境界侵蝕 3.
逢魔が時が過ぎ、街が本格的な夜の闇に包まれ始めた。
狭間信也たちが去った学校から、数ブロック離れた雑居ビルの屋上に男がいた。
周囲の闇に溶け込むような黒一色の特殊戦闘スーツ(タクティカル・コンバット・アーマー)を纏った姿――氷室拓馬であった。
「……こちら氷室。ポイント・デルタより本部へ」
拓馬は耳元のインカムに、感情を排した冷徹な声で囁いた。
彼の右眼に装着された特殊なゴーグル型デバイスの奥で、幾何学模様の光が高速で点滅を繰り返していた。
――『古式術複合霊子観測機(オーラ・オプティカル・ハイブリッドセンサー)・麒麟眼』。
それは、現代の光学技術と、古来より「闇風」に伝わる呪術的な索敵法を融合させた、対異怪用の特殊装備だった。
「目標確認。並びに小規模な『顕在化現象』を検知。……映像データを転送します」
拓馬がグローブの指先で操作すると、腰に巻かれたタクティカルポーチから、微かな駆動音が響く。
彼の視界に、先ほどまでの駐輪場の様子が再生された。
赤外線サーモグラフィーのような映像の中に、信也の姿だけが、禍々しいほど濃密な「蒼色のオーラ」で縁取られていた。
『――ピピピッ。警告。霊子濃度、測定不能。災害指定レベル、暫定Sと推測』
ゴーグルに表示される赤い警告文字。
それを見た拓馬の眉が、わずかに動いた。
「……Sクラス? 報告にあった少年……いや、『被験体0号』。あれは一体何だ?」
拓馬は懐から、鈍い光沢を放つ勾玉を取り出した。
それは、彼の近くに強大な「鬼」がいることを知らせるかのように、熱を帯びて微かに震えている。これだけ離れているのに、勾玉が黒く変色していた。
だが、次の瞬間、勾玉の濁りがスッと消えた。
「……ターゲットロスト。対象は逃走、現在位置は不明」
拓馬はそう報告すると、背の鞘から愛刀の柄に手をかけた。
かつてのオーパーツ……神代の禁忌と謳われた「金剛羅刹」を模して打たれた、特殊合金と呪符のコンポジットの刃『対魔刀・影断』。
冷たい金属の感触が、彼の戦士としての本能を呼び覚ます。
「……了解。引き続き、対象の追跡と監視……はっ……河川……了解。『狩り』の準備は整っています。……いつでも」
通信が切れた後も、拓馬はしばらくの間、信也が消えていった方角を見つめていた。
チンッ……
抜剣。
『対魔刀・影断』の刀身に刻まれた呪符印が青白い燐光を放ち、特殊合金が高周波の駆動音を上げ始めた。
あの少年の奥に、あの「美しき魔怪」が潜んでいる。
その事実が、拓馬の背筋にゾクゾクとするような熱を走らせた。
恐怖ではない。爬虫類を思わせる冷たい瞳の奥で、確かな殺意の炎が燃え上がり、狂気にも似た歓喜が彼の顔を歪ませていた。
だが、その前に……。
♢ ♢ ♢
「信也君、たまには一緒に帰ろうか」
僕を呼び止めたのは、バイトの先輩、水木純子さんだった。
「あ、はい。いいですよ」
「じゃあ、ちょっと待っててね。すぐに着替えてくるから」
そう言い残すと、純子さんは更衣室に消えた。
純子さんが僕と同じ時間に上がるなんて珍しい。そんな事をぼんやり考えながら、僕は店の外に出て彼女を待つことにした。
すると扉の奥から、着替えを終えた後輩の高木瑠璃ちゃんが顔を出した。
「お疲れ様でした」
瑠璃ちゃんは軽く会釈をすると、そのまま駅の方へ。彼女は僕たちとは帰る方向が違うのだ。
程なくして、裏口の重い鉄扉が開き純子さんが現れた。
「お待たせ。行こうか」
現れた純子さんは、すっかり女子大生らしい私服姿になっていた。
柔らかな素材の黄緑色のカーディガンを優しく肩に掛け、ふわりとシャンプーのいい香りがする。いつも頭に三角巾を巻き、前掛けをしている姿ばかり見ていた僕は、その大人びた雰囲気に少しだけドキドキしてしまった。
「今日は、早い上がりなんですね?」
いたたまれずに口を開く。
「そうなのよ。明日ちょっと早起きしなくちゃいけない用事があってね」
「そうだったんですね」
「ごめんね。突然、帰ろうとか言って……」
純子さんは申し訳なさそうに両手を合わせた。
「そ、そんな事ないですよ!」
純子さんと一緒に帰れるなんて考えたこともなかった。高嶺の花である『麺屋 烈火』の看板娘と一緒に帰路につけるとは、幸運としか言いようがない。
(――あらあら。小作人でも、このような甘い恋慕を持ち合わせていようとは。驚きましてよ、うふふ)
公園に差し掛かった頃、突然マヤが僕の頭の中で茶化すように囁いた。
『う、うるさいですよマヤさん! 突然、思考に入ってこないでください!』
(まあ、なんて言いぐさですの? これでもわたくしは、気を使って遠慮していたんですのよ?)
『お願いですから、今は出てこないでください……そうだ。後で美味しいプリンを買って帰りましょう。マヤさんが好きなのを選んでいいですから』
僕の提案に、マヤの喉がゴクリと鳴ったような気配がした。
(あら、わたくしをそのような安い女だと思ってらして?)
『え? いらないんですかプリン2個』
(……ふむ、いいですわ。ここは一つ、身を引いて差し上げましょう)
そう言うと、マヤは僕の意識の奥へと沈んでいった。
「どうしたの信也君? 急に黙り込んじゃって……お腹でも痛くなっちゃった?」
純子さんが心配そうに、僕の顔を下から覗き込んでくる。
「だ、大丈夫です!」
慌てて純子さんの方を向いた僕は、息を呑んだ。
純子さんは、僕の顔を見たままではなかった。僕の肩越し、あらぬ方向を凝視して完全に固まっていたのだ。
「……純子さん?」
僕の言葉に、ワンテンポ遅れて純子さんがハッとして振り返った。
「あ……うん。何でもないのよ……」
そう言って、もう一度その方向に強張った視線を送った。
つられて僕も振り返る。
公園の入り口。そこには、少年が一人で立っていた。
……え? 変だな。
今はもう、夜の十時を回っているはずだ。
しかも、ずぶ濡れ?
……あの子の周りだけ水溜りができている。
「こんな夜中に、あんな小さな男の子が一人でいるなんて心配ですよね」
僕は何気なく、純子さんに同意を求めた。
その瞬間、純子さんがバッと僕の腕を強く掴んだ。
「……えっ? 信也君、あの子……視えるの?」
震えるような、怯えた声。
「……え? は、はい?」
あれ? 僕、何か変なこと言ったのかな……。




