第4話-1
三〇〇人は優に収容出来そうなほど広さのあるその建物は、酒場のような造りをしており、そこに集まる者たちの心情を映したように照明は薄暗い。壁際の席にはメモ帳に何やら真剣に書き込んでいるアビゲイルと机に突っ伏したトリストがいた。
「姉ちゃーん、父ちゃんまだ戻らないかな? 俺腹減った……」
訴えに同調するようにトリストの腹の虫が盛大に鳴る。育ち盛り――はすでに過ぎたが、まだ若い上に燃費が悪いことこの上ないのだ。父がこの建物の主に会いに行ってそろそろ四十分。朝もろくに食べずに張り込んでいたので、そろそろ限界だろう。メモ帳から顔を上げたアビゲイルはため息をひとつついてペン先を斜め向かいの壁際にあるカウンターに向けた。
「いいよ、行って来な」
許可が下りるや否や、トリストは目を輝かせて跳ねるような足取りでカウンターに向かって行く。それを見送ってから再びアビゲイルがメモ帳に落とした視線は、一文字も書き込まない内に持ち上げられた。
「――何の用だい?」
厳しく問いかけた相手は近くの席から近付いてきた柄の悪そうな男たち。ただの人間もいれば獣に近い容貌のウォルテンスもおり、見かけだけならば町にたむろする若い衆、と言っても通りそうである。ただし、それぞれが腰に差した剣や銃、棍棒等の武器を所持していなければ、だが。にやにやとしている彼らは半円を描くようにアビゲイルを囲んだ。
「随分な言い草だなアビー。誰がお前ら流れ者の親子を囲ってやってると思ってるんだよ」
正面に来た赤茶色の髪の男が腰を曲げて顔をアビゲイルに近付ける。作りは良いが中身の悪さが滲み出たそれをアビゲイルは真正面から迎えうった。少し濃い目の化粧で飾った顔には相手を嘲る笑みが浮かぶ。
「この建物の主さんだねぇ。少なくともあんたたちみたいな三下に借りはないよ」
三下、という単語に後ろの方にいた若い取り巻きが怒鳴りかけるが、正面の男がそれを留めた。
「へぇ? じゃあお前らがヘマしたせいで捕まった俺の弟分については? 言うことはないのか?」
「人のせいにすんじゃないよ。あの腰抜けが黒角の娘にびびって逃がしたから追わせたら勝手に捕まったんだろう。あいつが間抜けなのさ。ふん、あんたの弟分だけあるねぇ?」
互いに一歩も退かない様子を見せ、その間には火花が散る。落ちた沈黙を最初に破ったのは半身を持ち上げた男だ。アビゲイルを見下ろす彼は、腐った性根がそのまま顔に映し出されたような表情を浮かべていた。
「ウザイ親父も馬鹿な弟も近くにいないのに、よくそう強がれたな」
男が引くと同時に周りの男たちがアビゲイルに手を伸ばしてくる。知恵のない欲獣の集団に、しかしアビゲイルは冷静にペンを振った。その途端、尋常じゃないほど溢れたインクがかかったそばから男たちを切り裂く。血と悲鳴が一瞬にして周囲を埋めた。興味を持たない者と余興を楽しむような声を上げる者で建物内は二分される。
男たちが退いた隙に立ち上がったアビゲイルは腰のポーチからナイフと魔法が込められた透明の瓶を複数取り出した。
「上等じゃないか。やるってんなら相手してやるよ」
好戦的に笑うアビゲイルに男たちは怒りを込めて相対し直す。それぞれが得物を握る中、彼らの背後から低いしゃがれ声がした。
「俺の娘に何してやがる」
ぎくりと取り巻きたちが身を強張らせる中、男が憎々しげな笑みで声の主――ゴルヴァを迎える。
「よぉクソ親父。てめぇの娘がうちの弟分たちに上等くれやがったんだが、少し貸せよ」
「駄目だ」
にべもなく断られ男が持っていた銃を向けようとした。しかしそれより早く、男の額に斧の刃先が振り下ろされる。寸止めされようやくその存在に気付いた男は顔を引きつらせ冷や汗を流した。その彼をゴルヴァは迫力のある眼力で睨みつける。
「俺ぁ商人だ。目的のために協力するっつー取引はしたが、ガキ共をおめぇらと遊ばせるのは契約に入ってねぇ。俺からモノを引き取りてぇならちゃんと交渉しに来な」
言下、ゴルヴァは顎をそらせる。失せろ、と言われたことに気付いた男は、切れそうなほど血管を浮かび上がらせながら舌打ちと共にその場を去って行った。その際弟分たちに「大丈夫か、行くぞ」と声をかけられるのが彼に取り巻きがいる理由だろう。
男たちが去って行くのと前後して、慌てた様子のトリストが駆け寄ってきた。それでも買って来た大量の食事が乗ったお盆を放さないところが彼らしい。
「ねねね、姉ちゃん大丈夫!? 怪我してない? 喧嘩すんなら俺呼んでよ――いてっ!」
「馬鹿言ってんじゃねぇこの馬鹿が。離れるなって言っただろうが。おめぇも騒ぎ起こすんじゃねぇ。また料金上乗せされたらどうすんだ」
「痛っ! ……悪かったよ……」
息子、娘と拳骨を落とし、ゴルヴァは血の臭いが残る席に躊躇なく着いた。アビゲイルとトリストも元の席に座り、三人はトリストが持って来た食事に手を付ける。常人であれば鼻の奥に突き刺さるような鉄の匂いに食事どころではないだろうが、彼らはすでにこの臭いに慣れてしまっていた。
「……あの黒角のガキと三つ目のガキの代金で料金までもう少しだそうだ。つっても、それこそあの吸血鬼を捕まえるぐらいは必要だがな」
先は見えた、とぽつりと呟く父の言葉に、アビゲイルとトリストはお互いに強く頷く。その後は時折トリストが喋りアビゲイルが相槌を打ったり訂正したりするだけで、ほとんど会話はなかった。
静かな時間に終わりが告げられたのは、食べ終わるまであと少し、というその時だ。不意に室内にけたたましい音が響き渡る。
咄嗟に耳を塞いだ家族は椅子を蹴立てて周囲を見回した。そして何とか拾い上げた言葉から、侵入者が来たことを知る。
「……このタイミング。もしかして、もしかするかもしれねぇな」
騎士などの討伐組織でも来たのかと騒ぎたて、建物内の者たちが逃げる準備をしたり戦う準備をしたりする中、ゴルヴァは地下へ続く階段へと向かった。その後をアビゲイルとトリストが追いかける。
「父ちゃん、どうしたの?」
トリストが尋ねると、階段を数段下りたゴルヴァが振り仰ぐように顔だけをトリストたちに向けた。
「もしかしたらあの吸血鬼が黒角のガキを取り返しに来たのかもしれねぇ。一応牢屋の前で張っておくぞ」
言い終わるよりも早くゴルヴァは地下へ向かって歩き出す。一度顔を見合わせ、まずはアビゲイルが、次にトリストがその後に続いて地下へと向かった。