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08_天使の祝福(ユウナレア)





 それにしても。

 このゲイル・ラインバックという男は――なんなのだろう。


 ユウナレアは至近距離で己を見つめる英雄から目を逸らさないまま、内心でひとしきりの訝りをこねくり回した。


 事前の予想としては、婚姻に対する不満を吐き出す――これが可能性としては最も高いと思っていた。そしておそらく、ユウナレアがラインバック家の財政を執行していることに対する不審と疑念を表し、さらにはユウナレア個人に対する不満が来るのではないか……そう考えていたのに。


 なにもなかった。

 むしろ事態はユウナレアの望むままに進みそうだった。


 物分りがいい――というより、ひょっとするとどうでもいいのかも知れない。伯爵家次男としての責務は意識しているようだが、それに関しては既に十分以上に果たしている。誰にも真似できないことを、ゲイルはやってのけた。


「おまえからは、なにか俺に要求はあるか?」


 相変わらず至近距離に顔面を置いたままでゲイルが問う。

 この距離で見ると――あまりの迫力に、怖気を感じずにはいられなかった。ゲイルに害意などありはしないだろう。しかし彼の顔面に刻まれたいくつもの疵痕が、歴戦の激しさを物語っている。戦場など一度たりとも経験したことのないユウナレアでは想像し得ない、激しい戦いの痕跡。


 ユウナレアは、ラインバック家で力を示した。停滞していた財政状況を動かし、一年しないうちに領内の景気を上向かせた。

 しかしその『力』は、彼には一切届かないだろう。


 その気になれば、何処の誰であろうが殺して逃げ遂せられる。

 実際にそれができるのかは知らないが、そうできるだろうと思わせるだけの迫力が、ゲイル・ラインバックにはあった。


「私からは……ありません。旦那様に望むことは、なにも」


「そうか。思いついたら言え。俺の方はおまえに要求がある」


 ゲイルは顔の位置を戻し、机の前から一歩だけ下がった。

 ようやく――今更になって、ユウナレアの鼓動が激しくなるが、だったら今の今までは、心臓が止まっていたのかも知れない。


「要求、ですか?」


「ああ。第三大隊に所属していたやつを、四人ほど俺個人の部下にしたい。まず、シェリーとダニー。こいつらは南方の移民の血を引いているらしく、浅黒い肌の双子だ。髪の色は灰。それから、イニアエスという女。こいつは両目を隠すように眼帯を巻いている。魔法兵だ。あとはマーヴィ・ルゥスだな。こいつは二十九歳の小男だ。猫背気味で、目付きが悪く、下っ端みたいな喋り方をする」


 情報量が多い。

 が、特徴的な情報でもあるので、記憶するのは簡単だった。


「その四名を、旦那様の部下に……ですか」


「ああ。公費で賄えるか?」


「それはもちろん、可能です。旦那様に本来使われるはずだった公費は、この四年間、一切使われていませんので」


 なにしろ戦争に行きっぱなしで、一度も帰って来ていなかったのだ。

 伯爵家子息として受けられるはずだったあらゆる恩恵を、この男は四年間一切受けていない。それどころか、人として与えられて当然の様々なものを、ひとつとして与えられずに、少年期を終えたのだ。

 十五歳から、十九歳。

 ユウナレアが学院でエドワード殿下と出会い、能力を認められ、友人関係になって、彼の下で力を振るうべきと将来を思っていた頃――ゲイルは剣を振るい、振るわれ、殺して殺されそうになっていた。


 強烈な自己嫌悪に、ユウナレアは吐き気すら感じてしまう。鏡に向かって思い切り額を叩きつけたいような気分を、それでもどうにか表へ出さず、抑え込む。


 ゲイルはもちろんユウナレアの心情になど気付かず、「ふむ?」と首を傾げて、問いを口にした。


「そういえば兄上とカートを見ていないな。出迎えの場にもいなかった。二人はどうしている?」


「……っ、ガーノート義兄様でしたら、軍部で仕事をしていらっしゃるはずです。第三大隊の帰還が予想以上に早かったので、おそらく本日中にはご帰宅なさらないかと存じます。停戦後の処理もありますので、あるいはしばらく帰宅しないかも知れません」


「カートは?」


 カート・ラインバック。この家に来て初めて出会った、ユウナレアにとっての天使。悪意なく、ただ善意と優しさを与えてくれた、ラインバック家の三男。


「カートは家庭教師が来ておりましたので、歓待よりも勉強を優先させ――申し訳ございません! もう家庭教師は帰っている時間です。本来であれば、なにより先に旦那様と会わせるべきでした!」


