日常深層 4.
「――ッ、はぁ……っ、はぁ……!」
氷室拓馬は、喉から絞り出すような粗い呼吸と共に跳ね起きた。
全身が冷たい汗でびっしょりと濡れている。
シーツを握りしめた指の関節が白く浮き上がり、己の肉体に食い込むほど震えていた。
……また、あの夢だ。
視界の端で、時計の青いデジタル数字が午前三時を告げていた。
無機質な部屋の壁には、手入れの行き届いた数振りの日本刀が飾られている。
今の拓馬にはそれらがすべて頼りなく見えた。
「くそ……ッ!」
拓馬は乱暴に前髪をかき上げ、ベッドサイドのミネラルウォーターをあおった。
冷たい液体が喉を通っても、体内の熱……いや、恐怖の残滓は消えない。
夢の中で、拓馬はまた「あの夜」に立っていた。
微かな夜露の匂いと、錆びた鉄の臭気。
そして、圧倒的な絶望と死の予感。
精鋭と呼ばれた「闇風」の尊敬する先輩たちが、まるで糸の切れた人形のように宙を舞い、肉塊へと変わっていく様は正しく悪夢以外の何ものでもなかった。
彼らが振るう最新鋭のカーボン鋼の刃も、鍛え上げられた技(業)も、すべてが無意味だった。
その中心に、彼女はいた。
新月の闇を纏い、ただそこに「在る」だけの災害として。
彼女は笑ってすらいなかった。怒ってもいなかった。
ただ、道端の石を退けるように、指先一つで部隊を壊滅させた。
その朱い瞳が、一瞬だけ拓馬を射抜いた時の、あの冷たさ。
「……屈辱だ……」
ただの悪夢ではない。
かつて死の淵で浴びた彼女の鬼気が、拓馬の細胞に呪いのように刻まれている。
「……まさか、俺は『鬼精』されたのか?」
拓馬は、鬼を狩る者の常備品である勾玉を手に取り、鬼気から心を守るための身代わり石を、すがるように握りしめた。
「魂まで、あの女に犯されたというのか?」
淡い翡翠色をした美しい護身石を眺めた。
大丈夫だ……少しの曇りもない。
拓馬は微かに安堵した。
呟くと、ふらつく足取りで立ち上がり、壁に掛けられた一振りの刀――黒塗りの鞘に収められた愛刀『無銘・影断』を手に取った。
ズシリと重い鋼の感触だけが、今の彼を現実に繋ぎ止める唯一の錨だった。
「必ず俺の手で、あの女を……鬼を……狩ってみせる」
拓馬は暗い部屋で、自嘲気味に呟いた。
組織の上層部は、あの魔怪を狩るために切り札として『G級特鬼戦』を差し向けたと聞いている。いずれも組織が誇る手練れだ。だが、拓馬には結末が見えていた。
無駄だ。
人を捨てた研鑽と薬理で「個の極致」に辿り着いたS級だろうと。
最新の鬼甲兵装とサイバネティクスで「システムの怪物」と化したG級だろうと、アレを狩ることなどできはしない。
蟻が何匹集まろうと、象を殺すことができないのと同じことだ。
奴らは、自分が「狩る側」だと思い込んでいる。
その驕りが、あの女の前ではどれほど滑稽で、致命的な隙になるかを知らない。
「……俺だけだ。あの絶望を知っているのは、俺だけなんだ」
拓馬は刀を少しだけ引き抜き、刀身に映る己の顔を睨みつけた。
恐怖に歪み、同時に、どうしようもないほどの「渇望」に瞳が燃えている。
怖い。
震えるほどに怖い。
だが、それ以上に会いたい……。
もう一度、あの圧倒的な暴力を、この身に刻みたい。
そして今度こそ、ヤツの涼しい顔を、俺の手で歪ませてやる。
「待っていろ……俺の、女神……」
拓馬の唇が、狂気じみた三日月のような笑みを形作った。
♢ ♢ ♢
眩しいほどの朝日が、部屋の窓から差し込んでいた。
鳥の囀りが遠くで聞こえる。
階下の食堂からはコーヒーの香りと、朝のニュース番組ののどかな声が上がっていた。
狭間信也は、洗面台の前で眠たげな目を擦りながら、黒縁の眼鏡をかけ直した。
「……よし」
鏡の中に映るのは、どこにでもいる平凡な高校生の顔だ。
少し寝癖のついた髪に控えめな困り眉。紺色のブレザーを羽織り不器用な手つきでネクタイを整える。
ズキリッ!
「――痛ぁ。……また偏頭痛?」
僕は右の額を摩りながら呟いた。
……やっぱり、何か恐ろしいものを見たような気がした――思い出そうとすると、霧が流れるように意識の端から消えていく。
……何だ? ただの、夢……だよね?
