海の棺
海の棺
Nash
「……ナタリアさん、ナタリアさん。起きてください。ナタリアさん?」
都子の声が水面の向こうから聞こえ、あたしは身をよじって身体にまとわりつく眠りから這い出た。
「……あんだよ、起こすなっつったろ」
照明から顔を隠すように寝返りをうち、体温の染みついたクッションに顔を埋める。ソファはスプリングの音を立て、湿った藁みたいに沈み込んだ。
目をつぶったまま、視界の片隅にインプラントの時刻表示を呼び出す。グリニッジ標準時で午後一九時。ソファに突っ伏してから三時間しか経ってない。現在位置で午前七時二八分だから、海の上では朝日が昇ってるだろう。あたしは目蓋の裏に真っ白な日の光を思い出し、うんざりした。
「私も寝かせておいて差し上げたいのは山々なのですけれど、ナタリア様のご判断を仰がなくてはいけない用件が発生したのです」
「今ここで済ませろ。それで寝直す」
「救難信号をキャッチいたしました。生存者がいる可能性があります」
「……」
「ご理解戴けましたか、ナタリアさん」
はあ、と重い溜息をつく。
「わーった。ちょっと待ってろ、上行くから」
「はい。ではブリッジでお待ちしております」
貼りついた目蓋を開いて気だるい身体を持ちあげ、ソファから這い出る。足下には食べ物の包装紙や皿にコップ、ブラシにタバコの箱が散乱し、足の踏み場もない。それらを蹴って隅に押しやる。昨日見ていた映画が付けっぱなしになってるディスプレイを消し、ついでにテーブルの上の物も床に落とす。
ディスペンサーからアイロンのかかった洋服が出てくるが、いかにも着るのが面倒くさそうなそれを横目に確認したあたしはそれを無視し、洋服の山から着られそうなものを探して身につける。濡れタオルで顔を拭き、「なにか甘い物」と言って出てきたオレンジジュースを一息に飲み干して目を覚まし、開きっぱなしの水密扉をまたいで部屋から出た。
あたしが今使ってる部屋は談話室だった部屋で、ブリッジやらを抜かした中で一番広いから使っているのだが、どうにも奥まっていて不便だった。前使ってた艦長室は手狭になって、片付けるのも億劫で放ったらかしにしている。狭くて管のたくさん張り巡らせてある通路も艦全体の広さに比して幅狭で、そのうえ色々物を置いてあるから歩きにくい。どうにかしなきゃいけないけどやる気も起きない。
やっとこさ階段の場所までたどり着き、急な段を上るとブリッジに出る。古めかしい潜望鏡とサイバーな電子機器の一緒くたになった指揮所には、真ん中にホログラフィックの投影機がある。そこにメイド服姿の都子がペカーッと浮いていて、見飽きた笑顔で出迎えた。
「あらナタリアさん、お洋服を出しましたのに着て頂けませんでしたの?」
「あんな動きにくい服着てられるかバカ」
都子の出す服はいつもピッチリきついモデルが着るような奴で、そのくせ邪魔な付属物が付いててうざったいたらありゃしないのだ。都子の趣味らしいが、普通のにしろと言っても聞かないからあたしは自分で着るものを用意する羽目になる。メイドだっつーのに主人に反発して不便を強いるとはどういうことだと憤慨ひとしおだが、もういい加減諦めている。
「それにひどい寝癖ですわ。せっかくきれいな黒髪をしてらっしゃるのに。ほらちゃんとシャンプーをして櫛を入れませんと。髪留めも用意しましたでしょう?」
「うっせー。面倒なんだよ」
「いけませんナタリアさん。女性たるもの、いつ何時も身だしなみには気をつけるものですわ。美を纏うことは女に与えられた特権なのです。それをおおいに享受しないでどうするんです」
「見せる相手もいないで着飾ってどうすんだ」
