境界侵蝕 1.
三時限目が終わったあたりから、額の右側にある古傷がズキズキと脈打つように痛んでいた。
以前から傷が痛むことはあったけど……こんなに痛いのは初めてかもしれない。
「……っ」
僕は、休み時間の喧騒の中で、机に突っ伏したまま眼鏡を押し上げた。
視界が妙に鮮明すぎる。
埃のひとつひとつ、クラスメイトの背後にまとわりつく「澱み」のような影までが、嫌に生々しく網膜に焼き付いていた。
何だろ……気のせい?
そんな中、背後から無造作に椅子を蹴られた。
「おい、信也」
聞き慣れた、不快な声。
佐竹恭平だ。
ここ最近は平和だったけど、また調子を取り戻したのか、いつものように僕の席までやって来ていた。
購買のパンを買いに行かせるための「命令」が飛んでくるはずだ。
「…………」
だが、振り返った僕は、思わず息を呑んだ。
佐竹先輩の瞳が、いつになくギラついている。
それは苛立ちではなく、まるで、極上の宝物を見つけた子供のような……あるいは、血の匂いを嗅ぎつけた獣のような、粘りつく熱を帯びていた。
「お前……さあ」
佐竹先輩が、僕の顔のすぐそばまで身を乗り出してくる。
鼻をひくつかせ、僕の首筋あたりを嗅ぎまわる。
荒い鼻息がうなじに掛かる……何だか、すごく気持ち悪い。
「……な、なんですか、佐竹先輩」
「いい匂いだ」
佐竹先輩の口から漏れたのは、パシリの指令ではなかった。
うっとりとした、狂気を孕んだ吐息。
「なんだ……ああ……その、匂い。今までとは全然違う……ゾクゾクするほど、甘くて、おっかねぇ。お前、何か隠してるだろ?」
佐竹先輩の手が、僕の肩を強く掴んだ。
その指先は、ガタガタと小刻みに震えている。
先輩の頬が紅潮して見える……怖い。
その時、僕は見た。
佐竹先輩の瞳の奥に、自分の中の「彼女」――マヤが、不敵な笑みを浮かべて手招きしている幻影を。
(まあ……ふふっ。この駄犬、いい鼻をしておりますわね)
脳内で響く、マヤの冷笑。
「日常」の皮を被っていたはずの世界が、佐竹先輩の異変という「亀裂」から、一気に崩れ始めようとする気配を感じてならない。
「ちょっと、佐竹先輩。何やってるんですか?」
凛とした、鈴を転がすような声が教室の空気を切り裂いた。
島村美咲だ。
眉を寄せ、不機嫌そうな顔をしたショートカットの美咲ちゃんが、僕と佐竹先輩の間に割って入った。
「……あ? 島村かよ。邪魔すんじゃねぇよ、今いいところなんだから」
佐竹先輩が忌々しげに顔を歪めたが、その瞳は相変わらず僕を……いや、僕の奥に潜む「何か」を追いかけている。
「いいところも何も、信也が困ってるじゃないですか。またパシリですか? いい加減にしないと、生活指導の先生に言いますからね!」
美咲ちゃんは僕の腕をぐいと引っ張り、自分の背後に隠した。
その小さな手の温もりが、僕を現実に引き留めてくれる。
美咲ちゃんは昔から姉御肌なところがあった。
「信也、大丈夫? 顔、真っ青だよ」
「あ、ああ……うん。大丈夫だよ、美咲ちゃん。……ごめん」
僕は必死に声を絞り出した。
だけど、美咲ちゃん越しに見える光景は、すでに「いつもの教室」ではなかった。
教室に落ちる生徒たちの影が、足元で奇妙に蠢いている?
さらに、教室の隅――掃除用具入れの陰から、真っ黒な粘土のような、顔のない「モノ」がこちらを覗いていた。
何で、こんなモノ……視える……昨日までは、こんな……!
