読
先生は言った。
「私の専門は、失せ物探しなの」
荘司さんが答える。
「はい、知っていますが」
違う。先生は私に説明してくれているんだ。
「三沢君に聞いたかもしれないけどね。私は占い師なのよ」
来る途中の会話を思い出す。荘司さんはここを占いの館だと言っていた。コンサルタントなのか占い師なのか……と思いはじめて打ち消す。そんなのどっちだっていい。
「私、占いは信じないんですけど」
先生には私の言葉は聞こえていないけれど、荘司さんが咎めた。
「まあ黙って見てろって。……先生、お願いします」
「ええ」
先生は前に垂らしていた束ねた長い髪を背に回して、荘司さんの正面になるようにソファの上で座る位置をずらした。
「さっそくだけど三沢君」
「はい」
「君を占います」
「あ、俺ですか。はい……」
私も意外だった。荘司さんに通訳して貰いながら私を占うのだと思っていた。だって私の身体だし。でも先生が言うことに荘司さんは素直に従うようだった。私も特に口は挟まなかった。
「まず心を落ち着かせて。目を閉じる。深呼吸。リラックスしてね」
「はい」
荘司さんは二、三度深呼吸した。そして目を閉じる。……何度か来ているって言ってたっけ。毎回、こんな感じでやっているのだろうか。
「今日のことを思い出して貰うわ。一つずつ質問をしていく」
「はい」
荘司さんの今日のことを……? 何を聞きたいんだろう。
「心を落ち着けてね。……今日、最初に玲子さんを見たのはいつ?」
「えーと、帰宅した時です。いや違うな、一度帰宅した後、もう一度牛丼を食べに外出して、二度目に帰宅した時です。部屋にいたのを見て驚きました」
私がうずくまって泣いてた時だ。あの時の荘司さん、凄い驚き方だったな。
「どうして驚いたの?」
「そりゃあ……部屋に知らない女がうずくまってたら驚きますよ」
「知らない人だったの?」
「いや、電気をつけたらすぐ玲子だとわかりましたけど」
「電気をつけたら玲子さんだとわかったのは、なぜ?」
「服を見て……いや違うな、顔を見て」
先生が数秒、黙って荘司さんを見た。荘司さんは表情を変えなかったけれど、膝の上に置いたこぶしに力を入れたのがわかった。
「その前に玲子さんを見たのはいつ?」
「えーと……ご……、その、二週間前に友人たちと飲み会をした時です」
荘司さんはまだ合コンだったことは隠したいらしい。
「その時の服装は? 今日とおなじ?」
「いえ、違いますね。そのときはえーと……思い出せないな」
えーっ。私は心の中で不満の声をあげる。何度も会ってる訳でもないのに、女の子の服を覚えてられないようじゃ、荘司さんあんまりモテるタイプじゃないな。
「その時の髪型は? 今日とおなじ?」
「いえ、違います。玲子は髪型を変えてます」
そう。あの時は髪にウェーブをかけていた。今日はストレート。しかも色が茶髪じゃなくなっている。染め直したのだ。
「そう。わかった」
天神先生は手を叩いた。
「三沢くんは今日、魂でないほうの玲子さんを見ているわね」
「え?」
荘司さんが声を上げる。私も、何を言われているのかくみ取ろうと頭を回転させる。魂でないほう……?
