03_契約結婚の相手(ゲイル)
連続投稿の三話目になります。
「お坊ちゃま……こんなに立派になられて……こんなにも傷だらけになって……さぞや御苦労なさったことでしょう……」
涙目になりながらゲイルを案内するメイド長については、さすがに覚えていた。ゲイルが生まれたときから屋敷のメイドとして勤めており、いつの間にかメイド長になっていた、恰幅の良い女性だ。
「まあ、苦労はしたが、生きている。マヌエラ、おまえも元気そうでなによりだ」
マヌエラ・フィディックというのが彼女の名だったはずだ。
記憶にあるよりは、ちょっと顔の皺が多い気がするが。
「ゲイル様。この爺からも、生還の感謝と喜びを」
済まし顔で斜め後ろをついて来るのは、執事のセバスだ。こちらもゲイルが生まれる前からラインバック家に仕えており、記憶の限りでは、最初から執事だった。
「ああ。爺も壮健のようで、なによりだ」
「恐悦至極にございます。して、ゲイル様。奥方様のことですが……」
「五日前に親父殿より文が届いた。二年前に結婚していたそうだな。領軍を率いていた親父殿と交代する際、『くれぐれも丁重に扱え』と伝えられた」
それだけ言えば、セバスはなんとも微妙そうな表情を見せた。
浴場に辿り着く寸前まで迷ったふうにして、セバスは結局、口を開く。
「ゲイル様。奥方様は――ユウナレア・ラインバック様は、ラインバック伯爵領に必要な人物にございます」
「そうか」
と、ゲイルは頷いた。それはセバスをさほど満足させる返答ではなかったようだが、他になんと答えればいいのかは、判らなかった。
◇◇◇
ラインバック家では幼い頃を除けば湯浴みは一人でするものだったから、メイドに身体を洗われる、というようなことはなかった。
しかし四年ぶりの入浴ともなれば、むしろメイドよりも従者に身体を洗ってもらった方がよかったな、とゲイルは黒ずんだタオルを眺めながら思った。
とにかく、薄汚れている。
幾度も身体を擦ってもどこかしらが汚れているのだ。
入浴用の白いタオルがすっかり使い古しの雑巾に変わったあたりでゲイルはこれ以上の洗体を諦めた。数日かけて落とさねば、落ちきる汚れでもないだろう。
湯浴みを終えてみれば、見知らぬメイドが二人待ち構えていた。
「召し替えのお手伝いをさせていただきます」
どうやらゲイルが着ていた装備は、何処かに持っていかれてしまったようだ。確かに、本人があれだけ汚かったのだから、衣服も装備も似たように汚れていたのだろうが――、
「剣は何処にやった。ないと困る」
戦が始まって一年経った頃、敵の将軍を名乗る者から奪い取った業物が、ゲイルの愛剣だった。特殊な金属を使っているのか、とにかく折れず欠けず、錆びない。切れ味はそれほどでもないが、あの質量の鉄の塊を高速で振るうなら、棒だろうが刃だろうが命を奪うには十分過ぎる。
「どのように困るのでしょうか?」
むしろそんなことを言われても困る、というふうにメイドが言う。
「帯剣していなければ落ち着かない。それにあの剣はナルバの将軍が使っていたものだ。停戦したのなら、返却する必要があるかも知れん」
言った瞬間、メイドの一人が無言で駆け出した。
ひょっとするとまとめて捨てられたのかも知れないな、とゲイルは思った。
結局、着替えを済ませるまでに剣は戻って来なかった。
「この後は食事のはずだったが、すぐに食事になるのか?」
「いえ……その、旦那様の帰還が予想よりも早かったため、恥ずかしながら、満足な用意ができておりません。通常の夕食と同様になるでしょうから、もう少々、お時間をいただく必要があるかと……」
かなり若いメイドのようだったが、受け答えはしっかりしている。
「おまえはいつからラインバック家に仕えている? 記憶の限りでは、四年前には見た覚えがない」
