まがい物は真実の愛に錆びゆく
※残酷な描写を含むメリバです。
写真立ての中で微笑む彼女の横に、庭で摘んだばかりの花を飾る。
「おはよう」と声をかければ、その顔は今にも動き出しそうだ。
朝食もそこそこに、作業場で仕事に取り掛かる兄。
食べ残しと置きっぱなしの皿を片付けた後、僕も作業場のドアを開き、黙々と仕事をこなす。
キリキリカンカントントン。
金属を加工する無機質な音が、二人きりの静かな家に響く。今日も朝から夜遅くまで、ずっとこの音が響いているのだろう。
僕には、一年前の、ある一週間の記憶がない。
僕ら兄弟の幼馴染みであり、兄の恋人だったティナが亡くなった時の記憶が。
────あれは潮風が心地好い季節。
イルカが見られるかもしれないと、三人で近くの海へ出掛けた。
浜辺で大きなバスケットを開け、ティナが作ってくれたサンドウィッチをみんなで食べた。
デザートの林檎を噛りながら沖を眺めるも、一向にそれらしき姿は現れない。しばらくすると、遥か向こうで、陽にきらめく波がパシャリと跳ねた。
仕事の疲れからか、うたた寝をする兄を置いて、僕とティナは崖の上に走った。浜辺よりもずっと見晴らしの良いそこで、こっちかしら、いやあっちだと、波の変化に目を凝らす。
夢中になるあまり、足元への注意が疎かになる彼女。「危ない」と声を掛けたのと、かくんとよろけたのはほぼ同時だった────
覚えているのはそこまで。
気付けば僕は、ベッドの上にいた。
額に巻かれた包帯。痛むそこにぼんやりと触れる内、徐々に最後の記憶が甦る。
『ティナは?』
そう尋ねる僕に、兄は憔悴しきった顔で答えた。
『見つからない』と。
海へ行ったあの日から、もう丸一週間経っている。
お前は運良く浜に打ち上げられたが、彼女はいくら探しても見つからない。
見つからないんだ……と繰り返す兄に、僕は拳を握り締めた。
何故あの時、彼女を助けられなかったのだろう。
いや、それよりも、最初から注意するべきだったんだ。
最初から手をしっかりと繋いで……あるいは、この腕に華奢な身体を抱き寄せていたなら……
無理だ。
そんなこと出来なかった。
どんなに好きでも、僕と彼女は幼馴染みだから。
どんなに愛しても、彼女は兄の恋人なのだから。
それから数週間……数ヶ月……半年。
僕らは諦めずに海を探し続けたが、ティナはどこにも見つからなかった。
一年が経った頃、兄は初めてティナの写真を棚に置き、その横に花を飾った。
兄は僕を一切責めなかった。
崖の上で、最期の彼女がどんな風だったかとか、そんなことを訊こうともしなかった。
彼女を探すのに必死で、ぽっかりと隙間が空いた一年を取り戻すかのように、僕らはただ仕事に打ち込んだ。
キリキリカンカントントン。
僕が削って磨いた銅に、兄が特殊な技術で、金色の加工を施していく。
鉱脈で、金がほとんど採掘出来なくなってからもう数百年。我が家に代々受け継がれてきた、この金に見せる加工技術は、国宝と言われている。
僕も亡き父から教わったが、兄のようには上手く出来ず。こうしていつも作業を分担しているのだ。
父から兄に受け継がれたのは、おそらくこの技術だけではない。
その昔、我が国には、異能を持つ人間が多く存在していた。異能は時に身を助け、時に身を滅ぼす。文明の発達と共に手放す者が増えた為、現代に残る異能持ちは、ほんの僅かだと言われている。
異能の手放し方は簡単。自分がどんな異能を持っているかを、自ら誰かに明かすだけ。
一つの家系に、一人しか受け継ぐことが出来ない異能。親か兄弟か、つまりは親族の誰かが死んで、受け継がれてから初めてその力を知る。