「え、ええと……魂でないほうって身体のほうですか? 魂が抜ける前の玲子に?」
会ってないですよと言う荘司さん。私もそう思う。魂が出る前というと荘司さんをつけていた間だろうか。荘司さんは私には気づいていなかった筈だ。
だが先生は、首を振った。
「おそらくは、身体だけの時ね。魂が抜けてしまった後の、玲子さんの身体を目撃している」
先生の言葉の意味が私にはまだわからない。
「え……?」
荘司さんも同じのようだ。荘司さんは首を横に振った。
「わかりません。何を言われてるのか……」
先生は手の平を少しだけこちらに見せ、荘司さんを黙らせる。
「夕食を食べに出た時、行きか帰りか、あるいは牛丼屋の店内かで、女性を見た記憶は?」
再び質問が再開された。私もおそらく荘司さんも質問の意図が汲めないままだ。だが荘司さんは額に指を当てて必死で思い出そうとしながら答えた。
「えっと……店内では女性を見た記憶は無いです」
「行き帰りの道は?」
「やっぱり女性を見た記憶は……」
「何を考えていましたか?」
「たしか、牛丼にサラダをつけるかどうかとか、そんなことでした」
……荘司さんも意外に庶民的というかなんというか。
「帰り道は?」
「帰りは、えーと、あそうだ、月が出てるけど暗いな、とか、でも街灯があるから明るいか、とかそんなことを……」
先生が相槌を打たなかったので私は先生を見る。そして荘司さんを見ると荘司さんも黙っていた。
「言ってみて下さい」
先生の言葉は、荘司さんに何か言うべきことがあることを示していたが、私には今の言葉のどこにそれがあったのかわからない。
「あの……何を」
それは荘司さんも同じらしく、訝しげに尋ねる荘司さん。
「帰り道のことを考えて。今一瞬だけ、意識に上った何かがあった筈。何を見たの?」
そう言う先生に、荘司さんは記憶をたどるように目線を上方に遊ばせる。
「そう言われても……。ええと、そうか、何かがっかりすることが……。ああそうだ、前を歩いていた女性が急に走り出しました」
荘司さんがそう言うと、先生は頷いた。
「玲子さんです」
え? え? 私はついていけていない。訳がわからなかった。だが荘司さんは違ったらしい。言われた瞬間、目を見開き、口をパクパクさせていた。目線を空中に彷徨わせて何かを探している。
そして突然叫んだ。
「あれは……あれは確かに玲子だ……!」
*
え? どういうこと? 本当なの?
荘司さんが牛丼屋さんに行っている時、私は駅で慌てていた頃だ。その間の……私の身体を荘司さんが見ていた? 夜道で荘司さんの前を歩いてた?
荘司さんはそれを見ていたの? ならどうして……今まで忘れていたの?
なんで、なんでそれが先生に、わかるの?
「自分でも忘れてたのが信じられませんが確かにあれは玲子だったような気がします。あの服装と格好……間違い無いです。月明かりで顔も見ていたのに。なんでその時は玲子だと気づかなかったんだ……?」
「気付かなかった?」
「気付かなかったというか、いや、まあそうですね」
「違いますね」
しかし、語尾にかぶせるように先生は否定した。私は黙って見守るしかない。
「三沢君、違います。玲子さんではないと思う理由があった筈」
「いやその……すいません、そうはっきりと思うことがあった訳じゃないんですが、ただ」
荘司さんが口ごもる。
「ただ?」
「えーと、うまく言えないんですが」
「言ってください」
先生がさらに強い調子で言う。
「えーとその、何が気になっているかというとですね。その女性、つまり玲子が急いでわき道に走って行ったのを見て、ああ変質者か何かかと誤解されたんだと思ったんですよね。でも、俺はいつも夜道で女性が前を歩いてたら、必ず距離を取るんです。条件反射になっていて、相手が男だろうと女だろうと夜道では絶対に追い抜かないことにしてるんです。無意識にそうするんですよ。だから、不注意に距離をつめてしまったなんて自分でも信じられなくて、なんか変だと思ったんです。その違和感というかなんというか……。うーん、やっぱりうまく言えないです。何言ってるんだって感じですね」