「ただ着るだけで良いのですよ。身だしなみは自分のためにするもの。誰の心を射止めずとも、自らの心を豊かにする。美しさ、愛らしさが自身と合体するときの愉悦……それを知っていただきたいのです。それに、見せる相手というなら私が居るではございませんか」
「馬鹿馬鹿しい。AIは人間の言うことを聞いてりゃいいんだ。今度からは動きやすいTシャツとズボンにスニーカー。軍給品があるだろ。いいな」女物の服があることの方がおかしいんだ。潜水艦のくせに。
「軍給品だなんて……そんなはしたない物、ナタリアさんに使わせられませんわ! きめ細やかな薄桜色のお肌に男臭い軍人たちの着ていた衣服を纏わせるなんて、都子にはとてもできません! 瑞々しい魅力は地に落ち、百年の恋すら興が冷めてしまいますわ!」
「相手がいねえんだから百年もなにもねえだろ」
「そんなこと恋に恋い焦がれる乙女にとっては些細なことです!」
「妄想力豊かな乙女じゃなくて悪うござんしたね!」
この艦にはあたしの他に乗組員はいない。それどころか地球上見渡したって人っ子ひとりいやしないのだ。戦争でしこたま核爆弾が爆発したらしいが、詳しくは知らない。とにかく、今更着るものに気を遣っても文字通り見る人間がいないのだから意味は全くないのだ。
「せめて都子が男性タイプのAIだったらよかったんだ。ハンサムで筋肉質のな。だったらあたしだって生活改善にやぶさかじゃない」
「そのようなデータはインストールされていませんわ。ごめんなさいね」
「全く申しわけなさの感じられない謝罪はいらねえ。だいたいテメエは軍用の、原潜の管制AIだろ。なんだってナヨナヨした女で、メイドなんだ。司令官らしい鬚と制帽の似合うオッサンが定番だろうが」
「それは開発者の方に言っていただかないと……」
「開発者の趣味なのか……?」
「都子は日本の潜水艦ですからねえ」
日本っては一体どんな国だったんだ……。いや、原潜に都子なんて名前つけるあたりで知れてるか……。
「それで、救難信号ってのは」
「これですわ」
都子の写像が脇に退き、代わりに地図が現れた。ゴツゴツした海底の構造ばかり映っていて、これが世界地図の中のどこにあたるのかいまいち分からないが、都子の艦影が海岸線から50キロほど離れた水面下100メートルを漂ってることは判別できた。
そして、海岸線にピコピコと点滅する点がある。
「陸地じゃねえか」
「ええ。そのようです」
「陸地に人がいるわけねえだろ」
核爆弾で、地表は全部まるっと焼け野原になっちまった。偶然海の中に居たあたしは生き残ったけど。
「残留放射線で生きてられねえって、都子が言ったんじゃねえか」
「ええ、そのはずですが。しかしSOS信号はSOS信号ですから。シェルターがあるのかも知れませんし」
都子はそう言う。確かにシェルターの中でひっそり生きてる奴らがいるかも知れないと言われれば、そうかも知れないと思う。合流できればまあ、一人でうざったい管制AIの相手をしてるよりはマシな事になるだろう。食い物も手に入るかもしれない。
「あたしが上陸して探すのか」
「そうして頂くことになりますわ。申しわけありません。私に無人機でもあれば良かったのですけれど。バックアップはさせて頂きますから」
「ちっ」
宇宙服みたいな耐放射線装備をして出歩くのは気重なことだが、仕方がなかった。狭い艦内で運動不足になっているより、放射線のことを考えても差し引きで健康的だろうと自分を納得させて、あたしは装備を探しに倉庫へ向かった。
「うふふ、熊さんみたいでお可愛らしいですわナタリアさん」
「うっせー好きでこんな恰好してんじゃねえ見んな」
