剣気凛然 5.
凛は、目の前に置かれた「黄金の聖域」を静かに見つめた。
別皿に分けられた具材たち。そして、一切の不純物を許さず、波紋一つ立てずに澄み渡るスープ。
(……見事。具材を分けることで、出汁の輪郭をここまで鮮明に保存するとは)
凛は箸を置き、まずはレンゲを取った。
淡麗塩の真価は、一口目の「温度」と「塩味のキレ」で決まる。
ゆっくりと、その透き通った液体を唇に運ぶ。
(……っ!?)
触れた瞬間、脳内に真っ白な閃光が走った。
鶏ガラの芳醇なコク、魚介の繊細な旨味。それらが調和を保ったまま、猛烈な熱量を持って喉を駆け抜ける。まるで、研ぎ澄まされた名刀の刃渡りを舌でなぞるような、鋭くも官能的な衝撃。
「……信じられません」
凛の口から、無意識に溜息が漏れた。
脳が、焼ける。
退魔の修行で極限まで高めたはずの五感が、たった一口のスープによって「多幸感」という名の暴力に制圧されていく。
凛の背筋にゾクゾクとした戦慄が走り、その硝子玉のような瞳が、快楽に蕩けそうに潤んだ。
「このスープ……雑味が、微塵も……一ミリも存在しない……」
凛は静かに、しかし確かな「決意」を固めた。
おもむろに立ち上がると、制服のポケットから黒いヘアゴムを取り出した。
そして流れるような所作で、肩口で切り揃えられた艶やかな黒髪をまとめ上げ、後頭部で潔く一つに縛る。
――本気だ。
その瞳に宿ったのは、退魔師としての殺気ではない。一杯の『麺』に心血を注いだ職人の生き様に対する、求道者としての剥き出しの敬意であった。
「……最後の一滴まで、私の魂に刻ませていただきます」
凛は両手でどんぶりを鷲掴みにした。
隣では、拓馬が震える手で箸を動かしていた。
彼が狙いを定めたのは、黄金の「味玉」だ。
「では……行くぞ」
刹那、拓馬が箸で味玉を中央から両断する。
パカッ、という軽妙な音と共に、中から溢れ出したのは――。
ドロリと溢れ出したのは、琥珀の如き輝きを放つ、芳醇にして濃厚な「至福」そのものだった。
慎ましくも広がっていく黄金の黄身。それがどんぶりの中の具材と溶け合い、未知なる旋律を奏で始める。
拓馬は震える箸で、宝石の欠片を宿した白亜の器――白身の半身を優しく、かつ確実に掴み取り、一気に口中へと運び込んだ。
(くっ!? これは……っ!)
口内で弾ける、プリズムの如き閃光。
直後、押し寄せてきたのは、出汁の旨味と、秘伝のタレが織りなす塩味と甘味の奔流。そして、追撃のように鼻腔を抜ける微かな生姜の芳香。
旨味、塩味、甘味、香り。
四重奏が生み出した「味覚の特異点」がビッグバンとなって膨張し、巨大な波となって拓馬の理性を呑み込んでいく。
彼は抗うことを諦め、静かに待ちわびていた太麺へと箸を伸ばした。
流れ出た黄金をたっぷりと絡め、ゆっくりと、しかし力強くすすり上げる。
四重奏に「スープ」という名の嵐が吹き込み、口内は灼熱の歓喜に満たされる。何より、このモチモチとした官能的な食感は――。
(!……こ、これは、自家製麺か!?)
咀嚼するたびに広がる、圧倒的な小麦の生命力が口内で弾ける。
(間違いない……この高密度な多加水麺、店内で打っているのか)
正体を知った瞬間、もはや箸は止まらなかった。
拓馬はなりふり構わずどんぶりを左手で持ち上げ、一心不乱に麺をすすり続けた。
白濁したスープに醤油ダレの香ばしさが重なり、食欲を極限まで加速させる。クリーミーな口当たりの豚骨醤油は、エリート退魔師として積み上げてきた矜持を、一滴残らず魅了し、屈服させていく。
とろけるような炙りチャーシュー。
快い(こころよい)音を立てる厚切りメンマ。
そして、最後まで誇り高く立ち続ける、薫り高い海苔。
レギュラーメニュー『豚骨醤油ラーメン・味玉乗せ』。
それは、原点にして頂点。
村上という男が放った、回避不能の「魂の一撃」だった。
もはや、語る言葉など残されていない。
気が付けば拓馬は、一言の文句も発することなく、最後の一滴までスープを飲み干していた。
「――はい! 完食いただきましたぁーっ!」
沈黙を切り裂いたのは、バッシングの手を止めた佐竹の、割れんばかりの絶叫だった。
佐竹の絶叫が響く中、凛もまた己のどんぶりと向き合っていた。別皿の具材は、既に一つ残らず彼女の胃に収まっている。残るは、黄金色に澄み渡った淡麗塩のスープのみ。
「…………」
凛はスーッと深呼吸すると、おもむろに動いた。
細く白い指先が、熱を帯びた陶器に深く沈む。そのまま躊躇することなくどんぶりを傾け、自らの顔を覆い隠すようにして、黄金の液体を煽り(あおり)始めた。
ゴクッ、ゴクッ、と。
喉が鳴るたびに、村上の魂が、烈火の熱量が、凛の内側へと流れ込んでいく。
その光景を、信也は息を呑んで見つめていた。
今日転校してきたばかりの、触れれば壊れそうなほど美しい少女。その彼女が今、なりふり構わず自分の大将のラーメンに食らいついているのだ。
凛は胸の奥が、熱くなった。
得体の知れない「鬼気」への恐怖も、今の圧倒的な「満足感」の前では些細なことに思えた。
凛がどんぶりをテーブルに置いた。その底には、一滴の濁りも、一筋のスープすら残されていない。
「…………ふぅ……」
凛の頬が、蒸気と幸福感でほんのりと赤く染まっている。
「……至高……」
虚ろな瞳でどんぶりを眺めながら、ポツリと凛がつぶやいた。
その瞬間、信也は無意識に喉を震わせていた。
「――っ! こちらも、完食いただきましたぁっ!!」
信也の声が、佐竹に負けないほどの高らかさで店内に響き渡った。
「ご完食、ありがとうございましたあっ!」
厨房の奥で、村上がニヤリと不敵に口角を上げた。
拓馬は脱力したように背もたれに体を預け、凛は縛った髪を解きながら、満足そうに目を細めた。
異能の戦士たちによる、絶対に負けられない「戦い」。
その火蓋は今、この上ない清々しさと共に、完膚なきまでの「敗北」をもって切って落とされたのであった。