「二年前からにございます。旦那様」
なるほど、アーカッシュ男爵家から連れて来たメイドなのだろう。
「そうか。ではユウナレアの居場所に案内してくれ」
「っ! ……お嬢様の、ですか?」
「ユウナレアと話をする必要がある」
「ですが、お嬢様は執務の最中ですので……」
「その執務がほんのわずかに滞っただけでラインバック領が滅ぶのであれば、そんなものはとっとと滅ぶべきだ。そんな状況が既におかしい。案内したくないというのであれば構わん。下がれ」
明らかに気乗りしないメイドへ、ほんのわずかだけ殺気を見せてやる。
効果は劇的だった。
手を伸ばせば届く距離にいたメイドが、蛇を目前にした猫みたいに跳び上がってゲイルから距離を取り、着地に失敗してその場にへたり込んだ。
「あ――あの……旦那様……」
「俺をそう呼ぶ割には、ユウナレアを『お嬢様』と呼ぶのだな。おまえはラインバック家に仕えているのか、ユウナレアに仕えているのか、どちらだ?」
「ひっ――」
青褪めた顔色で、ガタガタと震えながらメイドはゲイルを見上げた。ゲイルにはその手の加虐趣味はないので、殺気を消し、脱衣所を出た。
四年ぶりの屋敷は、やはり記憶と微妙に一致しない。
知っているのに知らない廊下をぶらぶらと歩けば、曲がり角でたまたまセバスに出会した。セバスはゲイルが一人で歩いているのに驚いたようだったが、いちいち説明をするのは面倒だった。
「ちょうどいいところにいた。爺、ユウナレアは執務中だと聞いたが、何処にいるか教えてくれ」
「奥方様でございますか。夕食までの間は、おそらく執務室かと――」
「そうか」
頷き、方向転換。屋敷の中央階段を上って二階へ。
何処も彼処も未視感に溢れた屋敷だ。知っているのに知らない場所。知っている者もいれば、知らない者もいる。ここが戦場だったのなら、もっとずっと判りやすい。味方でなければ、敵だ。殺せばいい。それだけでいい。
二階の奥、図書室の更に向こう。そこに執務室がある。
四年前の記憶によれば、領主である父や、まだ健在だった叔父、セバスや文官たちが執政に関する仕事をするための場所だった。
その執務室から、扉を開けて誰かが出てくる。
若い男だ。身形からすると、文官だろうか。
短く整えた頭髪と、すらりとした痩身を包む執務服。
「これは――ゲイル・ラインバック様。執務室に何用でしょうか?」
さらりと会釈してからの、単純な疑問符。
一見すれば礼節を持った態度だが、ゲイルの真正面に立ちふさがったままであり、そもそも伯爵子息が自らの妻にどのような用かなど、家人に問われる筋合いがない……はずだ。四年前の貴族的な知識によれば、まあ、たぶん。
「ユウナレアと話をする。執務室にいると聞いた」
「では、お引き取りを。お嬢様は現在執務中ですので、ゲイル・ラインバック様との歓談は、後ほどにお願い致します」
微笑さえ浮かべての拒否。
ゲイルは「ふむ」と頷き、やや考えてから口を開く。
「なるほど。書類上とはいえ、一度も顔を合わせていないとはいえ、法律上の夫が話をしたいと言っているのに、わずかな時間を取ることすらできない、ということか。我がラインバック領を左右するほどの大仕事をしている、と」
「お出迎えをしたではありませんか。書類上の夫との歓談よりも、領の執政についての仕事の方が、この領にとっては大事というだけのことでは?」
「それはユウナレアの意思と判断して構わないのか? つまり、夫がやって来たら通すなと言われている、と考えていいのだな?」
「まさか。お嬢様がそのようなことを仰るはずが――ガベッ!?」
とりあえず殴ることにした。
拳を握ることすらせず、速さだけ優先で文官の顔面を打ち払う。暴力に慣れていない者は、たったこれだけで身を竦ませ、負傷すらしていないのに攻撃された箇所に手をやってしまう。