何重の金属膜でできた柔軟性の欠片もない生地はフレームに支持され、間に充填された放射線吸収ゲルでボヨボヨに膨らんでいる。全然曲がらない金属製の間接と格闘しながら身体を押し込み、エアタンクのついたバックパックのアタッチメントにこれまた金属製のヘルメットをはめこめば、熊型鉄甲冑のできあがりだった。
ロッカールームの鏡を見ると、自分の見事なテディベアっぷりが分かってしまう。ご丁寧に耳らしいアンテナユニットまでついている。
「赤面なさるナタリアさんなんて貴重ですわ……これは録画しておきませんと」
都子はあたしのインプラントに接続し、メイド姿をあたしの視界に映しだしていた。口に手を当ててニヤニヤ笑っている。声もインプラントの音声I/Oからだ。
「ふざけんなやめろアホなことしてんじゃねえバカ」
隠れようと監視カメラの場所を探す。だけど部屋の四隅、廊下、どこもかしこも三六〇度カメラだらけだ。艦内で都子に監視されない場所などあるはずがなかった。
「ムキになったお声も素敵……うふふ、ぞくぞくしてしまいますわ」
「馬鹿な事言ってねえでさっさと用事を済ませ……うあっ」
一歩踏み出そうとして、コケた。踏みとどまろうとする努力も虚しく、身体の重さに耐えかねて為すすべなく崩れ落ちてしまった。
「たいへん! お怪我は? ああ、おいたわしや」
都子は駆けよって助けようとするが、所詮インプラントの虚像なのだから何ができるわけでもない。あたしは身じろぎできず、呻いた。
「お、重い……こんなの着て歩けってのか?」
「いきなり動かれるとは思いませんでしたの。ごめんなさい。今パワーアシストをオンにしますわ」
キュインとか細いモーター音が鳴りだし、急に手足が軽く動くようになった。立ち上がると、勢いでジャンプしそうになる。
「おお」
「これで動けますでしょう。バッテリー式ですから残量に気をつけてくださいね」
モーターアシストはまるで慣性が無いかのように働いた。さっきまであんなに重かったのに。変な気分だ。
「内火艇を出してあります。そちらに」
甲板に出ると、鋭い太陽光が眼を差した。潜水艦暮らしにはきつい強さだ。あたしはヘルメットのバイザーを濃色にして光を遮った。
海は静かに上下しており、まるで何事もないかのような様子だ。人類が滅亡してしまっているとはとても思えない。その海面の下の魚たちすらほとんど死滅してしまっている事など素知らぬ顔で揺れている。色だって赤く染まったわけでもなく、相変わらずの青色だ。海ってのは要するにただの水なんだなと、あたしは妙な実感を得た。
鯨のような船体の横に、クマノミのようなボートがくっついていた。船体側面のラッタルを下ってゆき、飛び乗る。耐放射線装備の重さで小さなボートは大きく上下した。
「さあ、さっさと出してくれ。被曝時間は短い方がいいんだ」
「ええ、仰せのままに」
エレクトリックモーターが回り、ボートが静かに動き出す。向かう先は目の前に見えている陸地だ。
海岸は砂浜になっていた。ボートは砂をかき分け乗り上げて停止し、あたしは乾いた場所まで跳んで上陸する。陸地はまっさらで文字通りなにもない。木々は跡形もなく灰になって消え、溶けた砂がガラスの結晶となり、爛れた岩が辛うじて形を成し風景にデティールを与えている。地平線は真っ直ぐ一本線で、人工物など見えるわけもない。一体どこからSOSを発信することができるんだか分からない風景だ。
ひどい風景だ、と嘆息する。何回見ても慣れるものじゃない。昔の地球とは似ても似つかない。他の惑星に来てしまったような気分だ。気分としては猿の惑星みたいなものか。こんな風景すら、厳重な防護服を着ながら分厚いアクリルを通してでしか見ることができない。見ることができるのはあたし一人。あたし以外の生き物には認識されない世界。一人の客だけに幕が開かれた劇場。役者はなし。
