八幕
ノックの音が響いた。
宵闇が深まる時刻、死んだように静まり返る室内に。
その音は控え目な音量だったが、それでも部屋の中の私を緊張させるには十分だった。
「あ、あの…どなたですか?」
こんな非常識な時間に、一体ナニモノだというのだ。
いきなり扉を開けたりせず、私はドアのその先にいる『誰か』に問いかけた。
「わたくしです…翼王道沙良羅ですわ」
聞こえて来た声は随分とかわいらしく、私にとっても多少は馴染のある声だった。
「ええと、何か用…なのかな?」
沙良羅が相手だと分かり、安堵した私は扉を開けた。廊下の薄暗さと室内の明るさが、徐々に相まる。そこに立っていた沙良羅は寝巻き姿で、胸の前で枕を抱きかかえていた。
「あの、唐突で申し訳ないのですが、ナオコさん…」
言い淀んでいた沙良羅だったが、何となく次の台詞は予期できた。というか、枕を抱えた寝間着スタイルなのだから答えなんて一つしかない。
「あの、ナオコさんとご一緒に寝ても…よろしいでしょうか?」
沙良羅は、気弱そうな瞳で私に窺いを立てていた。足下でか弱く鳴く子猫みたいで、無下にはできなかった。
「どう、ぞ…」
だから、私はサラを招き入れた。まあ、厳密に私の部屋というわけではないのだが。
「本当に、よろしいのですか?あの、枕まで持参しておいて、こんなことを聞くのもなんなのですが…」
沙良羅なりに気遣っているようだ。その様がいじらしくもあり、効果は抜群だ。
「うん…その方が、私もいいから」
これは、多分、本心だった…はず。
「ありがとうございます、ナオコさん」
「別に、お礼を言われることじゃあ…ないと思うよ」
沙良羅が部屋に入ると、重々しかった空気が、少しは軽くなった気がした。女の子密度が上がったからだろうか。それでも、室内の硬さが完全に払拭されることはなかったが。
「では、お邪魔いたしますね」
「どうぞ、お入りくださいませ」
沙良羅の上品さを真似てみた。頗る似合っていなかったけれど。
「ナオコさん、そのパジャマの着心地はいかがですか?サイズは合っていますか?わたくしの物ですが、気に入っていただけましたか?」
まだ、少しだけ硬さが残る部屋の中、沙良羅がそんなことを尋ねてきた。着の身着のままでこのお屋敷を訪れた私は、沙良羅から衣服を借りている。
「うん、すごくいいよ。なんていうのかな…すべすべでプリンみたいだね」
お嬢様のパジャマは、シルク生地の極上品だった。そんな逸品に対し、今の比喩は我ながらどうかと思ったが。
「お気に召していただけたのでしたら、わたくしも嬉しいですわ」
その後、私たちは他愛のない話を繰り返していたが、まだ少しぎくしゃくしていた。二人とも、妙な緊張感を引き摺っていた。本来なら、女の子が二人いればもう少し華の話をするところなのかもしれないが、この状況では仕方がない。
今日、この場所では、人が一人、殺されていた。
その事実が、夜になると重く圧しかかってきた。
「じゃあ…そろそろ寝ようか?」
しばらく話をした後で、私は沙良羅に提案した。沙良羅のお陰で、私の中の恐怖もかなり薄れていた。
「そう、ですわね。明日も早いことですし」
沙良羅と二人で並んでベッドに入る。ベッドサイズは大き目だったので、女の子二人が寝てもスペース的にはまだ少しの余裕があった。いや、これはサラが細身だったからかもしれない。ちくしょう、羨ましい。でも、私だって太いというわけではないはずだ。二月前に比べて、三キロほど増量しかけてはいるが。
そこで、ふと考えた。
自分はまた、こうして夜を迎えている、と。
…それはなぜだ、と。
そんな私に、沙良羅が言った。
「あの…ナオコさん、もう寝ましたか?」
「え…何かな?」
「あと少しだけ、お話してもよろしいですか?実はわたくし、お友達の方とこうして枕を並べて寝たことがありませんでしたので、今はすごくワクワクしているのです」
沙良羅は静かに、しかし嬉しそうな口調だった。
「初めてって…修学旅行の時とかは、サラさんはどうだったの?」
「これまで、学校らしい学校には行ったことがございませんでしたので…」
「学校らしい学校には…?」
含みを持たせた沙良羅の物言いだった。
「ええ…あまり、外と交流のある学校では、ございませんでしたので」
それは、カゴの鳥なのではないだろうか。
誰かさんと、同じで。
「ですが…この春から、わたくしは大学生になるのです。しかも、ユウ様と同じ学校に通えるのですわ。わたくしにとって、これほど嬉しいことはございませんわ」
「サラさんって…ユウ君とは、ずっと一緒じゃなかったの?」
このお嬢様なら、どんな手段やを講じてでも、悠と一緒にいたのではないだろうか。
「いえ…残念なことに、これまではユウ様とは二月に一度ぐらいしかお会いすることができませんでした」
