8.ラノベ、買うべし
およそ半月程前。
桃円高校1年A組のギャル系女子、朝倉渚沙は同級生の強面巨漢に口元を大きな掌で掴まれ、万力の様な破壊力で締め付けられた。
あの時の苦痛と恐怖は今でも忘れられない。だが何より悔しかったのは、誰も自分の味方となってあのふざけた野郎に仕返ししてくれなかったことだった。
ふたりの友人、佐竹ちよと米沢美沙絵も一応は同情してくれたし、渚沙の為に怒りの台詞を口にしてくれたものの、しかしそれだけだった。
職員室に飛び込んで件の巨漢――義零の暴挙を訴えても、どういう訳かどの教師も、そして教頭や校長に至るまでが事実関係を調査すると述べるにとどめ、それ以上のことは何もしようとしなかった。
(一体、何なの? 何で誰も、ウチの味方になってくんないのよ!)
本当に腹が立った。
教室内ではいつも、ちよと美沙絵の三人でつるんでいるだけだから、他に特段仲の良い友達が居るという訳でもない。何人かよく喋る男子は居るが、いずれも義零の獣の様な眼光にビビってしまっており、まるで役に立つ気配が無い。
(あー、もぉ~……マジでサイアク……何でウチだけ、こんな目に遭うのさ……)
いつもなら、紗璃菜で憂さ晴らしが出来た。あの地味なモブ子を適当にイジってれば、大体どんなムカつくことも忘れることが出来た。
ところがいつの間にか、あのダサいオンナはクラスでもトップクラスの美少女へと変貌を遂げ、更には義零がその背後に居る。とてもではないが、もう手を出すことは出来ない。
となると、他に鬱憤晴らしの相手が欲しいところだが、今のところ目ぼしい奴は見つかっていない。
(っていうか、そろそろこーゆーの、ムリっぽくなってきたかな……)
中学生までは、誰かをイジっていても然程問題にはならなかったし、誰も自分を止める者は居なかった。
はっきりいってしまえば、中学校ではまだ小学校の延長という意識が強く残っていた。だから周囲も、そこまで問題視しなかったのかも知れない。
しかし高校ともなると、そろそろ子供のお遊びでは通用しなくなる。特定の誰かを攻撃したり、虐めたりするのは却って、自分の立場を危うくする恐れがある。
そういう意味では義零が暴力であれ、ああいう形でブレーキをかけたのは案外良い機会だったかも知れない。勿論、だからといって、あんなふざけた真似をした義零に対する怒りが収まる訳でもないのだが。
(あ~ぁ、マジで何もかもヤんなっちゃうなぁ)
渚沙は放課後に暇を持て余した為、ひとりぶらぶらと駅近の大通りを徘徊していた。
と、そこで或る商業ビルに目が留まった。小学生の頃までは、親や友達と一緒によく足を運んだサブカルチャーグッズ専門の店舗が入っている。
(そーいや、昔はあそこでよくアニメのグッズとか、ラノベとか買ったっけ)
何となく気が向いた為、渚沙はその店内へと足を踏み入れていった。
そうして昔を懐かしみながら商品棚を見て廻っていた渚沙だったが、ライトノベルコーナーで思わず足を止めてしまった。
(え……うっそ、マジ? これ、新しいシリーズ始まってたんだ)
それは渚沙が小学生の頃に熱中していた冒険ラブファンタジーの名作で、シリーズ全体の累計販売部数も1億を軽く突破している作品だった。
(ヤバ、どーしよ……ちょっと読みたくなってきた……)
ところが手を出したくても、変な意識が邪魔をしてしまう。
今の自分はもう、アニメやライトノベルからは卒業した非オタクなのだ。今更こんなものに回帰しようものなら、他の女子やクラスの連中に絶対、馬鹿にされる。
いや、こっそり買って、こっそり家で読めば、或いはバレずに済むかも知れない。要は誰にも、買っている姿や読んでいるところを見られなければ、それで良いのだ。
しかし、どうせ見られていないだろうと油断していると、案外変なところで誰かの目に留まっているということは、よくある話だ。
であれば、ネット通販で買った方が良いだろうか。
いや、それも出来ればやりたくない。今、渚沙は両親とは余り良い関係ではなかった。あのふたりは出来の良い妹にぞっこんで、妹だけを溺愛している。
渚沙を邪険に扱うということは流石に無かったが、ひところよりも相当に関心が薄れてきているのは確かだった。
そんな両親が管理している通販用IDを借りるのは、どうにも癪だった。
(あー、何かもう、マジむかつく……何でラノベ買うぐらいで、こんなイラつかなきゃなんないのさ……)
段々腹が立ってきた。
義零に蹴散らされて以降、良いことが何ひとつ無い。やっと気晴らし出来そうなものに出会えた今も、手を出そうかどうか、変なところで悩まなければならない。
全てが、がんじがらめだった。
と、その時だった。
思わぬ人物が渚沙の傍らに立っていた。
(んげ……か、神岡ぁ?)
