剣気凛然 2.
放課後。
バイト先の『麺屋 烈火』へ向かう途中、僕は奇妙な違和感に付きまとわれていた。
首筋を、チリチリと微弱な静電気が撫でるような感覚。
振り返っても、夕日に照らされた見慣れた通学路があるだけで、怪しい人影などどこにもない。
……気のせいだろうか?
ショートカットしようと、僕は駅前の裏通りへと足を踏み入れた。
大通りの喧騒が嘘のように遠のく。
そこは、赤錆びたトタン屋根と、室外機の低いモーター音が響く薄暗い路地裏だった。
壁一面に這う苔の匂いと、どこかから漂う夕飯の煮物の匂いが混ざり合い、ひどく懐かしいのに、足を踏み入れるのをためらってしまうような不気味さを感じた。
(――本当に、貴方は隙だらけですわね。背後にまとわりつく小蝿にも気付かないなんて……鈍感にも程がありますわ)
不意に、脳内に冷ややかな声が響いた。
『えっ? マヤさん?』
(……はあ……今日一日、監視されている自覚はありますの?)
『監視? そう言えば……何か視線のようなモノを感じるような……感じないような?』
僕は学校での違和感を思い出しながら言ってみた。
(お黙りなさい。……まったく、わたくしが居なければ、今頃どうなっていたことか)
呆れたようなため息が聞こえた直後だった。
僕の身体が、いや、正確には「足」だけが、僕の意思を完全に無視してピタリと動きを止めた。
『ちょっ、マヤさん!? 何するんですか!』
(少しだけ、身体をお貸しなさい……あのような古臭い術でコソコソ嗅ぎ回る猫の視界に入るなど、わたくしの誇りが許しませんわよ)
有無を言わさぬ絶対的な圧力。
次の瞬間、僕の膝が深く沈み込んだ。
全身の筋肉がバネのように圧縮され、尋常ではない熱を持ち始めた。
ちょっ!? え、嘘、待って――。
ドンッ!!
路地裏のアスファルトが蜘蛛の巣状にひび割れた。
僕の身体は、まるで重力という概念を置き忘れたかのように、垂直に跳ね上がっていた。
二階建てのプレハブを越え、雑居ビルの壁を蹴り、一気に四階建てのビルの屋上へと到達する。
音もなく屋上のフェンスの上に着地した僕は、眼下に広がる夕暮れの街を見下ろし、心臓が口から飛び出しそうになるのを必死に堪えた。
(……ふん。他愛もない)
頭の中で、マヤが満足げに鼻を鳴らす。
相変わらず口が悪いが、彼女が無理やり僕を飛ばさなければ、僕は「誰か」に追い詰められていたということだろうか?
(最近、駄犬やら野良猫やらと目障りになって来ましたわね……不快ですわ)
不機嫌そうに言うと、僕の身体の主導権が突然帰ってきた。
「ひえっ!?」
ドサッ!
僕は屋上のフェンスから内側へと無様に転げ落ちた。
「いたたた……こんな入ったこともないビルの屋上から、どうやって出ればいいんだ?」
周囲を見渡すと、屋上出口と書かれた階段への扉が目に飛び込んできた。
僕は腰をさすりながら扉のノブに手を伸ばす。ガチャリと乾いた音がして、重い鉄扉があっさりと開いた。
「……よかった、開いた」
鍵がかかっていなかったことに安堵の息を漏らしながら、僕は急いで薄暗い階段を駆け下り、バイト先の『麺屋 烈火』へと向かった。
♢ ♢ ♢
一方、眼下の路地裏。
「…………」
神代凛は、足音一つ立てずにその暗がりへと滑り込んだ。
彼女が用いていたのは、神代家に伝わる『隠形歩法術』。気配も、霊子の波動すらも完全に遮断し、対象を確実に追い詰める伝統的な古式術だ。
ターゲットである少年――狭間信也は、間違いなくこの路地に逃げ込んだはずだった。
袋小路だ。逃げ場はない。
だが。
「……消えた?」
凛の硝子玉のような瞳に、微かな揺らぎが走る。
無機質な路地裏には、夕風が通り抜ける音だけが響いていた。
少年の姿は影も形もない。
彼女はすぐさましゃがみ込み、ひび割れたアスファルトの表面を指先でなぞった。
「――足跡、それにこの霊子の残滓……跳躍? いや、あり得ません」
凛はゆっくりと立ち上がり、ビルの上部へと鋭い視線を向けた。
「古式歩法ではない。いかなる術式のプロセスも経ずに、ただ純粋な『暴力的な脚力』だけで重力を振り切った……? これは――」
計算外。
彼女の完璧なデータの中に、一つの巨大な「エラー(未知数)」が生まれた瞬間だった。
凛は静かに手帳を取り出すと、冷徹な声で呟いた。
「対象の身体能力、推定値を大幅に上方修正。……再調査の必要あり、ですね」
凛は暮れなずむ夕日を睨みながら、その場を後にした。
♢ ♢ ♢
ピンポーン。
伽藍洞の一室に、無機質な電子音が響いた。
拓馬は複数のモニターが並ぶデスクの前で、ゆっくりと顔を上げた。
魚眼レンズが捉えていたのは、場違いなほど「日常」を纏った女子生徒の姿。
今どき珍しい、紺碧のセーラー服。肩に掛けた竹刀袋が、放課後の部活動帰りという完璧な擬態を完成させている。
だが、その少女――神代凛は、インターホンには目もくれなかった。
斜め上に隠された監視カメラを正確に射抜くと、無表情のままスマホを取り出し、指先を高速で走らせる。
ブブブッ。
拓馬の手元にある、秘匿回線の端末が震えた。
『神代です。開錠を』
あまりに事務的なメッセージ。
拓馬はわずかに眉を寄せると、重い腰を上げて玄関へと向かった。
扉を開けた瞬間、冷たい初夏の風と共に、彼女が滑り込んでくる。
「本日付で着任しました。神代凛です。兄様、以後お見知りおきを」
背筋を定規で測ったように伸ばし、凛が深々と頭を下げる。
その徹底した「妹」の演じぶりに、拓馬のニヒルな仮面が、早くも微かな音を立てて軋み(きしみ)始めた。




