07_夫婦の初会話(ゲイル)
「さて――それでは、どのような話をお望みでしょうか、旦那様。ああ、失礼しました。まずは椅子をどうぞ」
執務用の机に座したまま、絵に描いたような微笑を浮かべるユウナレア。
なんだか警戒されているようだな、とゲイルは思った。
まあ、警戒されて当然なのだが。
どうやら殴って失神させた優男は彼女の部下だったらしい。そう考えると、脱衣所のメイドやコートンだかいう優男の態度は、主人の意思を反映していると考えてもいいだろう。
つまり、別に歓迎されていないわけだ。
状況的にはそう考えられる。
が、ユウナレアの話しぶりでは違うらしい。
こういう場合、ゲイルが判断材料にするのは言葉ではなく事実だ。「俺は裏切っていない」と言いながら情報を漏洩させ、ナルバ王国へ亡命しようとした仲間は、片手では数え切れないほどいた。
「椅子は必要ない。まずは――そうだな、俺とおまえの結婚について、聞かせてもらおう。いくら政略結婚とはいえ、まさか知らぬ間に結婚させられているとは思ってもいなかった。こちらとそちらで、どういう思惑があった?」
ラインバック家にはどのような利があり、アーカッシュ家にはどのような利のある政略だったのか。
伯爵家の次男として生まれた以上、政略によって婚姻が為されること、それ自体はゲイルだって構わない。
しかし――この状況は、さすがに想定外だ。
父であるモゥレヴ伯爵は、そこまで薄情ではなかった気がするが……どうだろう、あの戦場で四年の間、ゲイルは一度たりとも父の顔を見ることがなかった。わざわざ戦場まで来なかった、ということだ。
「思惑、ですか」
大雑把なゲイルの問いに、ユウナレアは作り物の微笑を消し、少しの間だけ机の上を眺めてから、言った。
「端的に申し上げますと、私の能力をラインバック家に提供する、そういった契約でした。私には事情がありまして、早急に婚姻の相手を探す必要があったのです。ラインバック家にとって、当時のゲイル・ラインバックは『おそらく戦死する人物』でしたから、ラインバック家としては、単に上手い話だったのでしょう」
まあ確かに、あの戦場から生還するとは誰も思っていなかっただろう。ゲイル自身だってそんなことは思わなかった。そうなると、わざわざモゥレヴ伯爵が会いに来なかったのも、当たり前かも知れない。
「『これから死ぬ人物』か。なるほど。能力とは?」
「執政や財務に関わる処理能力です。十三の頃から、アーカッシュ家の実質的な財政は私が取り仕切っていたのです」
注意していなければ見落としてしまうほど、ほんのわずかに――ユウナレアの口角が上がった。
濡れ羽色の長い髪、病的に白い肌。細い手足、ひどく整った相貌。歓待のときと同じ黒いドレスを身に纏っており、受ける印象は『人形』というものだ。わずかに笑んだその顔も、だから人形が笑ったような印象があった。
が、悪くない。
自ら口にした『能力』に対し、胸を張れるだけの自信があるということだ。
「つまり、ラインバック家はおまえの能力を欲しがり、そして現在はその能力を行使している、ということか」
「ええ。幸い、ラインバック家の皆様は私のような小娘を侮ることなく、蔑むことなく、尊重してくださいます。仕事もやりやすく、とても快適な職場です」
「なるほど」
確かにラインバック家は政に長けた家柄ではない。辺境伯の名の通り、ラインバック家の資質は戦に偏っている。財政を軽んじているわけではないが、得意かどうかは別の話だ。
能力の持ち主がいるのなら、使ってみようという気になる、か。
対価が『これから死ぬ息子との婚姻』なのだから、破格の買い物だ。
「……旦那様は、私のような小娘にラインバック家の財政を任せることは、不快ではないのですか……?」
ふむふむと思案に耽るゲイルへ、ユウナレアが問う。
やはりそこにはさしたる表情はないのだが、なんだかこちらの正気を疑われているような気がした。
「親父殿が決めたのだろう。それに、帰還前に親父殿と少々言葉を交わしたが『丁重に扱え』と言伝られた。爺……セバスも、先程『ラインバック家に必要な人物だ』と俺に言ったぞ。そう言うなら、そうなのだろう」
色素の薄いユウナレアの唇が、一瞬だけ震えた。
あるいは見間違いだったかも知れない。
「私にラインバック家を乗っ取られるとは、思いませんの?」
「乗っ取ってどうする? 武力くらいしか誇れるものがないはずだぞ、うちは。それに――小娘一人に乗っ取られるようなら、さっさと乗っ取られて滅びるべきだ。そのような状態にあること、それ自体が罪悪だ」
弱ければ、死ぬ。終わる。当然のことだ。
脆弱であることは、貴族にとっては罪なのだ。
さっさと罰を受けた方がいい。
「……そのように、お考えなのですね」
「現状、別に乗っ取られてはいないのだろう。セバスは無能じゃない。おまえが必要だと言うのだから、おまえはラインバック家の敵ではないはずだ」
「ええ。私は、ラインバック伯爵家の、敵ではありません」
その言葉を吐き出したユウナレアは、少しすっきりしたような顔に……いや、どうだろう、気のせいかも知れない。表情が変わっていない。