必要ならば黙って保有し、不要ならば誰かに明かすことで永遠に消え去り、二度と誰かに受け継がれることはない。
もちろん自ら明かさなくても、周りに悟られる場合もある。異能欲しさに、かつては親族間の殺人が横行していたそうだ。逆に特殊過ぎる為、死ぬまで一生異能持ちだと気付かない場合もあるとか。
我が家系にも何らかの異能があり、父が保有していたことは知っている。
その父が亡くなった今、自分には全く変化がない。他に親族もいないとなれば、力を受け継いだのは兄で間違いないだろう。
兄はそれを明かすことなく、黙って保有している。
祖父も父も、代々大切にしてきたということは、仕事に関係する力なのではないだろうか。
昔から手先が器用で、何をやっても敵わなかった兄。自分が兄に劣るのは、元々の能力だけでなく異能のせいだと思えば、諦めもついた。
……ティナが自分ではなく、兄を愛したことも。
キリキリカンカントントン。
そろそろ昼食の支度をするかと立ち上がった時、玄関のドアを誰かが激しく叩いた。
兄と共に海へ走る。
汚れた手を握り締め、作業中のエプロンのまま、必死に走る。
息を切らしながら辿り着いた砂浜。
そこには、頭蓋骨や幾つかの骨が横たわっていた。
バラバラだけど、なんとなく身体のどこか分かるのは、見つけた人が丁寧に並べてくれたからだろう。
あれは肋骨だろうか。海藻が絡んだ曲がった骨に、見覚えのある金色のチェーンが引っ掛かっている。
それは、兄が恋人の為に作ったネックレスだった。
「……ティナ!!」
震える掌で頭蓋骨を包み、わあっと泣き叫ぶ兄。
僕もそうしたかった。
だけど、兄の背後で静かに泣くしか出来ない。
こうして骨になっても、僕は彼女に触れてはいけないのだから。
兄は泣きじゃくりながら、肋骨の海藻を取り除く。
細い骨を愛おしげに撫で、ネックレスへと手を伸ばした。
────突如、兄の動きが止まる。
ネックレスのチャームを握ったまま、微動だにしない。
「……兄さん?」
呼吸が止まってしまったのではと心配になる。
ほんの数十秒だったかもしれないが、それはやけに長く感じた。
やがて兄は小刻みに肩を震わせ、はあはあと荒い息を吐き出す。おぼつかない手つきで骨からチェーンを外すと、シャツの胸ポケットへそっとしまった。
ふらりと立ち上がり、僕を振り返る兄。
その目には、昏い何かが浮かんでいた。
一昨年母親を亡くしたティナには、他に身寄りがない。兄は骨を家に運ぶと、迷わず自分のベッドに寝かせた。
海からずっと無言のまま、部屋に鍵を掛け、二人きりの世界に閉じ籠ってしまった兄。棺が完成したとしても、しばらくはこのまま一緒に過ごすつもりだろう。
羨ましい……
心でそう呟きながら、僕は一人、冷たいベッドに横になった。
カチカチカチカチ。
時計の秒針と重い気配。
ハッと目を開ければ、兄が自分を見下ろしていた。
はあはあと降り注ぐ荒い呼吸。
……尋常じゃない。
そう本能が察知し、背筋がゾクリとする。
「何故……何故ティナを…………何故!!」
兄は掠れた声で叫びながら、僕の体へ馬乗りになる。
目覚めたばかりの身体は鈍く、簡単に自由を奪われてしまう。言葉も発せず固まっていると、首につうと冷たいモノを当てられた。
「ティナは赦せと言うだろう……優しいからな。だけど僕は、僕はお前を赦せない!!」
すんでのところで身を捩り、ありったけの力で兄を突き飛ばす。
床に転がったナイフを拾うと、うずくまる兄の腹を足で乱暴に踏みつけた。
沸き上がる快感。
ああ、自分はずっとこうしたかったのだ。
胸めがけてナイフを振り下ろせば、何かにカツンと当たり急所を外れてしまった。それでもなかなか良い所に刺さり、胸はじわりと赤く染まってくれる。
