霧
「霧が出てきましたね……」
「そうだな……こりゃあまずいな、先が全く見えない」
「こういう時に使う車の装置がありませんでしたっけ。私、名前だけ知ってますよ」
「ん? なんだ?」
「たしかフォアグラとかいう……」
「ん……まあこういう時かどうかはともかく……確かに一度は食べたいかな」
「え、食べ物なんですか、フォアグラ……」
「少なくとも俺の知っている現代日本ではそうだ。世界三大珍味の一つでなあ。まあ、アンタの生きていた時代には何か別の意味だったのかもしれんが……」
「だからぁ。たかが三週間前ですから。私を大昔の人扱いするのやめてくださいよ。フォアグラじゃなくて……ほら、霧の時に使う装置があるじゃないですか」
まあ、フォグランプをいい間違えているのはわかっていたが、黙っていた。
「あ、フォグランプ」
ちっ。
「悪いな、それは品切れなんだ」
「え? ついてないんですか?」
「ついてるとディーラーのおっさんは言っていた気がするが」
「……じゃあ使いましょうよ」
「知らないのか? フォグランプというのは結構魔力を消費する魔法でな、まだレベルの低い俺には使えないんだ」
俺の洗練されたジョークに彼女は尊敬のまなざしを向けた。まるで人をあざ笑うかのような尊敬のまなざしだ。
「あの、もしかしてフォグランプをご存じないんですか?」
「いや、知っているぞ。フォグというのは霧という意味の英単語だ。ランプは灯り。つまり、霧の灯りだな。意味は不明だ。この言葉をどう解釈するかについては学会でも諸説入り乱れていて、まだ決着を見ていない。おいおい、そんな目をしてみても俺を誘惑することはできないぜ、子猫ちゃん」
「あの、頭の具合は大丈夫ですか? これは誘惑しようとしてるんじゃなくて軽蔑を伝えようと試みているんですけど」
「なるほど、それならバッチリだ。伝わってる」
彼女は人差し指を立てた。
「教えてあげます。フォグランプって、こういう濃霧の時に視認性を高めるために使うものなんですよ。まあ、どう視認性が高まるのかは知らないんですけど」
「ふむ。そいつは……今、まさに使うべきものだな」
そう。馬鹿な会話をしている間にどんどんと霧が濃くなって来ていて、ちょっとシャレにならなくなってきている。十メートル前が全く見えない。俺はスピードを大きく落として、徐行していた。
「だが、残念なお知らせだ。使い方がわからない」
「だろうと思いました……同じ車に乗ってるのが不安になってきますね」
「ダッシュボードにマニュアルが入っている。見てくれないか?」
「……えと、あの、すいません、幽霊なのでダッシュボードが開けられません」
「だろうと思ったよ……同じ車に乗ってるのが不安になってきますね」
彼女はムッとしたようだ。
「仕返しですか? 私だってできれば幽霊をやってたくなんかないです」
「俺だってフォグランプの使い方くらい知っておきたかったさ」
「一緒にしないでください」
「むぅ……」
気がつくと、完全に視界ゼロだった。恐る恐る車を進めながら、懸命に周囲の地形を見落とさないように気を配る。俺が無口になると、彼女は場をつなぐように口を開いた。
「……あの、私が幽霊になった理由、聞かないんですか?」
「え? ああ、言いたいなら言ってくれてもいいぜ」
「興味なしですか……」
残念そうだった。
「興味がない訳じゃないが……初対面の男に言いたいもんでもないだろう」
正直言うと、誰が相手でも自分が死んだ時の話なんてしたいものだとは思わなかった。俺なら話さない。
「私……東京の大学を……受けようと思ったんです……。都会に出たかったんです」
「…………」
「でもダメでした。受験のために長距離バスで町を出ようとして……その途中で。バスが交通事故です。大型トラックとの側面衝突。バスに乗ってたお客の中で、運悪く私だけが……」
俺は、運転に集中するフリをした。