ふむ、とゲイルは鼻息を洩らし、少し考える。
事情があり、契約した……ということは、まさかラインバック家に骨を埋めるつもりではあるまい。一時的に能力を提供した、と考えるべきか。
「当初の予定では、おまえはどうするつもりだったのだ?」
「……と、言いますと?」
「予定通りに俺が戦死する。しかしどちらにしろ、今と同じような時期には停戦となっただろう。俺が死ねば、おまえは未亡人だ。どうする予定だった?」
「停戦後の情勢変化を乗り切った後は、ラインバック家を出るつもりでした。私には私の事情がありますので……」
「そうか」
契約満了がその時期、ということだ。
考えるまでもなく、ゲイルは財政について全くの無知だ。であるならば、現状で父やセバスを満足させているユウナレアには、まだその能力を行使してもらった方が、領地のためになるだろう。
「……本当に申し訳ございません」
頭蓋の内側であれこれと思考を踊らせていると、不意にユウナレアが頭を下げて謝罪を口にした。口調には、明確な後悔が乗せられていた。
これはおそらく、気のせいではない。
「なにについて謝っている?」
判らなかったので聞いてみる。
ユウナレアは頭を上げずに答えた。
「……私は、旦那様の死を前提に、ラインバック家と契約しました。こちらからの申し出を、モゥレヴ様は受けてくださいました。旦那様の生還が現実となるまで、私は夫である貴方の死を……願ってすらいたのです」
「まあ、それは、予定が狂うだろうからな」
むしろゲイルの生還を前提として考えていたら頭がおかしい。
あんなもの、誰だって死ぬに決まっている。もう一度あの四年間を繰り返したなら十五回は死ぬ自信がある。普通に考えれば、あんな場所で戦い続けて生きていられるわけがないのだ。
「ですが旦那様は生還しました。私から持ちかけた契約は、無効です。契約条項に、旦那様の生存を織り込んでいませんでしたので」
「別に不快に思っていないから頭を上げろ」
なんとなくユウナレアの顔を確認したくなり、ゲイルは言った。
呼吸一回分の時間だけ躊躇があり、それからすぐに頭の位置が戻される。
人形めいた、無表情。
それがゲイルには、妙に愉快だった。
「当初の契約通りで構わんぞ。時期が来るまで我が領で能力を振るい、時期が来れば俺と離婚して予定通りに何処ぞへ出立する。俺はそれで構わん」
「……それでは、私にとって都合が良すぎるのではありませんか?」
「都合が良いのなら、悪くないだろう」
「離婚歴がつきますが」
「お互い様だ。俺が死んでいたら、おまえはその若さで未亡人……ふむ? ところでおまえ、何歳だ?」
「十七でございます。今年中には、十八に」
「そうか。俺は十九だ。今年には二十になるな」
「私との婚姻は、不本意ではないのですか? 今すぐ領地を出ていけと言われてもおかしくない――おまえのような不気味な女との結婚など考えられない、そう罵られる覚悟はしていたつもりですが」
また表情にわずかだけの変化。
よく見ていれば、そもそも表情がないせいで変化した瞬間が判りやすい。今回の場合は、痛み、だろうか。覚悟はしていても、わざわざそんなふうに言われたくないのかも知れない。
「別に構わん。おまえに出て行かれると困るのは我が領だろう。それに、おまえのことを不気味だとは思っていない」
「これからそう思うかも知れません」
「何故だ?」
「よく言われましたので。『貴女には感情がないのか』『薄気味悪い』『人は正論だけで動くわけではない』……そんなことを、よく言われました」
「そうか」
ふむ、とゲイルは鼻息を洩らし、ちょっと考えてから歩を進めてユウナレアの机の前まで移動した。たった五歩分の距離だ。
実際に至近距離まで近づいてみれば、ユウナレアは本当に華奢で、頭の上から足の先に至るまで、全てが繊細に形作られていた。
ゲイルを見上げる瞳の中には、困惑と、わずかな怯え。
無表情の中、ほんの些細な変化が――こんなにも多彩にある。
ゲイルは両手を机の上に乗せ、わざとらしくユウナレアへ顔を近づける。瞳の中の怯えが増す。それなのに、その場から逃げることをしない。目を逸らすこともしない。困惑が陰り、不審が浮かぶ。
なるほど、丁重に扱うべき女かも知れない。
「ユウナレア。執務室がおまえの戦場で、ここでのおまえは優秀な戦士なのだろう。俺は、おまえに、敬意を払う」
そう思ったので、そう言った。
ゲイルはかつての副官にも、何人かの中隊長にも、そういった事務能力を有する仲間に対しては、一定以上の敬意を示してきた。なにしろ、ゲイルもまたラインバック家の男なので、苦手なものは苦手なのだ。
すごいじゃないか。
できるなら、やってくれ。
部下たちにそうしてきたように、ゲイルは多くを語らずにんまりと笑ってユウナレアを見る。言葉が上手くないので、いつもそうして誤魔化してきたのだ。
人形の頬が、わずかに紅潮した。
気のせいかも知れない。
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