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墜ちた花粉

作者: 雨咲ひいら
掲載日:2007/10/05

 部屋に帰ると姉さんは既に事切れていたが、僕は予定通り帰省した。

 都会の熱に絡まれながら、僕は地下鉄に乗り、都心の駅に到着する。

 せわしなく行き交う人々のじっとりとした吐息の中、僕は改札を出て、発着所に立った。

 二十二時に出発する深夜の高速バス。それは僕を、生まれた場所に運んでくれる。

 部屋に残したものは、姉さんの洗濯物だけで、僕は何一つ忘れず、振り向くことも、立ち止まることも無く、乗車した。切られたチケットを確かめ、約九時間程身を沈める座席の番号を探す。車両最後部の窓際。僕はそこに座り、シートを限界まで倒す。その途端に、都会で二年間溜めてきた疲れが容赦なく全身を襲い、僕はそれを追い出すように深い息を吐いていた。

 故郷に帰る。誰にも聞こえないように、小さな声で呟いてみた。故郷に帰る。

 間もなく車内は消灯時間となり、僕は他の乗客の迷惑にならないよう、窓枠に設置されたカーテンで体を覆った。暗闇の中で目映く光る携帯電話で、僕は目を覚ました経験があった。

 カーテンと窓ガラスの僅かな隙間に挟まれる僕は、携帯電話をポーチから取り出しながら、高速で流れる外の景色に視線を預けた。高速道路の向こうには、車両のテールランプの赤で縁取られた光のサソリが待ち構えていた。いずれこの車もその体の一部になる。僕の頭は安易な比喩を行ってしまう程、疲労で鈍化していた。

 開閉式の携帯電話を下向きに開き、それを徐々に正面に傾けては目を慣らす。それでも携帯電話のバックライトの光量は闇に慣れた瞳に刺激を与え、僕は目を細める。眼球の表面に、微弱な電流が走ったような痛みだ。睫毛の毛先でぼやけるモニタの文字を、僕は投げやりに追う。

「シマナから連絡ないけど、明後日、帰ってくるんだよね?」

 受信していた一件のメールは、母からのものだった。

 僕は両手の親指を使い、慣れない手つきで返事を打つ。

「たぶん。でも、仕事が忙しいって言っていたから、遅れるかもしれない」

 送信ボタンを押し、僕は直ぐに携帯電話の電源を落とした。

 僕はそれをポーチに放り込み、手編みのニット帽を目深に被った。目を閉じて、思考を止めるよう試みる。

 直ぐに眠りに落ちるだろう。

 その僅かな間、僕はある幻想を抱く。

 姉さんから咲いた花。

 それは都会に不可視の粉をまぶし、人々はその花粉を否応なしに吸い込むのだ。全ては眠りに落ちていく。積雪の重みで首を曲げ、やがては横たわる冬の植物のように、彼らはゆっくりと倒れていくのだ。

 僕は更に強く、想像してみる。

 その粉は、姉さんの匂いがする。少し酸味はあるが、刺激的ではない、優しい香りだ。深く吸い込むほど、僕はそれをより深く味わえる。やがて僕は永遠の眠りに誘われ、その醒めない夢の中で、姉さんは僕の心の隙間を埋めていく。

 その代わりに、姉さんは喋られないし、動くこともできない。

 僕は姉さんの代わりに帰郷するのだ。そこで先祖のお墓参りをする。そして、一本の花を供えるのだ。姉さんの胸から咲いた一輪の花。茎は漆黒、花弁は深紅で、雌しべが艶めかしい曲線で垂れている。そして大きく膨らんだ子房の中には、姉さんの決して明かしてはならない秘密が詰められている。僕はその花を、確かに故郷に持ち帰るのだ。


 バスが見覚えのある風景の中で止まった。僕は荷物のリュックを肩にかけて、降車する。

 運転手さんに礼をし、自宅の方向を確かめるために周囲を見回す。すると、幾分か乾燥した心地良い風が、産毛を上手にからかいながら、僕の頬を撫でた。それは僕が記憶していた以上に、優しさを帯びていた。僕は思わず微笑み、両肩を上げて深呼吸をしてみた。身体の中に溜まっていた夜行バスの重苦しい空気は入れ替わり、僕は軽くなった。故郷の空気が僕を受け入れてくれたことを、素直に喜んだ。

 父が迎えに来てくれると言っていた。

 電源を入れた携帯電話は、そのメールを最初に受信する。僕は自宅へ向かう国道の位置を思い出し、その方向へ歩く。都会では絶対に見られない虫が足下を横切り、空にはカラス以外の鳴き声が響き合って木霊している。子供の頃、雨の日には必ず道路の車道外側線の上を歩いていた僕は、その慣例を思い出し、実践してみた。生憎、雨は降っていないが、景色を見ながら真っ直ぐ歩くだけでは、僕は退屈してしまう生き物だ。

 車の数は、少ないというよりは皆無に等しい。時折、白線遊びから飽きて脱線しては、中央線まで足をふらつかせてみる。道路の先には蜃気楼が立ち上り、僕はその揺らめきに酔っていく。どこまで行っても手に掴むことができない、その歪んだ景色に想いを馳せる。

 僕の背中に何かが軽く触れ、風景に呆然としていた僕は自我を取り戻すきっかけを得た。後ろを振り向くと、四輪駆動の水色のセダンがこちらを無言で見つめていた。アイドリングの音がない。ほんの僅かな間にエンジンを切ったらしい。その車の中に乗っているのは僕の父で、彼はサングラスを外して強張った頬で微笑んでいた。