要するにこれは、人の憎しみ合いが生んだ結果でも、醜い争いの結末でも、ましてや罪深い人間への天罰でもなく、天災というか、ランダム発生するリセット・イベントみたいな物だったんだと思う。リセット・ボタンは毎日押され続けていて、ボタンは百万分の一の確率で作動するもので、ある日の朝、ボタンはその役目を果たした。それでリセット。全消去。もう一度やり直してください。
早く艦の中に戻りたい。この風景はあたしにはキツすぎる。そう思った。
できるだけこの風景を見ないで済むよう、早く用事を済ませよう。一足先に海岸に行っていた都子(の写像)に指し示され、あたしは内陸へと歩き始めた。
憂鬱な気分の私とは反対に、都子は公園を散歩でもするような様子で上機嫌に歩いた。
「こうして歩いていると、世界に二人だけになったような気分ですね」
「一人だっつの」
AIは数えに入れない。あたしはコンピューターに人権をなんて言う馬鹿な宗教団体とは違う。
「ひどいですわ。物の例えですのに」
「例えになってねえよ。一人生き残ったあたしの立場になってみろ。絶望だぞ」
「絶望のあまり空調の効いた艦内で食っちゃ寝しては映画を見てるわけですか。いいご身分ですのね」
「やることねえんだから仕方ねえだろ」
「滅亡した世界に一人残されて絶望するような方は、SOS信号にもっと真面目に取り合うものですわ。藁をも掴む思いで最後の希望を求め必死に仲間を探しに行くものです。AIに促されて渋々と溜息をつきながら面倒くさそうに確認に行くなんて話、ありませんことよ」
「それは……」そうかもしれないけど。そういやなんであたしは溜息なんてついたんだろう。自分でもよくわからない。
「私との二人暮らしがよほどお気に召したのですね。野暮なお邪魔虫に入られたくないと思っていただけたのですね。うふふ、いやだナタリアさんったら。嬉しくって鼻血が出そうですわ」
都子は頬に両手を添えてイヤイヤをしてみせる。
「だからAIは数えに入れないっつってんだろ」
「やだもうナタリアさんたらツンデレでらっしゃるんだからっ」
都子はあたしを突き飛ばす動作をし、その手はすかっと耐放射線服を透りすぎる。
馬鹿馬鹿しい。日本製のHentaiAIに構ってたらこっちまで頭がおかしくなっちまう。あたしはアシストのバッテリーを気にせず、さっさと歩いた。
そこは確かにシェルターのようだった。
潜水艦を思わせる丸く重厚な密閉扉が空に向かってさらけ出されている。でかい。直径数十メートルはあるだろうか。その地下にはさらに巨大なシェルターが埋まっている。表面はどろどろに溶けてしまっているが、穴は空いてないらしい。よっぽど分厚いのか、偶然核爆弾が近くに落ちなかったのか。無事なシェルターというのは初めて見た。
「どうやって入んだこれ」
「側面に人用の通用口があるはずですわ」
ぐるっと一周すると、土に半分埋もれた小さな丸扉が見つかった。いくらか土を掘り返して開けるようにし、ハンドルをぐるぐる回してロックを解除する。だけど開かない。
「内側からロックされてるんじゃないのか」
「そうですわねえ……」
インターフォンみたいな物をいじってみるが、音沙汰がない。それ以前に電源が切れているようだった。ノックしても当然応答なし。
「無線で応答は」
「ないですわ。ナタリアさんが目を覚まされる前からずっと呼びかけてますもの」
そりゃそうだ。無線で済むんだったらあたしを起こす意味がない。
「ハッキングしてロック解除とかできないのか」
「電子錠ではなく単純な物理錠ですから……扉の向こう側から閂を外す以外には。映画のようにはいきませんわ」
ふーむ、とひとしきり唸る。
「壊すか」
「そうですわね」
