剣気凛然 4.
「いらっしゃいませー!」
キィィィィィンッ……。
――耳鳴り?
急ピッチで仕込みを終わらせ、厨房からホールへ飛び出した瞬間、僕の鼓膜を鋭い音が劈いた。
何かが弾けるような、空気が圧縮されるような奇妙な感覚と共に、引き戸が開く。
暖簾をくぐってきたのは、場違いなほど整った顔立ちの男女だった。
「何名様でしょう……か?」
声を掛けようとして、僕は息を呑んだ。
あれ? この子は確か……。
目の前に立っていたのは、今日クラスに転校してきたばかりの『神代凛』さんだった。
その後ろには、パリッとしたスーツを着こなすサラリーマン風の男性……お兄さんだろうか?
だが、奇妙なのは彼らの反応だった。
神代さんも、その後ろの男性も、出迎えた僕の顔を見た瞬間、まるで幽霊でも見たかのように目を見開き、完全に硬直していたのだ。
どういう訳だろう?
そんなに僕の顔に何かついているのかな?
♢ ♢ ♢
「なっ!?」
凛は、己の目を疑った。
目の前に立って「いらっしゃいませ」と間の抜けた声をあげているのは、間違いなくターゲットである『0号』――狭間信也だった。
背後の拓馬が息を呑む気配が伝わった。
拓馬のポケットの中で、小型霊子デバイスが『異常なまでの鬼気の近接』を告げる警告音を、狂ったように鳴らし始めていた。
(馬鹿な……)
(あり得ない……!)
拓馬も凛も、全く同じ絶望感を共有していた。
『闇風』のエリートである彼らが、これほど濃厚な「鬼気」を内包する対象に、扉を開けるまで全く気付けなかったのだ。
自ら進んでターゲットの懐(ゼロ距離)に飛び込むなど、退魔師としてあってはならない大失態だった。
『ピピピピピッ!』
「……電話、着信してますよ?」
沈黙を破ったのは、信也の呑気な声だった。
「あ、ああ……」
拓馬が間の抜けた声でデバイスの電源を乱暴に切る。
だが、凛の身体は既に戦闘を前提とした防衛本能に支配されていた。
彼女から凄まじい『剣気』が爆発的な圧力となって漏れ出す。肩に掛けた竹刀袋から『桃迅激』を引き抜き、眼前にある脅威を両断しようと――。
「……二名です」
間一髪。拓馬が凛の肩を強く鷲掴みにし、出迎えた信也に向かって引き攣った笑みを向けた。
手の震えは凛にも伝わっていた。
♢ ♢ ♢
僕は、どこか挙動不審な二人をテーブル席へと案内した。
店内はまさにピークタイムに突入しかけており、戦場のような熱気を帯びている。
僕は手早くお冷やを置き、注文の確認を……。
「あっ」
しまった。券売機で食券を買ってもらうのを忘れていた。
突然のクラスメイトの登場に、僕としたことが完全にペースを崩されている。
「申し訳ありません、あちらの券売機で先に食券を……」
平謝りしながら二人を券売機へと誘導した。
「おい狭間。あれ、今日の転校生じゃねえの?」
目敏い佐竹先輩が、バッシング(片付け)のついでに小走りで寄ってきた。
「……そうですね」
「へえ。隣のは彼氏か? 随分と大人びたの連れてんじゃねえか」
佐竹先輩がニヤニヤと下世話な笑いを浮かべる。
僕は券売機の前でメニューを睨みつけている二人を、少し離れた場所から見守った。
♢ ♢ ♢
「……あり得ない。結界でもない限り、こんな不用意な接近など……」
券売機の前。
拓馬はメニューを選ぶふりをしながら、唇の動きだけで凛に囁いた。
彼の額には冷たい汗が滲んでいる。
「……強力な隠密結界です。この店そのものが、外への気配を完全に遮断している。私が『巣』に足を踏み入れるまで気付けないなんて……」
凛の声も微かに震えていた。
ただのラーメン屋だと思っていた。だが違う。ここは、あの異常な少年を囲うための、何者かによって作られた「異界」いや、「要塞」なのかも知れない。
「どうする。一度引くか?」