「そうだったんだ…携帯電話の請求書だって、月に一回は来るのにね」
この仲睦まじい(?)二人にも、色々と事情などがあったようだ。いや、先ほどの半兵衛の話を聞いた限りでは、事情があって然るべきか。
「ところで、ナオコさん…」
「なに、サラさん?」
「あの、その…」
沙良羅がもじもじと体を動かしていることを、同じベッドの中にいる私は理解していた。だが、そんな私の予想を、このお嬢様は軽く飛び越えてくる。
「あの、ですわね…キスというものを、なさったことが、ございますか?」
…何か、言いづらそうなこと言い出してくるだろうとは私も予想していた。
だが、まさかこう来るとは。甘酸っぱすぎて言葉が全く出て来ない。いや、まあ、その、そういった青い経験がないわけではなく…いや、まあ、ないのだけれど。
そして、沙良羅は続ける。
「ナオコさんはご存知でしたか?初めてのキスは…レモンの味がするらしいですわ」
…そうくるか。
しかし、お嬢様の世間知らずも、ここまで行き着いてしまえば天然記念物クラスだ。もしかすると、沙良羅はさっきからこの話がしたくてこの部屋に乗り込んできたのかもしれない。
「…ユウ君とはそういうの、したことないの?」
よせばいいのに、私も尋ねてしまった。
「えと、その、ユウ様…そういうことなどは、してくださいませんし…」
「そうなんだ。でも、じゃあ、サラさんからは…しないの、キス?」
なぜだか、私の方がこの話題に踏み込んでしまっていた。女子会マジックといったところだろうか。
「わたくしからおねだりをするなんて、ユウ様にはしたない女だと思われてしまいますわ…」
…首輪は、はしたなくないのだろうか?
「ふーん、そうなんだ…それじゃあ、どうしてペットなの?」
私は、ついにその質問をした。して、しまった
「…………」
沙良羅の表情が、一瞬、ゼロになった。
数秒後、沙良羅は口を開いた。
「わたくしは、幼い頃からずっと、翼王道家の娘として生きてきました…そこに、わたくしという存在はなかったのです」
「存在が……なかった?」
ここに、存在しているというのに?
「ソレは、わたくしであってわたくしではなかったのです。翼王道家の娘という役割りを割り振られた、ただの小娘に過ぎません。だってそれは、わたくしでなくともよかったのですから…いえ、わたくしよりも、他のダレカの方がその役割を上手く熟せたかもしれません」
沙良羅の声は静かで、沈痛だった。
それは、沙良羅の根幹から溢れてきた痛みだ。
「わたくしでは…あまり、両親の期待に応えられませんでしたから」
「…期待に応えられなかった?」
私は、それほど沙良羅の事を深く知っているわけではない。
けれど、沙良羅がいい子であることは、知っている。分かっている。
…それなのに、沙良羅は語る。重い感情を引きずったまま。
「わたくしは…失敗作なのだそうです」
沙良羅のか細い声が、さらに先細る。
それとは逆に、この台詞を聞いた私の声は、大きくなった。
「そんなバカなこと…あるはずがないよ!」
私は、声を荒げていた。
そんな私を見て、沙良羅が目を開いて驚いていた。そして、続ける。
「けれど、わたくしは失敗作だったのですよ…翼王道家の、娘としては」
「そん、な…」
沙良羅の発言を否定しようと言葉を探していたが、うまい言葉が出て来なかった。
私が間誤付いてる間に、沙良羅が口を開く。
「ですが…ユウ様が、そんな雁字搦めだったわたくしを解放してくださいました」
沙良羅の吐息が、そこで深く吐き出された。
「そういえば何か事件があったって、半兵衛さんから聞いたけど…少しだけ」
「ええ、しかし、その事件のお陰でユウ様とお知り合いになれましたし、わたくしは翼王道家の娘という重荷から解き放たれました…けれども、その時のわたくしは既に、何らかの役割りがなければ、駄目になっていたのですわ」
「役割りがないと…駄目?」
それは……私と、同じでは、ないのか。
「その時のわたくしは、既に自分というモノを失っていました。見失っておりました。何らかの役割りがなければ、わたくしは生きてはいけなかったことでしょう。そんなわたくしは、自分に新たに役割りを創りました。それが、ユウ様のペットです」
「そう………なんだ」
なんだ、見つけているんじゃないか。
新しい、役割を。
「ええ、それにペットならば、それまでには許されなかった、多少の我侭も許されますから」
…それにしても限度はあると思うが。
そんな沙良羅は、小さく舌を出して微笑んでいた。
だが、そうか。それが、この二人か。
そりゃあ、沙良羅だって悠にベタベタになるわけだ。
その後、沙良羅と私は女の子トークを、折り返し繰り返し続けていった。
今夜という夜が、さらにしっとりと更けるまで。