穴開けたらシェルターの意味なくなるけど、まあいいだろう。生きてる人がいたとしたら応答しない方が悪いのだ。外気に曝された途端即死するわけでもあるまい。
防護服の右手に付いているレーザーカッターをオン。扉の隙間に沿ってぐるっと一周回す。さすがに一筋縄ではいかず、何回かぐるぐると同じことを繰り返す。カッターが過熱してきた頃ようやく切れ目が貫通し、扉は手前にゆっくりと倒れ、内側の二重扉が現れた。
二重扉の内側はロックがなく、普通に開いた。入ってから一応扉を閉めなおし、さらにいくつかの厳重な密閉扉をくぐり抜けて、探索を開始する。
中は電気がついておらず、防護服のヘッドライトだけが頼りだった。都子が視界の隅でうろうろしていて気分的には心強いが、所詮写像でしかないので頼りにはならない。一応左手に銃が付いていたが、あたしは銃の使い方を心得てない。
シェルターは米軍の物らしく、警告などの表示が英語で書かれている。兵器がある以外はほとんど空っぽで、めぼしい物はなにもない。埃まみれのすっからかんだ。ゾンビが出てくる様子もない。
「これは、また骨折り損のようですわね」
「みたいだな」
「また二人っきりでいられますわ」
「実に残念だ」
「もうナタリアさんたら素直じゃないんだからっ」
食い物でもないかと探してみるが、まずそうなクッキー状の保存食しかない。保存食はもう飽きたのでうまい缶詰でもあればいいのに、米軍はそういう所に気が利かない。
階層を降りて、大型兵器の駐機場から食料庫、弾薬庫などを周り、誰も居ないことを確認してゆく。どこも埃を被っていて、爆弾が落ちてからずっと放置されていたことが分かる。
電算室らしいところに到着すると、小さなLEDのランプがいくつか点滅していた。電気の気配がついていたのはこれが初めてだ。
キーボードを矢鱈に叩いてみる。反応なし。コンピューターの本体を探し、電源スイッチらしいのをいじってみる。反応なし。配電盤のスイッチを押す。途端にコンピューターのファンが回り始め、ディスプレイが点灯した。
「生きてるのか」
「あらあら、驚きましたわ」
人は死んでもコンピューターは生き続けるということか。皮肉な話だ。
「SOS発信もここからのようですわね」
どこかに自家発電機があり、電源はそこから来ているようだ。次々とディスプレイが点灯してゆき、最後に中央のホログラフィックが結像する。複雑な幾何学立体図形が重なりあい回転しながら空中で鮮やかに光る。
『Absolute Ark……Booting Please Wait』
低音の聞いた男の声がスピーカーから響く。やがて幾何学立体は一つにまとまり、<Absolute Ark>という文字となる。それがこのシェルターの名称らしい。
「データを取ってとっととずらかろう。他に見所もなさそうだ」
持ってきたデータメディアを適当な端子に差し込み、片っ端からデータを抜く。耐放射線服の太い指はキーボードを叩きにくかったが、それ以外に問題はなかった。セキュリティが働いたけれど、都子の指示どおりに操作すれば手間こそかかれパスできたので、作業は順調に進んだ。
進捗ダイアログがちまちまと進んでゆくのを眺めている時だった。
声が聞こえた。最初は遠く、判別できなかったが、だんだんと近づいてきた。低音の男の声だ。叫んでいる。
「誰かー! 誰か居るのかー? おーい!」
あたしは身構えた。反射的に左腕の銃をさわる。
人が居た。地表が壊滅して以来初めてだ。信じられない。しかも男。
今まで探索した場所には人の気配なんてなかったのに、なぜ。まだ探索していないところにいたのか。
「びっくりですわ。生存者がいらっしゃるなんて」
「ああ……どうするか。友好的だといいんだが」