「いえ、ここで背を向ければ致命的な隙を晒します。……それに、効率的な栄養摂取は不可欠です」
凛はそう言うと、迷うことなく『淡麗塩ラーメン・特製全部乗せ』のボタンを押し、さらに『麺硬め』のプラスチック札を取った。
(……おい、本気で食うのかよ)
「兄様も早く。不審に思われます」
促され、拓馬は半ば自暴自棄に『濃厚豚骨醤油・味玉トッピング』のボタンを押した。
席に戻った二人の前に、信也と佐竹が近づいてくる。
凛は、必死に『桃迅激』への意識を断ち切り、殺気を抑え込もうとしていた。だが、隠しきれない冷気が彼女の周囲に纏わりついている。
「食券、お預かりしま……す……」
信也が手を伸ばした瞬間、ビクッと肩を震わせた。
蛇に睨まれた蛙のように、信也の顔から血の気が引いていく。
一挙手一投足に反応するような、鋭利な気配が信也を襲う。
「お、転校生ちゃんじゃん。彼氏とラーメンデート? 渋いねぇ」
佐竹が、その異常な空気に気付くこともなく、ニヤニヤと凛に顔を近づけた。
常人であれば、今の凛から漏れ出る殺気に触れればすくみ上がるはずだ。
だが、佐竹の瞳孔は妙に広がり、逆にゾクゾクとした興奮を覚えていた。この『空気の読めなさ』こそが、佐竹を「人ならざるモノ」へと遷移している証であったのかも知れない。
「…………不快です。このゴミ、排除しても?」
凛の硝子玉のような瞳が、スッと細められる。
拓馬が「馬鹿、やめろ!」と制止しようとした、その時だった。
「――お客さんたち。ウチの若いのに手ぇ出してもらっちゃ困るね」
地を這うような重低音が、喧騒の店内を切り裂いた。
厨房の奥。
両手に握った「てぼ」から、完璧な放物線を描いて湯切りをキメた男――店主の村上が、ゆっくりとこちらへ歩み寄ってくる。
その所作は、まるで硝煙の燻る二丁拳銃をホルスターに収める歴戦の傭兵のようだった。
「大将……!」
信也が救いを求めるように振り返った。
村上は無言で信也と佐竹の前に立ち塞がると、首に巻いたタオルで汗を拭いながら、鋭い眼光で拓馬と凛を見下ろした。
「……坊主、その食券、俺に貸しな。こいつらの『圧』に当てられたら、繊細なスープが濁っちまうからな」
ドンッ、と。
村上の全身から放たれたのは、霊力でも剣気でもない。数多の死線を潜り抜けてきた者だけが持つ、純粋な『暴力と死の気配』だった。
(……なっ!? この男……ただの店主じゃない……!!)
拓馬は無意識に後ずさりし、凛は反射的に竹刀袋を握りしめた。
結界を張ったのは、この男か?
豚骨の香りが充満する『麺屋 烈火』は今、一触即発の戦場へと変貌を遂げていた。
「……貸しな」
村上は、信也の手から二枚の食券とプラ札を無造作に奪い取った。
無言のまま、食券に印刷された文字に目を落とす。
「……ほう」
次いで、村上の喉の奥から、低く地の底を這うような声が漏れた。
「淡麗塩の特製全部乗せに、麺硬め。……そっちの兄ちゃんは、看板の豚骨醤油レギュラーに味玉か」
村上の顔に、ニヤリと獰猛な笑みが浮かんだ。
それは、死線で強敵と出会った傭兵の顔であり、同時に、己の腕を試そうとする面倒な「刺客」を迎え撃つ職人の顔でもあった。
この小娘は、一切のごまかしが効かない「淡麗塩」を選び、しかも全部乗せという最もスープに干渉するオーダーを通してきた。
対する男は、店の地力が最も如実に表れる「レギュラーの豚骨醤油」に、オペレーションの丁寧さが露呈する「味玉」を一点張り。
(……いい度胸だ。俺のスープの『純度』と『基礎体力』を同時に測りに来るとはな)
「信也、佐竹。お前らはホールの奥へ下がってろ」
村上は首のタオルを締め直すと、踵を返して厨房へと歩き出した。
「こちらの相手は、俺がする」
その背中には、一切の隙がなかった。
拓馬はゴクリと唾を飲み込み、凛は静かに『桃迅激』から手を離し、姿勢を正してパイプ椅子に腰を下ろした。
