日常深層 3.
深夜二時。
ネオンの光も届かない、路地裏の湿ったコンクリートを佐竹恭平は這いずるように歩いていた。
乱れた髪、焦点の合わない瞳。かつて学校で後輩を怯えさせていた傲慢な影はどこにもない。
「……どこだ。どこに、いらっしゃるんですか……」
一昨日、公園で味わった絶望と恍惚の余韻が身心の奥底で疼く。
あの「朱い瞳の女神」に踏みつけられた瞬間の記憶が、脳内で無限にリピートされている。
恐怖? 恋? それとも、これが愛なのだろうか?
いや……違う。
それは、人生で初めて味わった『魂の充足』だった。
彼女に跪き、蹂躙されること。それだけが、今の佐竹にとっての唯一の真実になってしまったのだ。
「女神様……どうか、もう一度僕を。僕に……罰を……貴方様の御御足で……」
その時、ふっと夜の空気が冷たく変わった。
路地裏のゴミ溜めに、不自然に輝く「鏡の破片」が落ちていた。佐竹が吸い寄せられるようにその破片を覗き込んだ。
瞬間、湿ったコンクリートの水溜まりが、風もないのに激しく波打ち始めた。呼応するように鏡面も急速に黒く染まり、底なしの闇へと変質していく。
冷ややかで圧倒的な『闇の気配』が近づいてくる。
「ああ……! 感じます……貴方様の波動を!」
やがて鏡の中を、漆黒の影が横切った。黒く染まった鏡の中に、確かに佐竹は見た。
「ああ……ああああ! いらっしゃる! そこに……!」
佐竹が頭上を仰ぎ見る。
ビルの谷間を一陣の黒い風が駆け抜けていく。常人には見えない。だが、マヤという猛毒に脳を焼かれた佐竹には、残像の中に翻る長い黒髪と、冷ややかな一瞥。
漆黒を纏って舞う「女神」の幻影が網膜に鮮烈に焼き付いた。
「待って……行かないでください! 僕も、そちら側へ……!」
佐竹は狂ったように、夜の闇へと駆け出していった。
恍惚の表情を浮かべて……
♢ ♢ ♢
視界が目まぐるしく上下する。
コンクリートの壁を蹴り、重力を嘲笑うかのような跳躍。信也の意識は、激流に飲み込まれた小石のように、マヤの支配する肉体の片隅で翻弄されていた。
(うわ、ああああっ! ちょっと、高すぎるっ! 落ちるって!)
「あらあら、もう気が付いてしまいまして?」
(そりゃぁ、気が付きますよ。こんなに体を乱暴に扱っていれば、どんなに寝起きの悪い人だって、一発で起きますって!)
「喧しいですわね。少しは黙って景色を楽しみなさいな」
ビルの屋上の縁に、音もなく着地する。信也の肉体は今、鬼気によって再構築され、しなやかで強靭な「マヤ」の姿へと変貌していた。
風にたなびく漆黒の髪。夜の闇を射抜く朱い瞳。
マヤは不機嫌そうに、自分自身の右手を眺めた。闇に浮かび上がる白い指先。だが、彼女の意識には、それが「濁った鈍な刃」のように見えていた。
何かが記憶の彼方でチラつく感触を味わう。
「……やはり、足りないわ」
(え……? 何が?)
信也の問いに、マヤは答えなかった。
彼女の胸の奥をチリチリと焼く、形のない焦燥。自分は「何者」なのか? なぜわたくしは……なぜ今、こうして「人間(信也)」などという不自由な器を借りているのか。
分らない……かつて自分は何であったのか。
血を渇望するような衝動はない。でも「何か」があったはず。その光景、その手応え。それが、どうしても思い出せない。
一つはっきりしていることがある。
……わたくしは「鬼」である。この鬼気を見れば疑いようもない。
だが、角はない。しっくりこない。
断片的ではあるが、わたくしは鬼を斬っていたはず。数多の鬼の返り血を浴びていたような――。
「わたくしを、わたくし足らしめる『核』……。記憶の片隅にある、あの雷光にも似た煌めきの刹那、それさえも霧の向こう……。ああ、忌々しい!」
苛立ちに任せ、マヤが屋上の貯水タンクに触れた。
グシャッ!