「チッ、しらけんだよ。……おい信也、放課後、裏の駐輪場に来い。いいな?」
佐竹先輩は美咲ちゃんを睨みつけた後、僕の耳元で「ククッ」と不気味に笑い、その場を去っていった。
いつもの威圧的な態度ではない。獲物を追い詰める悦びに満ちた、湿り気を帯びた薄ら笑い……。
「なんなの、あの先輩……。ねえ信也、行っちゃダメだよ? 絶対変だよ、今日の佐竹先輩」
美咲ちゃんが心配そうに僕の顔を覗き込んだ。
その瞳の奥に映る自分の顔が、一瞬だけ、ゾッとするほど冷酷に歪んで見えたのは気のせいだろうか?
「……うん、分かってる。大丈夫だよ、平気だから」
そう言いながら、僕は自分の右手を強く握りしめた。
あの時、マヤが男の喉笛を引き抜いた、あの感触。
それが、美咲ちゃんの温もりを消し去るほどに、生々しく蘇っていた。
♢ ♢ ♢
放課後。
オレンジ色の不気味な夕闇が照らし出す逢魔が時。校舎の影が長く伸びている。
僕は重い足取りで、体育館裏にある旧駐輪場へと向かっていた。美咲ちゃんには「先に帰ってて」と嘘をついた。彼女をこれ以上、この薄暗い違和感に巻き込みたくなかったからだ。
錆びついたトタン屋根の下、カラスの鳴き声が響いた。
そこに、佐竹先輩はいた。
壁に背を預け、手持ち無沙汰にライターを弄んでいる。
「……来ねえかと思ったぜ、信也」
顔を上げた佐竹先輩の表情を見て、僕は足がすくんだ。
昼間よりもひどい。
右顔面が、まるでもう一枚の「顔」が内側から突き破ろうとしているかのように、細かく波打っている。だが、本人にはその自覚がないらしい。
「ええっと、佐竹先輩。……何なんですか、一体。僕に何の用が――」
「お前、自覚ねえのか?」
佐竹先輩がゆっくりと歩み寄ってくる。一歩ごとに、彼が引き連れている「泥」のような気配がアスファルトを侵食していくのが視えた。
「昼間言ったろ。お前からいい匂いがするんだよ。蜜のような……違う。果実、いや……もっと……こう、血の匂い……じゃねえ……なんつーか芳醇な、魂が痺れるような、最高にヤバい『力』の匂いだ」
佐竹先輩が僕の胸ぐらを掴み、強引に引き寄せた。
「あっ!」
至近距離で交差する視線。
先輩の瞳の奥に、あの惨劇の光景――マヤが男の頭をトマトのように潰したあの瞬間が、チカチカとフラッシュバックする。
「教えろよ。どうすれば、その『力』が手に入る? お前みたいなクズが持ってるより、俺が持ったほうがよっぽど有効活用できると思わねえか?」
(――あらあら。強欲な駄犬だこと。わたくしを『道具』か何かだと思っているのかしら?)
脳内でマヤがクスクスと、憐れむような、それでいて残酷なほど冷たく甘い声で笑った。
僕の右腕が、熱い。
皮膚の下で何かが蠢き、今すぐにでも佐竹先輩の喉笛に突き立てろと、破壊の衝動が疼き出す。
「やめ……やめてください、先輩。これ以上、僕に近づかない方がいい……!」
「あぁん? 何様だ、テメェ!」
佐竹先輩が拳を振り上げた、その瞬間。
僕の視界が、パキリと音を立てて「反転」した。
静かだ……。
夕暮れの駐輪場は消え、そこには無数の「目」が浮遊する虚無の空間が広がる。
佐竹先輩の背後に、巨大な、蜘蛛のような形をした異形の影が這い出しているのが視えた。それは彼の欲望に呼応するように、僕――いや、マヤに喰らいつこうと顎を開いていた。
「……無礼ですわね。その程度の『澱み』で、このわたくしを計るなど」
僕の口から漏れたのは、僕自身の声ではなかった。
低く、どこまでも冷徹で、絶対的な強者の響きがあった。
僕の瞳が、一瞬だけ、昏い朱色に染まった。
「マテリアライズ(顕現)」
マヤの声と共に、僕の右腕が「澱み」を払うように動く。
次の瞬間、僕は重力を無視した後方宙返りを描き、遥か頭上の校内の照明灯の上に、スッと音もなく着地していた。




