境界侵蝕 2.
照明灯の上に僕はいた。
地上から見上げれば、逆光で僕の姿は黒いシルエットにしか見えないはずだ。
けれど、僕――いや、僕の身体を使うマヤの視界には、腰を抜かしてへたり込む佐竹先輩の顔が、驚くほど鮮明に見下ろせていた。
恐怖?
いや、違う。
佐竹先輩のその表情は、恐怖に歪んでいるのではない。
彼は震える手で自身の顔を覆いながら、指の隙間から、まるで神に焦がれる信者のような熱い視線をこちらに向けていた。
「す、すげぇ……なんだよ、それ……! 人間業じゃねぇ……!」
喉の奥から絞り出される、歓喜の喘ぎだ。
その歪んだ欲望の波動が、僕の肌をチリチリと刺す。
「……ふん。わたくしを、その程度の力で取り込もうなどと……浅ましいこと」
僕の口が、勝手に動いた。
冷ややかな嘲笑を浮かべ、マヤは地上で這いつくばる「獲物」を見下ろした。
「この力を欲するというの? ……身の程を知りなさい、駄犬」
凛とした声が、夕闇に溶ける。
だが、佐竹先輩は言葉の意味など理解していないようだった。
ただ、圧倒的な「暴力」の具現に魅入られていた。
「欲しいなら……精々、その器に『澱み』でも溜め込んでみなさい。今の貴方は、わたくしの視界に入る『価値』すらありませんわ」
そう吐き捨てるように呟き、背中越しに沈みゆく夕日に一瞥くれた。
「逢魔が時……やはりまだ日が沈み切っていないと完全な顕現が出来ませんわね」
僕の身体は、そこにある筈のフリルのスカートを探すように残念そうに言った。
「まあ、いいわ……」
そこで、マヤの意識はふっと遠のいた。
「……えっ?」
意識が自分のものに戻った瞬間、僕の全身を支配したのは、強烈な恐怖だった。
視線が高い。
校庭のアスファルトが、遥か下に見える。
うわっ、落ちる……!
マヤが消えたことで、身体能力が「信也」に戻ってしまう。
バランスを崩しそうになったその時、マヤの残り香のような感覚が、無意識に足を動かした。
トンッ。
まるで猫のように、僕は音もなく地上へ着地していた。
膝が笑う。
心臓が早鐘を打っている。
逃げなきゃ……!
佐竹先輩はまだ、目を剥いて空を見上げていた。
僕はその隙に、逃げるように走り出した。
彼と目が合えば、また引きずり込まれる。そんな予感がしたからだ。
♢ ♢ ♢
駅の裏路地にある、赤提灯の灯るラーメン店。
『麺屋 烈火』
暖簾をくぐった瞬間、豚骨スープの濃厚な香りと、湯気が織りなす熱気が僕を包み込んだ。
外の張り詰めた空気とは違う、懐かしい「日常」の匂いだ。
「――お、遅くなってすいませんっ!」
息を切らして店に飛び込むと、カウンターの中から低い声が響いた。
「おう」
大将の村上さんだ。
頭にタオルを巻き、黙々と麺を湯切りしている。
一見強面のオヤジだけど、その鋭い眼光は不思議と温かい。
「……遅かったな」
怒っているわけではない。
大将は、ちらりと僕の方を一瞥すると、すぐに視線を戻して作業を続けた。
だが、その一瞬の視線に、何かを見透かされたような気がして、僕は思わず肩を竦めた。
まさか……さっきのこと、バレてるわけないよね?
「あらあら、信也君。どうしたの、汗びっしょりじゃない!」
奥から、お冷やを持った女性が現れた。
バイトの先輩、水木純子さんだ。
いつもと変わらない、優しい笑顔があった。
彼女のふわっとした雰囲気が、さっきまで僕の心を支配していたマヤの冷たい感触を溶かしていくようだ。
「だいじょうぶ? 顔色が悪いわよ。ほら、まずはこれ使って」
純子さんは持っていた清潔なタオルを僕に手渡してくれた。
その温かさに、張り詰めていた糸がふっと緩んだ。
「あ……ありがとうございます、水木さん。ちょっと、走ってきちゃって……」
「無理しちゃダメよ。今日はまだお客さんも少ないし、少し休んでからでいいからね」
純子さんは僕の背中をポンポンと叩くと、ホールの客席の方へ戻っていった。
その背中を見送りながら、僕は深く息を吐いた。
ここは、僕の居場所だ。
マヤのことも、佐竹先輩も今日はシフトに入っていない。
今日、ここには関係ない。
そう思いたかった。
不意に、横からスッと小皿が差し出された。
分厚いチャーシューの切れ端が山盛りに乗っている。
「どうぞ。……あちらからです」
声の主は、後輩の高木瑠璃ちゃんだった。そういえば、彼女も今日はシフトに入っていたんだ。
視線の先を追うと、ぶっきらぼうに背中を向けたままの大将の村上さんが言った。
「賄いの残りだ。……食って力つけとけ」
村上さんは何も聞かない。
ただ、その背中が「余計なことは考えるな、まずは腹を満たせ」と語っているようだった。
「……はい、いただきます」
僕は小皿を受け取り、チャーシューを一切れ口に運んだ。
噛みしめるたびに、肉の旨味がじわりと広がった。
その味は、僕がまだ「人間」であることを確認させてくれるような、確かな味がした。
でも、僕の額の古傷は、まだ微かに熱を持っていた。
日常と非日常の境界線は、もう曖昧になり始めているのかもしれない。




