18_眼帯の魔法士(ユウナレア)
姉さまばかりずるいわ。
それ、私が欲しい。どうして姉さまが持ってるの? 私がもらったっていいじゃない。どうして姉さまばっかり。姉さまには、いらないわよね。
――いらない。いるものか。
――あなたが欲しがるものなんて、全部いらない。
――でも、本当に?
ぐるぐると回る。世界がゆっくりと回っている。巨大な鍋の中を、巨人が慎重にかき混ぜているみたいに。ユウナレア・ラインバックの意識が、ぐるぐると揺れているのを、自覚する。きっとこれは夢で、悪夢の類だ。
ねえ、私がもらっていいでしょ?
何故なら、厭らしく笑いながら私を見ているのは、黒い髪の青白い女だから。義妹はふわふわの金髪で、肌だってもっと健康的だ。人形みたいな女が、つくりものみたいな微笑を浮かべて、私を見ている。
――どうせ死ぬはずだったもの。
全部もらってもいいじゃない。
ねえ、そうでしょう?
私はもう、十分に傷ついた。奪われて、奪われて、それでも奪わせなかったのは知識と能力だけ。楽しいことも、嬉しいことも、愛しいことも――
◇◇◇
ひどい侮辱を受けたような気分で、ユウナレアは目を開けた。
眠りと覚醒の間にあるはずの微睡みを一切欠いた、ひどく乱暴な目覚めだった。もう少しだけ眠っていたいという甘い気持ちには全くならず、速やかに眠りの余韻を断ち切ろうとする、そういう起き方。
「お嬢様! お目覚めになられたのですね!」
至近距離にシェラの顔があった。心配と喜びがちょうど半々の専属メイドの表情を見て、どうやら倒れてしまったらしいと悟る。
記憶の限りでは……意匠士コーレス・リーヴスの退出を見送ったところまでは確かだ。その後、ゲイルに手を差し出されて、手を取ったのも覚えている。立ち上がろうとして……そこからは曖昧だ。
「私は、倒れたの?」
身体を横たえている嫌悪感から強引に起き上がり、シェラへ問う。
「……ゲイル様が、お嬢様を抱き抱えて寝台まで運んでくださいました。すぐに医者を呼んでくださったのもゲイル様です。医者の診断によると、疲労と睡眠不足、それに栄養失調が原因ではないか、とのことです」
失礼しますね、とシェラがユウナレアの額へ手を当てる。シェラの手がひんやりと冷たく感じるということは、いつもより体温が高いということだ。普段のユウナレアは、シェラの手を暖かく感じていたから。
「まだ、少し発熱しているようです。食事を運ばせますので、無理のない範囲で、少しでも口にしてくださいませ。それともお身体をお拭きしましょうか?」
「いえ。食べてからにしましょう」
温かいスープなんかが用意されているはずだ。実家のアーカッシュ家であればシェラがどうにか手配しなければならなかったが、ラインバック家の使用人なら、もう既に用意しているはずだ。ぽかぽかして汗を掻くだろうから、身体を拭くなら食後の方がいい。
「では、お持ちしますので、少々お待ちください」
にっこりと微笑み、シェラはすぐに立ち上がってパタパタと部屋を出て行った。ユウナレアは小さく吐息を洩らし、寝台の横に備えられていた水差しからカップに水を注ぎ、一口だけ喉へ通した。
仕事が滞るな、と思った。しかし体調管理ができていなかった以上、これは明確にユウナレアの責任だ。
そこまで仕事を詰めていたわけではないが……食事を抜きがちだったのが、よくなかったのだろう。それに睡眠不足もだ。確かに、最近は夢見が悪くて浅い眠りを繰り返していた気がする。
はぁ――と、もう一度、息を吐く。
それから、寝室の壁際に誰かが座っているのに気付いてぎょっとした。
両目を眼帯で覆った女性だ。
白に近い金色の長い髪と、膝のあたりまで届くローブ。
ゲイル・ラインバックの部下――第三大隊の魔法士。
イニアエス、だったか。
「あぁ、お気づきになりましたか。申し訳ございません。驚かせるつもりはなかったのですが……メイドのシェラ様が私のことを説明せずに行ってしまいましたので、声を掛けては良いか悪いか、迷ってしまいました」
ほわほわと微笑み、ぺこりと頭を下げる。
革製の黒い眼帯のせいで口元しか表情が判らないが、とても穏やかでやわらかな印象があった。初対面のときもそうだったが、戦場とは何処か不釣り合いな雰囲気があるのは……ユウナレアの認識が不足しているのだろう。
なにせゲイルの部下で、第三大隊の隊員だ。
地獄における生存に特化した群体生命の、一欠片。
