剣気凛然 3.
「……そこまでだ。それ以上は土足厳禁だ」
拓馬は、リビングの入り口で足を止めた凛に冷たく言い放った。
北欧製のカウチソファ、壁一面に埋め込まれた最新鋭のモニター群。生活感の一切を排除したこの部屋は、彼にとっての『城』であり、聖域だった。
「了解しました。……兄様」
凛は無表情に頷くと、玄関で器用にローファーを脱ぎ捨て、素足でリビングへと上がってきた。
そして、流れるような動作で肩から降ろした竹刀袋――その中身を、拓馬の愛するソファの上に無造作に置いた。
剥き出しの、古ぼけた桃の木刀。
「おい、せめて……。それは……桃迅激か。ふん、懐かしいな……だが、俺の美学に『生木の質感』は合わない。さっさと片付けろ」
拓馬はかつて自分も使っていた練習刀を眺めながら言った。
「これは神代家の『桃迅激』。術式によって抜刀を封じられた、街中における最適な対鬼装備です。効率を考慮し、常に即応可能な位置に配置します」
「……話を聞けと言っているんだ」
拓馬の抗議を、凛は硝子玉のような瞳で一蹴した。
彼女は小さなバッグから、最低限の着替えと思われる布の塊を取り出すと、そのまま窓際へと歩み寄った。
地上二十階。ここからは、信也が暮らす養護施設や、彼が通う高校、そして昨夜の戦場となった河川敷が一望できる。
「……嫌な風ですのね」
凛が、小さく鼻を鳴らした。
その言葉遣いが、一瞬だけ古風なものに変わった。
「……何?」
「街が、澱んでいます。このあたり一帯、肌を刺すような古い『鬼』の残滓が、ねっとりと張り付いている……。兄様、データには出ていないのですか?」
拓馬は眉を寄せ、背後のメインモニターに視線を走らせた。
霊子濃度のグラフは凪のように安定している。昨夜のD級水傀の痕跡以外、特筆すべき異常は見当たらない。
「観測データは正常だ。霊子センサーの精度は最新……」
「機械の目は、本質を見落とします。私の肌は、もっと深い場所にある『闇』を捉えている」
凛は『桃迅激』の柄にそっと指先を触れた。
封印されているはずの木刀が、彼女の霊気に反応し、微かに桃色の輝きを帯びたように見えた。
「……昨夜の、蒼い波形の主か」
「……分かりません。ですが、あれは『狩る』か『飼う』か、早急に決断すべき個体です。放置すれば、この街の理が崩れます」
拓馬は唇を噛んだ。
自分の誇るテクノロジーを、穂村の分家の小娘が「肌感覚」で易々(やすやす)と越えていく。その屈辱以上に、彼女が感じ取った「何か」への期待と恐怖が、彼の胸をざわつかせた。
不意に、凛が木刀から手を離し、拓馬を振り返った。
「戦術的予測は以上です。……これより、戦闘効率維持のためシャワーを拝借します。体表の不純物は、霊力回路の伝達効率を著しく下げますので」
「あ、おい、まだ話は――」
「兄様も、ご自由に。……ただし、浴室への侵入は『敵対行為』と見なし、反射的に斬る可能性があります。ご注意を」
パタン、と洗面所のドアが閉まる。
直後、景気良くお湯の流れる音が響き始めた。
「…………」
拓馬は、広いリビングに一人取り残された。
ソファの上には、古臭い『桃迅激』が、分不相応な存在感を放って鎮座している。
「……自由すぎるだろ、おい」
彼は深くため息をつくと、冷えたコーヒーを口に含んだ。
ニヒルなエリートを気取る余裕など、この風変わりな「妹」が来た瞬間に、霧散してしまったに等しい。
♢ ♢ ♢
ガラッ、と引き戸が開く。
「いらっしゃいませー!」
暖簾をくぐって入ってきた二名のお客さんが、僕に向けてVサインを掲げた。
「二名様、ご案内します!」
僕は厨房に届くよう、意識して腹から声を出す。
券売機へ誘導し、手早くテーブル席へと案内した。
厨房からは茹で釜の蒸気が立ち昇り、炒め物の小気味よい音が店内に響く。
お客さんたちの無邪気な話し声が混ざり合う、いつもの『烈火』の風景だ。
