ニーチェなんか大嫌い
「怪物と戦う者はその過程で自らが怪物とならぬよう気をつけよ」
手を動かしていてもいなくてもOKのゆるい手芸サークル。サークル棟の小さな部室の端は、陽気な女子たちのしゃべり場になっている。
「急に何言ってんのニーチェならドイツ語で言おうよ」
「いや待ってこれ好きなのつーかドイツ語Rとウムラウト無理すぎん?」
「あーねあたしもできない無理」
「今度発音テストあるんだよ泣くわこんなん」
読点が入らなさそうな会話は嫌いじゃない。だけどニーチェは嫌い。弱者が道徳を重んじて何が悪いっていうの。
「みんなお疲れさまー」
部室に先輩が入ってきて、私は刺繍の手を止めた。
「あれ、今日バイトじゃ?」
「バイトは明日」
私の問いに即答し、先輩はカバンからアイボリーのニット帽を取り出す。
「これ、俺が作ったやつ」
「さすがです、きれいな編み目ですね」
「だろ? ヨシダにやるよ」
「えっ、いいんですか?」
「きっと似合うぞ」
手渡され、かぶってみる。手鏡に自分を映すと、とても似合っていた。
「ほんとだ、すごい。でもなんで急に?」
「いや、別に急じゃねえから。最近色々作って頑張ってるみたいだし」
「あー、姪っ子の幼稚園のバザーに出そうと思ってて」
「いいねえ、情熱的で教え甲斐あるわ。それにこれから寒くなるからさ」
「ありがとうございます」
はは、と先輩は笑った。周りの人たちも微笑ましそうに見ている。
「毎日かぶってこよう」
こうしてアイボリーのニット帽は、私のものになった。
それから私は、もらったニット帽を毎日かぶって通学している。折り返しのリブ編みがかわいいし、寝癖をごまかせるし、寒さが本格的になってきたから。それに、入部したばかりの私に手芸のイロハを教えてくれた人が私の頑張りを見てくれていたと思うと、とても嬉しいから。
「おまえそれ気に入ったのか」
「すっごくお気に入りですよ」
「編み図はAIにやってもらったんだがな」
「そうですか」
「んだよ、その『どーでもいーわ』みたいな言い方」
「へへ、すんません」
先輩とは、お返しに何かを求められるようなこともなく、同じサークル所属としての付き合いがあるだけだ。絶妙な距離感。
「ヨシダも作ったもの誰かにあげればいいのに」
「ああ……、そうですね」
うちのサークルには、作ったものを自分で使うのはよくない、ダサい、という暗黙の了解がある。自作ビーズストラップを使っているのを見られた時には、心底驚いた。普段は優しい人たちの「ダッサ!」からの冷たい視線。さすがに堪え、ストラップはベッド脇の引き出しにしまいこんだ。
「喜んでもらえるっていいもんだぞ」
「まあ、バザー用のはもう終わったので、適当に考えておきます」
そう言ったけれど、私の手芸の腕は素人同然。先輩のように誰かに堂々とあげるなんて、まだ先の話だ。
後期テスト期間、加速した寒さの中で、私は建物の中でもニット帽をかぶるようになった。
ある日の昼休み、先輩が学食の私を訪ねてきた。いつもなら外食なのに。
「ごめん、それ返してくれ」
「……は?」
先輩が指し示したのは、テーブルに置いたニット帽だった。
「申し訳ないんだけど、返して」
「な、なんで」
「うちのが怒っちゃってさ」
「うちのって……」
「彼女」
「はぁああ?」
「ごめん。俺が家で編んでた帽子をヨシダがかぶってる写真、見られた」
そういえば先輩は以前、「他の大学に彼女がいる」と言っていた。写真は、飲んでテンションが上がったサークルのメンバーが居酒屋前で撮ったものだ。
もらっただけの私が拒否できるわけない。「そうですか」と小声で言い、ニット帽を渡す。
「あとさ、俺もうヨシダに何もしてやれないから。あいつガチで怒らせると怖いんだ」