 生まれてから半世紀、車輪の付いた機械を自在に動かす仕事だけに情熱を傾けた父は、運転に関しては右に出る者がいない程、高い技術を持っている。僕は助手席のドアを開け、父の空間に入った。

「おう」

 父の照れ隠しの短い挨拶を、僕は長いまばたきで応えた。父は続ける。「道の真ん中に可愛らしい動物がいたんでよ、ちょっと小突きたくなった」

 父は自分で制御しきれない冗談を飛ばす時、頬が、酔った時に現れるような甘い桃色になる。「――しばらくだな。二年ぶりか」

 車は静かに動き出し、速度と共に、父の表情が真剣さを取り戻す。僕はウィンドウ越しの故郷を眺めながら、父の言葉を待った。僕と父の間に交わされる最初の会話は、既に決まっていた。

「シマナとは、まだ連絡がつかないのか?」

 その音色はやはり懐かしく、心地良い振動を胸に伝える。僕は首を動かさず、そのままの姿勢で「うん」と答えた。努めて低く出そうとしたその音は、多少の緊張が影響したのか、少し上擦ってしまった。僕はそれを誤魔化すように、視線を足下に落とし、長い吐息を漏らした。

「――そうか」

 落胆の込められた頷きが聞こえ、僕は瞳を閉じた。瞼の裏に、シマナと呼ばれる姉さんの姿が浮かぶ。

 姉さんはもう帰ることはできなくなっていて、その声も匂いも、僕たちは二度と体感することはできない。そして僕は、その事実を父や母に伝える時機を見計らっている。その理由は、僕の膝の上に乗っているポーチの中にある。

 僕の数少ない荷物の中に、四本のフィルムケースが入っていた。子房の正体だ。その中には、細かく千切られた婚姻届と出生届、認知届、戸籍謄本が入っている。時間をかけて復元すれば、そこには父も母も知らない男の人の名前が現れる。僕はそれを復元させる気も無ければ、破棄する気も起こらない。とりあえず、僕はそれを保持しておかなければならないという意志に動かされている。

 車は微かに上下の振動を始めた。砂利の道に入ったようだ。その道は、自宅への一本道となっている。車輪が弾き飛ばす小石の音に耳を澄ませながら、僕は胸の奥の揺れを懐かしむ。それは高速バスのシート上で感じた郷愁より、遙かに濃厚で、味わい深い感覚だ。昔から僕は、この砂利の上を走る車の音や振動で、我が家に帰ってきたことを実感してきた。長い旅先の後、その感覚を姉さんと共有しては、姉さんは僕の気持ちを見通して囁くのだ。

「やっと着いたね」

 その声は聞こえないし、これからももう、聞くことはできない。その事実を確かめるように、僕は不意に、僕自身を抱きしめていた。父はそんな僕を横目で覗き、低い声で呟いた。

「懐かしいだろうな」

 僕はそれに頷く事もせず、ただ黙って、大きくなっていく家を見つめていた。

 その家は、受け入れる者を少なくした今でも、変わらずに森の奥でひっそりと佇んでいる。


 母は、僕の顔を見るなり少し複雑な表情を浮かべた。

 取り込もうとしていた洗濯物が微かに湿っていたら、僕も似たような表情を作れるのかも知れない。

「おかえり」

 僕はキャンバス地のスニーカーを脱ぎながら、ただいま、と答える。そしてほぼ同時に、家の匂いを感覚する。

「匂い、変わってないね」

 その言葉を、母は上手く飲み込む事ができなくて、喉に詰まったそれを胸の中に落とし込むように、胸をさすった。

 後ろで挨拶を聞いていた父は、眉間に少しだけ力を入れて、瞳孔を縮小させた。僕はそこに生じた奇妙な間を無駄遣いせず、靴を丁寧に揃えた。そうやって、前屈みになった僕の背中に、母さんは溜息と共に、飲みきれなかった言葉を変容させて押し出した。

「――そうね。あなたが出て行ってから、何も変わっていないのよ――」


 物置化された自室で荷物を軽くした後、僕は両親に断って外に出た。

 親友に会う約束をしていた。

 約一年ぶりになる。

 僕はその親友と話がしたかった。

 特に話題を用意している訳でもなく、顔を合わせれば自然と言葉が生まれる。それが二人の関係だと思わせるために僕は努力をしてきた。僕の気持ちは、相手に見破られてはいけなかった。

 路線バスを使用して、市で有数の規模を誇る住宅団地に足を運ぶ。彼女の家は三階建ての二世帯住宅で、その大きさは我が家と比べて目を見張るものがあるが、この団地では特別珍しいものではなかった。

 彼女の家の前に立ち、僕はチャイムを鳴らした。事前に連絡は取っていない。ただ、今日のいずれかの時間に押しかけるとしか伝えていない。そうした方が、お互いに気が楽なのを知っている。

 インターフォンの応答が無いまましばらく経って、玄関のドアが開かれた。中から現れたのは、見覚えのある短身で細身の男の子だった。彼は、怪訝そうに僕を見つめた。きっと僕が誰なのか、すぐには思い出せなかったのだろう。僕は不得意ではあったけれども、話を切り出す事にした。

