反転鏡面 4.
シャー!
高速回転する軽快なホイール音が夜の静寂を切り裂く。佐竹恭平の駆るチェレステカラーのロードバイクが、駅前の交差点から住宅街の暗がりへと滑り込んでいく。
「今日も疲れたな……それにしても狭間のヤツ」
佐竹はバイト中、何度も足をもつれさせていた信也の動きを思い出し、鼻を鳴らした。
「アイツ……本当にとろい奴だ。ああいう奴見てると、無性にイジリ倒したくなっちまう」
佐竹は吐き捨てるように言った。自分はできる男だ。バスケで鍛えた反射神経も、要領の良さもある。それに比べてあいつは、見ていてイライラするほどに鈍臭い。
キイィッ!
ロードバイクの油圧ディスクブレーキが鳴り、静かな住宅街の赤信号で停止した。深夜の交差点。車通りは皆無だ。
佐竹は気分転換にと、腰のポーチからワイヤレスイヤホンを取り出して耳に押し込んだ。
スマホをタップ。
脳内に重低音のメタルサウンドが炸裂する。
(これだよこれ。バイトの鬱憤を晴らすには、爆音に限る)
佐竹は信号待ちの間、リズムに合わせて激しく頭を振った。ヘドバン気味に没入する。俺、今超ロックだぜ。
『ちょっと、そこのあなた……聞こえていますの?』
突然、メタルの轟音を突き破り、脳の芯に直接響くような女の声がした。
「うおっ!?」
佐竹は驚きのあまりバランスを崩し、派手に自転車ごと横転した。ガシャーン!とロードバイクの高いフレームが悲鳴を上げる。
「な、何だ!?」
慌ててイヤホンをむしり取り、周囲を見回す。誰もいない。
「まあ、驚かせてしまったのかしら? うふふ」
今度は普通に、鼓膜を震わせる「肉声」として聞こえた。鈴を転がすような、しかしどこか冷え冷えとした声音。
「……誰だ?」
「ここですわよ。ここ」
声の方角、頭上を見上げる。
「はあぁっ!?」
情けない素っ頓狂な声が漏れた。
住宅街のブロック塀の上。そこに、闇夜から切り取ったようなゴスロリ姿の少女が立っていた。重力を無視したような立ち姿で、佐竹を見下ろしている。
「まあ、随分と間抜けな顔をなさるのね。わたくし面白くってよ」
少女がクスクスと笑うと同時に、信号が青に変わった。佐竹の脳内で警鐘が鳴り響く。
(ヤバい! こいつは関わっちゃいけねえ!)
本能が告げている。この女は「イカレている」と。
こんな真夜中に塀の上から話しかけてくるゴスロリ女なんて、都市伝説の怪異か、頭のネジがぶっ飛んだ危ない奴に決まっている!
佐竹は即座に愛機のペダルを全力で踏み抜いた。
「うおおおおおっ!」
ダンシング(立ち漕ぎ)で加速する。ロードバイクの性能を限界まで引き出し、夜道を疾走する。
逃げろ、逃げろ、逃げろ!
どれほど走っただろうか。心臓が破裂しそうなほど脈打ち、呼吸が荒くなる。前方に見覚えのある、明るい街灯の公園が見えてきた。
「はぁ、はぁ……ここまで来れば……」
佐竹はスーッと公園に滑り込み、乱暴にブレーキをかけた。
「怖えー……何だよありゃ? お化けかよ……」
夏も近いとはいえ、怪談にしてはリアルすぎる。
だが、喉元過ぎればなんとやら。恐怖が引くと同時に、佐竹の中に「承認欲求」が鎌首をもたげた。
震える手でスマホを取り出す。
(今のネタ、SNSに上げればバズるんじゃね?)
「ねえ、わたくしが声をかけて差し上げたのに、挨拶もなしに走り去るなんて……マナーがなっていませんこと?」
心臓が止まるかと思った。
佐竹がスマホを覗き込んでいる、その画面のすぐ横から、先ほどの少女が顔を覗き込んでいたのだ。
「う、うわあああああ!!」
佐竹は悲鳴を上げ、再び自転車ごと無様にひっくり返った。本日二度目の転倒。
少女はそんな佐竹など意に介さず、頭の朱いリボンを整えながら、ゴミを見るような目で見下ろしている。
「何なんだよお前は!」
佐竹は腰を抜かしたまま叫んだ。
街灯の下で見る少女の姿は、異様で、そして美しかった。透き通る陶器のような滑らかで白い肌と、艶やかに流れる長い黒髪。スレンダーな肢体を包むのは、フリルの多い黒いドレスと編み上げのロングブーツ。 身長は160センチ前後か。その幼い容姿とは裏腹に、朱い瞳には数百年の時を経た魔物が棲んでいるような、底知れぬ妖艶さが宿っている。
ゴクリ。
恐怖と同時に、佐竹は目を奪われた。あまりにも現実離れした美しさ。
「呆れますわね。そのような無様な姿で、わたくしに劣情を抱くのですか?」
少女は冷たく言い放った。その視線は、道端の汚物を見るそれだ。
「まるで盛りのついた犬ね。身の程をわきまえなさい……『伏せ』をなさいな」
少女の体から、どす黒い霧のようなオーラが噴き出した。朱い瞳が、暗闇の中でカッと輝く。
ズドンッ!!