「はあ、まあいいですけど」
「嫉妬深いし、小さいことでグチグチ言うし……嫌になるよ」
「そうですか」
「ほんと大変で……」
「そうですか」
そのようにして私はお気に入りのニット帽を失い、代わりに愚痴を拝受するという、理不尽な昼休みを終えた。
ただのサークル仲間に彼氏があげたニット帽をも嫉妬の対象にする彼女。ガルガルが過ぎる。学生というのは世を忍ぶ仮の姿で、本当は怪物なのだろうか。
怪物と戦う者は、怪物にならないよう注意しないといけない。そんなことニーチェの言葉がなくてもわかっている。私は分別のない人間ではないし、先輩のことを恋愛対象として見ていたわけでもない。
一日の授業を終え、寒さを感じる頭をなでながら廊下を歩き、部室に入る。中には二人の人物がいた。一人は先輩。もう一人は見たことのない女性で、白っぽい帽子をかぶっている。もしかして。
「もう帰ろうって。俺これからバイトだし」
「なんで? 見せてよ、何でもないなら」
「見せてって、何をだよ」
「本当に何でもないんでしょ? なら会わせてよ、これあげた人に」
女性は頭にかぶる帽子を指で差した。やっぱり、あのニット帽なんだ。
「会ってどうするんだよ」
「泥棒だよ!? 彼氏盗るなって言わないと!」
「あのな、あいつはそういう関係じゃないって……」
「あいつって呼び方大嫌い!」
「……ヨシダは、そういうんじゃないって」
「どうせ優しくしてヤれたらいいなーなんて考えてたんでしょ! いつもそうだよね!」
ヒステリックな怒声に、先輩が大きくため息をつく。私が入ってきたことには二人とも全く気づいていないようだ。
とはいえ、私がよく来る場所に彼女を連れてくる。私に物を与えて気に入らせ、奪い返す。挙句の果てに泥棒呼ばわりを咎めない。ため息をつきたいのはこちらの方だ。
そして、冷たい空気を切り裂く耳障りな声。ねじ曲がった理屈。気味が悪い。怪物以外の何物でもない。
私は怪物どもの元へつかつかと歩み寄ると、何のためらいもなく彼女の頭からニット帽を奪い取った。ぶちぶちぶちっ。髪が数本抜けた。気持ちいい。
「痛っ! な、なに!?」
「なに、はこっちのセリフ」
「ヨシダ! 何を……」
「何を、もこっちのセリフ」
腹が立つ。どうせなら知らないところで私を悪者に仕立て上げて仲直りすればいいのに。私の悪口を並べ立てて二人で悦に入ればいいのに。必要悪、いいでしょう、なりますよ。でもこの怪物どもはそれが最適解だということに気づかず、わざわざこんな場所で痴話喧嘩をする。怪物の怪物たる所以か。
「ヨシダ! こいつね!?」
「ちょ、ちょっと、待て……」
おろおろする先輩。格好悪すぎる。
「こいつ、ねぇ」
「返しなさいよ!」
「返しなさい、ねぇ」
「あたしのよ! 泥棒!」
「泥棒、ねぇ」
「返せ!」
私はニット帽を口に入れ、かじりつき、思い切り歯で噛み締めてから手で引っ張った。ピリッと繊維が千切れる音。静電気の匂いと味。ざらざらの舌触り。小さな唾液の玉がいくつも付いた。折り返しのリブはだらしなく垂れている。
「では返して差し上げます。てめえでかぶってろ!」
私は全力を込めてニット帽を先輩に投げつけ、踵を返すと教務課に向かって歩き出した。二人が何か喚いていたけれど、よく聞き取れなかった。
後日、あのニット帽をかぶった先輩を見かけた。罪滅ぼしのつもりだろうか。
今の部室は、サークルに現れなくなった先輩の話で持ち切りだ。
「闖入者さあ教務課の職員が注意しても騒いでたらしいし」
「うわ何それえぐいわ」
「えぐいっつーかきしょい」
「それな」
「あと自分で作ったものかぶってるとかきもすぎ」
「ほんそれ」
ニーチェなんか大嫌い。
怪物になったところで、やり方などいくらでもあるのだから。