「いいえ重要です。つまり三沢くんは……前を歩く玲子さんを人間として認識していなかった」
「いや別に幽霊だと思った訳じゃなくて。まあ視界に入っていたけど意識してなかったってことなのかな」
先生は目を細めて、荘司さんを見た。何かを見極めようとしている。そう見えた。
「そのあたりに、公園か何かありますか?」
「こ、公園ですか? いえ、近くには……。あでも、神社ならありますけど」
「どんな神社?」
「えーと、あんまり大きな神社じゃないですが林があって……。あと、そうだ、猫がいっぱいいます」
それを聞いた先生はうなずいて、立ち上がった。
「そこですね。行きましょう」
先生の「占い」は終わったらしい。
私はぽかんとしていた。荘司さんも頭に疑問符をいっぱい並べていたが、先生に習って立ち上がった。どういう結果が導かれたのか、この時の私には完全に謎だった。
*
荘司さんの車で再びマンションまで戻る道を飛ばしていた。
「先生……寝ちゃいましたね」
私は言う。先生は後部座席で眠っていた。
「先生は睡眠時間を長く取る人なんだそうだ。いつもはもっと早く帰ってるんだろう。夜にお邪魔しちゃったからな。悪いことをしたな」
「そうですね……」
後ろを振り返る。膝の上で手を揃えたまま眠る先生はどこにも崩れたところがなく、人形が展示してあるようにさえ見えた。
「でも、あーあ残念、この車に初めて乗ったのは先生でしたね」
「ん? あーそういやそうだな」
荘司さんは気のない返事だった。
「でもいいです。助手席はまだですし……」
そう言いながらちらりと荘司さんを見る。特に反応なし。むぅ。
「天神先生の話、私には結局何が起きていたのか、全然わかりませんでした。本当に、その神社に私がいるんですか?」
「わからない。でも、俺が夜道で見ていた女は確かに、格好からすると玲子だ。勝手に身体が行動してるなんてことがあるのかな。まあ、どうしてか忘れていたのを先生が思い出させてくれた。何度か体験してる筈なんだが、未だに不思議な気分だ」
私は口を尖らせる。
「正直なこと言うと、信用できないです……。たまたま荘司さんが思い出しただけじゃないですか。それが先生のおかげなのかどうかわかりません」
「……何でも、先生は、人の無意識が読める、らしい」
荘司さんは話し始めた。
「無意識が読める……?」
「ああ。覚えていた筈なのに忘れていること、意識に上らないことってあるだろ? 思い出してみると、なんで忘れてたんだろうって思うような。先生は会話の中でそういうのを見つけて引っ張り出せるらしいんだよ」
「催眠術みたいなものですか?」
「催眠術か。あれは、意識を黙らせておくために催眠状態に持っていく訳だろ。先生の場合、意識があってもいいんだ。意識の向こうにある無意識と話ができる。先生は前に、意識にも協力して貰ったほうが無意識と話しやすいと言っていたな」
ちんぷんかんぷんだった。
「理解を越えてます……」
「俺もなんとなく、だ。だがともあれ、失せ物探しには効果抜群なんだ。結局、物を無くすというのはどこにやったかを思い出せなくなるのが原因なことが多い。でも意識に上らないだけで記憶からはそうそう消えたりはしない。思い出せないだけなんだ」
「意識してないだけで色んなものを見たり聞いたりしてる筈で、それを思い出せるようにしてくれるってことですか?」
そうだ、と荘司さんは言う。
「でもやっぱり、それって、本当に見ても聞いてもいないものは探せないってことですよね。本人が知らないことはありますよ」
「そこが先生の凄いところの二つ目だ。必ずしも本人だけに聞く訳じゃない。ほら、さっきだって身体を無くした本人である玲子じゃなくて俺の記憶のほうに手がかりがあったろ? 先生は誰が知っているのかも見抜く」
「それじゃ超能力ですよぅ」
