二章 一幕
豪奢としか言いようのない贅沢な広さのベッドの上で、私は、まだまどろんでいた。
けれど、瞳が静かに開かれ、起床する。
どうやら、今朝の目覚めは割と好調だったようだ。久方ぶりに。
けれど、起き抜けの私の目の中に飛び込んできたのは、見知らぬ天井。私の部屋の天井ならば、五千ピースのプロレスラーのパズルが貼ってあるはずだ。
「ここは…御雅来家の客室だ」
声に出して、自分がどこにいたのかを確認する。
窓から見える空は晴れ渡っていた。
「…なんでこんなことになったんだろ」
こんな寝覚めのいい朝を迎えるとは、思いもよらかなった。
首輪を嵌めたお嬢様に出会った。
そのお嬢様の鎖を握るご主人様に出逢った。
フィギュアオタクの執事に出会った。
人間と遜色のない人形を創る人形師に出会った。
白装束の少女と出逢った。
異物だらけだった。いや、この異空間の中では、自分こそが異物だろうか。
そこで、ふと壁掛け時計が目に入って慌てた。すぐそこまで朝食の時間が迫ってきているではないか。私は、大慌てで着替えに取り掛る。ここに着いた時の私は着の身着のままだったが、着替えは沙良羅が貸してくれた。ただ。
「スカートなんて穿いたの…いつ以来かな」
普段はジーンズで過ごす私にとって、久しぶりのスカートは少しだけ気恥ずかしかった。けど…私はくるりと一回転してみた。ふわりとロングスカートの裾が翻る。少しだけ、沙良羅になった気分だった。悪くないかも。
そして、颯爽と部屋を出ようとした私だったが、出た瞬間に、廊下に顔面ダイブしていた。爪先でスカートの裾を踏んでつんのめったようだ。
「まさか、こんな初歩的なボケをやることになるなんて思わなかった…」
いや、逆に新しいかもしれない。などと自分を擁護しながら立ち上がった私は、客館の玄関に向かった。そこで沙良羅たちと待ち合わせをしていたからだ。だが、そこにはまだ悠と沙良羅の姿はなかった。いたのは、執事の巻島半兵衛だけだ。時計を見ると、少しだけ時間には余裕がある。そこまで焦る必要はなかったのかもしれない。
「おはようございます、半兵衛さん」
とりあえず、私は半兵衛に挨拶した。
「おはようございます、紅井様。早朝から見事なヘッドスライディングでしたな」
「…見なかったことにしておいてください」
それから五秒も経たないうちに神降悠が現われ、最後に。
「にゃおおーん!ユウ様ぁ!」
ペットお嬢様(又はお嬢様ペット)の沙良羅が爽やかな早朝の中を駆けてきた。
「ユウ様!首輪を嵌めてくださぁい!」
沙良羅は手に持っていた首輪を悠に手渡した。受け取った悠は、お嬢様に首輪を嵌めようとするのだが(中々にあるまじき光景だった)、「ちょっとサラ、そんなに引っ付いたらつけられないんだけど」「ペットはご主人様になつくものです」と、ベタベタにくっ付く沙良羅の所為で難儀していたようだ。
昨夜、部屋に戻る前に沙良羅が言っていたことを私は思い出した。首輪を嵌めるのも外すのも、ご主人様の大事な仕事らしい。これも、『ご主人様お約束条項』の中に含まれているのだそうだ。たしか、第八条だっただろうか。全部でどれだけあるのだろうか。怖いから聞きたいとは思わないけれど。
「では、まいりましょう」
今朝も元気な首輪お嬢様は、ご主人様の腕に自分の腕を絡めて歩き出す。もうすぐ朝食の時間だ。
食堂に辿り着いた私たちを、御雅来家の朝食が出迎えてくれた。御雅来家の朝の食卓には、プレーンオムレツ、シーザーサラダ、フルーツジュース、フルーツの盛り合わせ、クロワッサン、ポーチドエッグに生ハムなどが、所狭しと並べられていた。すげえ、こんなの絵に描いたような豪華な朝ご飯を食べてる人たちって本当にいるんだ。
そして、朝食が始まった。さすがに、沙良羅は手慣れた様子で食べている。
御雅来家の面々も、それなりに様になっていた。そして、庶民派だと思われたはずの悠までもが、きちんとしたマナーで食事をしている。右往左往していたのは、私だけだ。昨夜は和食だったから、ここまであたふたとすることもなかったのだが。
