第一話 + 学校にて。
世界は全て絶望だったかもしれない。
あるいは、希望だったのかもしれない。
「夜さ、台風来るんだって」
その声で、僕は顔をあげた。
「また?」
「うん。多分この辺り直撃だわ。いや、寧ろ直撃した方が台風の目で晴れる?」
「どっちでも良いけどね、僕は」
欠伸を噛み殺し、小波の様に次から次へと襲ってくる睡魔と闘いながら適当な返事を返す。
「明日休みにならないかなー」
「いらん期待しないで勉強しろよ。明日からテストだろ」
勉強している僕の隣で机に腰掛け、手に持つ小型ラジオに真摯に耳を傾けている幼なじみを見上げた。
時々無駄に不快感を撒き散らすような雑音が混じり、少女はその美貌を歪める。
「勉強なんて面倒だもん。嫌だわ」
幼なじみ、倉本嘉耶は黙り込んだラジオを置くと、僕の教科書をパラパラと捲った。
「椎ちゃんは馬鹿なんだよ。ばか正直に授業受けて、ばか正直に勉強して、それが一体何になるっていうの?」
「何って…………それ学年首席が言うセリフじゃないだろ、嘉耶」
嘉耶は入学以来、常に首位をキープし続けていて、所謂特待生というやつだ。
自分の学力に見合った高校へは行かず、多少レベルは下げてでも授業料免除で通える所を選んだ。幼い頃両親が離婚し、母子家庭の中で育った嘉耶なりの親孝行。
「そもそも何で嘉耶がここに居るんだ?部活は?」
「んー?サボタージュ」
まるで他人事のように言う。
「いいのか?もうすぐコンクールだろ?」
「いいの。椎ちゃんがいないのに行ってもつまんないし」
僕らは吹奏楽部に所属していて、嘉耶はこの頭脳と人並み外れた美貌とプライドの為に、基本的に友人が少ない。嘉耶には仲良くしようという意志はあるのだが、周りが畏怖して近寄らない。
結果、部活では僕以外の人間と話せないでいる。
「いい加減友達作れよ。あと、“椎ちゃん”はやめろ。子供じゃないんだから」
懇願する僕には目もくれず、嘉耶は何処からか取り出した飴玉を舐めていた。爽やかな葡萄の芳香が漂う。
「椎ちゃんは椎ちゃんだよ。椎崎ツカサ。これからも変わらないし、変えるつもりもないからね」
そう言って、僕の英語のテキストを眺め、僕のノートに視線を移す。
それを交互に眺め、三往復したあたりで止まった。
「…………ソレ、全部間違ってるよ?」
「…………え」
「そこ、1番とか、単語の意味から間違ってるし。〈push〉と〈press〉は違うんだよ?意味は両方〈押す〉だけど、使い方が違ってる」
嘉耶がそう言うのだから本当なんだろう。
既にノートには6問分の誤答が書き連ねてあり、これを全て正さなければならないのだ。
「ソレ、今日提出なの?」
ソレ、とは、僕の目の前にある英語の課題の事で、前回の考査であまりよろしくない点を取った人に特別に出されるものだ。
当然、嘉耶のような秀才には、まるで縁のない物。
「そうだよ。最終下校まであと1時間しかないし」
「ふぅん。大変だね」
完璧に他人事扱い。
「でもね、椎ちゃん」
嘉耶は座っていた机から飛び降りると、ニ,三歩歩いて僕の机の端に腰掛けた。短いスカートが揺れる。
「1時間もあれば、何でも出来るよね」
そう言って、僕の頬に触れた。
その後一時間。
僕は、黒板を全て駆使する、嘉耶の英語講座を受けた。恐らく、回答はまるで答を写したかのように、全て正解だろう。
だって、講師は倉本嘉耶だから。