この変な感覚もマヤさんが現れてから頻繁に起こるようになった。
気持ちを切り替えよう……
自分に言い聞かせ、信也は階段を下りた。
食堂は旧館の一階にある。
朝食のトーストを口に運び、テレビの占いを眺めた。
いつも通りの、退屈で、平和な朝だ。
だが……。
「――っ?」
一口噛み締めたトーストが、急に「錆びた鉄」の味に変貌した。
瞬間。
視界がグニャリと歪み、目の前が真っ白になる。
朝の食卓が、血生臭い闇の中へと反転した。
――信也の脳裏で、フラッシュバックが加速する。
真夜中の河川敷。
終電が遥か向こう先の鉄橋をカタンコトンと静かに渡っている。
『……無粋だわ。この程度で、わたくしを狩るおつもりかしら?』
頭の中に、凛としていながらも心凍るような「彼女」の声が響いた。
漆黒の闇に、閃光が走る。
それは、近代兵器と「古の神威」の衝突だった。
闇を切り裂くマズルフラッシュの瞬き。重火器の重低音。
脳髄を痺れさせる、血と硝煙の匂い……。
特殊軽量な暗視ゴーグルの下に隠された「G級特鬼戦」の男たちの驚愕と畏怖の表情が、ありありと見て取れる。
彼らは確かに手練れだった。統制された動きで、死角から彼女を追い詰めたはずだった。
しかし、彼女――マヤは。
時折放たれる電光石火の真空斬を、溢れ出す鬼気の波動より生じる弾指(衝撃波)で相殺する。
信也をマテリアライズ(顕現)しているマヤは、ふわりと地を蹴った。可愛らしいゴスロリのプリーツミニスカートのフリルが揺れる。
着地と同時に放たれた「闇風」技研特製の特殊貫通弾は、彼女の周囲に渦巻く見えない「鬼気」に触れた瞬間、すべてが虚空で砕け散った。
キラキラとマヤの周りに煌めく粒子が散布される。
瞬間、鬼気の気配が弱まる。
「あら、お見事……でも」
だが、そんなことは意に介さず、マヤは舞うように、跳ねるように伸身宙返り。
刹那、マヤの手が、一番近くにいた特鬼戦の頭部を優しく「撫でた」。
それだけで、強化プラスチックのヘルメットが、中身ごと完熟したトマトのように爆ぜる。
「あははははははっ!」
マヤの愉快そうな笑い声がどこまでも谺する。
いつの間にか、武装した黒装束の男たちは「狩る者」から「狩られるもの」へと変貌していた。
逃げ惑う男たちの背中を、マヤは無邪気な女童のように追い回した。
それは捕食者そのものだった。
指先を振るえば、鬼気による真空の刃が走り、手刀を差し込めば強化戦闘服を貫いてまだ脈打つ心の臓を引きずり出す。
絶叫。
血飛沫。
飛び散る肉塊。
暗闇に浮かび上がる彼女の白い横顔は、恐ろしいほどに美しく、神聖なまでの残酷さに満ち溢れていた――。
その姿は正しく、美しき鬼神なり。
そしてマヤは、信也の手を使って、最後の男の喉笛を素手で引き抜いていた。
「おえっ……ぐ……はっ!」
現実に戻った信也は、椅子から転げ落ち、胃の中のものを全てぶちまけた。
「信也!? どうしたの、大丈夫!?」
施設長の詩織が駆け寄り、背中に手を当てる。その温もりが、今は吐き気を助長するほどに遠い世界の出来事に感じられた。
床に散らばったのは、食べたばかりのトーストだ。
……一昨日の夜……?
だが、信也の瞳に映っているのは、自分の指先にべっとりとこびり付いた、鮮血と肉片だった。
僕が……殺した? 違う、僕じゃない、あれは……!
震える指先を必死に床に擦り付けた。
落とさなければ。この感覚を。この死の感触を拭えない。
(無駄ですわ。下僕、肉は、魂は、すでに覚えていますのよ)
鏡越しではなく、自分の「内側」から、マヤの冷笑が聞こえた。
平和な朝の光が、今は暴力的なまでに眩しすぎて、信也はただその場に蹲る事しか出来なかった。
僕は一体何なんだ……どうなってるんだ一体?
……何を知っているんだ?
必死の思いで共用洗面台にたどり着くと、震える手で蛇口を捻り、冷水で何度も何度も口を濯いだ。
顔にかかる水の冷たさだけが、辛うじて自分が「ここ」にいることを証明してくれている。
信也は、濡れた顔を上げ、鏡を再び見た。
鏡に映る自分は、やはりどこにでもいる、気弱で冴えない高校生のままだ。
だが、滴る水滴がレンズを濡らすその眼鏡の奥――瞳の深淵に。
一瞬だけ、焼き付くような朱い光が走った。
「……行かなきゃ」
誰に対しての言葉かも分からず、彼は逃げるように学校の鞄を掴んだ。
玄関へと向かう信也の背中に、姿なきマヤの冷笑が、影のように長く伸びていた。
『狭間』に生きる者は、いずれは『狭魔』に活きる運命。
……逃げられない血の宿命……
何故だか、そんな言葉が脳裏をよぎった。