「人間の心理に対する観察力が並外れてるだけさ。単に異常に察しが良いんだ。普通の人の持つ力を超えているって意味では超能力と言えるかもしれないけど」
「どうせ私は普通の人ですよーだ」
荘司さんは苦笑した。
「普通の人は魂だけでフラフラとうろついたりしないだろ」
*
神社についた。もう夜中だ。誰もいない。私たちは、荘司さんの車を降りて境内に入っていく。
木々の間から空が見える。木のシルエットができているのは空が真っ暗闇ではないからだ。月明かりかそれとも町の灯りか、空は漆黒ではなく藍色だった。
「……先生、わかりますか?」
荘司さんが先生に水を向ける。先生は、しばらく周りの木々を見ていた後、ゆっくりと歩きだした。
「え、わかるんですか?」
「しっ」
先生が口に人差し指を当てた。
「やはりここみたいです」
「……え?」
「そこ」
突然、先生が指で地面を指した。その先に目をやると……。
「あ、靴」
「玲子さんのですね?」
私のだった。お気に入りのローヒールが土に塗れていた。
「はい、私のです」
「……イエス、だそうです」
荘司さんが通訳する。
「たぶん、邪魔だったのね」
「……?」
先生は木々を見上げた。
「今の玲子さんの身体には、玲子さんの魂がありません。でも、別の魂が入ってしまっている」
私は目を見開く。荘司さんが慌てて言う。
「別の? 別の幽霊ですか?」
「そう。ある意味で誘拐です。身体を連れ去ったのは、別の魂。ただ……」
そう言って、先生は木の上を指さした。
私は悲鳴を上げた。
「人間のものではなかった。おそらく……猫の霊」
人間の背丈ぐらいの位置にある太い枝の上に、横たわっている黒い影があった。
それは……私だった。
「おわ……。おまえ、また凄いことになってんな」
いったいどうやって登ったのか。私は寝そべって手を顔の下にしまい、身体を丸くして眼を閉じている。その様子は確かに猫だった。
一瞬、死体のようにも見えて不安になるが、背中が上下していた。
「寝ているようね」
先生が言う。私は安堵すると同時に、そのことに気づいて慌てた。
顔が紅潮する。思わず目を覆った。信じられない。
枝にまたがるような格好で、片足だけを上げているものだから……す、裾がまくれあがって、し、下着が丸見えに……!
「そ、荘司さん、見ないで下さい」
「そんなこと言ってる場合か。降ろして下さい、だろうが。結構高さもあるし、落ちたら危ないぞ」
中身が猫なら受身を取るかもしれないけどな、と言いながら荘司さんは近くの木に立てかけてあった脚立を取ってきた。それを木に立てかけ、枝にまたがって寝ている私に手を伸ばす。
「起こさないように、慎重に降ろさないとな」
荘司さんは不安定な脚立の上で私の身体を抱え上げようとするが、なかなかうまくいかない。
ところがそうこうするうちに私が、いや、猫が目を覚ましてしまった。
あーっという叫び声が二つ響く。一つ目は猫の私の鳴き声で、二つ目は荘司さんが脚立ごと地面に倒れ込む時の悲鳴だった。
「荘司さん! 大丈夫ですか?」
倒れて呻いている荘司さんに私は思わずかけよったものの、触れることもできず声をかけるだけだった。先生が脚立をどけた。荘司さんは呻きながらも、私の身体を抱き抱えて逃がさないように捕まえていた。
私の身体を動かしている猫は、落下の衝撃と荘司さんに捕まえられた恐怖からか暴れ出した。手足をばたつかせたり荘司さんに強く指を(爪を?)立てたりしている。
私はオロオロするばかりだったし、先生は逆に冷静に見守っているばかりだったが、荘司さんが背中をさすったりしているうちに、もともと気性のおとなしい子だったのか、猫はすぐにおとなしくなった。
「よしよし、いい子だいい子だ。わりと人に慣れた猫みたいだな」
荘司さんが猫の私の頭を撫でる。猫は踏ん張っていた四肢の力を緩め、くたっとなった。
……あ。
見ているうちに、恥ずかしくなってきた。ああやって抱きあってるのを見ると恋人同士みたいだ……。
……。
でもないな。
どちらかというと親子みたいだ。
「あーぅ」
猫が一鳴きした。……と思いきや。