結果、がら空きになった腹部に、軽めの一撃。
まともに殴ると殺してしまうので、本当に軽くだ。
「おごっ――!」
男前の優男には似つかわしくない、汚い嗚咽が漏れる。もちろんゲイルは気にせず、本当の痛みに襲われた腹部を抱えるようにしたそいつの、がら空きになった顎先を、ちょんっと叩いてやった。
あっさりと失神して廊下に倒れたそいつの襟首を掴み、ゲイルは執務室の扉を開き、掴んでいた文官をぽいっと放り投げた。
室内にいるのは――放り投げた文官を除けば、メイドが一、文官らしき男が一、護衛らしき帯剣した男が一、そしてユウナレア。
全員が全員、驚愕の眼差しをゲイルに向けている。
「挨拶は先程もしたな。ゲイル・ラインバックだ。書類上の妻であるユウナレアと話をしたいと言ったが、着替えを手伝いに来たメイドは難色を示し、そこの失神している男には拒否された。大した時間を取らせるつもりはなかったが、ほんのわずかですら話をしたくないというのであれば、こんな屋敷は出て行くことにする。四年ぶりに帰って来た。地獄から帰って来たのだ、俺は」
どうやら殺気が漏れていたようで、驚愕の眼差しは、あっという間に恐怖の眼差しに変わっていた。メイドなど腰を抜かしてへたり込んでおり、護衛の騎士は過呼吸状態になって剣の柄に手を添えているが、それでは剣など抜けまい。
「話をするつもりがあるのかないのか。ここは俺の家なのかどうか。まず答えてもらおう。我が妻、ユウナレア」
漏れたままの殺気を、ゲイルはわざわざ抑え込まなかった。
見るからに病弱そうなユウナレアが怯えてなにも答えないのであれば、さっさと兵宿舎に向かって第三大隊の誰かを掴まえ、当座の宿にしてしまおうと思った。その後の状況がどう転がろうが、あの地獄より悪いことにはなるまい。
しかし、だ。
ユウナレアが恐怖に震えていたのは、ほんのわずかな時間で――彼女は一度だけ深く呼吸してから立ち上がり、深々と頭を下げて謝意を見せた。
「家人が大変失礼をしました。私が貴方様との会話を拒絶しているなどという事実は有り得ません。……デイモンド。カイラス・コートを地下牢へ放り込んでおきなさい。我が夫に対し、許されざる無礼を働いたようです」
「ちっ、地下牢、ですか!?」
デイモンドと呼ばれた護衛騎士が、飛び上がらんばかりの驚きを見せる。
が、ユウナレアはその驚愕には一切付き合わなかった。
「そう言いました。命令です。沙汰は後ほど勘案しますが、そのくらいのことをしなければ示しがつきません」
「し、しかし……」
「デイモンド」
冷えた白刃めいた視線に、護衛騎士は反射的な敬礼を返した。
「了解しました!」
そんなわけで失神した文官――カイラス・コートというらしい――が連れ去られ、執務室には寒々しい沈黙が訪れた。
その沈黙を破ったのは、ユウナレアだった。
「旦那様。重ねて謝罪します。家人が大変な失礼を……カイラスの処分については、旦那様の意向に従いますので、何卒、寛大な処置を」
「そんなことは聞いていない」
再び頭を下げるユウナレアに、ゲイルはぴしゃりと返す。
既に問いは投げたのだ。
ユウナレアは長い長い溜息を吐き、濡羽色の長い髪を手で払ってから、ゆっくりと椅子に座り直し、ゲイルを見た。
冷えた白刃の眼差し。
なるほど、ゲイルの戦場があの地獄であったのなら、彼女の戦場は、きっとこのような場所なのだ。そういう腹の据わり方だ。
「話をするつもりは、あります。当然に。そして――ここは旦那様の生家です。貴方様の、家ですわ。これも当然に」
ふむ――とゲイルは頷いた。
「では、話をしよう。我が妻、ユウナレア」
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