「……イニアエス様でしたか。気付かずにすみません。それに、このような有り様で申し訳もありませんが……」
「いえいえ、お気になさらず。それに私のことはどうぞ呼び捨ててください。ゲイル様の奥様から丁寧に接せられると恐縮してしまいますわ」
ころころと楽しげに笑う。
どちらがお嬢様なのか判らないな、とユウナレアは胸の内で苦笑を洩らした。
「判りました。それではイニアエス。貴女はどうしてここに?」
「ゲイル様の命令で、ユウナレア様の判断を仰ぐようにと――ああ、これでは意味が判りませんね。少し説明させていただいても、よろしいですか?」
「ええ。お願いします」
「奥様は体調不良で倒れられました。病気ではないそうです。私は魔法士で、体力を回復させる魔法が使えます。必要であれば、目覚めたユウナレア様に使用しろと命ぜられましたが、その魔法を使っていいかどうかの判断は、メイドのシェラ様にはつかなかったとのこと。ですので、奥様自身に判断していただこうかと」
「体力を回復させる魔法……ですか?」
一般的に、治癒魔法は体力を消耗するとされている。患者の体力を使って、身体の不調を修復するからだ。それならば体調不良で倒れたユウナレアに治癒魔法なんて、こんなにも判りやすい悪手もないはずだが……。
いや、違うのか。
イニアエスは『体力を回復させる魔法』と言った。治癒魔法ではないのだ。
「それはどういった魔法なのですか?」
「はい。治癒魔法とは異なり、対象の体力を回復させることができます。一般的な治癒魔法ですと、対象の体力を消耗させて体内の異常を修復しますが、私の魔法では、私の体力を対象に分け与えます」
「……え?」
「つまり、私が少々疲れます。それで奥様が回復するのですから、やって損はないと思いますよ」
にこにこと笑いながら、さも当然のように言う。
「で、でも……貴女の体力を、分け与えるようなものなのでしょう? 自慢ではありませんが、私の体調は、それなりに悪いのですよ? 元気にするとなれば、貴女が元気でなくなるということになりますが……」
「問題ありませんわ」
笑顔が変わらない。眼帯で両目が覆われているせいで、細かい表情が判らないのが余計に怖かった。あのゲイルの部下で、あの第三大隊の隊員なのだ。どんな非常識を日常としていたかなど、想像すらできない。
「あっ、私の心配をしてくださっているのですね? 本当に問題ないのですよ。失礼ながら、ユウナレア様の体力と、私の体力を比べると……そうですね、例えば私は、ラインバック領都の外周を走って一周した後でも問題なく活動できます。奥様の体力と比べた場合、かなりの違いがあると思いますが」
非常識なのは体力の絶対値だった。
ちなみにユウナレアは、ラインバック家の庭を走って一周することすらままならないだろう。
「……判りました。それでは食後に、お願いします」
仕方なく言った。言わされたような気分だった。
「はい。すぐに元気にして差し上げますね」
やっぱりほわほわと微笑むイニアエスが、ちょっと怖かった。
◇◇◇
運んでくれた食事を終え、シェラに身体を拭いてもらい、すっきりしたところでイニアエスに魔法を使ってもらった。
効果は劇的で、一瞬前まで感じていた熱っぽさや疲労感が、あっさりと全て吹き飛んだ。心配していたイニアエスの体調も、全く問題なさそうだった。
どうやら本当に素の体力が桁違いなのだろう。
「あくまで魔法によって『体力のようなものを送り込まれた』状態ですので、奥様の身体に『体力』が馴染むまで、明日一日くらいは安静にしていただいた方が良いでしょう。お忙しくしていらっしゃったようですので、差し出がましいかと思いますが、たまには休むことも必要ですよ」
ユウナレア自身は縁のない場所だったが、例えば孤児院の年若い女院長がいたらこんな感じだろうか。物腰も口調も表情もやわらかいのに、奥にある強固な芯を感じさせ、逆らう気にならない。
「はい……」
素直に頷くユウナレアに、満足そうに頷くイニアエスだった。
しかし――別に心配されているわけじゃないだろうな、とも思った。
「それでは私は失礼しますね」
と、立ち上がろうとしたイニアエスに、どうしてかユウナレアは「あのっ!」と声をかけてしまった。引き止めるつもりはなかったのに、引き止めなければという気持ちが湧いて出たのだ。
「はい、なんでしょう?」
