのだろう? 気になるのは仕方ない。……質問に答えると、私は母が吸血鬼で、父は風の精霊の混血だ。とはいっても、仮初の肉体での交わりだったのでほぼ吸血鬼なのだが――」
「クラウド様! 子供の前です!!」
何をいきなり話し出しているのだ、と言わんばかりに三つ目の使用人が叫ぶ。クラウドは口を手で塞ぎ、しまったというように目をそらした。落ち着いた口振りをしているものだからつい大人にするような話をしてしまったことに今さら気がつく。
「すまないミッツア。ありがとう」
三つ目の使用人――ミッツアに礼を述べると、ミッツアは「こちらこそご無礼を」と頭を下げた。再び上がった顔は平静を装っているが、額の目は主を怒鳴りつけてしまった失態に対する不安でそわそわとしている。
「……? 子孫を残すための正当な行為について口にしただけでは……?」
大人たちは一体何をそんなに慌てているのか。ぼそりと口にしてディエイラは首を傾げた。しかし、実際に問えば恩人たちが対応に苦しむことが想像できたため、賢明なディエイラは話を元に戻す。
「風の精霊か、此の里にも時々訪れていた。自由気ままを形にしたような存在が惹かれるとは、クラウド殿の母君は大層魅力のあるお方なのだな」
純粋な感想にクラウドは苦笑して肩を竦めた。
「さて、どうだったかな。ここ一五〇年は両親揃って大陸中を放浪しているもので忘れてしまったな」
〝別の世界〟では死者であるゆえ不老不死と言われているらしいが、〝この世界〟に古くから存在する方の吸血鬼は命の流れが大変遅いだけで死者なわけではない。いつかは身が朽ち地面に還る定めだ。百歳ほどで一旦一人前と見なされ、その後は緩やかに年を重ねて長くて二〇〇〇年ほどで死を迎える。
ゆえに、現在年齢が三〇〇を数えているクラウドは疾うに大人という扱いだ。気ままな両親はクラウドが百を越えた辺りからよく出かけるようになり、一二〇を越えてからは帰る回数が減り、そしてこの一五〇年は一度も帰ってこなくなった。母は父と結ばれるにあたり本家はもちろん出身の分家からも離れたため、両親がいない間クラウドはこの屋敷にひとりきりで過ごしている。時折送りつけられてくる土産で生存を確認するのにも慣れたが、基本的に愛情深いムーンスティア家の血を十分に引く彼の寂しさを拭えるほどではなかった。
クラウドの状況を哀れんだ一族の者たちが使用人を送り込んだり会いに来たり逆に招いたりとしてくれていなかったら、言葉すら忘れていたかもしれない。そんな思いをしながらも、両親が帰る家だから、とこの屋敷から出られないのもまた、クラウドにとってはジレンマだった。
(我ながら情けないことだ。三〇〇にもなってこれではな……)
ディエイラの方がよほど大人ではないか、と自嘲の笑みが思わず唇に浮かぶ。
「そうなのか……だが、まだこの先会える可能性があるならばいいのではないだろうか」
視線を落としてディエイラがぽつりと呟いた。その直後、何でもない、と笑顔で否定するが、クラウドは逆に頭を抱えてしまう。
「……すまない、軽率だった」
本当に軽率だ。まだたったの八年しか生きていない子供に気を遣えないとは、クラウドは自身を恐るべき馬鹿だと断じる。上手く流せないのならば両親の話など乗るのではなかった、と今さらな後悔に陥った。まだこの先会える可能性のあるクラウドの寂しさなど些細なものだ。彼女がこの先――永遠に家族とも友人とも会えないことを考えるのならば。
ひどく落ち込んだ様子を見せるクラウドに、ディエイラは何かに気付いたようにナイフとフォークを置いて力ない笑みを浮かべる。
「……此の一族の掟、『黒角を継ぎし者、不用意に里を出るべからず。一度出た者は二度と里に足を踏み入れること能わず』。ご存知であったか」
ディエイラの一族は、名を黒角の鬼族。名の通り、黒い角を持つ鬼たちの一族だ。漆黒の角は強い魔力の証であり、彼女の一族で弱小と呼ばれる者すら他の種族にすれば十分に高位に位置する。それゆえか、黒角の鬼族は気位が高い。彼らにとって黒角は誇りであり神聖な存在の証なのだ。里を出れば穢れるとすら思っており、〝この世界唯一の王〟が交流を申し付けなければ里と一族が続く限り内に籠もりきりであったことだろう。
十数年ほど前から外部との交流が正式に始まり、訪れた者たち(これもまた一族が見極め「良し」と判断した者だけ)から得た知識や文化で独自に進化を続けていると聞く。しかし未だに里の掟は根強く、中でも「黒角の者が里を出れば穢れる」という思いは薄れる気配すら見せないそうだ。
