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19_代理と後継(ユウナレア)





 夢を視ない泥のような眠りを経て、目を覚ます。


 これまで感じていた身体の不調――というより、むしろこれまで自分の体調が悪かったのだとようやく意識できるような、すっきりした気分。


 目を覚ましたユウナレアに気付いたシェラが、恭しく朝のあれこれを世話してくれる。とても体調が良いと伝えても「今日中は安静に」の一点張りで、寝台から移動はさせてもらえないようだった。


 昨日食べたような病人食が朝食として用意され、自分でも意外な食欲を発揮してぺろりと平らげてしまう。またシェラに身体を拭いてもらい、布団を被せられ、すっかり病人みたいだと思って、少しだけ笑ってしまった。


 アーカッシュ家にいた頃は、体調不良でも手厚い看病なんて有り得なかった。医師を呼ばれることはあっても、以降は基本的に放置。もちろん義妹のソーラリアが風邪をひいたりすれば一家総出で看病祭りだ。


 そうして欲しかったわけじゃない。

 普通にして欲しかっただけだ。

 今ではそれがとんでもない贅沢だったのだと思えてしまうけれど。


 すっきりと落ち込む、という我ながら不思議な気分を噛み締めていると、扉がノックされた。シェラが来訪者を確認し、扉が開かれる。


「姉上――具合が悪くて倒れたと聞きました」


 現れたのは、カートだった。

 寝台の脇まで近づいてきてシェラに促されるまま椅子に座り、カートはひどく申し訳なさそうな顔をして、横たわるユウナレアを覗き込んだ。


「ごめんなさい。昨日の朝、兄さまには気を配るように言ってたんですけれど……兄さまは、気の利かない人でした」


 しゅん、と小さくなるカートが可愛らしくて、ユウナレアは我知らず微笑んでしまう。横になっているせいで天使の頭を撫でてやれないのが残念だ。


「いいのよ、カート。私の自己管理に問題があったのですから、旦那様には悪いところなんてないの。むしろ、倒れた私をここまで運んでくださったのよ?」


「……兄さまのことは、嫌いになっていないですか?」


「まあ。どうしてそんなことを?」


「だって……姉上は、兄さまと愛し合って結婚したわけでは、ないのですよね。初めて顔を見たのは、兄さまが帰って来た日だって聞きました」


 誰から聞いたのだろう。ふと気になったが、箝口令を敷いたわけでもないし、そもそも単なる事実だ。これに関してユウナレアはなにを言う権利もなかった。


「それはそうですけれど……ゲイル・ラインバック様は、本当の英雄よ。私が嫌うどころか、私の方が嫌われているんじゃないかしら?」


「あ、それはないです」


 犬は空を飛びません、くらいの言い方をカートはした。あまりにも軽く、そのくせ確信に満ちた言い方だったので、ちょっと驚いた。

 カートは少しだけ考えるようにしてから、付け加える。


「姉上と顔を合わせて、姉上と結婚しているのが嫌だと思ったら、兄さまは必ずそう言いますし、離婚するために動きます。兄さまは、そういう人です」


「……そう……かしら」


 そうかも知れない。まだ知り合って日は浅いが、確かにそういうところで嘘を吐く男ではない気がする。


「兄さまのことを、できれば嫌わないであげてください。女性の方がどう思うかは判らないですけど……僕は、兄さまが好きです。できれば姉上にも、好きになって欲しいと思います」


「私なんかが好きになったら、迷惑でしょう」


「どうしてですか? 姉上は美人ですし、頭が良いですし、兄さまにないモノをたくさん持っています。妻と夫が支え合うものだとすれば、兄さまと姉上は、それは理想的なんじゃないかって思います」


「そう言ってくれるのはカートだけよ」


 嬉しくなって、つい布団の中から腕を出してしまった。頭を撫でるには遠かったけれど、カートはきちんとユウナレアの手を握ってくれた。

 暖かい――少年の体温。

 ユウナレアにとって、最も欠けていたモノは、たぶんこれだ。


「では、姉上を疲れさせてもいけませんので、僕はもう行きます。ゆっくり眠って、早く元気になってくださいね。もっとずっと、たくさん話がしたいのです」


 にっこりと微笑むカートに、ユウナレアもまた微笑を返す。


 そうしてまた、泥のような眠りが訪れた。



◇◇◇



 次に目を覚ますと、さすがに仕事のことが気になった。

 計画的に休日をとったわけではないので、いくつか処理しなければならない仕事が溜まっているはずだ。いつもみたいに働くのでなければ構わないだろうと寝台から身体を起こせば、シェラに「お願いですから今日は安静に」と懇願された。


「もちろん、判っているわ。だから実際に手を動かすことはせず、指示だけしたらまた寝台に戻る。後は食事をして、貴女に身体を拭いてもらって、朝までぐっすり眠るわ。それでも駄目? 仕事が滞って困る領民もいるし、義兄上さまに迷惑をかけてしまう。それは本意じゃないの」