一葉かずはの―――彼氏さん、だよね?」

 羽虫の音のような僕の小さな声は彼に届いたらしく、彼は、訝しげながら答えた。

「うん」

「僕は、一葉のともだち」

「あなたは、一葉のお友達」

「そう、ともだち」

 僅かな沈黙。

 先に吹き出したのは彼の方で、僕もそれにつられて、笑った。

「久しぶりだね」

「うん。ひさしぶり」

 僕はニット帽を取って、家の中にお邪魔した。

 彼氏は拍の裏をとる不思議で独特な歩き方で、僕を一葉の部屋に案内してくれた。

「ごめんなさい。前に一度、会った事があるのにね。直ぐに思い出せなかった」

「一年も前だもん。僕も、ほとんど忘れていたから、大丈夫」

 一葉はしばらく帰ってこないと、彼氏は言う。

 病院で検査を受け、その後に大学に行って研究のデータ整理をしてから、家に戻るらしい。「検査?」

 僕は彼氏が出してくれたアイスロイヤルミルクティーに口をつけてから、そう訊ねた。

 彼氏は彼氏の商売道具である麦藁帽子を編む手を止めて、ゆっくりと厳かに答えた。

「もしかしたら、子供ができるかもしれないんだ」

 僕はその言葉を耳にして、口の中のものを全て吐き出してしまいそうになった。そして、どんな表情をして良いのか分からず、俯いてしまった。顔が熱くなっていた。

「俺も、一葉も、子供をずっと前から欲しかったんだ。俺たちはまだ若いかもしれないけれど、子供と共に成長していきたいから」

 とりあえず僕は、近くにあったティッシュの箱で、彼氏を叩いてみた。

「なにするの」

 彼氏の頭をパコパコと何度か叩いているうちに、楽しいのか、悲しいのかはっきりしなくなって、自然と手が止まった。彼氏はティッシュの箱を奪い、僕の手の届かないところに配置した。僕は心の置き場所を失って、じっと足元を見つめた。

「一葉から何も聞いてなかったの?」

 僕は力を失って頭を垂れ、言葉で補った。

「子供が欲しいなんて、一言も言ってなかったよ」

 彼氏は僕の口元を注視して、何かを察したのか、閉口してソファーに身を沈めた。

 僕はその時、体の奥底から這い上がってくる、黒くて下卑た感情を認識していた。そしてそれは、既に止めることはできなかった。僕はその感情の奔りに委せ、彼氏に訊ねる。

「どこから触ったの?」

「え?」

 彼氏は理解していない。

「初めての時、しぐれのどこから入っていったの?」

 僕は想像力が乏しい上に、想像の制限を人より多く設けている。特に厳しいのは、親友の性的な交渉の方法について。

 彼氏は微かに狼狽する様子を晒しながらも、冷静に応答する。

「突然、変なことを聞くんだね」

「だって、僕は二人がそんな関係だなんて、認められないから」

 彼氏は綺麗に生え揃った白い前歯を見せて、軽やかに笑った。

「もう三年にもなるんだよ。確かに、そんなこと、恥ずかしくて人に言えたような事じゃないけど」

 そう言って、頭の裏を掻きながら、

「僕は十分、一葉を愛してる。一葉も僕を愛してる」

 と、彼氏は言い切った。

 愛している。その言葉が体感している人の口から放たれると、僕は眩暈のような短時間の意識の喪失を覚える。

「あいしてる」

 口に出してみても、その言葉は僕のものにならない。むしろ、僕から遠退いては、意味を消失する。

 彼氏は気を遣って明るい表情を作り、その笑顔で僕に問う。

「都会では、誰か、素敵な男性との出会いはないの?」

 僕は無意識に、それを嫌悪する表情で受け止めてしまったのか、彼氏は僕の様子を見て、前言を撤回した。

「ごめん。今のはナシ」

 僕の性癖を彼氏は覚えているのだろうが、彼氏はまだそれを理解していない様子だった。もしかしたら僕は、彼氏を刺してでも一葉を取り戻したいと考える人間なのかも知れないのだ。彼は僕を危惧するべきだった。

「一葉をどこから責めたいと思った?」

 繰り返しになるその質問を、彼氏は上手く避けきれなかった。彼氏は目を泳がせ、苦しそうに唇をへの時に曲げる。

「どうして、そんなことを聞きたいの?」

 僕は間髪入れずに更に質問を重ねようと思ったが、上手く舌が回らなかった。今更になって、恥ずかしさが僕を抑制していた。

「一葉の事を良く知っているのは、僕たちだけだから、いいでしょう?」

「そうだけど、こういう話は何か間違っているような気がするよ」

 彼氏の曖昧模糊な意見に、僕は直ぐさま盾突いた。

「どうして?何が間違っているの?」

「わからないよ」

「どうして?」

 無意味に追求する僕の瞳は、どんな色を帯びていたのか。彼氏の、全ての光を吸い込んでしまいそうな黒色の眼孔上では、それは判別できない。

「君だったら、一葉を、どこから愛するつもりなんだい?」

 彼氏の突然の反撃に、僕はすくんだ。

「俺は、そういうのは意識的に選ぶものではないと思うから」

 帽子を手にとって、解れた編み目を手繕う。

「一番愛したいのは、彼女自身なんだし、それが身体のどこの一部であろうと関係ないよ」

 彼氏の言っていることに、僕はよく理解できないまま、彼氏の問いかけに心を奪われていた。僕は、一葉をどこからどのように触れていくつもりだったのだろう?僕は、一葉をどのように愛するつもりだったのだろうか?