 思わず立ち上がり、作法もなにもなく頭を下げる。

 もちろん、そんなユウナレアの態度を気にするゲイルではない。


「ふむ。それならカートの部屋まで案内してくれ。おまえの口振りでは、弟と仲がいいようだからな」


「いえ、私の方が『仲良くしていただいている』のです」


「そうか。では案内を頼む」


 了承を待たず、ゲイルはさっさと踵を返した。もちろんカートに会いに行くこと自体は拒否するつもりもないが、最低限、やるべきことがあった。


「二人共、話は聞いていましたね? 旦那様の意向を書類にして軍部へ提出しなさい。残りの仕事は任せます。よろしいですね?」


 そう、執務室にはまだ部下の文官が一人と、ユウナレア付きのメイドであるシェラが残ったままだった。

 どちらもゲイルに怯えきって存在感を消していたし、ゲイルの方は二人には一切気を払わなかったので、一対一の会話が続いてしまったけれども。


 だからユウナレアの事情を、深いところまでは話せなかった。

 そもそも――勝手に扉を開けて廊下に出てしまった『旦那様』が、ユウナレアの事情を知りたがっているのかは、かなり疑問だが。



◇◇◇



「そういえばカートはいくつになる?」


 ゲイルを先導して廊下を歩いていると、不意に問われた。

 背後――というより、後頭部に声をかけられたような気がするのは、身長差のせいだ。ユウナレアは女性にしてもかなり小柄な方で、ゲイルは男性としてもかなり背が高い。

 人の後頭部に話しかけるのは、どういう気分なのかしら?

 ふと思ってしまうが、確認する気にはなれない。


「今年で八歳になりました。家庭教師をつけたのは六歳からですので、二年前になりますね。私がラインバック家に輿入れして、ほとんど間もなくです」


「家庭教師か。俺も兄上も、無縁だったが……ああそうか、母上が生きていたからか。カートにはいない。なるほどな」


 勝手に呟いて勝手に納得するゲイル。

 モゥレヴ伯爵の妻は、もう六年前に他界したと聞いている。病弱だったわけではないが、冬に風邪を引いたかと思えば、春を待たずに亡くなったそうだ。カートはそのことを、ほとんど覚えていないと言っていた。


「心根の真っ直ぐな少年に育っています。よく学び、よく遊び、家族を慈しんでおります。旦那様のことも、よく訊かれました」


 ――兄さまは、いつ戻って来るの?

 寂しそうに、心配そうにユウナレアへ問うカートに、戦地で死ぬから戻って来ないなんて、言えるわけがなかった。

 実際、死なずに戻って来たのだが。


「ははは。まさか『死ぬ予定だから戻らない』とは言えなかっただろう」


 まったくその通りなのだが、気の利いた冗談を耳にしたとばかりに笑われると、なんだか悔しくなってしまう。


 こっちが勝手に気まずさを感じ、罪悪感を覚え、自己嫌悪しているだけ――そうなのだけれど、それにしたってゲイルの超然とした態度は一体なんなのか。自分の結婚、自分の将来ではないか。