「うわっ」
不意をつかれた荘司さんが叫び声をあげる。だがそれ以上に大きな声を出したのは私だった。
「あーっ! ちょ、ま、やめてください! 何してんですか荘司さん!」
「俺じゃねーだろ!」
やっぱり猫だった。
猫は、荘司さんの顔に鼻を近づけて臭いを嗅いだり、あ、あろうことか顔を舐めたり。傍目にはとんでもない絵面だ。もう私としては猫よくやった、じゃなくて何てことをしてくれているのか、早く代わってほしいじゃなくてえーと。
「ってそうだ、身体に戻らないと!」
我に返る。こないだ身体に戻った時のことを思い出し、とにかく身体のあるあたりに自分を重ねるようにすることで戻ろうを試みる。猫が操縦するままに荘司さんにじゃれついている私の身体に、背中から覆い被さるようにして同じ姿勢を取ってみる。えい、えい。くそぅ。なかなか入れない。
「うー。身体に戻るのってどうやればいいんですか?」
「自分の身体だと思って動かすイメージを持つんだ。たぶんそんな感じでいける」
荘司さんがあまり根拠のなさそうな漠然としたアドバイスをするが、私もいいアイデアがある訳でもないので言われたとおり動け動けと念じてみる。
しばらくうだうだやっているうちに、なんとかうまくいったみたいだった。自分の身体がちゃんと一緒に動いてくれているのを確認する。
「やったーっ。戻れた……」
肩で息をしていた。身体の疲れか、魂のほうの疲れか。荘司さんも息が上がっていた。
「や、やっと戻ったか……。ほれ重い。どけ」
押しのけられる私。少し名残惜しい。
「よかったです。これで解決ですね」
天神先生が言う。
私は起きあがった。それから、服の土を払って、先生のほうを向いてお辞儀をした。
「初めまして。斑鳩玲子です」
精一杯、微笑む。先生も微笑んだ。
「ええ、初めまして。天神美弥子です。よろしくね」
こうして生身の目で見る先生は変わらなかったが、先生の目には今初めて斑鳩玲子が映っているのだ。私は身を固くしていた。
「先生、どうもありがとうございました。本当に助かりました」
荘司さんが立ち上がりながら言った。
「あ、ありがとうございました」
私も慌てて言う。
「ええ、力になれて良かったわ。玲子さん、擦り傷だらけだけど、大丈夫?」
「ええ……ちょっとひりひりするくらいで、痛みは軽いです」
「俺のほうは腰打ったぞ。かなり痛いんだが……」
荘司さんがぶつぶつ言っている。
先生が微笑みながら言った。
「今更だけど……身体に戻ってから木を降りれば良かったわね」
私はぽんと手を打つ。荘司さんはうなだれた。
なーお、という鳴き声がした。
近くを見ると、黒と白のしましまの猫が傍にたたずんでいた。私が手を伸ばすと、手を舐めようとして……透けた。
「猫の霊か」
「最近死んじゃった子なのかな」
私のほうをしばらく見ていた縞猫の幽霊は、声をかけようとするとどこかへ行ってしまった。
*
翌日、私と荘司さんは、先生の部屋にお邪魔していた。昨日のお礼のためだ。
「玲子さんは三沢君からはここのこと、何て聞いていたのかしら」
「いえ、ほとんど何も」
「コンサルティング会社を名乗っているけれど、実体はよろずトラブル相談所、何でも屋みたいな人間の集まりね。お客の問題を解決するのに、何を使うかは人それぞれ。知識、知恵、腕力、脚力、道具、機械、時間、人脈、権力、美貌……」
ここに来る途中に荘司さんが言っていた通り、目的が叶えば手段は何でもいい、そういうことらしい。
「変わり者が多いのよ。皆、あんまりオフィスにいないの。昨日みたいに日が落ちれば誰も残ってないことも多いわ。ビックリしたでしょう?」
「……ええ。廃墟かと思いました」
私がそう言うと、あらまあ、と先生は笑った。もっとも、ほとんど人がいないのは昼間の今日も同じだった。天神先生の部屋まで来る間に廊下ですれ違ったのは二人だけ。
「三沢くんが私のとこに来るようになってからはもう一年くらい経つけど、夜に来たのは初めてだったわね」