「警戒するに越したことはありませんわ。隠れましょうナタリアさん。男の方というのは信用できません。身ぐるみ剥ぐつもりかもしれませんし、一人とも限らないのです」
「そうか、そうだな。よし」
あたしはデータメディアを差しっぱなしにしたまま、入り口から死角になるような机の下へ防護服でかさばる身体を押し込み、男を待った。
現れたのは、ウィル・スミスのような黒人だった。
「誰か……居ねえのか? 電算室の電源が入ったから慌てて上がって来てみたが……」
男は室内を回る。一人だけだ。着ているのは米軍のカモフラージュ柄だが、銃を持っているでもない。机の下に潜んでるなど思いもよらないらしく、無警戒に部屋を一周する。
「ひとりでに電源が入るとは思えねえけど……おい、誰か居るんだったら隠れてないで出てこいよ! お互い人類の生き残りだろ!」
両手を広げて大声を出す男を見ながら、あたしは声を出さないよう口だけを動かして都子と話した。
(話してみてもいいと思わないか)
(心配ですけれど……仕方ないですわね。よくお気を付け下さいナタリアさん)
(わかってるよ)
男は気のせいなのか等とブツブツ言いながら鼻の頭を掻いている。
あたしは左腕についた銃のスイッチと弾倉を確かめ、机の下から這い出た。
「よう」
ヘルメットのバイザーを上げ、声をかける。向こうには見えないけど、都子も横に立った。男は目をまん丸く見開き、口をぽっかりと開けて金魚のようにパクパクさせ、十秒ほどかけてたっぷり驚いた。
「ゆ……幽霊じゃ、ねえよな?」
「ああ、ちゃんと足もある。アンタも幽霊じゃないみたいだな」
「も、もちろんだ。ほら、この通り。な?」男はわざわざ靴を脱いで見せた。
「うあ、感激で涙が出てきそうだ。すっげー感動だよ。畜生、俺はこの日をずっと待ってたんだ。あの爆発のとき偶然点検の仕事でシェルターに入ってよ、それからずっと俺一人でこの中にいたんだ。全くのひとりぼっちでよ、AIくらいしか話し相手が居なくて、外に出ようにも放射線とかあるし、電線は切れちまってるし、世界に俺だけしか生き残ってないんじゃねえかって思ってた。そこにあんたが現れた。神様にキッスしたい気分だ。けっこう重装備してるみたいだけど、どっから来たんだ? 軍人か? 仲間はいるのか? 名前は? 外はいったいどうなってる?」
まくし立てる男の声に閉口しつつ、あたしは答えた。
「あたしも一人だ。潜水艦でね。アンタのSOSを見つけて来てみたんだ。人がいて良かったよ」
「潜水艦? かっけーな。そうか、シェルターじゃなくても潜水艦なら生き残れるんだ。近くに来てるのか? 俺が行ってもいいか?」
「アンタ、耐放射線装備あるのか。海岸へ歩くまでに被曝するぞ」
「ああ、そっかそっか。畜生、じゃあ仕方ねえ。二人でここで生活するしかねえな。俺はロバート。これからよろしく」
差し出された手を、あたしは握り返さなかった。
「これから? 生活? なに言ってるんだお前」
「……? 助け合って生きていくんだろ? 生き残った人間は俺たち二人だけなんだ。助け合わないでどうする。それに俺たちは男と女じゃねえか。子孫が残せるんだぜ」
あたしはあからさまに眉をひそめた。都子が険しい顔で何か言いたそうにしたが、目で押しとどめる。
「アンタとあたしが? なにをするって?」
「子供を作るんだよ。新世界のアダムとイブさ! 俺がアダムで、アンタがイブだ。いつか放射能が半減して地表が元通りになっても、人類が生き残ってなきゃ話になんねえ。俺たちで血を残すんだよ。そうしないと人類は絶滅しちまう。な、そうだろ」
「ふざけんな。冗談じゃねえ」
男はポカンとした。訳が分からんといったふうだ。
