反転鏡面 2.
「いらっしゃいませぇーっ!!」
野太い声が店内に響き渡る。僕のバイト先である『麺屋・烈火』は、深夜23時まで営業している駅前でも屈指の人気店だ。豚骨醤油の濃厚な匂い、充満する湯気、そして食器がぶつかり合う音。ここは僕のようなヒョロガリには似つかわしくない、まさに戦場だ。
「3番テーブル、ラーメン二丁上がり! おい狭間、さっさと運べ!」
「は、はいっ!」
厨房の奥から、店主の村上が怒声が飛んでくる。四十半ばくらいで強面の店主村上は、味にはうるさいが根は悪い人じゃない。ただ、ピークタイムになると鬼軍曹に変貌するのだ。
僕は出来上がったラーメンを火傷しないように慎重に、かつ迅速に足を運ぶ。熱い。重い。そして何より……体が痛い。今朝のベンチでの目覚めから続く謎の筋肉痛が、立っているだけで悲鳴を上げている。太ももが鉛のように重い。
「お待たせいたしました、チャーシュー麺大盛りです」
「おう、サンキュ」
お客さんにスープをこぼさないよう、また指が入らないよう気を付けて提供し、空いたグラスにすかさずお水を注ぐ。
「おい信也! 何トロトロやってんだよ! バッシング(片付け)が追いついてねぇぞ!」
背後からドンと肩をぶつけられた。同じバイト仲間の佐竹恭平さんだ。彼は同じ学校の先輩で中学時代はバスケ部のエースでバリバリの体育会系、色白メガネの僕とは人種が違うのだ。学校では僕をパシリに使う困った人である。
「す、すいません! 直ぐやります」
「ったく、お前が入ると回転率落ちんだよなー。邪魔!」
佐竹先輩は鼻で笑うと、両手にジョッキを抱えて風のように去っていった。……悔しいけど、事実だ。僕は運動神経も鈍いし、要領も悪い。このバイトを始めたのも、そんな自分を変えたかったからなのに。
「狭間くん、焦らなくていいわよ」
ふと、涼やかな声が耳元に届いた。水木純子さんだ。 黒髪を後ろで一つに束ねた、女子大生の先輩。テキパキと作業をこなしながら、僕のフォローに入ってくれる。
「佐竹くんの言うことは気にしないで。狭間くんの接客は丁寧だから、お客さんの評判はいいのよ。ただ、もう少しだけ動線を意識してみて。戻る時にお冷のピッチャーを確認するとか、ね」
「あ、ありがとうございます、水木さん……」
まさにクールビューティー。 忙しい中でも汗一つかいていないように見える。美咲ちゃんが変に勘ぐるのも無理はないくらい綺麗な人だけど、僕にとっては雲の上のお姉さんだ。
「よし、ピークは抜けたな。狭間、厨房入って皿洗い手伝え!」
「はい、大将!」
店主村上の指示で、僕はホールから洗い場へと走った。その時だった。
「――っ!?」
床に落ちていた水滴に足を取られた。さらに悪いことに、襲ってきたのは強烈な太ももの激痛。踏ん張りが効かない。バランスが崩れる。目の前には、積み上げられたコップの山。
終わった……
派手に転んで、店中に音を響かせる。店主の村上さんに怒鳴られ、佐竹先輩に嘲笑される。そんな最悪の未来がスローモーションで見えた、その瞬間。
トンッ。
「……え?」
気付けば僕は、転んでいなかった。いや、転ぶどころか、滑った右足を軸にしてクルリと半回転し、倒れかけた体を最小限の動きで立て直していたのだ。まるで、武道の達人が体捌き(たいさばき)を行うようにだ。
……今、僕、何をしたの?
心臓が早鐘を打っている。運動音痴の僕に、あんな反射神経があるはずがない。足の痛みすら、一瞬だけ忘れていた。
「おい、ボーッとしてんじゃねぇ! 手ェ動かせ!」
「あ、す、すみません!」
店主の村上の声で現実に引き戻された。 僕は慌てて食洗器に向かったが、手先が微かに震えていた。今の動きは、僕じゃ、ない? 僕の体が、勝手に動いたような……。
モゾリ……
(ふんっ……無様ね)
頭の芯で、舌打ちが聞こえた。冷たくて、呆れ果てたような女の声。
「え?」
僕は思わず手を止めて周囲を見回した。水木さんは来店の対応をしている。佐竹先輩はホールを奔走中だ。誰も僕に話しかけてなんていない。
今のは……また、幻聴なのか?
「おい狭間! あがりだ。そろそろ22時たぞ。着替えてこい!」
「あ……は、はい。お疲れ様でした」
僕は逃げるように更衣室へと向かった。制服を脱ぎながら、自分の体を見下ろす。気のせいか、腹筋が少しだけ割れているような気がする……錯覚だろうか?
目をこすり、もう一度腹部を見る……いや、まさかね。
昨日の夜、僕はいったい何をしていたんだろう。そして、あの一瞬の動きと、あの声は一体……。
「無様……って言ったのかな?」
誰もいない更衣室で、僕の呟きだけが虚しく響いた。




