雫
「それにしても面白い女だったな……」
恋愛経験はないとか言っていた。なんとなく親に大事に育てられてたんじゃないか、という気がする。ずっと東京に行ったことないってのも、親が厳しかったのだろう。
「親離れできてなさそうだったしな……」
なんとなく過保護そうな親を想像して、顔をしかめた。
嫌だなあ、そういう親がいる娘と結婚しようとなったら、挨拶に行くのなんか死ぬほど億劫だろうな。お前なんかに娘はやらん、とか言われるわけだろ? 最悪だな。
思考が横道にそれていく。
そもそもあの、親に挨拶に行くのって、必ずやんなきゃいけないもんなのかな。結婚ってのは本人同士の合意があればいいって憲法かなんかに書いてあった筈だし、別に親に了解とる必要なんて無いのにな……。
まだまだ先の話とはいえ、俺もいつかドラマとかでしか見たことのないあの苦行を体験せねばならないのか。どんな顔して言えばいいんだ、あのお決まりのセリフ……。
俺は背筋を伸ばして、真剣な顔を作る。そして、何に向けたものかよくわからない予行練習をしてみた。
「お父さん、娘さんを俺に下さい!」
プッ……。
…………。
……。
今、何か聞こえたよな。
……。
俺は、静かに車を停めた。それから、後部座席を写しているルームミラーに手をそえ、向きを変えて助手席が映るようにした。
「ご、ごめんなさい……」
口元に手をやり、泣き笑いのような表情でこっちを見ている彼女がいた。
「てめえ……姿を現せ」
低い声で言う。助手席に、次第に彼女がその姿を表した。
「……いつからだ?」
ドスの聞いた声で尋ねる。
「……さ、さ、さ」
「最初からか」
彼女は泣きそうな顔をしながら、頷いた。
「だだだだって、助手席に来ただけなのに、全然気付かないんですもん。面白いから黙ってたら……いつ気づくかなってワクワクしてたら、なんか独り言言い始めちゃうから言い出せなくなっちゃって……」
「ほほぅ。そりゃあ、さぞ面白かっただろうなあ。二十四の独身男の恥ずかしい独り言を黙って聞いてるのは」
……俺は、極力怒りを声ににじませようと努力した。
「……ええと、その……すみませんでした」
彼女は深く頭を下げた。そして、その姿勢のまま、小刻みに震え始めた。
「ぷぷっ……。ご、ごめんなさ……あはっ。ふふっ」
俺は顔が赤くなっていくのを感じる。
「笑うなぁ!」
「だ、だって……お、お父さん、娘さんを……あははは、あははは」
「い、言うな……」
「何の練習ですかぁ? あははは、あっは、あは」
「言わないでくれよ……」
それからしばらく彼女は助手席で笑い転げていた。俺は俺で、むすっとしたまま車を走らせた。
「はーっ。ご、ごめんなさい……。ホントに、す、すみませんでした」
「許せん」
「そういう予定のある人、いるんですか?」
「いないって言ったろうが」
「……ほ、ほんとご、ごめんなさい」
「ま、もういいけどよ……」
*
やがて、空が白んできた。 山の稜線がはっきりし始める。俺は眠気を栄養ドリンクで打ち消しながら、ただ只管アクセルを踏む。
ガソリンもだいぶ減ってきた。平野部に出たら、給油しなくっちゃな、と思う。
「ところでお前、どこまで行くんだ?」
「……海が見たいです」
「海?」
「はい」
「見たことないのか?」
彼女が伸びをした。
「ないんです……。テレビでしか」
驚いた。
「お前、本当に山のむこうの町から出たことなかったのか? 今どき高校生になって海を見たことがない奴がいるとは」
「うーん……。実を言うと、私、生前の記憶をだいぶ無くしちゃってる気がするんですよね……」
「そうなのか?」
「ほんとは、海も行ったことあるのかもしれません。でも、記憶にはないんです」
「そうか……。じゃあ、行ってみるか、海まで。なあに、平野部に出ればそんなに距離はないぞ」
彼女はやったーと言って喜んだ。
そして。朝日が見えてくる。山の向こう。
「朝だーっ。やっぱ朝はいいですよね」
「お前日光を浴びて溶けたりするなよ」
「しませんよーだ。私だって、夜より朝がいいです。あ、町が見えてきましたよ!」
その通りだった。山が両脇に去り始めるとともに、街並みが見えてくる。そして。
「海も見えてるぞ。わかるか?」
「え、本当ですか?」
「ほら、あのへんあのへん。空より少し色が濃いの、わからないか」
俺がフロントガラスごしに遠くを指差すと、彼女は目を凝らした。
「あ、ほんとだ! あれ、海かー」
海は……この旅の終着点はすぐそこだった。
俺はふと、助手席を見る。
鏡ごしでなくても、彼女の姿が薄ぼんやりと見えていた。
「今、別に無理してる訳じゃないよな? なんとなく俺の目にも、姿が見えてきてるぞ。霊感体質とか言う奴になりつつあるのか」
「本当ですか?」
「ああ。鏡ごしじゃなくても見えるぞ。透けてはいるが」
「あ、危ないです危ないです、前見てください」
「お、おお……」
慌てて前を見る。
「……せっかく見えるようになったのに、もうすぐなんて、残念」