 まだしも、拒絶された方が納得できる。

 やっぱり嫌よね、それはそうよね……そう思えたはずだ。


 ――別に構わん。

 いや、構えよ。あんたの人生だぞ。他人に利用されてるんだぞ。義妹が私にそうしてきたように。都合よく、勝手に、独善的に。


 そんなことを考えながらも、脚は自動的に動く。

 執務室からは中央階段を挟んで正反対の位置。毎日のようにそうしてきたから、ほとんど無意識で、身体がカートの部屋の扉をノックしていた。


 はぁい、と扉の向こうの天使が答える。

 カートもまた、毎日のようにユウナレアが訪れるのを知っているから。


 はぁ、と息を吐き、後ろを振り向いてゲイルの顔を見た。別にどんな表情も浮かべていない。ユウナレアのような無表情ではなく、単に普通の顔をしている。


 扉を開ける。

 三歩も進めばぶつかってしまう距離に、カートは立っていた。


「姉上! 今日も来ていただいてありがとうございます! カートは今日も勉強をがんばりまし……」


 喜色満面、という言葉がぴったりの笑みが、ふと強張る。

 言うまでもない。ユウナレアの背後に立っているゲイルのせいだ。


「カートか。家庭教師に教わっているらしいな。毎日大変だろう」


「えっと……」


 天使の視線が、戸惑うようにユウナレアとゲイルを行ったり来たり。

 ユウナレアは意識的に笑みを浮かべ、半歩だけ身体の位置を変え、ゲイルの姿をよく見えるようにした。


「知らせるのが遅れてしまって、ごめんなさい。カートの『兄さま』が、帰って来たわ。夕食の前に、カートに会いたいって」


 厳密にはそう言ってないけれど、似たようなものだ。


「兄さま、なのですか……?」


 きょとん、とゲイルを見上げるカート。小柄なユウナレアよりも、まだずっと小さいのだから、空を仰ぐような姿勢だ。


「ああ、そうだ。おまえの兄、ゲイル・ラインバックだ。大きくなったな、カート・ラインバック」


「わぁっ! 兄さまだ――!」


 子供特有の機敏さで駆け出して、とんっ、と跳ぶ。

 何度かユウナレアも感極まったカートに同じことをされて、二人でころんと倒れてしまったのは思い出すだけで嬉しくなる思い出だ。

 ゲイルはカートの突進を当然のように受け止め、ユウナレアの天使を抱き抱えて満足そうに微笑んだ。


「本当に久しぶりだな。本当に大きくなった。毎日勉強しているのだろう? よく頑張っているな。偉いぞ、カート」


 ……なんだろう、微笑んで暖かな言葉をかけているのに、ゲイルの口調がぶっきらぼうに聞こえてしまう。

 それこそユウナレアと『話』をしていたときと調子が変わらないのだ。もっと優しく話しかけてあげればいいのに。


 そう思ったのはユウナレアだけのようで、ゲイルに抱き抱えられたカートはきゃっきゃと嬉しそうな声で笑いながら、ゲイルの胸板に額をこすりつけるようにしていた。天使の祝福なのだ、あれは。


「兄さま、僕はもう八歳になりました。勉強は少し大変ですけれど、なんてことはありません。わからないところは、姉さまが教えてくれます」


「そうか」


「兄さま、兄さま。僕は兄さまにずっと言いたかったので――」


 ふと言葉が途切れ、カートの表情が曇る。

 天使の視線が捉えているのは、ゲイルの顔面だ。正確には、彼の顔に刻まれた、いくつもの疵痕。


「――兄さま、痛くないですか?」


「ああ、これか。今は痛くない。怪我をしたときは痛かったが」


 なんで余計な一言を付け加えるんだ。

 カートの表情がくしゃりと崩れる。まるで己が斬られたかのような、ゲイルの過去に対する深い同情が、ありありと感じられた。


 ユウナレアには、そんな弟なんていなかった。

 いたのは、全てを奪っていく性悪な義妹。

 でも、仕方がないのかも知れない。

 自分も義妹と似たようなものなのだから。


「気にするな、カート。俺は戦うために行って、戦って来た。それだけのことだ。他の誰かが代わってくれるなら、たぶんありがたいと思ったが、誰も代わってくれなかったからな。俺は戦って、帰って来た。悲しむところじゃないぞ」


「……そう……そうですね、兄さま! おかえりなさい! 僕は兄さまをずっとずっと想っていました!」


「勉強のときもか?」


「うっ……勉強のときは、想っていませんでした」


「構わん。それでいい」


 言って、にんまりと笑う。

 優しげな微笑よりも、よっぽど彼らしい笑い方。

 ユウナレアに「敬意を払う」と告げたときと、同じ笑み。


「――あっ、そうだ! そうです! 僕はずっと兄さまに言いたかったのです」


「ふむ。なにを言いたかったのだ?」


「姉上は、とても素敵な人です。こんなに素晴らしい人と結婚できて、兄さまは幸せだと思います。兄さま、結婚おめでとうございます!」


 罪悪感で死ねるなら、今日がユウナレアの命日だった。

 さすがに浮かべていた微笑が引きつっていた気もするが、仕方ない。


「……ああ、ありがとう。今日初めて会ったが、ユウナレアは素晴らしい人のようだな。ラインバック家をよく助けてくれているそうだ。おまえもたくさん世話になったのだろう。日頃の感謝を、ユウナレアに伝えるといい」


 言って、ゲイルはあろうことか抱き抱えているカートを手の中で器用にくるりと反転させ、ユウナレアへ向かせてしまう。

 英雄の腕の中、天使が微笑んで、言った。


「姉上! いつも本当にありがとうございます。僕はとても感謝しています。兄さまとの結婚、おめでとうございます!」


「ありがとうございます、カート・ラインバック様。あなたからの祝福が、どのようななによりも、一番嬉しいわ」


 咄嗟に完璧な笑みをつくり直して言えた自分を、ユウナレアは褒めてやりたかった。いや、本当のことを言えば、罵ってやりたかった。

 天使の微笑みのすぐ横にある、ゲイルの満足そうな笑みのおかげで、なんとか致命傷を避けられたのは……幸いというべきか、いわざるべきか。


 そんなふうに笑わないでよ。

 私が悪かったから。


 ……きっとゲイルには他意などないのに、少しだけ憎らしかった。

 自業自得なのは、判っている。






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