「あの、夜遅くに押しかけて本当すいませんでした。ありがとうございました」
荘司さんが謝る。私も頭を下げた。いいのよと先生は言う。
「でも先生、本当に、昨日ここにいた私のことは見えてなかったんですか?」
「ええ。私には霊感というのは無いみたいね」
「でもまるで私の言ってることが聞こえているみたいだったので……」
「三沢君の言葉と態度からわかる範囲だけよ。三沢君があなたを無視していたら気付かなかったでしょうね」
先生は目を細めた。その微笑みは何ていうか本当に慈愛に満ちていて、私は心が穏やかになってしまうのを感じる。
「でも幽体離脱だなんてどうしてすぐに信じたんですか?」
霊感が無いというなら幽霊退治が専門だったりもしないだろうし。
「正直言うと、本当に玲子さんが実在するかはわからないと思っていたわ」
妙なことを言う先生。
「三沢くんの脳内彼女である可能性ね」
荘司さんがお茶を吹いた。
「脳内でもなけりゃ彼女でもないです」
「それは良かったわ」
私は慌てて口を挟んだ。
「ところで先生、どうして私が神社にいるってわかったんですか? まるで魔法みたいでした」
先生は微笑んだ。
「魔法なの」
「その、ご迷惑じゃなかったら、どういうことなのか知りたいんですけど……」
「知りたい?」
「さ……差支え無ければ」
「そうね……」
私は解説が欲しかった。魔法使いじゃ勝ち目がない。
「言葉で説明するのは難しいのだけれど……」
先生は一度言葉を切った。
「人の脳はね、本当は見たり聞いたりしたこと全て覚えている。でも、そんなたくさんの記憶を全部等しく扱っていたら思考に支障を来す。頭がパンクして何も考えられないし何も行動できなくなってしまう。だから、必要な記憶だけを表に出して、必要の無い記憶は倉庫にしまっておくの。それが意識と無意識ね」
先生は右手を立てた。
「意識と無意識の境には門番がいて、膨大な記憶の中の一部しか意識の上には通さないようにしているの。そうして、思考に必要のない記憶は意識の上に上らせない。ほとんどの記憶を普段は眠らせておいて、必要な時だけ呼び出すようにしているのね。でも門番が呼び出すための記憶の紐が切れちゃう時があって、そうなるともうその記憶は呼び出せない。それが忘れるということね。
でも門番が通してくれないだけで、忘れた記憶も消えた訳じゃない。強烈な記憶、隠れた重要な記憶は、チャンスさえあれば門番をすり抜けて出てこようとするの。
私はそれを見逃さないようにしてるだけ」
先生は、立てた右手の指の隙間から左手の人差し指を突き抜けさせるジェスチャーをした。
「昨日、三沢君と話していてまず気になったのは、三沢くんが部屋で玲子さんに会った時のこと。三沢くんはすぐ言い直したけれど、顔を見る前に服装から玲子さんだとわかったと言った。
それが、隠れた記憶が顔を出した瞬間ね。それが糸口になる。
初めて見る服の、うずくまった姿勢の女性が玲子さんだとわかったのなら、それはなぜか? つまり、今日の服装と髪型の玲子さんを見ていたということ。その記憶があると仮定してみた」
「でも先生、そういう無意識の記憶があるんだとしても、私がその……尾行をしていた間に見られてたっていうほうが自然です」
尾行と言う時に顔が火照った。
「そうね。言葉で説明するのは難しいわ。色々と細かいことを繋ぎ合わせると、そうかな、というくらいね。例えばね、昨日ここに来た時、三沢君が妙に落ち着いていたこともそう。事態が事態なのに、それにしてはあまりにも平静であるように見えた。だってそうでしょう? 話を聞けば誘拐されたのかもって言うじゃない。玲子さんのことなのに、とても平静でいられる筈はない」
すると荘司さんが口を開いた。
「俺、平静に見えましたか? かなり慌ててた気がしますが」
「ちょっとはね」
私は昨日の夜のことを思い出す。私のほうは脳天気だったからかあまり深く考えてなかったからだけど、荘司さんは……言われてみると落ち着いていたような気もする。でも、それは天神先生に対する信頼からだと思っていたけれど。
