10_兄との再会、部下との再会(ゲイル)
何処かに沈み込むような夢を視た気がするが、寝台がやわらかすぎたせいだと気付いた。石の上、土の上、そんな場所で寝起きすることが多すぎた。
目を覚ましてしまえば、ゲイルの頭はあっさりと覚醒してしまう。窓の外を見れば日が昇りかけており、反射的に「とりあえず敵襲はなさそうだな」と考え、思わず苦笑した。実家に敵襲など、あってたまるものか。
素っ裸で眠っていたので、昨日着させられた服を着直し、腰帯と剣がないのを不満に思いつつ、部屋を出る。隣室はユウナレアの私室であるらしいが、特に用はない。一階へ降り、早朝だというのに働き始めているメイドを見つけて声を掛ける。
「外出する。夜には戻る」
「へっ! あ、おはようございます……え、外出? 外出ですか!?」
顔中に困惑を貼り付けたメイドに首肯を返し、そのまま屋敷を出た。
朝の澄んだ空気と、ひどく余所余所しい『安全』の気配。
敵襲の心配がなく、唐突に次の任務を伝達されることもない。
まるであべこべだ。
屋敷の脇をぐるりと迂回し、やたらに木々の多い庭を歩きながら、ゲイルは考える。俺は帰って来た。そのはずだ。地獄を這いずり、泥と血を啜り、敵と仲間の死体を踏みつけながら、生き延びた。
だというのに、帰って来た場所が、あまりにも場違いだ。
書類上の妻がラインバック家の財政を取り仕切っていたことなど、たぶん関係ない。実際に対面して話してみれば、ユウナレアという女には不快感を覚えなかった。父モゥレヴも、執事のセバスも、彼女のことを信頼しているようだ。
仮に書類上の結婚などなく、ラインバック家が四年前のままだとしても、帰って来たゲイルにとっては場違いだっただろう。
「そういえば……『帰りたい』なんて思ってなかったか、俺は」
実家が恋しいなどと考えていたのは、最初の半年くらいのものだ。あとは目の前の任務と敵、仲間、戦場。手が剣を握り、心臓が脈を打っている――そのことだけが重要で、それ以外は考えてもいなかった。
「あの地獄に、魂を忘れてきたようだな」
ひとりごち、小さく笑う。
だって、忘れてしまうくらいならば、そんなものは些事ではないか。魂なんぞ知ったことか。今は帯剣していないが、脚は動くし、血は巡っている。
庭を突っ切って屋敷の裏門を抜ければ、すぐに軍施設へ出る。
ラインバックの屋敷とラインバック軍部は隣接しているのだ。まだ戦場に出る前、ゲイルはよくこちらの訓練所で剣を習っていた。
施設は大きく兵宿舎、管理棟、訓練施設に分かれている。兵士たちが寝泊まりする場所、兵士たちを管理する場所、兵士たちを訓練する場所だ。敷地面積はラインバックの屋敷と庭を二十個並べてもまだ足りないほど。
軍事施設だからか、屋敷で感じていた居心地の悪さは薄れ、心なしか歩調が軽くなる。ゲイルは迷わず管理棟に並ぶ建物のうち幹部が利用している塔へ足を向けた。入口には当番らしき兵が立っており、朝っぱらからやって来た丸腰の男へ訝しげな視線を注いでいた。
「ゲイル・ラインバックだ。兄上――ガーノート・ラインバックと面会したいが、可能か?」
「ゲ、ゲイル様でございますか!? 少々お待ちを! すぐに取り次ぎます!」
跳び上がらんばかりの驚きを見せた立番は、持ち場をあっさり放棄して塔の中へ入って行った。まごまごしないのは美点だが、ちょっと平和ボケしているかも知れないな、と思った。
仮にゲイルがここを攻めるつもりなら、この隙は致命的だ。
まあ、攻めないのだが。
単身で敵の砦を訊ねて、内部で暴れまくるなんて――何度もやりたいわけじゃない。生き残ったのが奇跡だ、あんなものは。
そんなことを考えているうちに立番が戻ってきて、執務室へどうぞ、と言った。やれやれ、こっちでも執務室か。
机に向かって書類と戦争するのは、自分にはあまり向いていないだろう。兄上も、たぶん得意ではないはずだ――そう思った。
◇◇◇
「久しいな、我が弟ゲイル・ラインバック。国境戦の英雄。おまえを誇りに思う……が、朝にいきなり訪ねて来るのはどうなのだ?」
はっはっは、と豪快に笑う兄、
四年ぶりに再会したガーノート・ラインバックは、記憶の中よりも父モゥレヴに似ているような気がした。骨太で大柄、縦にも横にもでかく、顔の造形が角張っており、剛健な印象を他者へもたらすのは昔から変わっていないが――なんというべきか、貫禄がついたような気がする。
「昨日は会えなかったから、顔を見ておこうと思ったのがひとつ。久しぶりだな、兄上。ちょっと偉そうな感じになったな」
直裁的なゲイルに物言いに、ガーノートは一瞬だけ目を丸くしてから、にんまりと口元を歪めた。
「そうだな。実際に偉くなってしまった。おまえは強くなったな。俺にも判るぞ。もはや俺では敵うまい。父上でも無理だろう。大規模な援軍を送ってやれず、おまえを死地に留まらせたままで、すまなかった」
端的な言い方は、記憶の中の兄と変わらない。ゲイルはちょっとだけ笑んで、雑に肩をすくめておく。