「手前みてえな男と一緒になるなんざ御免だね。アダムとイブ? 夢見んのも大概にしな。二人しか生き残ってねえ時点で人類滅亡は確定だよ。アンタが死んで、あたしが死ぬ。それで終わり。分かったか」
「いやいや、諦めちゃあダメだ! 時間が経てばその分希望が出てくるかも知れないし、助けも来るかも知れねえ。それに俺はずっと一人きりで、もう気が狂いそうなんだ。アンタだって同じだろ? 久しぶりに人と会って高揚してる。とりあえずうちにこいよ、地下は広いんだぜ。うまくはないが、食料だってたくさんある。少なくとも生きながらえる分には不自由しねえ。潜水艦がどうかしらないが、こっちの方がマシだぜ。なあ、頼むから一緒に暮らしてくれよ!」
男は防護服のむこうからすがりついてくる。都子のふくれっ面は今にも噴火しそうな勢いだ。
「やめろっつってんだろ」
「なあ、頼むよ。俺を助けると思って。俺はもう一人じゃ生きられねえんだ。自殺するかも知れねえ。なあ、アンタ女神様なんじゃねえのか。なあ、なあなあ!」
涙声になった男の手が顔に伸びる。黒い肌の、ゴツゴツした大きな手。それがバイザーを上げたあたしの顔に近づいてくる。
瞬間、腕が動いていた。
気づいたとき男は向かって左側の壁に叩きつけられ、床に倒れて泡を吹き白目をむいていた。自分の左腕を見ると、肩の高さから真っ直ぐ横に伸びている。さっきまで身体の横にあったのに。
防護服の指先には少し血が付いていた。どうやらあたしは男を張り倒してしまったらしい。パワーアシストで強化された力は、片腕だけで大の男を容易に吹き飛ばした。
「あらあら」都子がにっこりと笑う。
「ぶっとばしちゃいましたねー。ナタリアさん、いけませんよ乱暴しちゃ」
「あたしもやるつもりは無かったんだけど」
伸びている男は、死んではいないらしかった。でも詳しく確認する気は起きなかったので、そのままにしておく。介抱する義理もない。転送の終わったデータメディアを抜き取って、あたしは電算室を出た。
「帰ろう。もう用はない」
「ええ、早くお帰りになってください。お待ちしておりますわ」
笑顔の都子を視界の隅にしながら、あたしは来た道を戻った。居住区を抜け兵器庫を素通りし、密閉扉をくぐり抜ける。くり貫いた扉は元の穴にはめ込んでおいて、目に痛い荒野を早歩きに突っ切る。
ボートに飛び乗り、都子の操縦に任せて沖合へ。艦は元居た場所にしっかり浮いており、私はそそくさと水密扉に入って防護服を洗浄。ようやくテディベア状態から解放された。
「やれやれ、疲れたよ」
「お帰りなさい、ナタリアさん。ご飯ができていますよ」
ブリッジで迎えた都子はなぜかメイド服ではないピンク色のエプロン姿で、ディスペンサーからあたたかい食事を出してくれた。チキンライスだ。都子のレパートリーは少ないが、相変わらず潜水艦とは思えないほどおいしい。おかわりを含めてたっぷりお腹を満たして、艦長席をリクライニングさせてべったりと寝そべる。
「うふふ」
都子はあたしの傍に侍って、終始ニヤニヤしていた。
「なんだ、気持ち悪いな。いつもみたいに行儀悪いとか言わないのか」
「いえ、何だか嬉しくなっちゃって。うふふ」
口を押さえて上品そうに笑っている。こういう仕草は似合うけど、ずっと笑われてるのは奇妙な感じだ。
「……変なやつ。さっさと出航しろよ」
「ええ、どこに向かいましょうかナタリアさん。私、どこへでもお望みの場所へお連れいたしますわ。といっても、どこにも人はおりませんけれど」
「そうだなー。北極かな。南極はもう行っちまったし、氷は溶けちまってるだろうけど、まあなんかあるだろ」
「かしこまりました。では一路、二人で北極へと参りましょう」
そしてあたし達は、意味もない世界旅行をまた続けるのだった。