境界侵蝕 4.
「本当に……視える……の?」
純子さんに腕を強く掴まれ、僕は咄嗟にどう答えるべきか迷った。
視える、と答えれば彼女を怖がらせてしまうのではないか。だが、僕の腕を掴む純子さんの手は、氷のように冷たかった。
「……はい。あそこ、公園の入り口の電灯の下に立っている、ずぶ濡れの男の子ですよね」
僕が正直に答えると、純子さんは小さく息を呑み、泣き出しそうな顔でうつむいた。
「やっぱり……。私には、姿はハッキリとは視えないの。でも、わかる。この時期になると、ずっと私の後ろをついてくるから……」
ピチャ……。
ヒタ、ヒタ……。
アスファルトは乾いているはずなのに、純子さんがそう言った瞬間、微かに水気を帯びた足音が夜の静寂に響いた。
「あの子はね、海斗。たぶんだけど……私の、弟なの」
「純子さんの、弟さん……?」
「うん。……明日はね、海斗の命日なのよ」
純子さんの口から、ぽつりぽつりと過去が語られた。
十年前の初夏。当時まだ幼かった海斗君を連れて、近所の川へ遊びに行った時のこと。純子さんが友達に呼ばれ、ほんの一瞬、目を離した隙だった。
海斗君は足を滑らせて急流に飲まれ、帰らぬ人となった。
悲しい事故だ。
だけど、夏の川辺ではよく起こる注意すべき事故……
「私が……私が、ちゃんと手を取っていなかったから。私が海斗を殺したのよ。だから、海斗は私を恨んで、ずっとこうして……」
純子さんの目から、堰を切ったように涙がこぼれ落ちた。
明日はその事故現場の川べりまで行って、線香を上げて墓参りに行くつもりだったという。彼女は毎年、自分を責め続けるためにその場所へ通っていたのだ。
(――くだらない。お涙頂戴の三文芝居ですわね)
不意に、脳内にマヤの冷ややかな声が響いた。
『マヤさん! 今は黙って――』
(よく見てみなさい、下僕。あれはただの残留思念ではありませんわ。あの小僧の最期の「恐怖」と、この女の「罪悪感」の澱み……それを苗床にして寄生した、低級な「水傀」ですわよ)
マヤの言葉にハッとして少年を見た。
うつむいた海斗君の足元から、黒く濁った水がドロドロと溢れ出し、彼の小さな足首に絡みついているのが視えた。ただの霊じゃない。あれは、海斗君を縛り付けている「別の何か」だ。
(ふん。あの程度の水傀なら、わたくしの「おやつ」に丁度いいですわ。……ですが、根を張っている場所はここではありませんわね)
『根を張っている場所……事故現場の、川ってことですか?』
(ええ、そうですわ。あの水傀の本体は、その川の底。明日などと悠長なことを言っていたら、この女、線香を上げるついでに水底まで引きずり込まれますわよ)
ゾクリと、背筋に悪寒が走った。
僕は純子さんの震える両肩を、しっかりと両手で掴んだ。
「純子さん。明日じゃダメです」
「え……?」
「今から、行きましょう。その、海斗君が待っている川へ」
僕の言葉に、純子さんは驚きに目を丸くした。
彼女を危険な場所へ連れて行くのは間違っているかもしれない。でも、このまま彼女を一人で背負わせ続けるわけにはいかない。
それに、海斗君だって、純子さんを呪うためにあそこにいるはずがないんだ。
「これから、僕も一緒に行きます。だから……海斗君に、会いに行きましょう」
僕の腹も決まった。
♢ ♢ ♢
同じ頃。
信也たちが向かっている川の、少し下流に位置する暗がり。
街灯の光も届かない淀んだ水際のテトラポットの上に、黒いコートの影が一つ、音もなく降り立った。
「しかし……ひどい泥の臭いだ。今夜は一段と水が濁っているな」
拓馬は、川面から立ち上る異様な瘴気を見下ろし、忌々しそうに舌打ちをした。普段はこの河川はそれなりに美しい水質で、夏などは行楽客で賑わうスポットだ。5月も終盤に差し掛かった今どきでは、ぼちぼちバーベキューを楽しむ一団も現れ始めている。
彼の視線の先では、黒く濁った水面が不自然に泡立っていた。
やがて、その泥水の中から、ズブズブと音を立てて人間の形をした「何か」が這い出してくる。
水難事故の犠牲者たちの残留思念が寄り集まり、形を成した低級な怨霊――「水傀」の群れだ。
「ギ……ァァ……ッ」
泥にまみれた何本もの腕が、生者の体温を求めて拓馬の足元へ伸びてくる。
だが、拓馬は表情一つ変えなかった。
焦りも、恐怖もない。ただ、道端の石ころをどけるような冷徹な作業。
「――失せろ」
抜剣。
拓馬の神速が一閃する。
いつの間にか、その手に握られていた対魔刀『影断』が、夜の闇に鋭い銀の軌跡を描いた。
パァンッ! と乾いた破裂音が響き、群がっていた水傀たちは悲鳴を上げる間もなく、一瞬にしてただの泥水へと還り、川面へと崩れ落ちた。
無駄のない、圧倒的な暴力と技術。
拓馬は靴の先に跳ねた泥を軽く払い落とすと、再び川の深淵へと鋭い視線を向けた。
「雑魚がいくら湧こうが構わない。だが……この川の底に巣食っている『恨』は、少々厄介だな。何十年分もの人間の『後悔』を喰って、随分と丸々太っている……」
拓馬の眼には視えていた。
この川の底で、ドクドクと脈打ちながら獲物を待ち構えている、巨大な「水傀」の本体の姿が。あれを祓うには、少しばかり骨が折れる。準備を整えてから応援を呼ぶつもりでいた。
――その時だった。
拓馬が装備してる「麒麟眼」の鋭敏な感覚が、上流の方角から放たれた微かな、しかし異様な「気配」を捉えた。
護身用の勾玉が僅かに黒く濁りだす。
「……これは?」
それは、ただの霊気の乱れではない。
もっと禍々しく、そしてどこか懐かしいような、背筋が凍るほどの濃密な「血と暴力」の匂い。――あの「美しき魔怪」の覇気だ。
「あの少年……素人の分際で、こんな夜更けに何をしている。……それとも妖に呼ばれているのか?」
拓馬の脳裏に、夕暮れ時の顕在化現象を発現させた「被験体0号」少年の顔が浮かんだ。
どうやら、水傀の気配の先には彼がいる。そして、その横には。
「……一般人の女性がいる様だな」
右目に装備された「索敵センサー・麒麟眼」の示す数値から拓馬はそう判断した。
川底の「主」が、上流に向かって静かにその黒い触手を伸ばし始めているのを感じ取り、拓馬は静かに息を呑んだ。
「ほう……ヤツに反応したか。これは面白い事になりそうだな」
そう言うと、拓馬は闇風に定時連絡と状況報告を済ませ、再び偵察の任に戻った。
「今度はあの魔怪の戦闘の力を、じっくり観察できるかもしれないな……」
拓馬はコートの裾を翻した。
その足取りは迷うことなく、「美しき魔怪」の気配がする上流へと風のように駆け出して行った。