そこに、長身の学ラン姿が何食わぬ顔で佇んでいた。義零だった。更にそのすぐ隣には超絶美少女と化した紗璃菜の姿もあった。
「あ……」
紗璃菜の方も渚沙の姿に気付いたらしく、幾分バツの悪そうな表情。しかし義零は渚沙の存在など端から視界に入っていないかの様に完全無視で、その視線は件の新作ライトノベルに据えられていた。
「神岡君、今日はそれを買いに来たんですか?」
紗璃菜が訊くと、義零はさも当然の如く、今の今まで渚沙が買おうかどうか悩んでいた冒険ラブファンタジーの最新刊を手に取った。
「へぇ……意外ですね。そういうのを読むなんて」
「俺は読みたいものを欲しい時に買う。誰にどうこういわれる筋合いはねーぜ」
渚沙は内心で仰天し、レジへ向かう義零の後姿を呆然と眺めた。
そして我知らず、いつの間にか声をかけていた。
「あ、ちょ……ちょっと待ってよ……アンタ、そのシリーズ、ずっと読んでんの?」
問いかけられた義零は足を止め、胡乱な眼差しを返してきた。
「読んでるぜ。この作者はいつでも最高のストーリーを用意してくれる」
何故そんなことを訊くのかと、如何にも不審げな顔つきだった。
渚沙は、どうしてこんな奴に声をかけたのか自分でも分からなくなってきたが、しかし胸の内から飛び出してくる言葉を止めることは出来なかった。
「ってか、アンタ恥ずかしくねーの? それ、オタ女子向けのラノベなんだよ?」
「恥ずかしいだと? てめー、この作者馬鹿にしてんのか? こんな良い話書いてる御仁の作品を、恥ずかしいとか抜かしやがる訳か? てめーにこの作者の何が分かるってんだ?」
その瞬間、渚沙の全身に雷撃を浴びた様な衝撃が走った。
そうだ、自分は、この作者の良いところ、素晴らしいところを知っている。
なのに何故、その新作を手に取ることにあれ程、躊躇していたのか。
渚沙は平積みされている新作を素早く手に取った。それも三冊。実用、保管用、布教用だ。そして義零よりも早く小走りにレジへと進み、清算を済ませる。
そんな渚沙の姿に、紗璃菜が驚きの表情を浮かべていた。
後に続いて清算を済ませた義零がレジ前を抜けて出てくると、紗璃菜が義零と渚沙が携えている専用レジ袋を交互に見遣っていた。そしてよくよく見ると、紗璃菜も同じ作者の別のシリーズを何冊か購入している様子だった。
「アンタも、そのひとのラノベ読んでんの?」
「あ、うん……前から好きだったから」
その応えに、渚沙は酷く後悔した。
同じ作者のファンを、自分はただ容姿が気に入らない、イジり易そうだという安易な考えで、あんなに虐め、攻撃してきたのか。
相手のことをよく知りもしないで、よくそんなことが出来たものだ――義零に対する怒りよりも、今までの自分に対する憤りが遥かに上回った。
そして気が付くと、渚沙は紗璃菜に頭を下げていた。
「刈倉……その、今まで、御免……めっちゃ今更感だけど、でも、謝らないと気が済まないっていうか……」
この時、渚沙の中で何かが変わった様な気がした。
否、変わったというよりも、何かを思い出したといった方が正しいかも知れなかった。