涙を流しながら、はあはあと荒い呼吸を繰り返す兄。その首を一気に掻き切った。
ナイフを放った僕は、ゴフリと咳き込む顔には目もくれず、赤い胸をじっと見下ろす。
胸ポケットから零れる金のチェーン。指で引っ張り、目の前でユラユラと、振り子のように揺らしてみる。
楕円に十字架が彫られた金のチャームは、ところどころ錆びてひび割れ、今にも中の銅が見えそうだ。
……所詮まがい物だな。
どんなに精巧に作ったって、本物には敵わないんだ。
ふっと笑みが溢れる。
僕は指にまがい物を引っ掛けたまま、作業場へ向かった。
いつも兄が座っている椅子にドカッと腰を下ろすと、まがい物を雑に置く。代わりに取り出したのは、密かに作っていた銅のイルカのチャーム。それを作業台に置くと、ティナを想いながら、丁寧に加工処理を施していく。
出来るはずだ……
アイツが死んだ今、異能は僕のものなんだから。
ところが金色に塗ったそばから、イルカはパキパキとひび割れ、中の銅が見えてしまう。
兄と全く同じ工程で作業しているのに。
兄が作ったまがい物は、たとえひび割れても、美しい金色を保っているのに。
「何故…………何故だ!!」
バンと作業台を叩き、まがい物を睨みつける。
死んでもまだ輝き続けるその十字架を、乱暴に掴んだ。
キリキリキリキリ。
頭に何かの映像が広がる。
青い空と青い海。
パシャリと跳ねる波を探した、いつかのあの崖だろうか。
『……ごめんなさい。貴方は私にとって、大切な幼馴染みで、可愛い弟よ。それ以上にはなり得ないの』
その言葉に昏いものを浮かべるのは、生まれてから何度も見てきた自分の顔。
……鏡ではない。
誰か、もしくは何かが、『自分』を下から見上げているのだ。
『自分』は震える口を開き、掠れた声で問う。
『……こんなに愛しているのに。どうして僕じゃ駄目なの?』
『私はアルトンを、貴方のお兄さまを、心から愛しているの。ただそれだけよ』
『何故…………何故だ!!』
豹変する『自分』。
恐ろしい形相でこちらへ迫り、手を伸ばした。
視界が暗くなり、声だけが聞こえる。
『こんなの! こんなもの、君には相応しくない! 僕がもっと、君に似合うものを作るから!』
『やめて!』
『こんなっ、こんなまがい物……!』
『まがい物なんかじゃないわ! これは本物よ!』
『……本物?』
『ええ。チャームは本物の金よ。貴重な物だからって、盗まれたり襲われたりしないように加工してくれたの。アルトンの想いが詰まった、アルトンにしか作れない、世界でたった一つの宝物よ!』
『……うるさい。うるさい!!!』
急に明るくなった視界はガタガタと揺れる。
一瞬、怯えるティナの顔が逆さまに見えたが、激しい水音の後は、泡しか見えなくなってしまった。
ハッと引き戻されたそこは、静かな作業場の静かな作業机。
チャームを掴んでいた手はいつの間にか離れ、横に力なく置かれている。
そうか……今のが異能。
金の記憶を視ることが出来る、つまりは、触っただけで本物の金かどうかを判別出来る異能だったんだ。
どっと疲れた身体を、椅子の背もたれにギシリと預ける。
「……僕が殺したのか、ティナを。そういえばそうだったな」
他人事みたいな呟きが、何だか可笑しい。
兄の様子がおかしかったのは、同じ映像を視たせいかと考えれば、更に可笑しくなる。
────まがい物は僕。
そう認めたら、心がふっと楽になった。
窓を開け、醜いイルカを外へ放り投げると、ふらふらと作業場を出て兄の部屋へ向かう。
兄のベッドで眠るティナ。
触れられなかった愛しいティナ。
僕も隣に身体を横たえ、まがい物の愛でギュッと包み込んだ。
ありがとうございました。