反転鏡面 3.
「……疲れた……」
重い溜め息が、夜の空気に溶けていく。
バイトが終わり、僕はトボトボと夜道の帰路についていた。
「やっぱり、僕には向かない仕事なのかな?」
知らず、口から弱音が漏れる。
駅前の繁華街から遠ざかるにつれて、辺りが静寂に包まれ、闇が濃くなっていく。まるで、僕を暗闇の世界へ誘うような夜の気配だ。
22時を過ぎて人通りが消えたせいもあるだろうが、今日の帰り道には、いつも以上の「前途多難」な空気が漂っていた。
歩きながら、今日の仕事を振り返る。
佐竹先輩の言う通り、僕が入ると回転率が落ちるんだろうか……
店主の村上さんはそんな事は言わないけれど……心配だ。「次回からは気を付けよう!」と勇んで行っても、結局やる気が空回りする。
ラーメンをこぼし。コップをひっくり返し。挙句は厨房のどんぶりをまとめて八枚も割ってしまった。
大将(店主)の村上さんからの大目玉は当たり前。佐竹先輩には指を差され、「どんぶり八枚割りとか、お前は空手家かよ!」なんて爆笑される始末だ。
その日、優しい水木さんはシフトに入っていなかった。代わりにいたのは、後輩の高木瑠璃さん。
まだ高校生になったばかりの十五歳の女の子に、「うわぁ……」みたいな目で見られた時。僕は情けなさで、泣きそうになってしまった。
僕はどうしたいんだ……いや、どうなりたいのか。考えれば考える程、思考が泥沼にはまっていく。
記憶障害の件。
夢遊病の不安。
それらが脳裏で鎌首を持ち上げてくる。色々な事が重なって、視界が狭くなる。どうしたらいいんだろう……。
ふと、目の前が真っ暗になった気がした。
あれ? なんかいつもより暗すぎないか、この道?
キーンッ!
強烈な耳鳴りが僕を襲った。
突然、世界の音が消えた。
あれ? 何だこれ……変な感じ……
まるで、水の底に叩き込まれたような静寂が僕を包んだ。
前方に微かに白い……いや、青白い何かが……人だ!
人の形をした何か……女の人?
頬を冷たい風がなでる。
……辺りの気温が急に下がったようだ?
前方十メートル程の所に、はっきりとは見えないけれど、髪の長い……黒い洋服の女性が立っている。いや、歩いているのか?
浮かんでは消え、浮かんでは消えながら、ユラリと僕に迫ってくる!
「あ、あ……ええええええ!!!」
喉から悲鳴が迸った。
あ、あれって、ゆ、幽霊!? 冗談じゃないよ! こんな物まで見えてしまったら、本当に僕の頭が壊れてしまったって事じゃないか!?
「う、うわああああ!」
僕は暗い住宅街を、引き返すように走り出していた。
(……あ…おま…な…く…ない…ら……)
脳内に直接、ノイズのような何かが響いた気がしたが、今の僕には判別できなかった。
疲れた体に鞭打ち、逃げるように飛び込んだのは、住宅街にある公園だった。 小さいが、よく整備されている場所だ。
街灯の多さに安堵し、自動販売機で温かいミルクティーを買うと、ベンチに崩れ落ちるように座り込んだ。
「……甘い」
ミルクティーの糖分と温かさに、ようやく人心地ついた。一口飲み込み、夜空を見上げる。
ああ、平和だ。お化けなんて、いるわけがない。
うん。気のせいに違いない!
「ふう、驚いた。まだ心臓がドキドキしている」
そんな独り言を呟きながら、先程の自分の醜態を思い出して顔が熱くなる。
「なんと言うか、我ながら恥ずかしい事をしてしまった……」
誤魔化すように、僕は口の中に温かいミルクティーを流し込んだ。
『本当には恥ずかしいわね。あなた……』
突然。 しかもはっきりと明瞭な女性の声が、右側から聞こえた。
「ぶぶーっ!」
僕は口に含んでいたミルクティーを盛大に吹き出した。
「げほ、げほっ、げほっ……」
咳き込みながら、声のした方向を無意識に見る。
誰もいない?
「な、何だぁ?」
『あら、こっちよ』
今度は左側から声がした。僕は弾かれたようにベンチから飛び退き、左を見た。間違いなく”肉声”だったからだ。しかし、そこにも人はいない。
『ここにおりますわよ』
今度は、背後から。明らかに僕をからかうような、”クスクス”という笑いを含んだ声。
恐る恐る振り返ると――。僕の目の前に、逆さまにぶら下がるようにして「それ」は現れた。
鼻先が触れ合うほどの至近距離。闇夜を切り裂くような、鮮烈な朱い瞳。その唇が、三日月のように歪む。
「う、うわあああああああああ!」
絶叫し、僕は無様に腰を抜かした。
「ガウッ! ガウガウガウッ!!」
呼応するように、狂ったような犬の咆哮が響く。見れば、散歩中のゴールデンレトリバーが、僕の背後の虚空に向かって牙を剥き出しにしていた。リードを持つジャージ姿の主婦が、必死に犬を抑え込んでいる。
「た、助けて下さい! お化けが!」
僕は涙目で叫び、朱い目の女を指差した。だが、主婦は僕を気味悪そうに見るだけだ。
「やだもう、行くよベス!」
主婦は僕を一瞥もしようとせず、何かに怯えて吼え続ける犬を引きずって去っていった。
犬には見えている? でも、主婦には見えていない。じゃあ、僕の目の前で優雅に微笑んでいる、このゴスロリ風の美少女はなんだ?
「へ? なんで? ここに居るんですっ!」
僕は必死に指差しながら叫んだ。
朱いリボンにゴスロリ?風な美少女……瞳が妖しく光る。
編み上げのロングブーツ……あ、脚があるから幽霊じゃないのか?
『ふふふ、彼女にはわたくしが見えませんのよ』
とても面白そうに、朱い瞳の少女は言った。
は? 見えない……何で僕には見えるの? 幻覚? いや、違う。この圧倒的な圧迫感は、現実だ。
ついに壊れてしまったの? 僕は半狂乱になりかかっていた。
ぜい、ぜい……ぜい。呼吸が上手く出来ない……た、すけて。酸素が入ってこない。視界が白く明滅する。
『まあ、この程度で過呼吸なの? なんて脆弱な生き物なのかしら』
薄れゆく意識の中で、美しい少女が僕の顔を覗き込んでいた。恐怖なのに、見惚れてしまうほどに彼女は綺麗で美しい。
『せっかく今日、初めてお話が出来たのに残念ですわね』
何か言っているけど、僕はもうよく聞こえない。
『さあ、これからはわたくしの時間ですのよ』
妖しく朱い瞳が笑った。徐々に少女の輪郭が薄くなっていく。
「うふふふふ、”真”の”夜”の”刻”ですわ。存分に楽しませて頂きますわよ」
少女の声が聞こえた。いや、僕が喋った……そんな気がした。
朱い瞳が、僕の意識を飲み込む。
世界が、反転した。