「私、気がついたらバスの外で一人立ってました。バスの車内で、誰かが泣き叫んでるのが見えました。私は車内に戻ろうとしたけどなぜか動けなくて、トラックの運転手とバスの運転手が言い争ってるのを見ながら、私はここだよって叫んだのに、誰にも聞こえないみたいで……。それからしばらくして警察が来て。私、事故処理の様子もずっと見てたんです。私の声は誰も聞いてくれなくて、でも私の身体は運ばれていきました。頭から血が出てました。担架に乗せて運ばれる私を、ずっと離れて見てたんです。近寄ろうとしても近寄れないの。私を追いていかないでって言っても誰にも聞こえないの」
「……」
「事故処理が終わって誰もいなくなって、それで私ようやく自分が死んじゃったんだって思いました。そして……山道に取り残されたまま、行くことも帰ることもできなくなっちゃったんです」
「……帰ろうとしたのか」
「はい。でもやめました。私、どうせなら町を出てみたかったんです。山の向こうに行きたかったんです。だから……。ところが歩いてみたらダメなんです。数メートル歩くとすぐ疲れて、疲れると何時間も意識が飛んじゃうんです。だから私、これからずっとこの山道で暮らすのかって覚悟してました」
彼女は少し笑った。
「でも、何日目だったか……。一度、タクシーが通りがかった時です。私、手を挙げてみたんです。ヘイ、タクシー……って。そしたら、なぜかタクシーに乗ってたんです。知らないうちに。運転手さんが私に気付いて悲鳴をあげたんで、慌てて降りたんですけど」
「なるほど。それからは無賃乗車方式で行くことにしたのか」
「えへへ。お金があれば払いたいですけど」
別にいいけどよ、と言った。
「なんか……ごめんなさい、シンミリしちゃいましたね」
「全くだ……。誰のせいだ? 責任とってくれ」
俺は笑った。彼女も笑う。
「あ、じゃあ私、歌います! なんかかけてください!」
おしきた、と言って俺は、大黒摩季をチョイスする。
「なんか選曲古めですよね……。ジェネレーションギャップを感じますなあ」
「うるせっ」
霧が晴れてきた。俺はアクセルを踏む。彼女が悲鳴をあげた。すぐに悲鳴は笑い声に変わる。それから曲にあわせ、大声で歌いだした。
「お前は古いとか言うわりにいけるのな」
「はいっ。娯楽といえばカラオケくらいだったんで! 古い歌は……お姉ちゃんとかと行ってたからですね」
「そうか」
ひとしきり彼女が満足した後、俺もWANDSを歌う。
「そういえば荘司さんは東京から来てるんですか?」
「東京から来てるさ。なんでかは秘密だけど」
「教えてくださいよぅ。失恋とかですか?」
「はっはっは! 彼女とかいたことねえよ!」
「……」
「……」
「……」
「……ちょ、おい、黙るなよ」
俺はルームミラーを見る。……と……。
「あれ?」
彼女の姿がなかった。
「……いねえし……」
俺は身体をよじって後部座席を直接見る。……やっぱりいない。
「おーーーーい」
俺はどこへともなく声をかけたが、答えるものはいなかった。
「……本当にいないのか?」
一人呟く。やはり反応はない。
静まり返る車内。
「……なんだよ。寂しいじゃないの」
そういえばさっき、崖に落ちる危険を知らせるために出て行ったことがあったのを思い出し、俺は前方をよく見る。しかしいつの間にか霧は晴れ、ハイビームにしたライトに照らされて見晴らしのよい道が続いていた。
「もしかして、引かれたのか? 二十四で生まれてから彼女無しは……。気持ち悪いとか思われたかな」
もう一度車内を見るが、やはり誰もいない。
「……まあ、考えてみりゃ第一印象から最悪だったしな……」
あのどうしようもない裏声もどきで広瀬香美を熱唱していた俺を殺してやりたい。
しかし……。
「やべ、結構落ち込んでるな、俺」
誰もいない車内。彼女が乗ってくる前と状況は変わってない筈なのに、もう一人で歌ったりする気にはならなかった。