「……兄様。あの男の気配、只者ではありません。この『巣』の番人、あるいは……」
「ああ、分かっている。不用意に動くな。今は……出方を窺う(うかがう)」
厨房では、激しい戦闘音が響き始めていた。
いや、それは調理の音だ。だが、常軌を逸したスピードと正確性だった。
燃え盛るバーナーの炎がチャーシューを炙り、リズミカルに具材を刻む包丁の音。そして――。
『チャッ、チャッ、チャッ……ッターン!!』
完璧なタイミングで茹で釜から引き抜かれた二つの「てぼ(鉄砲)」が、空中で鋭く振られ、最後の一滴まで湯を断ち切る。その流麗な「ダブルバレット」の所作に、拓馬は目を奪われた。
数分後。
配膳盆を持った村上が、自ら二人のテーブルへとやってきた。
「お待ちどお。……まずは、兄ちゃんの豚骨醤油・味玉乗せだ」
ドン、と置かれたのは、濃厚な醤油の香りと白湯スープに美しく輝く鶏油。そして、具材をよけるように流線で描かれた美しい麺線……しかも太麺が現れ、中央に鎮座する完璧な黄金色の「味玉」は王の如き貫禄を放つ。白身には傷一つなく、タレの染み込み具合が一目で分かる芸術品だった。さらには、とろけそうな炙りチャーシューに、厚切りのメンマ。そして海苔だ……パリッとシャキッと、どんぶりの端に凛と立っている。
「……っ」
拓馬の瞳孔が揺れた。
(この味玉の仕上がり……そして、獣臭を完全に抑え込みながらも力強い豚骨醤油の香り。……完璧だ。エリートの俺が認めるべきレベルの、完璧な仕事だ!)
「そして、嬢ちゃん。淡麗塩の全部乗せ、だ」
村上が凛の前に置いたのは、信也たちも見たことがない提供スタイルだった。
透き通るような黄金色の塩ラーメンには、細めの中華麺が直線的な麺線で描かれている。その横に……美しい陶器の『別皿』が添えられている。
そこには、炙りチャーシューはもちろん、低温調理の鶏チャーシュー、厚切りメンマ、パリパリ海苔、そして味玉。さらにネギだ……この白髪ねぎが何とも美しく、また、その上に申し訳なさそうに乗っている青々とした分葱からは、上品で甘い香りが漂う。まるで料亭の懐石料理のように盛り付けられていた。
「……これは?」
凛が、わずかに眉を動かした。
「嬢ちゃん、ウチの繊細な塩スープに、具材の温度や味が移って『濁る』のが嫌だったんだろ? だから別皿だ。1℃、1mgたりとも純度を落とさねぇ。……さあ、嬢ちゃん。俺の自慢のスープ、味わってみな。勝負の刻だぜ」
村上は挑戦的に笑い、親指で己の胸を指した。
迎 撃 完 了 !
心なしか、「麺屋 烈火」の店主村上の瞳の奥がギラリと閃った。
凛の硝子玉のような瞳に、微かな「熱」が灯る。
この男は、自分の「塩に対する宣戦布告」を完璧に理解し、その上で真っ向から受け止めたのだ。
魂の一杯。
「……なるほど。これは、戦いですね」
凛はスッと背筋を伸ばし、両手を合わせた。その所作には、先ほどの鋭利な剣気とは違う、純粋な求道者としての覇気が漂っている。
隣では、拓馬もまた、美しい味玉を前に額に汗を浮かべていた。
(……この戦、絶対に負ける訳にはいかない……!)
「……いただきます」
いざ! シンクロ率120%。
二人の声が重なり、割り箸が綺麗に割られる甲高い音が店内に響いた。
一瞬、喧騒にまみれた店内から音が消えたような錯覚に陥る。
少し離れたカウンター横。
その光景をポカンと口を開けて見ていた信也は、隣の佐竹に小声で尋ねた。
「……あの、先輩。なんであの二人、ラーメン食べるだけなのに、あんなに命懸けみたいに殺気立ってるんでしょうか……?」
「……知るかよ。ラヲタってのは、みんなああいう病気なんだろ」
激戦の『麺屋 烈火』。
異能の戦士たちによる、絶対に負けられない「戦い」の火蓋が、今切って落とされた。