「がはっ!!」
見えない巨大なハンマーで殴られたかのように、佐竹の上半身が地面に叩きつけられた。顎が砕けそうな勢いで土にめり込む。
「ねえ……あなた何でわたくしに辛く当たるのかしら?」
少女が不思議そうに首を傾げた。
(は? 何言ってんだコイツ……辛いのは俺だぞ!)
「な……な、何言ってんだ……よ? この貧乳……おん、な……ぐあっ!?」
禁句を口にした瞬間、後頭部に凄まじい圧力が加わった。少女の編み上げブーツのつま先が、佐竹の頭蓋骨をグリグリと踏みつけているのだ。
「あら、わたくしの許可なく”駄犬”が勝手に喋ってはいけなくてよ」
少女は腕を組み、冷酷に言い放つ。
「……く、くそ……」
「わたくしに踏まれるなんて、ご褒美よ。誉と思いなさい」
その言葉と共に、周囲の空気がねっとりと重苦しく変質し始めた。
「……あまり騒ぐと、おこぼれを欲しがる”羽虫(魑魅魍魎)”が集まって来てしまいますわね」
少女の言葉通り、闇の奥から「カサカサ」「ズルズル」という不快な音が無数に聞こえ始めた。腐った泥のような、強烈な腐臭が鼻をつく。
佐竹が必死に目だけを動かすと、視界の端を異形のものが横切った。犬のような、ネズミのような……あるいは腐乱した赤子のような。この世の生物ではない、おぞましい化け物たちが、這いずり回っている。
「う、うわあ!」
本能的な恐怖に、佐竹は半泣きで後ずさろうとするが、頭上の足がそれを許さない。
ズキッ!!
「ぎゃあああっ!!」
左のふくらはぎに激痛が走った。 見れば、カエルのような、しかし牙の生えた奇怪な化け物が、佐竹の肉に食らいついている。
「うわあああああ! 痛ぇ! 痛ぇえええ!」
一匹が噛みついたのを合図に、無数の小さな化け物が佐竹に群がった。腕、胴体、耳……全身を食い荒らされる激痛と恐怖が佐竹を襲う。
(食われる! 俺は生きたまま食われるのか!? 嫌だ! 助けてくれ!)
「ふん……不快ですわね」
少女は鬱陶しそうにため息をつくと、優雅に黒髪を払った。 その動作一つが、世界の理を書き換えるトリガーとなった。
『消えなさい』
ゴオウッ!!
言葉の代わりに放たれたのは、漆黒の暴風だった。少女を中心に渦巻いた黒い殺気が、物理的な刃となって炸裂する。佐竹に群がっていた魑魅魍魎たちは、悲鳴を上げる間もなく一瞬で微塵切りにされ、黒い霧となって消滅した。
さらに黒い刃は竜巻となり、周囲の木々をなぎ倒し、夜空を埋め尽くしていた不浄な気配を根こそぎ吹き飛ばした。
「おごっ!?」
余波で佐竹の顔はさらに地面にめり込んだが、奇跡的に無傷だった。 少女の右足は、未だ佐竹の後頭部をヒールで踏み締めている。まるで玉座の足置きのように。
「これに懲りたら身の程をわきまえて、わたくしにちょっかいを出すのはおよしなさい」
それは佐竹への警告か、それとも消し飛んだ化け物への言葉か。少女はふっと足の力を抜くと、重力など存在しないかのように軽やかに空へ跳躍した。
「そこで朝までお眠りなさい」
夜空に浮かぶ朱い瞳が、妖しく、美しく輝く。
その声には、抗えない強制力(魔力)が込められていた。 佐竹の意識が、急速に泥の中へと沈んでいく。視界がグニャリと歪む。強烈な恐怖と痛みの後なのに、なぜか酩酊にも似た心地よい痺れが全身を包み込んだ。
女神のような、悪魔のような少女が去っていく。
(……なんて、綺麗なんだ……)
トゥンク……。
薄れゆく意識の中で、佐竹は夜空に舞う純白の肌と黒いドレスのコントラストを目に焼き付けながら、わけのわからない高揚感と共に気絶した。