 僕は彼氏に質問する前に、自分の胸によく聞いてみる必要があった。


 ミルクティーが空になった後、僕は彼氏と一緒に一葉の帰りを待ちながら、テレビを見ていた。

 夕刻時に流れたニュースでは、都心から発生した大量の花粉が、関東圏に住む人々の意識を次々と奪っていると伝えている。彼氏は僕を見て、「大丈夫なの?」と訊ねるが、僕は首を振った。

「あと一週間もしないうちにここに来ると思う」

「そうじゃなくて」

 彼氏は僕を、不安そうに窺う。

「君は平気なの?」

 僕は少し考えて、平静を装った。

「多分ね。全員がなるわけじゃないし、時間差だってあるんじゃないかな」

 僕の言葉で、彼氏の不安の影が濃くなっていくのが手に取るように分かる。

「とりあえず、僕は大丈夫だよ。もしかしたら、風向きによっては、こっちまで来ないかもしれない」

 僕はテレビのリモコンのスイッチ一つで、モニタを黒に、音声を無にした。

「あの花粉は、僕の姉さんから咲いた花から出てる」

 自分で発した言葉なのに、またしても僕はそれを捕まえる事ができなかった。

 現実味の無い発言だ。

 彼氏はそれを、どう解釈するべきか分からず、呻いた。

「冴えない冗談を、俺に試したの?」

 僕は立ち上がり、彼氏の作っていた帽子を手に取った。

 手触りが良い。

 僕は左手の小指と薬指で、つばの編み目をなぞった。

「かえる」

 漢字にならないよう言ってみた。

 もう一度、彼氏と彼氏の帽子に向けて、言い放つ。

「僕、かえる」

 僕は彼氏に帽子を返し、僕の大半の財産が詰まった小さなリュックを背負った。アッシュブラウンで染め上げられたそれは、僕の腰の丁度真上で良い加減に落ち着く。

「一葉、もうすぐ来ると思うけど……」

 彼氏は作りかけの帽子を弄くりながら、僕を引き止めようとしたが、僕は立ち止まらなかった。

「よろしく言っといて。今度は、―――そう」

 新たな命に出会いたいと思うと、心の中で密かに強がって付け足す。

「来年かな。それまで、元気で」


 家に帰ると、既に陽は落ちかけていて、日差しの方向を斜めに変えていた。

 日の届く範囲で設けられた家庭菜園は、むらのない朱色で彩色されていた。

 その中で、花柄の頭巾を被った母が、小さな背中を丸めて雑草を抜いている。

 僕は埃まみれになっていたビーチサンダルを玄関の靴箱から見つけ、軽く水洗いをしてから、足につっかけた。

「泥がついちゃうのに」

 母は軽く僕をたしなめながらも、ピンクのゴム手袋を僕に渡した。母は素手で、再び草むしりを続ける。そのペースは変わらないどころか、むしろ早くなっている。僕はその切れのある動きにぼうっと見とれていた。

「小指、ちゃんとはまってないわよ」

 母に直される。

「あんたは昔からそう。しっかりしているように見えて、けっこう抜けているんだから」

 僕は腰を下ろし、目の前にあったトマトの根本に茂る雑草を掴んでみる。厚いゴム越しでも、生命の束を握っている感触は、際限なく僕を不安にさせる。抜いてしまえば、復讐されるかも知れない。

「シマナからまだ連絡がないのよ。あんたはどうなの?」

 僕は腕で汗を拭いながら、首を振る。

「そっか。久しぶりに帰ってくるっていうのに、こんな時まで心配させる子」

 母は掘り起こされた雑草の根に目線を落としながら、小さな溜息も投下する。

 しかし、どうしてだろう?

 母の瞳の球面は遠くを映しているのに、その焦点はしっかりと定まっては、迷いがない。姉さんの事が不安で、心配で、何度も僕に確かめるのに、その行為自体は不快そうに見えない。むしろ楽しんでいるようだ。僕はその様子を見せられて、苦しくなる。例えば、僕と姉さんが同じ場所で肩を並べて立ったら、姉さんを際立たせるための風景になってしまう。それで姉さんが少しでも輝くのなら、別に僕は構わない。その選択を躊躇わない。けれども、姉さんが欠けてしまったら、僕はどのように評価されるのか。その度に姉さんと比較されるのではないだろうか。そうなれば、僕は姉さんを嫉妬するに違いない。

「昨日まで一緒にいたんでしょ。他に何か言ってなかったの?」

「何も言ってなかった。強いて言うなら、お墓参りが楽しみだって」

 母は下唇を噛み、「そうね」と短く答えた。

 故郷を立ってから、一度も先祖が眠るお墓にお参りに行ってない姉さんは、何か不幸な事が起こる度に、両親や僕に「しばらく、先祖に顔を合わせてないからなあ」と苦笑と共に漏らしていた。

 写真でしか知らない祖父や祖母に、現世の願いの言葉があるならば、それはなんて傲慢な事だろう。それなのに毎年欠かさず、お盆にはお墓の前に立つ僕は、線香をくべ、手を合わせ後に訪れる沈黙に、言葉を失う。