ディエイラが口にしたのは、まさにそれに関わる掟。文言通り、黒角の者が里を出ることを禁じ、一度でも出た者が再び里に踏み入ることを禁じるものである。そこに理由の如何はない。「一度出た」という事実しか目は当てられず、「戻れない」という事実だけがディエイラに突きつけられた。
「仕方ないのだ。悪人とも思わず油断したのは此の失態。業腹だが、あの連中を恨むのも一族を恨むのも此の我侭でしかない」
自嘲気味の笑みのまま、ディエイラは視線を落とす。仕方ないと、まるで言い聞かせるような物言い。こちらを見ない彼女を見やり、クラウドは一度瞑目してから再び彼女を視界に映した。
「――ディエイラ」
敬称を抜かして呼びかけると、ディエイラは少し驚いたように顔を上げる。クラウドは探るような赤の宝石に柔らかく笑いかけた。
「もしそなたが嫌でなければ、この家で暮らさないか? 行くあてが出来ればいつでも出て行っていいし、この家が気に食わないと思ったら好きに出て行っていい。無理はしないで自分の好きに――」
「あの、クラウド様? そう出て行くことばかり仰っているとこの家に置くこと自体が嫌そうに聞こえますが……」
クラウドの言葉をミッツアが控えめに遮る。クラウドは驚いた様子でミッツァに視線を向けた。彼女の額の目が呆れた様に半目になっているのを見て、自分の言葉が上手くなかったことを認めたクラウドは少し照れた様子で顔を歪める。
「すまない、言い方が悪かった。助けた当日に誘いかけられたら義理を感じてしまわないだろうかと思ってつい……。とにかく言いたいのは、借り宿でも永住でも構わないからここに住まないか、ということだ。どうだろう?」
クラウドが再度誘いかけると、ディエイラは考えるように視線を落とした。かと思うと、ちらりと窺う視線がよこされる。
「……何故?」
短い問いかけの内容がこの提案をした理由についてだと判断し、クラウドは素直な気持ちを口にした。彼女に嘘を言っても恐らくバレる。子供騙しが通じるほど幼い思考は持っていないだろう。
「ひとつ。孤独に追い出されたそなたが哀れだと思った。ふたつ。外部との交流がほぼない一族である以上誰か頼れる相手がいると思えない。みっつ。そんな者を、ましてそなたほど幼い娘をひとり放り出す気にはなれない。よっつ。黒角の鬼族は希少価値が高いので、放り出すと各方面から襲われる可能性が高い。そうなると目覚めが悪い。いつつ。……おこがましいが、孤独の寂しさは分かっているつもりなので、お互い癒せたらと思ってしまった。以上だ」
指を一本ずつ立てて理由を紡ぎ、手が完全に開いた状態になると、クラウドは少し眉を寄せて笑った。その笑みをディエイラはじっと見つめ、不意に噴出す。
「ふふふ、ははっ、クラウド殿は最初に見た時と随分と印象が違うな。よっつめまでならそのままだったというのに、先ほどから何度もそう人らしい姿を見せられたら嘘だと思えない」
此は学習していないだろうか、とディエイラは声に出して笑い続けた。笑いの対象となったクラウドは少々気恥ずかしく視線をそらして咳払いをし、室内にいるミッツアをはじめとした使用人たちは「よく分かっている」と言いたげに笑みを浮かべている。
一通り笑い終わると、ディエイラは突然立ち上がり、クラウドの横まで歩いてきた。視線で彼女の動きを追っていたクラウドは、ぴたりと真横に止まり見上げてくる小さな少女を見下ろす。答えを待つ水色の双眸に、ディエイラは明るく笑いかけた。
「ありがとう、クラウド殿。もし黒角について言及がなければ、正直此は其を疑っていただろう。だが、何の気負いもなく其はそれを口にした。隠し立てないことを誠意の証と受け取らせていただき、そのお言葉に是非甘えさせていただく。どうか此を其の家に置いてくれ」
言うなりディエイラは再び膝をつき両手を差し出す姿勢をとる。聡い娘に改めて感心したクラウドは一瞬黙すると、すぐに笑んで彼女の両脇の下に手を差し入れ持ち上げて立たせた。水色と赤の二対の視線はお互いに穏やかさを映している。
「ああ、歓迎する。――それにあたって、まずその堅苦しい敬称を取ろう、ディエイラ。是非対等に会話したい」
促すように首を傾げると、ディエイラは口角を上げ少し鋭い犬歯を覗かせた。
「お言葉甘んじて。どうぞよろしく頼む、クラウド」
八つの娘に言う台詞ではなかったかもしれない。だが、応じてくれた瞬間こぼれた年相応の幼さが滲む表情は、胸に暖かさを灯してくれる。その時、クラウドはお互いの間にある垣根が少しだけ下がった気がした。