日常深層 2.
二十二時三十分。
バイトを終えて施設『あおぞら園』に帰宅した僕は、真っ先に園長室のドアを叩いた。
普段なら消灯時間を過ぎて怒られるところだけど、今日は自分から「話がある」と伝えてあった。
「入りなさい、信也君」
重厚な木製のドアの向こうから、荻原詩織さんの穏やかな声がした。
部屋に入ると、詩織さんは老眼鏡を外し、デスクの上の書類を片付けた。彼女は僕にとって、育ての親であり、最も信頼できる大人だ。
……だからこそ、マヤさんの存在だけは、絶対に言えなかった。
「……荻原さん、相談があるんです。実はその……あの……夢遊病みたいなんです僕は……」
「ええ、朝も電話で話した時も……もしかしたらって。……最近、特にひどくなっているみたいじゃない」
詩織さんの瞳に、母親のような深い懸念が宿る。
「信也君は憶えていないかもしれないけど、君は小さい頃によく施設内を夜中に徘徊する事があったのよ」
えっ⁈ 全然覚えていない……いつの頃?
……背筋に冷たいものが走った。僕の知らない僕が、昔からいた?
詩織さんの思わぬ告白に僕は何が何だか分からなくなってきた……
「小さい頃……夜中に徘徊……?」
僕の呟きに詩織さんが頷くと真剣な面持ちで見た。
「だからね、もしかしたら今君に当時のような症状が現れてるんじゃないかと心配していたのよ」
そんな事があったんだ……それもマヤさんに関係あるのかな?
いや、今はマヤさんとの共同生活の方がヤバい……とにかく、ここは何とか誤魔化して乗り切るしかない。僕は嘘を吐く罪悪感に胸を痛めながら、必死に言葉を絞り出した。
「――はい。夜中に自分がどこを歩いているか分からなくて……怖くなって。それで、あの……もし可能なら、部屋を一人部屋に変えてもらえないでしょうか」
僕は視線を落とした。
「……同室のやつに、変な姿を見られたくないんです。もし、夜中に僕が暴れたり、叫んだりして……あいつに迷惑をかけたらって思うと、余計にストレスで眠れなくて」
これは半分は本音だった。マヤさんとの「脳内会話」をうっかり口に出して、精神病だと思われるのだけは避けたかった。
「……分かったわ」
詩織さんは意外にも、あっさりと頷いた。
「実は、私も同じことを考えていたの。あなたの『症状』――いえ、夢遊病が周囲に知られて、あなたが孤立することを避けたかった。ちょうど、離れにある旧館の予備室が空いているわ。あそこなら、少しくらい騒いでも聞こえないわよ」
「本当ですか!? ありがとうございます!」
憧れの一人部屋。プライバシーが守られる、僕だけの城。
本来なら飛び上がって喜ぶところだけど、心臓の奥には、鉛のような重みが居座っていた。
(……くすくす。良かったわね、小作人。これで、わたくしと二人きりの時間がたっぷりと取れますわよ)
脳内で響く、あの高笑い。
「――これで、しばらくは様子を見ましょう……信也君? どうしたの、顔色が悪いわよ」
「あ、いえ! 嬉しいです、本当に。……明日、荷物を移します」
詩織さんにお礼を言い、鍵を受け取って部屋を出た。
廊下を歩きながら、僕は心の中でマヤさんに毒づいた。
『……あなたのせいで、僕は嘘つきになってしまった。責任、取ってくださいよ』
(責任? あら、わたくしはあなたの精神衛生を守って差し上げたのです。感謝こそされ、責められる筋合いはありませんわ)
旧館の隅にある「特別室」。
埃っぽい廊下の突き当たりにあるその部屋のドアを開けると、そこには案の定――。
微かに街灯の明かりが差し込む窓際に、彼女がいた。
……歳の頃合いは僕と同じくらいだろうか?
昨夜のゴスロリ衣装のまま、宙に浮くようにして古びた椅子に座り、つまらなそうに脚を組んでいる。
「遅かったわね。それで……わたくしのプリンは?」
美しすぎる魔怪が、子供のような理不尽さで僕を睨みつけた。
僕の「一人部屋の夢」は、叶った瞬間に、マヤという名の災厄に占拠されたのだ。
僕はレジ袋から、バイトの帰りにコンビニで買った『とろける極上プリン(120円)』を取り出した。
「……はい。約束のプリンです」
「あら、随分と安上がりな供物ですわね。もっと金の装飾が施されたような、高貴な器に入ったものはないの?」
「100円ちょっとのプリンに高貴さなんて求めないでください。これでも僕にとっては貴重な栄養源なんですから」
僕はため息をつきながら、備え付けのプラスチックのスプーンを添えて差し出した。
すると、どうだろう。
マヤが指先をスッと動かすと、僕の手からプリンがふわりと浮き上がり、彼女の手元へと吸い込まれていった。
微かに黒い影のようなものが見えたような、見えなかったような……気のせいだろう。
「……ふむ。蓋を開けるのも一苦労ですわね。この『つまみ』というものは、わたくしへの挑戦かしら?」
「……開けますよ、もう」
僕が言うより早く、マヤさんが突然眼前に現れた。
いや、「現れた」のではない。空間そのものが歪んだような圧迫感。
「!? な、何ですかっ!」
あまりの事に堪らず声を上げて、尻餅をついた。
「やはり下僕が居なくては、困りますのよ」
朱い瞳がジッと僕を見下ろしている。その瞳の奥で、何かが「起動」する音が聞こえた気がした。
「先ほども食してみたのだけれど、”意識体”では”鬼気”を使っても上手く『味わえない』のですわ。……やはり、器ごと書き換えなくては」
”意識体”、”鬼気”?
