霊
夜道で一人、車を運転している時、こんな想像をしてしまうことがあると思う。
誰もいない筈の後部座席に、ふと見ると人影が……。
もちろんそんなことはある訳がない。考えなくてもいいのに考えてしまう、もしもそうだったら怖いなという思いつきに過ぎない。しかし、いる訳がないじゃないかと自分に言い聞かせながらも、怖くてルームミラーに目をやることができない。
そんな経験は誰にもあるだろう。
ただその夜の俺はむしろ、けして怖い想像にとらわれていた訳ではなく、むしろ全く逆だと言ってよかった。妙に高揚した気分で、ずっと車内に意識を向けることもなく、ただ前だけを見て運転していた。
だからこそほんの一瞬目をミラーにやった時、そこに人影を認めた時は心臓が止まりかけた。思わず急ブレーキを踏んでしまった。速度を落としながら、もう一度ミラーで後部座席を見る。
そうさ。
いたんだ。まさに。
そこには、女性らしき人影が座っていた。
俺は思わず叫んだ。
「ど、どこから聞いてた!?」
*
幽霊の類を見たのは初めてだったが、誰も乗せたことのないこの車の初のお客さんとなったこの髪の長い、青い服の女性には妙に現実感が感じられなくて、俺はなんとなく、噂に聞いた例の怪談を体験しているのだということを悟った。
だが、問題はそこじゃない。
そこじゃないのだ。
俺はもう一度尋ねた。
「ず、ずっと…………聞いてたのか? 俺の歌を」
そう、俺はずっと、歌っていた。車の中というのは、これで実はかなり優秀なカラオケ施設である。案外防音がしっかりしていて大音量で曲をかけられるし、車外の雑音にも遮られない。一人で大声で歌っていても問題ない。街中で信号待ちしている時なら多少恥ずかしいが、何キロにもわたって分岐の無い山道、おまけに夜中でまわりに車がいない。
それはもう、夢中で歌っていたのだ。ああ、認めよう。はっきり言って、ノリノリだった。何かが乗り移ったかのように。
動揺を隠しきれなかった。
俺の問いに戸惑っているのか、女は口ごもっている。俺はまだ鳴り響いていたBGMを止めた。車内が静寂に包まれ、エンジン音だけが静かに響く。
「なあ、どこから聞いてたんだ?」
もう一度、ミラーごしに後部座席の女に向かって尋ねると、彼女は静かに口を聞いた。
「ゲレンデが溶けるほど恋したい…………からです」
「……最初からじゃねーかよぉ!」
自前で編集したプレイリストの一曲目からだった。
「……凄いテンションでしたね」
俺はガツンと額をハンドルにぶつけた。プォッとクラクションが鳴る。
「しょうがないだろ! 誰かいると思わないさ! 一人だって思ってるもの!」
「でも一人なのにあんな大声で歌わなくても……。鼻歌とか、口ずさむとかのレベルじゃないですよ……」
「ああ、歌ったさ! 全力で歌ったさ! 広瀬香美大好きだからね俺は!」
「でももうあなたの声で広瀬香美の声が全く聞こえませんでしたけど」
「いいんだよぉ! 俺の中では鳴り響いてるんだよ俺の声であると同時に広瀬香美の声が!」
広瀬香美に失礼だったかもしれない。
「さすがにもうちょっと練習したほうが……。音程だいぶ怪しかったですよ」
女は大きなお世話を焼いた。
「うるせえ! 大体あんた、いるならいるって言えよ! なんだよ三十分以上ずっと黙って聞いてたのかよ!」
ゲレンデ……を熱唱したのはもうかなり前だ。ロマンスの神様も歌ったし、Promiseも歌った。
「え、ええ。自分から言い出すのは格好悪いと思いまして……」
「俺のほうがよっぽど格好悪いわ!」
「いえ、その、それほどでもなかったですから……」
「気を使われると余計にみじめだからやめてくれ……」
別に、ひとりのドライブ中に歌を歌うことなんて、誰にでもあることだ。それが俺の場合、ちょっとだけテンションMAXで、選曲が広瀬香美で、音程が外れているだけのことだ。何も恥ずかしいことはない。……誰も後部座席にいなければの話だが。
そう。だいたい……。
「……だいたいあんた、誰なんだ。なんでそこにいるんだ」
「……えーと、その……」
「幽霊か?」
「は、はい。そうです」
予想通りだった。まあもう何でもよかったが。
「……ふう。頼むから、今度から盗み聞きするような真似はしないでくれ」
「え、ええ……す、すいません」
女幽霊が謝ったので、許してやることにした。気まずかったのはお互い様だ。
「聞いてると知ってりゃ、もっとちゃんと歌える歌もあるしさ。カラオケ好きなんだよ俺」
「あ、はあ……」
「じゃあ次は何いく? ポルノグラフィティは? 嫌いか?」
俺は画面を操作しながら音楽を選ぶ。
「ポ、ポルノですか? 大好きです」
「大好きか……。じゃあやめとこう。ファンを敵にまわす訳にはいかんな」
「う、歌うんですかやっぱり」
女は変なことを聞く。
「当たり前じゃないか。そりゃ歌うよ。今更嫌だとは言わせないぜ。勝手に乗ってきたのアンタなんだから」
「えーっ。そ、そりゃそうですけど……」
「ほら、助手席に来いよ。なんかタクシーみたいで寂しいだろ」
俺はそう言った。後部座席にいられると、どうにも話しにくい。
「え、そんな、お気遣いなく」
しかし女は遠慮した。
「あ? お前、俺が助手席に来いって言ってんのに」
俺はルームミラーごしに凄んでみる。
「で、でも私、その……」
「てめぇ、大人しく前にこねえとポルノ歌うぞコラ」
「う、歌えばいいじゃないですか」
なんだと? てめえ、いいんだな? 後悔しないな?