 姉さんなら、どんな言葉を用意しているのだろう。

 まさか、あまりにも久しくて、念仏すら唱えるのを忘れたりはしていないだろうか。

「明後日のお昼には、霊園に行くからね。今年も泊まり込みだから、明日の晩にはここを発つよ。予定は?」

 父と母の生まれ故郷に行くには、自宅から車で六時間程かかる。そこには誰も住んでいない父の実家がある。僕や姉さんが学生だった頃は、家族全員で廃車同然の軽自動車に乗って、手作りの弁当と共に長い旅路を楽しんだ。父の実家は築百年の木造であることから、いたる所が痛み、朽ち果てていた。強風の度に軋みが聞こえ、地震の度に埃が舞い落ちる。その都度、崩壊を恐れていた僕に「いっそのこと壊れてしまえば、こんなところに来なくて済むのに」と姉さんはよく笑って勇気づけてくれた。今年もそこに泊まるのだ。

「明日は小学校。タイムカプセルを掘り起こしに行く」

「夜はどうするの?」

「分からない。流れで、友達と飲みに行くことになるかもしれないし、すぐに帰ってくるかも」

 小学校の友達とは特に連絡を取っていなかった。

「明日中に帰って来れなかったら、その時は電車で行くよ。着いたら連絡する」

「連絡するったってあんた、あそこじゃ携帯つながらないんだよ」

 すっかり忘れていた。携帯電話の対応外地域と呼ばれる所は人里離れた山奥しかないと認識していた僕は、父の実家もその条件に入っていることを失念していた。それに加え、駅から実家へのアクセスはタクシーしかない。

「台所の電話帳の隣に時刻表あるから、それ見て、電車の乗る時間を決めなさい。そうしたら、お父さんに駅まで迎えに来てもらうから」

「分かった。でも、電車って、一時間に一本くらいしかないんでしょ」

「いや、三時間に一本だよ。あんたの記憶からでも、本数が減ったもんだね」

 母は引き抜いた草の根についた土を、自身が履いている長靴に当てて払う。僕はそれを真似しようとしたけれど、サンダルではとても無理だった。土が取れて裸になった草の根は、足となって今にも動き出しそうな程、生々しい姿形をしていて、僕は「グロテスク」と囁いた。


 翌日、僕は一人で小学校に向かった。寂れた通学路を懐かしみながら歩いていると、ぽつりぽつりと旧友達が現れ、僕の姿を見つけては挨拶代わりに身体をあちこち弄り始めた。彼らは僕の単独行動を許すつもりはないようだった。「相変わらず」「元気そうで」と肩や背中を叩かれ、セットした髪の毛ももみくしゃにされた。「大人になっても、仔猫のままだ」と、旧友の一人が感心しながら呟いた。僕の猫としての扱いは、今も尚継続されていた。僕は保身の為に身体を丸く屈めたまま、旧友達に持ち上げられ、学校に運ばれた。

 タイムカプセルは校庭の端に埋められていた。現場を見た途端、淡い記憶が蘇った。確かにその場に埋めたような気がした。そこには大勢の人が集まっていて、父兄達の顔も見えた。生徒達の数を凌駕する彼らは、一同揃って首にタオルを巻き、穴を掘っていた。

「えー、そんなの若い衆にやらせなよ。無理してカッコつけることないじゃん」「軍手すらつけたくないのに、自分たちのこと棚に上げちゃだめだよ」「自分たちのタイムカプセルなんだから、自分たちの手で掘り起こさないとねえ」と、本当の子供達の様々な意見が耳を過ぎる。

 かつての担任からの手渡しで、十年越しの手紙を受け取った面々は、様々な表情を浮かべながら、お互いにその内容を見せ合う。百点を採ったテスト、当時流行っていたキャラクターの鉛筆や消しゴム、中には朝のラジオ体操でスタンプ一杯になったカードや、意図不明の単三乾電池なんかも覗ける。僕の手紙は、その内容の一字一句を暗記していたので、開けないままポケットに放り込んだ。

 そうして僕は上級学年のクラスの人集りに顔を出し、先輩達に挨拶をしながら姉さんの二十四歳への手紙を受け取る。僕はすぐに中身を見たいという欲望にかられる一方、同時に恐れも感じていた。大勢の人達の前で、それは開けてはならないような気がした。僕は得体の知れない恐怖に駆られながらも、その場ではどうにか我慢し、自分たちの学年の場所に戻った。姉さんはこの中に何を入れたのだろうか。封筒は限界にまで膨らんでいて、今にも中から何かが破り出てきそうな威圧感すらある。内包されたエネルギー。僕はそれにますます興味を覚える。

 タイムカプセルが全員の手に行き渡った後、僕は想定通り拉致されて、夜を居酒屋やカラオケで飲み明かす。そこでまた、より多くの旧友達に会う。三児の母となっていたり、学校の先生になっていたり、会社の社長になっていたりと、夢見た職業を貫く人達の眼差しは強く輝かしい。一方、思い通りに人生を歩めない人達も大勢いる。失敗を繰り返し、そしてまた新たな失敗を積み重ねてしまうのではないかと、選択を迷っている人は無数にいる。しかし、旧友達は未来を見ていた。その顔は、希望に満ちていた。僕は彼らの話を聞きながら、人々の成長を実感し、胸の奥で渦巻いていた羨望を改めていた。飲まされたアルコールで、その感覚もやがて麻痺し、表に出ていた自己への嫌悪感や劣等感も薄れていった。遠退く意識の中で僕は、姉さんの名前を何度も呼んでみたが、やはりその返事は聞くことができないまま、深い微睡みの中に落ちていった。