器を書き換える……?
僕がポカンと口を開けて見上げていると、マヤさんの朱い瞳がさらに深紅に染まり、彼女の姿が黒い霧となって弾けた。
ドロリとした闇が、僕の全身に覆い被さる。
熱い。
全身の骨が、筋肉が、細胞の一つ一つが、無理やり別の形に捏ねくり回されるような感覚。
痛覚を超えた変質の衝撃に、僕は声を出す間もなく意識が飛んだ。
……。
…………。
だんだん視界が戻ってくる。
視界の位置が、さっきより低い?
甘い。
口の中に、濃厚な卵の風味と、カラメルのほろ苦さが広がる。
あれ? 僕は何か食べてる……?
目の前のプリンにスプーンを走らせ、僕は上品に食している。
自分の意思じゃない。指先が勝手に動き、唇がプリンを迎え入れる。
「……悪くありませんわ。この、舌の上でとろけるような……それでいて底にある苦い液体との調和。小作人の食べ物にしては、よく練られていますわね」
僕の喉が震え、僕ではない「女の声」が響いた。
……夜中の静かな個室。
誰かがプリンを食べている。
その視界は、確かに僕のものだ。味覚も、喉を通る冷たさも感じる。
けれど、視界の端に映る「自分の手」がおかしい。
白く、陶器のように滑らかで、華奢な指先。
手首には、見覚えのない黒いレースの袖口に白いフリル?
(……なんだ、これ……?)
僕の体はどうなった?
身体の触覚がマヒしているようで、どこからどこまでが「僕(狭間信也)」なのか分からない。
世界との境界線が溶け出し、別の形に凝固してしまったような……。
(何だこりゃあ!)
僕は素っ頓狂な声を上げたつもりだけど、喉は動かなかった。声は、頭の中だけで虚しく反響する。
「あら、お目覚めになったのですわね。ごきげんよう」
僕の口が勝手に動き、マヤの言葉を紡ぐ。
(何がどうなっているんだ!?)
僕の困惑を聞いたマヤが、僕の唇を使って「うふふ」と笑った。
「こういう事ですのよ」
マヤは――いや、マヤに作り変えられた僕の体は、部屋の片隅にあった扉ほどの姿見の前に立った。
鏡の中に映っていたのは、狭間信也ではない。
漆黒のストレートロングヘア―に赤いリボン。
白いフリルが目に付く黒いゴスロリのワンピース。
スカートから伸びる、黒い編み上げのロングブーツ。
間違いなく、さっきまで僕の目の前にいた「マヤ」が、鏡の中に立っていた。
そして、その妖しく光る朱い瞳の奥で怯えているのは、僕の知っている『僕』だけの意識を宿した、抗う事の出来ない『僕自身』だった。
(!? な、何で僕が”マヤさん”になってるんだ!?)
「小作人が驚くのも無理ないですわね。わたくしはあなたで、あなたはわたくしですのよ。理解出来まして?」
いや! 理解できない!!
「一度しか言いませんことよ。もう同じことは言いませんわ」
僕の思念を読み取ったマヤは、鏡の中の美しい少女(自分自身)に向かって気怠そうに言った。
「これが『顕現』。あなたの肉体という粘土(材料)を使って、わたくしという形を焼き上げたのです。……さあ、素敵な夜はこれからですわ」
わたくし――マヤは、食べ終えたプリンの容器を机に置くと、姿見に向かって手を差し出した。
「いざ、真なる夜へ」
わたくしの指先から放たれた仄暗い鬼気が鏡面に触れると、ガラスは水面のように波打ち、外へと繋がる扉として開いた。
鏡の向こうには、壁があるはずなのに、今は眼下に広がる夜の街並みが見える。これもまた、物質を書き換える力の一端だろうか。
(そんなところに扉なんてなかった筈ですよ!)
信也の声が、わたくしの内側で騒がしく響く。
「今、わたくしが鬼気を充てて空間を繋げたのですわ……小作人が後で、抜け出した痕跡で咎められないよう、わたくしが配慮して差し上げたんですのよ」
わたくしはその鏡の縁に足をかけると、そのまま夜空へと身を躍らせた。
風がスカートを翻す。
瞬き一つの間に、煌めく街の灯りが足元に広がった。
(うわあああああっ!? 落ちるっ、死ぬっ!!)
誰かさんはわたくしの中で悲鳴を上げていますの……興が覚めますわね。
「少しの間、お眠りなさいな」
その言葉とともに、信也の意識は黒い霧に飲まれるように、深い眠りへと落ちていった。