一瞬。鬼気が爆ぜ、分厚い鋼鉄が「獣に噛みちぎられた」かのように無惨に捻じ曲がった。
(ひっ……! マ、マヤさん、落ち着いて!)
「ふん。小作人の分際で、わたくしに意見なさるの? お黙りなさい! 心を覗こうなどと、身の程を知りなさい」
マヤはピシャリと冷たく言い放つと、再び夜の街を見下ろした。遠く、路地裏で「駄犬」が自分を呼ぶ声が微かに響いた。
「……ふふ。少し、毒を充てすぎましたかしら? まあ、多少の雑音も慣れれば気になりませんわ。……今日は気分が乗りません。少し、人里離れた山へ行きましょうか」
不敵な笑みを浮かべると身を翻し、真の夜は深淵に溶け込み、山間部の高原を目指し風のように跳んだ。
背後から、漆黒。闇の風が五方向より迫っていることなど、まだ気づかぬままに。
♢ ♢ ♢
翌朝、僕は案の定、酷い寝不足のまま登校した。
明け方の帰宅。全身を軋ませる奇妙な鈍痛が僕から眠りをさらに奪ったのだ。
「……おはよう、信也。……って、うわっ! めっちゃ、顔色悪いよっ!」
昇降口で僕を待ち構えていた美咲ちゃんが、僕の顔を見て悲鳴に近い声を上げた。
「……おはよう、美咲ちゃん。ちょっと、引っ越しの片付けで遅くなって……」
「引っ越し? ああ、荻原さんから聞いたよ。一人部屋に移ったんだってね。でも、あんまり無理しちゃダメだぞ?」
美咲ちゃんは心配そうに僕の肩を叩いた。
落ち着くどころか、同居人が冷酷な妖で、昨夜はこの体を書き換えられて街を飛び回っていたんだ……とは口が裂けても言えない。
正直に言うと記憶は混濁している。意識の底には、現実だか夢だか分からない光景を見たような……戦慄の残滓が感触としてこびりついている。
――何だろう……何を見たんだ僕は?
マヤさんが中にいるせいで、僕の感覚は壊れてしまったんだろうか?
……心の奥底に、暗い影が生まれ落ちた気がした。
「それより、聞いた? 佐竹先輩のこと」
美咲ちゃんが声を潜めて、周囲を伺いながら言った。
「佐竹先輩? ……また無断欠席?」
「そんなレベルじゃないわよ。自宅の部屋に引きこもって、ずっと何かを呟いてるんですって。『朱い瞳の女神様、どうかもう一度僕を踏んでください』……とか。そうだ! それだけじゃないの。昨夜、街のあちこちで『巨大な獣に噛みちぎられたような貯水タンク』が見つかったとかで、警察も動いてるらしくて……」
都市伝説好きの美咲ちゃんは、頬を紅潮させて謎の獣の話に夢中だ。
「…………」
僕は激しい目眩を感じた。
マヤが昨夜しでかした「痕跡」が、着実に日常を壊し始めている。
(くすくす……。あの駄犬、随分と素直に躾けられましたわね。小作人、あなたもアレを見習ってはいかが?)
脳内に直接響く、マヤの楽しげな声。僕はそれを必死に無視して、自分の教室へと急いだ。
平和な日常。
守りたかったはずの景色。
けれど、僕の周囲では、マヤという「毒」が少しずつ、そして着実に世界を侵食し始めている。
僕は、この狭間でどう生きていけばいいんだろう?
初夏の青空を仰いだ。
どこまでも青く澄んだ空だ。
その爽やかな景色が、今の僕には残酷なほどに恨めしい。
……まったく、とんでもない事になってきてしまった……。