 誰の車か分からないスポーツワゴンの後部座席で、僕は目を覚ました。車の外では五、六人の男女が半裸になって海に向かい何かを叫んでいて、僕はそれを、窓ガラスの曇りを手でゴシゴシ擦りながら眺めた。平和で、穏和で、微笑ましいその光景を、素直に僕は気持ち良いなと思った。そして、ふと、封筒の事を思い出した。

 誰もいない。手は自然と、ポーチに向かっていた。中に入れていた姉さんの封筒の開封を試みる。先端まで限界に入れられている封筒の口はテープで頑丈に閉められていて、手だけでは簡単に開けられなかった。僕はいつも持ち歩いている裁縫道具から糸切りハサミを取り出して、それを切った。中から出てきたのは、封筒サイズに一枚一枚丁寧に畳まれた原稿用紙三十枚だった。封筒の中身はそれだけしか入っていなかった。それだけ、というよりは原稿用紙三十枚も、だろうか。

 水平線の向こうからは朝日が昇り、オレンジ色の光が車内に満ち溢れていた。姉さんの好きなHBの鉛筆で書かれた角のしっかりした文字は、原稿用紙の上で美しい程に整列されている。

 文章が僕に絡みついてきた。途中、何度か鼻水が出て、それをハンカチで拭いながら、僕は次のページをめくるよう急かされる。圧倒的な扇情力が僕を襲った。気が付くと、僕は原稿用紙を封筒に戻していて、海原を眺めていた。惚けていた。読後感が良いとか悪いとか、そんな話ではない。内容そのものに感動した、喚起された、触発された、という感じでもない。ただ僕は、姉さんという人間に、その人物の事実に、打ち拉がれていた。

 それは日記のような、創作の物語。明らかな私小説だった。当時十一歳の姉さんが父に寄せていた想いを、密かに綴ったものだった。


 その後、僕たちは牛丼屋で朝食をとった後に解散し、僕は駅に向かった。

 一日に四本しかない電車の始発に、僕は乗る。

 昨夜に摂ったアルコールは未だに僕の体内に残っていて、頭の芯の部分が少し焼けこげた様な奇妙な感覚はなかなか剥がれなかった。肉体の鈍さを引き摺りながら、やませの吹きつけるホームに気怠げに立つ。風が強くなる度に、寂しさが比例して襲ってくる。

 定刻から二分程遅れてやってきた電車に乗り、ボックス席の窓際に体を落ち着かせた僕は、発車後間もなく眠りについた。現実と入れ替わるように、すぐに自覚夢が訪れる。


 夢では、姉さんがある男の人に抱かれていた。

 仕事から早く帰ってきた僕は、部屋越しに、その音を確かめていた。

 姿は見ない。

 薄くて軽いそのドアを片手で開ければ露わになる姉さんの肢体を、僕は覗く勇気が無い。

 下腹部の肉体を内側から舐め回してくるような嫌らしい疼きが僕を襲う。それは明らかに性的な欲求だと判っているのに、僕は二人を見たくないと拒んでいる。

 何故なら、姉の中に入っている男の人を見てしまえば、彼を殺したくなるに違いないから。音だけなら、僕の想像力では暴力を行うための感情を生み出せず、こうやって押し留める事ができる。姿の無い、無色透明な人間が姉さんの全身を緊張、弛緩させていると思えば、僕の殺意は一点に纏まらず、時間と共に霧散していく。その筈なのだ。

 僕はベッドの上に腰を下ろす。その音で、姉さんと男の人は、僕が帰ってきた事に気付く。そして露骨に、声を押し殺す。それでも、まだその行為は継続していることを僕は知っている。けれど僕はそれに気付かないふりをする。

 僕は、玄関に並べられていた男の人の革靴を強くイメージしていた。その形なのか、臭いなのか、手触りなのか、どれを最も強く感じ取っていたのかは、あまりにも激しく混濁していてなかなか判らない。ただ僕は、その革靴のイメージをベッドの上まで持ち込み、姉さんのくぐもった吐息に耳をすませながら、利き腕ではない左手で自分の体を壊していく。人はそれを、快感の獲得や、寂しさを埋める為に行うが、僕の場合、それとは少し違うように思えた。自分自身をただ単純に壊したい、もしくは、自分の体を姉に置き換えて姉を壊したい。しかしそれでオーガズムは得られないし、過程や結果においても、気持ち良いとは一瞬たりとも感じた事はない。体が只それを求め、僕は忠実に応えてはいるが、感覚に残されるのはやり切れない思い。すなわちそれは痛烈な切なさだけだった。

 夢は続いている。

 スーツのままベッドの上で体液を垂らしている僕の前に、その男の人が現れた。

 姿、形は視認できない。ただそこに、男の人がいるという存在感だけが伝わってくる。懐かしい。僕はその人を知っている。けれども、断定はできない。恐ろしいのだ。僕はその人を確かに知っている。しかし、明かしてはいけない。自覚してはいけない。