*
俺はそれからしばらくポルノグラフィティを熱唱した。三曲目、ミュージック・アワーを歌いきったところで、女に向かって言った。
「どうだ? 前に来たくなったか?」
しかしルームミラーには誰も映っていなかった。
あわてて曲を止めてみると、車内はシーンとしていた。
「何だよ……。どっか行っちゃったのか……無賃乗車だな」
短い心霊体験だった。そんなに酷い歌だったか。
……まあいいや。
幽霊というものに出会えたのもレアな体験だった。あんまり恐怖はなかったのを少し残念にも思ったが。
俺は再び一人になったのをいいことに、音楽にあわせて次のサウダージを全力で歌うことにした。
歌にあわせて出せる限りの大声を出しながら、ついチラチラとルームミラーが気になってしまう。
「……うおわっ」
いきなり、車の前に白いものが飛び出した。慌てて急ブレーキを踏む。
がくんと揺れに揺れ、トランクに入れてある三角板か何かがガタンと音を立てた。
ぶつけた訳ではなさそうだが、視界には既に何もいない。
「…………あ、あぶねぇ……。なんだ? 動物か?」
車を止め、ドアを開けて外へ出た。
……周りを見渡す。道路の右側が、崖になっていることに気がついた。何だこれ、こえぇ……。ガードレール無いのかよ。落ちたら死ぬぞこれ。
キョロキョロとさっきの白い影を探す俺。
「……大丈夫ですか?」
いきなり声がした。びくっとして驚く。さっきの女の声だった。しかし周りを見渡しても誰もいない。声はすれども姿は見えず。
「あんたか……? どこにいる?」
「え、目の前にいますよぅ。見えませんか?」
ヘッドライトで照らすが、目の前と言われても、ただ山道が続いているだけで誰もいない。対向車も後続車も全くない。俺の車と俺以外、何もない。
「見えないな……。全く見えない。まあ幽霊だからな……。俺はあんまり霊感がよくないんだ」
「そ、そうみたいですね……。えーと、じゃあちょっと頑張ります」
すると、目の前、俺の車のライトに照らされた道路の真ん中に、ぼんやりと何かが姿を現し始めた。だんだんとはっきりと像を結んでくると、人の形をしているのがわかる。さっきの彼女が半分透けていた。
だが車内でミラーごしに見たときより、ヘッドライトを正面から浴びているせいか、顔がはっきり見える。
「よう。なかなか美人なんだな」
「え、そ、そうですか。それはどうもありがとうございます」
女は頭を下げた。
「それにしてもなんだよ、人が歌ってるのを聞かずにいなくなっちゃったと思ったら、いきなり道路の真ん中に出てきたりして。危ないよ」
俺がそう言うと、彼女は怒ったように見えた。
「だ、だってあなた、歌うのに夢中で、全然声をかけても聞いてくれないんですもん。気づいてないみたいですけど、ここ、立ち入り禁止の道ですよ?」
言われて、俺は後ろを振り返る。
「マジ?」
「ええ。私、何度も声をかけたんですよ? 全然気づかないからもうどうしようと思って。この道、もうちょっと先行くと崩れてて崖に真っ逆さまですよ?」
「……す、すまん。全く気づかなかった」
道が分岐してたことにすら気付かなかった。
「もう。危ないところだったんですよ?」
彼女は頬を膨らました。
「あ、ありがとう」
「まあ、立ち入り禁止の札が倒れてましたし……しょうがないといえばしょうがないですけど、気をつけてください」
俺はまた頭を下げた。
「俺はあんたに命を救われたんだな。さっきは失礼なことを言って悪かった」
「い、いえ、失礼だなんてことはないです。あの、勝手に乗ってしまったのは私のほうですし……」
「それに、あんたの大好きなポルノグラフィティを侮辱するような真似を……」
両手の平をこちらに向けてぶんぶんと振る彼女。
「侮辱なんてとんでもないです! 結構上手でしたよ」
「ほんとか? あと、今超寒い。車に戻ってもいいか?」
彼女は苦笑した。