「おじい様、お約束のお時間は十時でよろしかったですよね?」
沙良羅が口元をナプキンで拭きながら、確認の為に夜彦に問いかけた。
「ああ、十時ちょうど…いや、若しくは、十時より少し遅い時間に頼むよ。九時五十分からの「真田真由の五分でお料理がんばるぞ』を見逃すわけにはいかんからな」
「真田さん…?どなたなのですの?」
「おや、知らんのか?今、一番キテいる女子アナだよ。上杉アナも捨て難いんだが…」
…女子アナマニアだったのか、夜彦さんは。
その後も、人形師は真田アナの経歴などを熱く語り始めた。あれだけの腕を持つ夜彦のイメージが、簡単に瓦解していく有り様だった。
「では、ワシは工房に行くとするか。ああ、そうだ。どうせなら、東と一緒に来てくれるかな。あいつにも用事があったんだ。東にはワシの方から言っておくから」
女子アナについて語るだけ語り終えたら、老人形師はさっさと退散してしまった。なんて実のない時間を過ごしたのだろうか。
「わたくしたちも、時間までお部屋ですごしましょうか」
沙良羅の一声で、私たちも席を立った。そして、そこで沙良羅は砂鳥にも声をかけた。
「砂鳥さんも…よろしければ、いかがでしょうか?」
「私は…やめておく」
「そうですか…」
しゅんとした顔を見せたお嬢様だったが、無理強いをすることはなかった。結局、この本館に足を運んで来たのと同じ面子で戻ることになった。その後、私たちは沙良羅の部屋に集まり、適当にお喋りなどをして過ごした。
「そろそろ約束のお時間ですわね」
沙良羅が、やや手持ち無沙汰に呟くと。
悠が、それに答えた。
「そうだね、東さんが呼びに来てくれるんだよね?」
確かに、そろそろ工房へ行く時間だ。そこで、ノックの音が聞こえてくる。
「翼王道さま、お迎えに上がりました」
東が、扉越しにそう告げた。私たちはその声に促され、外に出る。
「んんー…やっぱり、いいお天気だと気持ちがいいですわぁ」
館の外に出ると、沙良羅は両掌を向日葵のようにお日様に向け、気持ちよさそうに背伸びをしていた。そして、それが終わると、いつもの指定席…悠のすぐ傍に落ち着く。
「ちょっと歩きにくいんだけど」
悠は抗議した。けれども、沙良羅は聞く耳を貸さない。躾の行き届いた飼い犬は、散歩の時、主人から少し離れた位置を、主人と一定の間隔を保ったまま並行して歩くものらしい。対して、ピッタリと主人に密着して飼い主の歩行を困難にしてしまったりするのが、きちんと教育されていない犬なのだそうだ。いや、だからどうという話でもないが。
「…あれ、は?」
件の人形工房が見えて来た頃、沙良羅が呟いた。
工房以外にあるモノが見えていたからだ。私にも、その在りえないモノが見えた。
「ユウ様…人が、倒れております!」
叫んだ瞬間には、沙良羅はもう駆け出していた。しかも、半ば悠を引き摺るような形で。私たちも沙良羅の後を追った。
倒れていたのは、人形師・御雅来夜彦。
「おじい様!おじい様!」
辿り着いた沙良羅は、うつ伏せに倒れていた老人形師の恰幅のいい体を、必死に揺すっていた。老人からの反応は、なかった。呼吸すら、していなかった。
「夜彦様!」
東正門も叫ぶが、やはり反応は無い。
いきなりの急転直下に、私はついていけなかった。
うつ伏せに倒れていた夜彦を、悠が仰向けにした。恰幅のいい老人の体は軽いものではなかったので、少し重労働そうだった。悠は、続けざまに脈を計った。
「ユウ様、いかがですか…」
沙良羅の、小刻みに震える声。
悠は、その声に首を振った。脈拍は、なかったようだ。
だが、なぜ、この老人が死ななければならないのだろうか。
どのような理由でもって、この人物がこんな脈絡もないところで死ななければいけなかったのか。
「ふふ…あはは、あははははははは」
静まり返っていた湿った空気の中、乾いた笑い声がこだました。こんな逼迫した状況の中、それは絶対に許容されるものではない。
狂ったような笑い声をあげていたのは、作務衣の使用人である東将門だ。