 そこまで言えば、シェラはもう強く出られない。

 さすがにコルセットを使用するドレスは身に着けず、黒のワンピースに灰色のロングカーディガンを重ね、ちょっとだらしないかな、と思いつつ部屋を出る。

 心配そうについてくるシェラには申し訳なかったが、体調はむしろ良かった。これほどすっきりとした気分はどれくらいぶりだろう。学院生だった時代まで遡っても、ちょっと判らないくらいだ。


 二階へ上り、廊下を進み、執務室の扉を開けると、意外な人物がいた。


「……旦那様!? どうして、ここに……?」


 普段ユウナレアが座っている執務机に着いて書類を眺めているのは、ゲイル・ラインバックだった。

 机に対して身体が大きすぎて、ものすごく違和感があった。いつもユウナレアが使っている椅子なんて横に退けられている。


「今日中は安静にしているという話ではないのか?」


 と、ゲイルは問いに問いを返し、立ち上がって脇へ退けていたらしいユウナレアの椅子を片手で持ち上げ、そっとユウナレアの前へ置いた。

 いや、執務用の椅子は片手で持ち上げるものじゃない。ユウナレアだったら両手でだって持ち上げられない。革張りの、立派な椅子なのだ。


 しかし目の前に置かれては座らないわけにもいかない。「あ、これはどうも」と、ひどく間抜けな言葉を口から吐き出して、位置的には机を挟んでゲイルの正面に腰を下ろすことになる。

 ゲイルの方も座り直し、書類を眺める作業に戻った。一通り読み終わってから、ふむ、と鼻息を洩らしてインク壺にペンを付け、書類に署名をする。見覚えのある書類だ。あとは確認してユウナレアの署名を待つだけ、というものだった。


「えっと……仕事の途中で倒れてしまいましたので、滞りそうな分の仕事の指示だけでもしようかと思い、こちらへ来ました。旦那様は……その……」


 なにをしているのだろう?

 まあ、書類に署名していることくらいは見れば判るが。

 けれども……なんで?


「同じ理由だ。予定してる分の仕事が滞るだろうと思った。俺が役に立てる分は限られているが、おまえの部下に『確実に間違いなく署名だけすればいいもの』を選別させて、俺が名前を書いている。ペンより剣を持っている時間が長かったが、さすがに名前くらいは書ける」


 どうやら冗談だったようで、悪戯っぽくニヤリと笑うゲイルだった。

 ラインバック家の誰とも違う笑い方。モゥレヴ伯爵のように気遣いはなく、ガーノートのように豪快でもなく、カートのようにやわらかくもない。普段の朴訥とした感じからくるりと色を変えて稚気を見せる。


 きっとこんなふうに笑っていたのだ。

 戦争に行く前は、日頃から――そう思わせる笑い方だった。


「それは……申し訳ありません。旦那様にお手数をお掛けしまして、恐縮の至りです。残りは明日から私がやりますので、もうお休みになってください」


 どうしてか胸が締め付けられる気がして、ユウナレアの口がそんな科白を吐き出した。同時に、頭の片隅で確認をしなければと理性が働き、部下であるカイラス・コートへ目配せをする。

 もしゲイルの言が正しいのであれば、本当に署名だけすればいい書類がゲイルに渡されているはずだ。

 カイラスはユウナレアの目配せを正確に理解し、首を縦に動かした。


「そうか。それなら、余計なお節介はここいらでやめておこう」


 言って、次の書類に署名を済ませたゲイルは、未処理の書類と署名済みの書類を机の上で左右に分け、インク壺とペンを手早く片付けた。


「いえ……お節介などということは……」


「誰しも己の領分を荒らされるのは気持ちがいいものではないだろう。無能であれば黙れと一蹴するところだが、俺の妻は有能のようだからな」


 やれやれ、と身体を伸ばし、大きく息をする。

 まるで大型の四足獣が欠伸をしているよう。


「恐縮にございます」


「ただの事実だろう。それはともかく、病み上がりの妻に言うべきかは迷うが、ひとつ、言いたいことがある」


「はい。なんでしょうか?」


「仕事についてだ。おまえの部下と、ラインバック家の文官が手足となり、おまえが財政執行を取り仕切っている。重要な判断は親父殿に持ち越されるが、こと財政方面では強い権限を与えられている。認識は合っているか?」


 熱くも冷たくもない、嫌そうでも楽しそうでもない、普通の口調。

 表情は――ユウナレアをエスコートしてあちこち歩き回っているときより、少しだけ真面目だ。仕事用の顔、ということか。


「ええ。認識に相違ございません」


「当初の予定では、停戦後の情勢変化を乗り切った後に、何処かへ出立するということだったな。停戦から一年か二年は期間をみていたか?」


「早ければ一年半、遅くて二年半を目処に、と考えていました」


 まともに情報収集ができていれば、方針を打ち立てて実行していけば対処できるだろう、というのが予測だ。ユウナレアがラインバックへ来てから現在に至るまでで、財政状況は黒字化させている。