まだピークタイムには少し早い。だが、嵐の前の静けさとでも言うべきか、妙にピリついた気配が店内に満ちていた。
じわり、じわりと回転率が上がり始めている。
……嫌な予感がする。今日は、何か荒れるぞ。
「おい狭間! 仕込みはどうした!」
佐竹先輩が、山盛りのチャーシューを切り終え、苛立った声を上げながらホールへ戻ってきた。
「今から、味玉を仕込んできます!」
「早くしろ! 今日はなんだか荒れそうな気がしてならねぇんだ!」
佐竹先輩が「ドンッ」と肩をぶつけて、僕の横をすり抜けていく。
どうやら、同じような「ザワつき」を感じているのは僕だけではないらしい。
「お前ら、無駄口叩かずにバッシングだ!」
店主・村上さんの檄が飛んだ。
鮮やかな手つきで「てぼ」を捌き、最短の軌道で湯を切る。その所作は、あたかも二丁拳銃を扱う熟練の猛者のようだ。
その後ろでは、後輩の高木瑠璃ちゃんが「辛もやし」の仕込みに追われ、必死の形相で頑張っている。
今日は、仕込みのプロフェッショナルである水木純子さんがいない。
そんな日に限って、複数の仕込みがこの時間まで食い込んでいた。
客入りの波が一度始まれば、もう止まらない。
明日の分の味玉も足りなくなる。やらなければ。
男には、退くに退けない戦いがあるんだ。
「……よしっ!」
僕は気合を入れ直し、厨房という名の新たな戦場へと踏み込んだ。
♢ ♢ ♢
一方その頃、氷室拓馬と神代凛は、夜の街を覆う「鬼気」の正体を探っていた。
二人は夜に溶け込むよう、凛はセーラー服、拓馬はサラリーマン風のスーツを纏っている。凛は竹刀袋、拓馬は腰に小太刀を隠し持ち、まずは「調査」を目的とした軽装だった。
「確かに、何かを感じるな……」
拓馬は小型霊子デバイスのモニターを見つめ、夜の喧騒の中を進んだ。
「兄様。機材も結構ですが、私はこの肌の感覚を信じたいのです」
シャワーを浴び終え、さっぱりとした顔の凛が振り返った。
だが、その瞳に感情の光はなく、底知れない冷たさを湛えている。
「そんなお前の感覚も、この『澱んだ』気配に惑わされてターゲットを見失ったんだろう?」
やはり「兄様」と呼ばれるのは、どうにも座りが悪い。
「肯定します。あの少年――『0号』は、通常の対応では御しきれないかと」
あっさりと己の失態を認める潔さに、拓馬は意外な一面を見た。
頑固な少女かと思いきや、驚くほど素直な部分もある。
とは言え、凛が放つ鋭い剣気は隠しようもなく、悠然と街を歩くその姿は異質だった。
勘の良い者がすれ違えば、真夏でも冷水を浴びせられたような寒気を感じるに違いない。
これほどの使い手が、『穂村(焔・ほむら)』の分家にいたとは。
拓馬は記憶の底から、闇風に連なる家々が技を競った『御前試合』の情景を掘り起こす。
今は亡き、滅んだ血族の里の記憶――。
「穂村の分家なら、やはり豪の業、焔流炎斬系の太刀筋なのか?」
柄にもないことを聞いた、と拓馬はすぐに後悔した。
「では、本家直系である氷室の兄様は、必殺の『雹雷斬』の使い手なのですか?」
凛が再び足を止め、問い返した。
「……さあね。それは企業秘密だ」
言葉を濁すしかなかった。
氷室の里は既に地図から消え、宗家の秘奥義もまた――。
「なら、私もお答えできません。神代、ですので」
二人の間に、気まずい沈黙が流れた。
ちょうどその時、豚骨の重厚な香りが鼻腔を突いた。
目の前に『麺屋 烈火』の看板が浮かび上がる。
拓馬は腹の虫が鳴りかけるのを必死に堪え、そのまま通り過ぎようとした。
だが、凛の足は迷いなく暖簾へと向かっていた。
「おい、食べるのか?」
「はい。腹が減っては、何とやらです。空腹では持てる力の半分も出せません。備えあれば憂いなしです……兄様」
冷淡に言い捨て、凛はガラリと引き戸を開けた。
拓馬も、頭を振ってその後に続いた。
二人の「侵入者」が、熱気の渦巻く『烈火』の店内へと足を踏み入れた。




