第31話 想定外の光景
手を離してもらえたはいいものの、何も言えない俺は静かにジンライムを口に運び、マスターはグラスを拭く。
「男はいいわよね。胸がぺったんこでも好奇の目に晒されたりしないし! 断崖絶壁なんて言われたりしないしね!」
むう。これは困ったぞ。どのような言葉をかけるべきかわからねえ。ここで選択肢を間違えると、バッドエンド一直線な気がする。慎重にならなければ。
冷や汗をかきながら必死で思考回路をフル回転させてたってのに、空気を読めねえマスターがいきなり吹き出しやがった。
「くふ、くふふ、断崖絶壁……お、お嬢さん。何も気にする必要はありませんよ。世の中には断崖絶壁が好きな方もいらっしゃいますから。例えば土曜日のテレビ番組に出演している方とか」
「それって、ただの犯人を説得したい人の話よね! 私も説得されるの? だったら、いっそ飛び降りてやるわよ!」
ブチ切れ翔子がマスターの襟首を掴む。それにしてもこいつ、マスターのあの台詞だけでよく意味がわかったな。俺にはちんぷんかんぷんだったぞ。
「とりあえず落ち着け。マスターを絞め殺しても、断崖絶壁は豊かにならねえぞ」
「知ってるわよ! ただの八つ当たりよ! 貴方にもしてあげようか!?」
おお、怖え。ヒトヅウーマンに変身してるわけじゃねえのに、凄え迫力だ。こいつなら普段の姿のままで、アクダマンをぶちのめせるんじゃねえか?
あ、そうだ。ヒトヅウーマンっていえば、こいつ、どうやって変身を解除したんだ。
「なあ、話は変わるが、どうやって元に戻ったんだ?」
「え? 元に戻りたいって思ったからよ」
それでいいのか、簡単だな。そういや変身時も特別なポーズとかなかったもんな。一瞬だけ素っ裸も同然になってたが。
「……ちょっと。涎が垂れそうになってるんだけど。まさか、私の変身時の姿を思い出してたりしないでしょうね」
うぐ、鋭い。
「これだから変態ドスケベ面白猫は嫌なのよ」
ずいぶん長くなったな。俺の呼称。まあ、どんな風に呼ばれても構わねえけどよ。
「私の素晴らしい巨乳をチラ見できたからって、色々なところを元気にしちゃってさ」
確認したのか、お前。まあ、元気になりかけそうだったけども。そういうとこだけは人間と一緒なんだよな。だから普段はわりと自分が妖精なのを忘れちまう時もある。
「なるほど。ウメボシ様は崖で叫びたいタイプの方だったのですね。ですが、その崖の向こうに日本海は見えませんよ。崖より高い山ならありそうですけどね。はっはっは」
「とりあえず、こいつぶっ殺す」
マスターに物騒な発言をする翔子を、大慌てで後ろから羽交い絞めにする。ゆっくり酒飲んで今日一日の出来事を愚痴りたかったのに、これじゃストレスがたまるだけだ。
「マスター、今日はもう帰るよ。ご馳走様」
前世は確かに引きこもりのニートではあったが、コミュ障ではなかったので挨拶も問題はない。
そのまま引きずるようにして、翔子と一緒に店を出る。
だいぶ夜が遅くなってきたのもあり、外に人通りはほとんどなかった。
「お前な、俺の安らぎの時間を邪魔するんじゃねえよ。晩飯も食えなかっただろうが」
「失礼ね。あの奇妙なマスターが私に喧嘩を売ってきたせいじゃない。ところで、お代は払ったの?」
「だからここは飲み屋じゃねえんだよ。マスターの家へ遊びに行ってただけだ。便宜上、店って呼んでるけどな」
「じゃあただ飲みできるんだ」
「いや。月末に普段から世話になってるお返しをマスターにする」
「要するにツケ払いじゃない。小狡い手を使ってるわね」
「まあ、いいだろ。客は俺ひとりしかいねえからな。定年退職したマスターが、過去の夢を追いかけてやりたかっただけなんだと。店にするまでの金はねえから、酒の種類も少ないしな。要するに道楽で楽しんでるわけだ。奥さんと娘さんにも、定年と同時に出て行かれちまったみてえだしな」
さすがの翔子も「切ないわね」くらい言うかと思いきや、腹を抱えて笑い出した。こいつは鬼だ。人の姿をしてるだけの悪魔だ。
「あんな調子で家族にも接していたら、当たり前じゃない。その点、私の旦那様は違うけどね。何なら、貴方にも見せてあげようか?」
「そうだな。ついでにどこか適当なスペースを貸してくれたら助かる。普段はマスターのとこの車庫で寝てるんだが、今日は出てきちまったからな」
「へえ。あそこを根城にしてたのね……って、もしかして、三年間ずっと?」
地球に来てすぐにマスターと出会い、それからは世話になっている。月々五万円の俺の生活費に同情し、格安で酒も飲ませてくれる。ありがたい人物だ。その点を説明してやったのに、何故か翔子は呆れた顔をしている。
「何だよ。文句でもあるのか」
「文句はないわよ。ただ、三年もこの近辺をうろついてるだけじゃ、ヒトヅウーマンの候補者が見つからなかったのも納得よね」
「馬鹿野郎。見知った土地以外に行くのは怖いだろうが。コミュ障じゃなくたって、引きこもりだったんだぞ!」
「胸張って言うことじゃないわね。ま、いいわ。かわいそうだから物置くらい貸してあげるわよ」
外で寝るよりはマシなので、それでも十分にありがたい。素直にお礼を言ってやるとしよう。
本当に翔子の家はマスターの店の近くだったらしく、数分もしないうちに到着した。
二階建てのマンションというより、アパートの一室を夫婦で借りているらしい。
ここよと翔子が案内してくれた部屋のドアの前に立った時、中から人の声が聞こえた。男性のだ。
「ん? お前の旦那が誰かと話してるみたいだぞ。客人か?」
「来客があるとは聞いてないわよ。でも、テレビ見てひとり言を口にする人じゃないし……」
翔子も不思議がってたので、いけないと思いながらもドアを少しだけ開けて、こっそりと室内の様子を覗いてみた。
おいおい、マジか。俺は自分の目を疑った。
なんと廊下に座っている翔子の夫と思わしき男が、自転車アクダマンと談笑してやがったのだ。
「な、なんてこと。まさか、あの自転車、旦那を取り込もうというの?」
いや、それにしてはなんか変だぞ。驚愕する翔子の隣で、俺は軽く首を傾げた。
喋る自転車に驚いてなければ、怯えてるようにも見えない。とてもフレンドリーな感じだ。
急いで中に入りたがる翔子を制し、観察を続けようと提案する。なんだか胸騒ぎがしやがるからな。