彼女が呟いた。
*
平野部を走る間、俺達はほとんど喋らなかった。
途中一度コンビニに寄り、コーヒーを買った。玲子は車で待っていた。
戻ってきた時、車に乗り込んでエンジンをかけながら、俺は言うことにした。
「失恋だよ」
助手席に座る玲子がこっちを向く。
「……はい?」
「だから、俺がこんな東京から離れたところでひとり、ドライブしていた理由さ」
「…………彼女いたことないって」
「失恋したからな。彼女にもなる前に」
「……そうですか」
「ああ」
短く言って、俺は車を発進する。
「もしかしたらそうかなって思ってました」
「なんだよ、もてなそうだしってか」
「そうじゃないです……。なんか……ううんと、まあ、その、なんとなくです」
彼女は黙った。俺も黙った。
*
「これが海だぜ」
俺は潮風に片目をつむりながら、彼女に言った。
防波堤の上の駐車場に車を停めておいて、下の砂浜に降りていた。
「はい」
「……感動したか」
尋ねると、彼女は首を振った。
「そうでもないです。……でも、なんか懐かしいって感じです」
「やっぱり見たのは初めてじゃなかったか」
「……わかりません」
俺は沖を見やった。何もない。船も島も……何もない海。少し波がある以外は。
「荘司さん」
玲子は、俺をじっと見て、そして言った。
「私、都会の夜景っていうの、見てみたかったです」
「ああ」
俺も視線を返す。
「荘司さん、東京に帰るんですよね」
「ああ、帰るよ」
「失恋の痛手は癒えましたか?」
癒えたのだろうか。何とも言えない。ただ、気持ちが大きく変わっていることは確かだった。
「まあな」
そう言って、笑った。
「良かったです」
玲子も、笑った。
俺は、海を見て言った。
「東京に来るか? 一緒に。……このまま乗っていけば、一緒に行けるんじゃないか?」
眠いが……このまま、東京まで車を飛ばすのもいいと思った。2、3時間だ。
「……いいえ、きっと無理です」
「そうか……」
彼女が言うなら無理なのだろう。
「その代わりと言ってはなんですが……最後のお願いです」
かもめが鳴いた。
俺は彼女のほうを向く。
「聞いてやる」
頷いた。
*
「海辺を少し走ったところにある、白い建物に行って欲しいんです」
彼女は、そう言った。
方向を彼女に尋ねながら、俺は言うままに車を走らせる。
五分とかからない距離だった。
白い建物。それはそこにあった。一目でわかった。
「ここか……」
「ええ、たぶんここに運ばれたんです」
病院だった。
「海っていうか、ここに来たかったんですね、きっと私」
「最後の記憶がここから見える海だった……とか、か」
俺が言うと、彼女はですかね、と言って笑った。
「入るのか?」
「ええ。荘司さんはもう、いいですよ。ここでお別れしましょう」
「いや……待ってるさ」
そう言うと彼女は頷いた。二人で病院に入る。彼女の方は誰に咎められることもなく廊下を歩いていってしまった。
俺はなんとなくボサッとしているのも変なので、受付で訊いてみることにした。三週間前に運び込まれた女の子がいなかったか。女子高生で、名前は斑鳩玲子。そう言うと、ああそれなら、と答えが返ってきた。
「交通事故に巻き込まれた子ね。……ご家族?」
「いや、友人……です。その子は……」
しかし何を聞いたものかわからなかった。もう荼毘にふされているだろう。お墓の場所でも聞いたら教えて貰えるものだろうか。
「303号室ですよ」
……。
「……? え、何ですって」
「303号室です。お見舞いで来たのよね? 彼女まだ意識は戻らないけど、顔だけでも見てあげて」
*
ドアを開ける。
ベッドが一つだけ。その上に、玲子はいた。
さっきまでの青い服ではない。薄い水色のパジャマ。
寝そべったまま、首だけをこちらに向けていた。目を見開いている。
俺の後ろで看護婦が声を上げたのが聞こえた。慌てて医者を呼びに行く。
俺はしばらく、部屋に入るのを躊躇っていた。
覚めてはいけない夢。そんな気分だった。
それでも。
「……玲子、か」
そう声をかけて。
俺はベッドに近づいた。
頭に包帯を巻いた少女は、目を瞬いた。
「……そう、じ……さん」
かすれた声だった。無理もない。三週間ぶりに身体に戻ったのだ。まだ喉がうまく使えないのだろう。
「無理をするな、身体、まだうまく動かないだろ」
玲子は頷くかわりに、瞬きをした。
俺はベッド脇の椅子に腰掛けた。
玲子を見る。
その顔は、もう透けてはいない。
鏡越しでなくても、はっきり見える。
ずっと彼女は……山を越えて、懸命に戻ろうとしていたのだ。自分の身体へと。諦めずに……。
そしてついに、たどり着いた。
「良かったな」
玲子は瞬きをした。その両目から伝う二筋の雫。
「偉い」
「そう……じさ……の、おかげ」
「お前が頑張ったんだよ」
俺は玲子の手を握ってやる。
「退院したら、連れてってやるよ。都会の夜景、見せてやる」
玲子の手にかすかに力が篭った気がした。