日常深層 1.
「……はぁ。また、怒鳴られちゃったな」
換気扇が唸りを上げ、鼻孔をくすぐる焦がしネギ油の香り。そして、寸胴から立ち上がる濃密な豚骨の湯気。
放課後のラーメン屋『麺屋 烈火』の厨房で、僕はいつものように、店主である村上のオヤジさん(大将)にカミナリを落とされていた。
時刻は十八時を回り、ピークタイムの忙しさが波のように押し寄せてくる。今日は生憎バイトの佐竹先輩が休みで、ホールは僕と水木さんの二人だけで回さなければならない。
どうやら、無断欠勤のようだ。
佐竹先輩が欠勤なんて珍しい。学校でも、僕を目の敵にしていたはずの先輩が、なぜか今日まで欠席を続けているらしい。いつもなら「おい狭間、ジュース買ってこいよ」と理不尽に絡んでくるはずの姿がない。一昨日はあんなに元気よく僕に嫌味を言っていたのに。
……なんだろう、この違和感は。
嫌な先輩がいなくて快適なバイトライフのはずだ。なのに、なぜか背筋が寒くなるような静けさを感じる。日常の一部が、音もなくすっぽりと欠け落ちてしまったような、得体の知れない不安。
僕は首を振り、その不安を振り払うように仕事に集中した。
目が回るような忙しさだ。でも、不思議と嫌じゃない。むしろ、こうして体を動かしている間だけは、あの得体の知れない「震え」を忘れられる気がするからだ。
――そう、一昨日のことだ。
バイト帰りの夜道で起きた、あの恐怖体験。あれは夢だったんだろうか? 気がついたら施設の自室で朝を迎えていた。同室のやつは「お前、夜中に幽霊みたいに静かに帰ってきたぞ」と言っていたけれど、僕にはその記憶がごっそりと抜け落ちている。
自分が自分でなくなってしまうような、足元が崩れる感覚。
そんなことを考えていると、店内の喧騒がふっと遠のき、耳の奥で鋭い金属音が鳴った。
キーン……。
(聞こえて? わたくしの声が)
脳髄に直接響く、凛とした、けれど有無を言わせぬ女性の声。
……まただ。やっぱり、悪夢じゃなかった。
(わたくしが親切にも、朝帰りにならないよう体を運んで差し上げたのです。感謝なさい?)
日が落ちてから――つまり「夜」が近づくと、彼女の声はより鮮明になる。まるで、僕の頭の中に住み着いているみたいに。
『今は仕事中なんです。あんまり話しかけないでくれませんか……マヤさん』
僕は心の中で、恐る恐る返事をしてみた。
(つれないこと。ですが、あなたのような小作人は、泥にまみれて働かねば飢えてしまいますものね……おかわいそうに)
まったくもって、ひどい言い草だ。 僕はため息をついた。
昨夜、自室のベッドで寝ていた僕を叩き起こし、とんでもない美貌と高飛車な態度で『わたくしを楽しませなさい』と迫ってきた謎の少女。
名を、マヤと言った。
『真の夜』と書いてマヤ、らしい。
僕が名前を聞いたら、『まあ、無粋な方ですわね。まずは殿方が先に名乗るのが礼儀ですわ』と言い放ち、名乗ったら名乗ったで『わたくし知ってましてよ』とからかわれた。
正直、苦手なタイプだ。
『……それで、何の用ですか?』
(そうですわね……用というか、報告かしら。わたくし、今あなたの居室にいますの)
「ハアッ!?」
思わず、素っ頓狂な声が口から漏れた。
「おい信也! どこから声出してやがる! 客が待ってんだ、さっさと三番テーブルに『特製』持っていけ!」
「わ、わかってますよ! 今行きますから!」
大将の野太い怒声に背中を叩かれ、僕は慌ててどんぶりを運ぶ。
いつもの、平和で騒がしいバイト風景。
大将は厳しいけれど、こうして僕を叱ってくれること自体が、僕がまだ「こっち側の世界」にいる証のような気がして、少しだけ救われる。
「はい、お待たせしました……特製、一丁です」
どんぶりを置くと、隣でテキパキと注文を取っていたバイトの先輩、水木純子さんが、僕の顔を覗き込んでクスクスと笑った。
「ふふっ、信也くん、また大将に怒られちゃった? 大丈夫、後で賄に味玉一個おまけしてあげるから」
「……ありがとうございます、水木さん。水木さんだけですよ、僕の味方は」
水木さんの涼やかで優しい笑顔に、張り詰めていた心がふっと緩む。
彼女の存在こそが、この世界がまだ「正常」であることを証明してくれているようだ。
僕は、この場所を守りたい。大将の怒鳴り声も、水木さんの笑顔も、全部。けれど、ふとした瞬間に脳裏をよぎる。あの公園で見た、マヤさんの『朱い瞳』。
あれは幻覚なんかじゃない。そして今、彼女は僕の思考を完全に傍受している。まるで、逃げ場のない監視カメラだ。
これって、いわゆる憑依? それとも精神感応? ……いや、そんな生易しいものじゃない。もっと根本的な、逃れられない「鎖」で繋がれているような感覚がある。なぜだろう?
そう考えると背筋が冷たくなる。
『……施設の、僕の部屋にいるんですか?』
厨房に戻り、食洗機に皿を入れながら心の中で問う。こんなに離れているのに、距離なんて関係ないと言わんばかりのクリアな声。
(ええ。あなたの部屋、少々カビ臭くてよ? まったく、掃除が行き届いていないこと)
『勝手に入らないでくださいよ……! それで、何をしてるんですか』
僕にとり憑いているんじゃないのか?
別行動ができるのか?
疑問は尽きないが、彼女には「何でもあり」なのだろうと考えるのを諦めた。
(冷蔵庫にあった、この黄色いプルプルした物体……プリン、と言ったかしら。これを所望します)
『……は?』
僕はまた、変な声を出しそうになって口を押さえた。
(食後の甘味として頂こうかと思って。わたくしの糧になるのだから、光栄に思いなさい?)
食後? 食後ってなんだ?
あの「美しきお化け」が、僕の狭い部屋で、コンビニの百円プリンを狙っている?
『……同室の者はいるんですか?』
(あら、居てもいなくても、わたくしのプリンには何の関係もありませんことよ)
さも当然の如く、女王様は言い放つ。
『……見られない様にしてください』
はぁ……気分が滅入ってくる。
(あら、不愉快ですわね……まあ、いいでしょう。わたくしの姿は見えないと思いますわ)
『いえ、冷蔵庫が勝手に開いてプリンが虚空で食べられている光景はホラーなので……』
(わたくし、こっそり食べるのは上手ですのよ?)
心なしか、マヤさんの声が弾んでいる。
ああ、僕の日常が……。学校では幼馴染の美咲ちゃんに「最近おかしい」と怪しまれ、施設では園長の詩織さんに「悩みがあるなら言いなさい」と心配され、必死に守ってきた僕のささやかな生活が、音を立てて崩れていく。
『……好きにしてください』
僕はガックリと項垂れた。胃がキリキリと痛む。
守りたい。この日常を、なんとしてでも守りたいのに……はぁ。
――とても、みんなには言えない。僕の部屋に、あの「美しきお化け」が居座って、勝手に冷蔵庫のプリンを食べているなんて――。
(小作人。追加でもう一つ所望いたしますわ? さあ、献上なさい。よろしくって?)
ラーメン店の喧騒の中、僕の頭に響いたマヤさんの声。
帰りにコンビニに寄る用事が出来てしまった。