 男の人が、何かを呟いた。

 僕は立ち上がって、その場から逃げようとするが、思念体のような容姿のはっきりしない男の人は、僕の腕を掴む。体力を使う抵抗が嫌いな僕は、その一瞬で全てを諦める。男の人は腕を握る力を緩め、また何かを続け様に呟いていた。言葉一つ一つを認識することはできないが、ニュアンスは伝わってくる。なんだろう。諭している、もしくは、言い繕っているような印象を受ける。僕を説得しているようにも捉えられる。

 ひとしきり一方的な思念が投げかけられた後、全身にゆっくりと確かな重みと湿り気を感じて、僕は抵抗の余地を失った。胸が圧迫され、息苦しさに僕は、上半身の温度が急激に高まっていくのを感じた。内股に接触していた固い突起は、激しい脈動で苦しそうに上下している。

 僕は歯を食いしばり、眉間に皺を寄せて目を強く閉じる。そして、時が過ぎ去ることを切願する。他人の手に壊される僕でも、快感を得られない事実は変わらない。

 男の人の動作が止んだ頃、遠く、窓の外で誰かの泣き声が聞こえた。誰の声だろうか。その声は幼い。子供の泣き声だ。まだそれも、生まれて間もない子供。言語を持たない者が特有する声色だ。

 僕は窓の外に目を向けた。コンクリートで固められた駐車場の上で、姉さんが立っている。その腕には子供が抱かれていた。僕は姉さんの名を呼ぼうとするが、それは声にならず、放とうとする言葉が喉に逆流して、息が詰まるようだった。姉さんはそんな僕の様子に気付かず、子供の名前だろうか、数文字の単語を繰り返しながら、子供の頭を撫でていた。それでも子供は泣き止まず、その泣き声が音の世界を支配していた。

 うるさい。止めて、姉さん、止めて。うるさいよ。止めさせてよ。お願い、止めて。そんな僕の悲鳴も空気の壁に押し止められ、その間に僕はまた、男の人に後ろから羽交い締めにされていた。


 目が覚めると、窓は太平洋の海岸を四角に切り取っていて、生暖かい潮風を車内に迎え入れていた。全身に浮かんだ大量の汗は肌と衣服の密着を促し、ブラジャーの要らない小さな胸を透けさせていた。僕は、嫌だなと一人ごちた。

 車内の冷房は首振り式の扇風機のみで、その風は弱く温い。到着までの時間はまだ長かったが、僕はじっと座って到着を待った。再度眠ってしまおうかなと考えたが、赤児の泣き声が頻繁に耳を劈いているのに気付き、僕はそれに起こされた事を知って、複雑な気持ちになった。

 目的の駅に到着し、強い日差しの下、僕は早々に父のセダンを見つけて乗車した。

 父は姉さんから連絡が無いことを再び憂慮していて、僕は父の問いかけに沈黙を続けた。それは次第に独り言になり、やがては気のない鼻歌となった。僕たちを乗せる車は山間部へ吸い込まれる。

 父の実家に着き、母を乗車させて霊園に向かった。途中、コンビニエンスストアで昼食とお供え用のお菓子を購入する。「ご飯をゆっくり食べられる場所も少ないからね」そう弁解する父は、故郷が昔から変わらない様子であることに満足しているようだった。母は相変わらず、不便な土地であることに不満を漏らしていた。

 霊園に到着した僕たちは、家庭菜園から切り出した花の束と、購入していた薪、蝋燭や線香、マッチ等の一式の道具を持って、墓石までの長い階段を上る。そこでもまた悪態をつきながら進む母の足腰は少し不安げで、段を上る度に腰に注意を払っていた。父はそんな母を励ましながらしっかりとした足取りで階段を上って行くが、額に浮かぶ汗の量は著しかった。

 父と母よりも先に階段を上り終えてしまった僕は、最上段から二人の必死な姿を見下ろして、ふと子供の頃の記憶を思い出した。見上げるのもやっとであるこの階段を前に、僕はよく駄々をこねて、立ち往生していた。そんな僕の姿を見て、優しい父はいつも僕を背負って階段を上っていたのだ。

 僕は二人の手荷物を持つよう提案したが、父と母は口をそろえて「お前には無理だ」と断られた。そして例によって高校時代のエピソードを持ち出されて、笑いものにされた。テニスの試合で、返球の際に握力が弱過ぎてラケットが弾かれたという話だ。両親はそのような本人の恥ずかしがるエピソードを、大事な宝物のように記憶に留めては機会のある度にひけらかす。その表情は満ち足りていて、僕は反論の機会を失い続けてきた。

 墓の前に立ち、茶色に焦げた枯れ葉やカラスが食い散らしたお菓子を払い、雑草を抜いて、墓石を洗う。その後、花とお菓子を供えて、蝋燭と薪に火をつける。線香をくべて、桶で墓石に水をかけたら、最後に手を合わせて念仏を唱える。そして先祖に対し、対話を試みる。両親からそう教えられてきたのだ。僕はそれを忠実に守る。相手からの言葉はなくても、こちら側から言葉をかけなければいけない。それが祈りなのだと。僕は姉さんの花を意識して強く、長く、祈ってみた。

 墓参りが済み、百数段の階段を下りる。

 父と母の後ろを歩く僕は、父の背中を眺めていた。くたびれた白のポロシャツに、木漏れ日が不規則な模様を投影しては揺れている。波のようだ。汗を染みさせては伸縮する海原。僕はその白い大海に手を伸ばしていた。押したい。殺意には十分な、段の高さ。転げ落ちれば、無傷では済まされない。