 ゲイルは執務室をぐるりと眺め回し、ユウナレアへ視線を戻してから「ふむ」と鼻息を吐き、言った。


「後継がいないな」


「……後継、でございますか?」


「ユウナレア。おまえはとびきり優秀で、その能力は親父殿もセバスも認めるところだ。実際に、おまえがいるといないとではラインバックの財政状況が様変わりするのだろう。たぶん、俺よりおまえの方がラインバックには必要だ」


「そんな――」


「別に、いじけて言っているわけではないから気にするな。単に事実だろう。俺が戦場で死んでいたとしても、ラインバックにはさして影響はなかったはずだ」


 それは、その通りだ。そうでなければ『これから死ぬ人物』との婚姻など、結んでも仕方がない。ゲイルが死んだとすれば、それを口実に中央からの介入があり、結局は停戦会談へ持ち込めただろう。だからこそモゥレヴ伯爵はゲイルを前線に送りっぱなしで、領軍による強い援助をしなかった。


 ある意味、ゲイル・ラインバックの生存が国境紛争を長引かせたとすら言える。だがそれは、口が裂けても言うべきでない事実だ。


「気にするなと言っているぞ。死んで欲しかったのなら死ねと命じればよかったのだ。そうなったら逃げるだけだが……まあ、それはいい。後継の問題だ」


 本当にどうでもよさそうに言うものだから、胸のうちに湧いた書類上の夫に対するなんらかの感情が、宙ぶらりんになった。


「後継……」


 と、間抜けみたいに繰り返せば、ゲイルもまた「後継だ」と繰り返す。


「優秀で有能なおまえの仕事のやり方を、理解して引き継げる者がいない。おまえがラインバックを出た後は、財政状況は緩やかに悪化するだろう。兄上が次期領主となったら、もう目も当てられんだろうな」


 口調にはやはり険がない。感情を含ませず、ただそう感じたからそう言っているという簡潔さ、それだけがあった。


 しかし――なるほど、後継。

 これに関しては、考えたこともなかった。


「ラインバックのために能力を用いることが契約条件なのだとすれば、後継がいないのは別におまえの責任ではない。いなくなる者をあてにし続けているこちらの問題だ。人員については……親父殿に相談するしかないか。おまえの方でも仕事のやり方を後続に継承させることを考えておいてくれ」


「……責任は、あると思います」


 と、ユウナレアは言った。ゲイルが少しだけ眉を上げる。


「ないだろう。財政状況を好転させている。仕事を果たしている。後継を育てていないのは、ラインバックの者が愚かだからだ」


「私は、ユウナレア・ラインバックにございます」


 単なる事実だ。座してこちらを見る大型四足獣に怯えることなどせず、ユウナレアは座りなれた椅子で背筋を伸ばし、きっぱりと言った。


「旦那様――私は、貴方の妻としては、なにひとつ出来ておりません。旦那様には迷惑をかけるばかりの存在です。そのことは申し訳なく思います。ですが、それでも、私はユウナレア・ラインバックです。二年間このラインバック領のことを考え、この屋敷で暮らしてきました」


「だが、いずれ出て行く」


「今、私はここにいます」


 反駁するゲイルに即答を返す。髪と同じ色をしたゲイルの瞳を、こんなふうに見つめるのは、たぶん初めてだ。カートの澄んだ瞳と、色は同じなのに……ひどく濁っている。この世の全てに期待などしていない、そういう瞳。


 きっと私も、そうだった。

 ラインバック家の暖かさが、私を少しだけ変えてくれた。

 そうでなければ――自分自身が醜悪だなんて、気付きもしなかったはずだ。


「……そうか、それは悪かった。謝罪する」


 ふっ、と肩に張り付いた落ち葉を摘んでそこらへ捨てるくらいに軽く、ゲイルは言った。胸の奥がぎゅっと握られるような気持ちになったけれど、たぶんそれは罪悪感からじゃない。自己嫌悪とも違う。


「いえ、謝罪は結構です。旦那様からすれば、単に事実だったのでしょう。私は旦那様から信頼されるようなことをしておりませんので、今は、仕方ないと考えます。それと……その、イニアエスを寄越してくれたことに、感謝を伝え忘れていました。ありがとうございます。おかげで体調が良くなりました」


「ふむ」


 とゲイルは頷き、するりと立ち上がって机を迂回してユウナレアの前へ。それから、当然のように左手を差し出してくる。


「話はここまでだ。安静にして、今日は眠れ。それともまた抱えてやろうか?」


 かぁっ、と顔中に血液が集まったのを自覚した。

 このとき初めて――ゲイルのことを、ちょっと恨めしく思った。






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