序章または追想
あなたは犬派ですか?
それとも猫派ですか?
ペットの代表格と言えば、やはり、一も二もなくこの犬と猫が上げられるだろうか。
犬は愛玩用としてだけではなく、番犬や狩猟の際のお伴などで、太古の昔から人類の相棒として人間社会の片棒を担いできた。そんな、大昔から連綿と続く犬と人間たちとの信頼関係は、時代が古代から現代に移っても、一向に色褪せることはない。いや、むしろその無傷な絆はさらに強固なものになっている。
対して、猫は犬ほどは人間の生活に密着した生き物ではなかったが、その只ならぬ愛らしさに骨抜きになる間には事欠かなかった。かくいう私も、どちらかと言えばこのにゃんこ派だ。にゃんこはいい。うん、実にいい。
「…………」
そして、この二種以外にも、人類は様々な愛玩動物を飼育している。そもそも私はペットを飼育した経験はないのだが、その人間たちの気持ちは理解できないこともない。
だが、分からなかった。
あんなペットについては、まるで理解の範疇外だった。
あんな型破りなペットは、唯一無二にして、二進も三進もいかない存在だからだ。
だから、二目と見ることもない筈だった。いや、そもそもアレは性質の悪い不埒な幻影だったのではないかと疑い始めていた矢先だった。
だが、その二進も三進もいかないはずのペットを、私、紅井菜穂子は再び目撃していた。この、鳳凰院大学の入学の式典の場で。今まさに、新入生代表として講堂の壇上に上がろうとしているあの二人を。
「まさか、あの二人と同じ大学だったなんて…」
そういえば、あの二人の進路については聞かずに別れていた。
だが、あの二人を目にした私の瞼には、否応もなしに別の光景も浮かんだ。
それは、あの境界の失せた悲劇。
そして、もはや取り返しのつかない、私の原罪。
だが、私の脳裏には、どこかしら物憂げな寂しさに似た温い情緒が霞んでいた。まさか、あの二人とまた出逢うなんて。
あの二人と再会する心算も、そのゆとりも、あの事件の後の私には微塵もなかった。だが、逢いたかったような。けれども、逢いたくはなかったような。私は、自身の感情ながらそれを正確に把握することができなかった。
「サラ、こういうのは常識が外れてるんじゃないかな。新入生代表に選ばれたのは君だけで、ぼくが一緒というのは何か違うと思うんだけど」
声変わりが途中でさじを投げて終わってしまったような、甲高い少年の声が聞こえる。
私は、座席から立ち上がりたくなる衝動を抑えつけながら、少年を…いや、彼と彼女を、眺めていた。
「何をおっしゃられるのですか、『ペットの誉は主人の誉』です」
それに続いて、気品に包まれた少女の声が聞こえてきた。ただ、確かに気品はあるのだが、やんちゃな音色も仄かに匂わせてくれる。その声質が受け皿となって、聞く者にある種の安心感を呼び起こしてくれる。
「…やっぱり、あの二人の声だ」
私が聞き間違える筈などない。
声は彼らのものだ。そしてそれ以上に、あのすっとぼけた会話がいかにもあの二人のものだ。その二人が今、新入生代表として壇上に上がろうとしていた。だが、彼女を新入生代表などという大役に選んだのは誰なのだろうか。本人の首が飛ぶだけで済む問題ではなさそうだが。
何しろ、彼女には…そんな彼女の首には。
首輪が嵌められていた。
それは、パンクファッションのような刺々しいアクセサリーではなかった。そして、真珠もあしらわれてはいないし、ダイヤも埋め込まれてはいない。
犬猫を繋ぎとめる、純粋な、首輪。
彼女を縛るための、無粋な、首輪。
「まさか、入学式でも首輪だとは思わなかったよ…」
冗談のようだが、これは現実だった。
しかし、そんな突拍子もない格好をしていた彼女だったが、何人たりとも真似も類似もできない愛くるしい微笑みを浮かべていた。その後ろを、従者のように彼女に連れられて歩く背の低い少年。彼のその手には、首輪から延びる純銀の鎖が握られていた。
少女と少年は、首輪と鎖という物理的な絆によって芋蔓式に繋がっていた。
つまりは、ペットとは彼女のことで。
そして、ご主人様とは、彼のことだ。
「このご時世に正気の沙汰とは思えないけどね…」
人権や倫理の問題にかかわってくるので、それが間違いではなく、たとえ手違いであったとしも、ホモサピエンスに使っていいシロモノではないんだよ、首輪は。そういった行為は、非人道的な行為とされる。エリザベート・バートリーや、ジル・ド・レなどの非情な人物が行なう陰惨な蛮行だ。少なくとも、どこぞのお嬢様がデフォルトで装備していいシロモノではない。
けれど、首輪の彼女の微笑みは燦々と輝いていた。首輪にまつわる陰惨なイメージなど、軒並み蹴散らしてしまっている。
入学式という俄かにとっ散らかったこの晴れ舞台の中にあっても、あの二人のスタンスは梃子でも鏝でも変わらないらしい。いや、それくらいでなければ、あんなバサラな格好はできやしないか。
あの、自らペットを名乗る麗らかな気品に満ちた美少女と背の低いご主人様、そして何の変哲もない女子大生であるはずの私との、仮初めに近かった馴れ初めを語る為には、時を一週間ほど遡る必要があった。