歌
「次はあずさ2号歌ってください!」
「よしきた!」
店員から見れば、カラオケボックスに気絶した女を連れ込んだ俺は要注意ということなのだろう。チラチラと覗いていくのが時々目に入り苛立つが、バツの悪さを勢いで打ち消すように、俺は熱唱し続けた。
歌っているのは俺ばかりではない。横たわる自分の身体の横でノリノリで歌う玲子の生霊。
「あ、おい死体が転げ落ちそうだぞ」
玲子の身体のほうがソファの上から床に落ちそうなのを俺は慌てて引き起こす。
「死体って言わないで下さい!」
俺は玲子の身体をきちんと寝かせ、合掌。
「こらぁ!」
怒る素振りをしながら、玲子は笑っている。
俺も笑って、ポケットから取り出したハンカチを玲子の顔に乗せた。
玲子が放った飛び蹴りは俺を通過した。
*
2時間ほど歌って、俺は肩で息をついた。
「ふーっ」
「歌いましたね~」
「やっぱその状態だとマイクが声を拾わないな」
「ですねぇ。残念です」
玲子の声は今はこの世のものではないということか。霊感だか何だかに依存するのだろう。
「……しかし、お前、変わったな」
「え? そうですか?」
「いや、本当に最初、わかんなかったんだよ。髪型も全然違うし」
今更言い訳をする俺。
「長さは変わってませんよ?」
「そのウェーブだよ……だいたい、茶髪じゃんか」
「ええと……大学で知り合った友達に教えて貰って、美容室で……。す、すみません」
謝ることじゃない、と言って俺は手を振って笑う。
「ただまあ、たった三ヶ月見ないうちに女は変わるもんだなと思ってさ」
「えと、もしかして不評でしたかね……」
がっかりする様子の玲子を見て、苦笑する。
「不評ってことはないぞ。人間、変化は大事だ。お前は進化してるんだよ」
「は、はあ……。まあ、よくわかりませんが、褒められてるみたいなんで、良かったです」
俺は横になる。
「疲れたなあ……やっぱ徹夜はこたえるわ」
「まだ日付またいだばかりですよ。全然徹夜じゃないです」
確かに。だが疲れは確かだ。
「さすが最近まで高校生をやっていた奴は違うな。眠くないのか」
「うーん……。今日に限っては、不思議なことに全然眠くならないんですよね」
吹き出した。
「そりゃそうだ。不思議でもなんでもないな。この三年寝太郎め」
「三年……何です?」
「なんでもねえよ」
*
「なあ」
「はい」
「大学、楽しいか?」
「ええ、まだわからないことだらけですけど。とにかく、色んなことをやってみようって思ってます」
「そうか」
「荘司さんは……今、何をしているんですか?」
「今か? カラオケボックスで横になっている」
「……。今すぎます。もう少し長いスパンで答えてください」
「今、俺はホモ・サピエンスの進化の歴史の一部を担っているところだ」
「えっと……それ、たぶん私もです。てか長すぎです。何万年単位の話ですか」
わかりにくいボケもちゃんと拾う玲子。
「帯に短し襷に長し。帯も襷も長さのイメージがわかないと思わないか?」
「仕事はしてるんですか?」
無視か。うん、そこは無視でもいい。
「してるよ」
「何してるんですか?」
「そうだな……簡単にいえば、自分以外の個人または組織の、希望、要求、意志、そういったものに大なり小なり、貢献したり応えたり叶えたりするために、肉体や頭脳、道具や機械、各種資源や技術、能力、時間を費やして、代償として金を貰う、そういったことをしているな」
「どこが簡単ですか。ていうかそれ、どんな仕事にも当てはまることじゃ……」
「労働の定義かな」
「あの……もしかして私のこと、嫌いなんですか?」
「嫌いではないつもりだ」
「……ですか」
「お前は俺が嫌いか?」
「嫌いではないですけど」
「なら良かった。嫌いな奴と一緒にいるのは大変だからな」
「なら、私も良かったです。私と一緒でも辛くないんですよね」
「ああ。そうだ」
玲子はちょっと口ごもった。
「……うーん、でも、なんとなく壁を感じます」
「……感じるんじゃない、考えるんだ」
「逆です」
「逆じゃない。考えなければ、それは個人のものでしかない。伝えられるのは考えたことだけだ」
「酔ってるんですか?」
「眠いだけさ」
*
……。目が覚める。
時計を見る。午前三時。ずいぶん寝ていた。
「…………玲子?」
部屋が静かだった。玲子がいなかった。
「おい、玲子?」
身体のほうは……あった。元のまま、ソファに転がっている。
霊体のほうの玲子がいない。身体に戻ったということだろうか。俺はソファの上の玲子に近づいた。
「玲子、お前、ここにいるのか?」
俺は玲子の身体をゆさぶった。
「……寝てるのか? それともいないのか? お~い?」
まったく、ややこしい奴である。
こうして見ると、少し化粧をしているのがわかる。そのせいもあるな、今日初めて見た時わからなかったのは。化粧も覚える年か……。
しかし……呆れるほど白い顔をしている。お白いだか何だかを塗りすぎ……という訳でもなさそうだ。肌が本当に白いのだ。これではまるで紫外線に太刀打ちできないだろう。
「少し焼いたほうがいいんじゃないのか」
それにしても、白すぎる。
……なんとなく、触れてみる。
……冷たい。冷たかった。
「な、おい、玲子!」
玲子が……冷たい。慌てて頬を叩く。
白いんじゃない……血の気がないんだ!