 僕は軽い眩暈を覚えながらも、確信していた。

 姉さんは、父を求めたのだ。

 それは、思春期が半ば強制的に呼び込んだ一過性の恋慕ではなかった。

 ショートパンツのポケットの中には、僕が十年前に宛てた、姉さんへの告白文が入っている。

 夢の中に現れた男の人は、父なのだ。

 その時、僕の衝動に気付いたのか、父さんが物惜しそうに口を開いた。

「来年こそは、シマナと一緒に来たいな」

 僕は父に伸ばした手を持て余しながら、無理やり相槌を打った。

 母さんが愉しそうに同調する。

「あの子、もう何年もお墓参りしてないわ」

「自由奔放だからな。いいんだよ、あいつは」

 肩を並べて笑う二人と、僕は意識的に距離を置いた。

 誰にでも許された防衛手段である孤独に、僕は縋った。

「不意に来るんだよ、あいつは。当日に電話して、飛行機なんか使ってさ」

 僕はしゃがみ込んだ。立っていられなくなった。

「それで、お土産なんか一つもないのよ。代わりに仕事ばっかり持ち込んで」

「そうね。本当、元気でやってるのかしら。それだけが心配なのにね」

「大丈夫さ。あいつのことだから、心配ない」

「――まあ、意外としっかりした子だからね。上手くやってるとは思うけれど」

「父さん」

 いつの間にか、僕は父の名を呼んでいた。

 父の広くて小さな背中は、光の波を止めていた。

「父さんは、僕と姉さん、どっちが好き?」

 まず先に母が振り向き、その後でゆっくりと、父が僕を見据えた。

「何を突然――」

 母が僕の隣に座り、「どうしたの?」と異常を察した。

「――答えてよ。どっちなの?」

 父の表情は固い。

「――そんなの当たり前だろ。どっちも大好きだよ」

 模範的な解答に、僕は満足しなかった。僕の意図は別にあった。

「姉さんが、父さんのことを好きだったら、父さんはどうするの?」

「好きってそんなの――」

「男として」

 木枯らしが僕の声量の低さをあざ笑うように鳴って、とても煩い。父は僕の言葉を受け止めて膠着し、母は異物を見るような冷めた目で僕を見つめている。

「姉さん、父さんと母さんに内緒でね、結婚しようとしてたんだ」

 僕はポーチからフィルムケースを取り出して、父さんに見せた。中には細かな紙片になった複数の書類が入っている。

「でも、姉さん、父さんのことが好きな気持ち、忘れられなくて、相手の人と、ぶつかってた」

 僕は立ち上がって階段を下りた。今度は二人を見上げる形になる。

「姉さんはもう来れないよ。僕が殺したんだ。相手の人と一緒に」

 言ってみると不思議なもので、都会を発ったその日から抱えていた思考の凝りが、あっという間に霧散していった。姉さんが死んだという事実を伝えること。電話口ではなく、直接、空気を震わせて伝える。それが今回の、僕の帰省の目的だった。


 父の実家で、僕はソファーに横たわって、一葉からのメールの返事を待っていた。

 風鈴の音が風の中を泳いでいて、僕はそれを捕らえるために宙に手をかざしている。指と指の間から漏れた斜陽が、洗い立ての白のボーダーシャツに陰影を落とす。七分丈のデニムジーンズの色褪せたブルーは黄金色に輝き、僕はその色に見とれて、呆然としていた。上体を起こして正座を試みる。だが、すぐに疲れてソファーに背中を預ける結果となった。目の前には多くの記憶の荷重に耐えてきたテーブルがある。その上で、空になった四本のフィルムケースを手で転がして僕は遊ぶ。

 エプロンを付けた母はアイスコーヒーを持って現れた。大量の砂糖とクリープがコーヒーの風味を否定した、母のお気に入りだ。それは何度も僕を安心させてきた。

「あんたが殺しただなんて、信じた私がバカだったよ」

 母が姉さんからのメールを読み直しながら、僕を非難した。

「書類、書き直すんだってさ。全部破っちゃうなんて、あんた、おかしいよ」

 僕は黙って頷いて、ポケットに両手を突っ込んだ。

 母は「まあ、しょうがない子だねえ――」と呟きながら足を組み直し、テレビのリモコンに手を伸ばした。モニタには都心の花粉騒動が鎮められたと報道されていて、僕はその映像から僅か数秒で興味を放棄した。

 僕は携帯電話を手に取り、一葉との通話を試みた。

 しかし、呼び出し音を聞いているうちに、次第に萎む勇気を知って、僕は電話を切った。

 親友は恋人にできないし、姉さんは人のものになったのだ。

 僕はそれを認め切れないまま、受粉するめしべを見失った花粉のように、地に墜ちた。

 テレビに向けて伸ばした、大根のように白くて太い、しかし綺麗な膨ら脛をさすりながら、母は不意に息を漏らした。

「けれどまあ、今年もよく帰ってきてくれたもんだ」

 母の微笑みは、夕焼けに照らされて、皺の消えた曖昧な表情になっていた。

 僕はそれを快く受け入れることも、また不気味に感じる事もできなかった。

 ただ静かに、上目遣いで母を見つめ、込み上げる涙を必死に耐えるしかなかった。


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― 新着の感想 ―
[一言] 人物の描写が少々甘く、 キャラクターの輪郭がぼやけているように感じました。
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