「だから私はこう理解した。三沢君は、玲子さんにさほどの危機は迫っていない……少なくとも誘拐等の事件に巻き込まれるようなことは起こっていないと、知っている。無意識はそう判断している。ということは三沢くんは玲子さんの身体がどうなっているか、知っていたのではないかしら? 無事な姿を見ていたのではないかしら? それが、三沢くんが玲子さんを見たのは魂が抜けた後だと推測した理由の一つね。……あ、もちろん、三沢くんが見た後に何かあったとも限らないから、うちの対策チームにも繋ぎを取っておいたのだけれどね。でも、これは純粋な勘だけど、三沢君が安全だと思っているなら大丈夫だと思った。私の勘は当たるのよ」
私は沈黙した。結果として、無事ではあった。いや、あの状態はある意味で無事とは言いがたいが、ともかく物騒なことにはなっていなかった。先生の勘は当たっている。
「でも、俺が夜道で見かけたという情報だけで、どうして神社にいるとまでわかったんですか? 玲子の身体が勝手に動いているとわかるだけだと思いますけど」
荘司さんの疑問はもっともだった。私も不思議だった。
「うーん、それもいくつか理由はあるけれど、説明が面倒だわ。どうしましょう」
先生は困ったように指を頬に当てた。
「えっと……じゃあ一つだけ。そうね、例えば、三沢君には私と違って霊感がある訳でしょう? だとしたら玲子さんの身体を目撃した時、そこに玲子さんの魂が入ってないことに違和感を持つ可能性がある。普段感じているものを感じない筈だから。三沢くんと話しながらその辺を突っついていたら、人間じゃないと思ったっていう情報が出てきた。なら動物かな? 犬や猫の霊かな? と仮定してみたの。もし玲子さんの中に入っているのが飼われてた動物だったら玲子さんの身体ごと飼い主のところに戻ってしまったりして、たぶん騒ぎになってるわ。とすれば野良。野良なら公園とかにいるかなと思ったけど、猫がいっぱいいる神社があると言うから、そこかな、とね」
「え……そ、それだけですか?」
かなり強引な気がした。
「実はね、言わなかったけど、携帯電話の探知結果も連絡来てたのよ。通信エリアはあの一帯から動いてなかった。だからもし神社にいなくても、近いとは思ったの。電話を落としてた可能性ももちろんあるけれどね」
「あ、そうだったんですか……」
ちょっとズルね、と先生は笑った。
「こうして言葉で説明すると、仮定ばっかりね。やっぱり、女の勘とだけ言ったほうが良かったかしら」
心なしか、ちょっと先生が恥ずかしがってる気がした。私は悪いことをしたと思った。
*
帰り際。私たちは建物の前で別れる予定だった。荘司さんに別の用事があったからだ。だから今日は車ではないし、つまりまだ荘司さんの車の助手席に私は乗れていない。
私は荘司さんを見る。
「……どうした、怖い顔して」
「怖い顔なんてしてませんよ」
荘司さんは気づいていないみたいだった。
「荘司さん……じゃあこれで」
一応言ってみる。
「ああ。元気でな」
去っていこうとする荘司さんに、私はため息をついた。
「元気でな、じゃないですよ」
私は、鞄から携帯電話を取り出す。
「荘司さん。番号、交換してください」
「え?」
「交換してください」
「あ、ああ……携帯か。そうだな」
なんだそんなことかとでも言いたげな荘司さんを私は睨んだ。
「また忘れる気だったんですか?」
「え、いや」
「わかってるんですか? 今が最後のチャンスだったんですよ?」
「え、そりゃまあ今日はそうだが」
「今日はって……。会いに来る気があるんですか? それともわざわざまたマンションに行けって言うんですか?」
「や、悪かった。すまん」
「私……先生とのこと色々聞きたかったですけど、またの機会にします」
「……ん。先生とのこと? 何だ。どういう意味だ」
「わからないならいいです。ほらほら、早く携帯出してください」
私達はようやく番号の交換に成功したのだった。