「その……少し、話をしていきませんか? 私は貴女たちのことを、なにも知りません。ゲイル・ラインバック様のことも……ほとんど、知らないのです」
「構いませんよ。奥様の体調に害がない程度であれば」
「ありがとう。シェラ、彼女にお茶をいれてあげて」
そこからは、微妙な温度の時間が流れた。
ラインバック家に来てからユウナレアが最も癒やされたのは、間違いなく三男カート・ラインバックとの時間だろう。あるいはアーカッシュ家からついて来てくれたメイドのシェラと二人きりで茶を飲む時間を加えてもいい。
イニアエスと話すのに、不快感はなかった。
つい先日まで地獄の住人であったなどと思えないほど、イニアエスは丁寧な物腰と話し方をする。貴族的な所作とは少し異なるが、こちらに敬意を払ってくれているのが理解できる、そういう態度だった。
でもたぶん、別にユウナレアに好意はない。
彼女が信奉しているのは、ただ一人――ゲイル・ラインバックだけ。
ユウナレアは、彼の書類上の妻だから尊重されているに過ぎない。
眼帯の女魔法士は、ユウナレアの質問には嫌がることなく全て答えてくれた。例えば彼女はそもそもラインバック領軍の所属ではなく、隣領からの援軍に混ざっていた魔法剣士だった。隣領の領軍所属ですらなく、いわば傭兵的に雇用されて、あの地獄へ送り込まれたのだ。
当然というべきか、あの戦場には適応できず、追い詰められて敵兵に両目を斬られた。絶体絶命の場面で第三大隊の横槍があり、イニアエスは九死に一生を得たという。両目は自分で治癒魔法をかけたが、完治はしなかったそうだ。
「失明したわけではないのですけれど、光に弱くなってしまいまして。それで、こうして眼帯をつけているのです。見苦しくて申し訳ございません」
イニアエスはそう言ったが、引け目のようなものはまるで感じなかった。
ゲイルに助けられた。その後、ゲイルの部下となって彼の力になっている――そのことがたまらなく誇らしい。そういう態度だった。
私の人生には、そこまで誇れることなんて、ない。
唯一誇れる『能力』だって、ゲイルの妻になることを選んだ時点で、自ら汚してしまったようなものだ。彼らの高潔さを目の当たりにすると、自分自身の醜さが露呈するようだった。
だって、ユウナレアは自らの力をひけらかしてゲイル・ラインバックの人生を貶めたのだ。力を貸すから、彼の人生を汚していいか――契約結婚は、つまるところそういう取引だった。
モゥレヴ伯爵は、その汚さを知りながら、承知したのだ。
何故ならユウナレアの持つ『力』は、民のためになるから。
でも、私は――覚悟も自覚も、なにもなかった。
目の前の嫌なモノから逃げるための方策が、結局は自らを『嫌なモノ』に貶めてしまった。こんな有り様でエドワードの配下として働くだなんて、それもおこがましいのではないか。手紙をくれたエドワードはユウナレアを求めているようだったけれど、彼もまた、私の汚さを知らないだけではないか……。
お茶を飲みながら微笑を維持するユウナレアに、イニアエスは気付いたのか気付いていないのか、こんなことを言った。
「奥様。私たちは、奥様が思うほどに高潔ではありませんよ。仲間を守るために少年であろうが少女であろうが叩き殺しました。降伏した敵兵を逃がすふりをして敵の拠点を探り当て、拠点ごと焼き払いました」
だから――と続ける。
同じほわほわとした微笑のまま。
「もちろん、ゲイル様も清廉潔白ではありません。そんなものは、あの戦場にはありませんでした。もしかすると、この世の何処にもないのかも知れません。ですが、そのことを悲しいとは、私は思いませんわ」
「それは、どうして?」
「だって清廉でなければいけないなら、私は『そうでない』という理由で害悪だということになってしまいます。キレイなモノしか住めない世界なんて、私は住みたいと思いません。私はキレイではありませんから、同様にキレイでないものを許容しますし、愛しく思います」
「愛しく……」
衝撃的な言葉だった。ほとんど呆然としてイニアエスを凝視してしまう。眼帯の魔法士は、やっぱり同じ微笑を浮かべたまま、続けた。
「だって、ゲイル様も第三大隊のみんなも、ろくでもない人たちですもの。ゲイル様が許されない世界なんて、そっちの方が間違っています」
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