「おい、起きろ! 玲子!」
……起きない。
中にいるわけじゃないのか?
「どこだ!? 玲子、おい、どこ行った?」
狭い部屋を見回すが、玲子の姿はない。
廊下に出る。玲子の姿は見当たらなかった。
「どこか行ったのか? それとも身体にいるのか? くそ、どうなってんだこれ」
戻って玲子の顔を見る。
妙だった。動いて……ない。まさか……息をしていない?
「ま、まじかよ! おい勘弁しろよな!」
最悪の想像を振り払う。
背中を嫌な汗が滝のように伝った。ソファの上で玲子の身体を仰向けにする。構わず服をたくし上げて鼓動を確かめる。
心臓の位置は……肋骨の境目あたり。
……とくん。
僅かに……僅かに、鼓動を手のひらに感じる。思わず安堵の息を漏らす。
「でも呼吸か! くそ。なんで息してない? 身体をほっぽったまま中身が出てって……時間が立ち過ぎたってことか?」
くそ。中身を戻せば回復するんだろうが……。しかしどこへ行ったかわからない以上、今のところアプローチできるのは身体のほうだ。
心肺蘇生法。自動車教習所で習った。もう何年も前で記憶がおぼろげだが必死に思い出す。
心臓が動いてるということは……心臓マッサージはやらなくていい。やったらそれこそ死んでしまう。だが呼吸が止まってる場合は……。えーと呼吸は……。待て、本当に止まってるのか? えーと習った確認方法があった筈だ。ガラスを鼻のところに当てて息でガラスが曇るかどうかを見るんだ。……ガラスを探す。ガラス、ガラス……視界にコップが映る。手に取る。急いで玲子の鼻に押し当てる。
ダメだ。もともと透明度が低いせいかよくわからない。馬鹿か俺は。他に適当なものも見当たらない。しかたないので直接鼻に手を当てる。……気を鎮めて、風を感じとろうと務める。
ダメだわからない。仕方がないので直接耳を当ててみる。
……無い! 無いんだ。やはり、呼吸が無い……ようにしか思えない。
呼吸を回復させなければならない。
まずなんだ。なんだ。思い出せ。人工呼吸っていきなりやっていいんだっけか? 違う、まず気道の確保……だ。顔を真上に向けて、おでこに貼り付いた前髪を避ける。顎に指を当てて、のけぞらせるように頭を倒す。形の良い顎から喉のラインが浮き出る。
「くそ、あいつ、危ないなら危ないって言えよな……!」
そのまま様子を見るが変化はない。気道を確保すればそれだけで呼吸を回復することもあるというが……ダメか。えーと、えーと、パニックになる頭を叩いて記憶を呼び起こす。そうだ、その前にたしか、口腔内に何もないことを確認しなくては……。吐瀉物が喉をふさいでいる場合があるとか。
「すまん、見るぞ」
玲子の口を開く。中を覗き込んだが特に異物は無いようにも見えた。が、一応、口の中に指を突っ込んでみる。……ひととおり指でかき回したものの、ひっかかるものは何もない。
「くそ、ぐずぐずしてると心臓も止まっちまう……」
*
汗だくだった。
いや、これは汗じゃない。
涙……だった。よだれも混じっている。ぐちゃぐちゃだ。酷い顔だったろう。
「…………くそっ」
肩で息をついた。
「こんなことで……。なんて馬鹿な……」
腕で背中を支え、天井を仰ぐ。
「……!」
目が、あった。
玲子がこっちを見ている。
「そ、そうじさ……」
何か言いかけた玲子を反射的に俺は引っつかんだ。掴めたことに俺は何故か戸惑わなかった。身体に押し込む。
「戻れ! 戻れよ……! 何をやってるんだよ、お前……せっかく取り戻した身体を……あっさり捨ててんじゃねえ!」
身体から出てこようとする幽霊の玲子を必死に押し込んだ。腹を抑えつける。今度は肩だ。肩を押さえれば足が。足を抑えつければ顔を起こそうとする玲子。
「そ、荘司さん……痛い、痛いです」
「戻れよ! 戻ってくれよ……。お願いだから……!」
「い、痛、痛いです! そうじさ……痛い!」
……玲子の手が俺の顔を叩いた。
俺は頬の痛みで身を引きながらまだ左手は空をかいていた。
「痛いですってば……。荘司さん……」
玲子が俺を見つめている。涙目。ソファの上で、俺を見上げている。
「れ、玲子……戻ったのか?」
「戻りました」
こくんと頷く玲子。
「よ……」
「これはどういうことか……説明して貰えますか? 荘司さん、返答次第じゃただじゃすま……」
俺は安堵のあまり泣き出していた。玲子の肩に涙をたらしながら。鼻水をたらしながら。
「良かった……」