「いろいろ理由があったんだろ。思うところはあるが、今更の話だ。俺だって一人だけ戻ろうと思えば、家に帰ることはできた。帰らなかったんだ、俺は」
「それは何故だ?」
「部下がいた。仲間がいた。俺を守って死んだやつがいた。仲間を俺に託して死んだやつも。そういうのを、投げ出して逃げる気にはなれなかった」
その言葉は、自分で吐き出しておいて少し重かった。
その重みを――ガーノートは、きちんと受け取ったように見えた。そういうところは、真面目なのだ、この兄は、昔から。
「ところでゲイル、嫁さんには逢ったのだろう?」
「ユウナレアのことか。昨日、少し話した。契約についても聞いた。時期が来れば離婚して出立すればいいと言っておいたぞ」
「……彼女は、ラインバック家に豊かさを与えてくれたぞ。もし当家にずっといてくれるのなら、それは続くだろう」
「そうか? あの女には能力があるのだろ。兄上も、親父殿も、本人ですらそう言ったぞ。だったら、どうしても家を出たくなったら、あらゆる手段を使って家を出るはずだ。契約の不備を盾にしても意味がない」
「それは……そう、か。そうかも知れぬな」
「どうせラインバック家を出て行く予定だったのだろう? 欲張るべきじゃない。それはそうと、要件はもうひとつあった」
「なんだ?」
「後で正式な書類が届けられると思うが、第三大隊の隊員を四人、俺の配下として引き抜きたい。ラインバック伯爵家次男の従者……になるのか? よく判らんが、先に伝えておいた方が話が通りやすいかと思ってな」
というゲイルの言に、ガーノートは呆れ半分の苦笑を見せた。
何処が面白かったのだろう、と首を傾げれば、兄のごつい手が机の上の書類をひとつ摘み上げた。
「その書類なら、昨晩のうちに届けられた。『能力がある』のは本当のことだ。手放すのが惜しいと思うほどにな。ともあれ、おまえたち第三大隊の到着が異様に早かったせいもあり、この書類の件もあり、俺は四年ぶりに帰還した弟を歓迎する間もなく働き詰めているというわけだ」
「大変だな」
「愚痴ってはみたが、おまえよりは大変じゃないさ。届は認可して、昨晩――深夜のうちに該当隊員に通達してある。兵宿舎に行けば、待ち構えているはずだ」
「了解した。すまないな、兄上」
言って、踵を返して部屋を出る――そのゲイルの背中に、記憶と微妙に重ならない実兄が、声をかけた。
「ゲイル。俺も、おまえより少し前に結婚した。俺の部下だった女騎士が、俺の妻だ。今は妻として俺を助けてくれている。今度、紹介する」
これには、やや迷ってからゲイルは答えた。
「そうか。結婚おめでとう、兄上」
◇◇◇
兵宿舎を訪ねてみれば、ガーノートの言う通り、既に通達があったらしく、物事はするすると円滑に進行した。
こちらへどうぞと案内された部屋に、希望していた四人と、希望していない一人が集まっていたのだった。
浅黒い肌の双子、シェリーとダニー。
両目を眼帯で覆った女魔法兵、イニアエス。
目端の利く斥候のマーヴィル。
それから――第一中隊の中隊長だった、レイエン・レブレザック。
「どうしておまえがいる?」
扉を開けたゲイルに喜色を浮かべた面々よりも先に、ゲイルが口を開いた。
反応したのは銀髪の優男、レイエンだ。
「そりゃあないですよ、大隊長。こいつら四人っきり引き連れてオサラバされても、俺たちが困るってものです」
「レイエン中隊長は、俺たちの進退について心配してるんスよ」
付け加えたのはマーヴィルで、ゲイルに拾われた嬉しさを隠しきれず、にまにまと悪人面を歪ませていた。
「隊長! ボク、ずっと待ってました!」
「ゲイル様! アタシとこいつを従僕にしてくれるのですよね!?」
餌を見つけた鳥みたいにゲイルの両脇へ飛んできたのは、双子のシェリーとダニーである。今年で十歳になる彼女らは、二年前に第三大隊で保護し、ある種の英才教育を施された代わりに、まともな教育を受けていない。
「大隊長。俺たち第三大隊は、おそらくラインバック領軍で持て余すことになるでしょう。練度と強度があまりに違いすぎますし、まともな連携が取れません。俺も昨日ラインバックの正規軍を目にするまで気付きませんでしたが、俺たちは、ちょっと……異様に強すぎるようなんです」
「そうなのか? その割には、何度も死にそうになったが」
「増援の第四大隊なんざ、千人いたのに半年も保たなかったでしょう。何人かはうちに取り込んでやりましたが……まともな大隊が俺たちと同じように戦い続けることは、たぶん不可能です」
まあ、考えてみれば『間違いなく死ぬだろう』という理由で、ユウナレアはゲイルと契約結婚したのだ。普通に考えると、生存したこちらが異常ということになる。
「なるほど。それで?」
促せば、レイエンは戦時の会議中と同じように指先で顎をなぞり、続けた。
「昨日のうちに、除隊するやつとしないやつを選り分けました。停戦が報じられた後に、終戦祭だかなんだかを執り行う予定だそうで、その時点までは第三大隊が維持されます。このときは大隊長も参加して街を行進することになるでしょう」
「行進っ!」
「凱旋ね!」
合いの手をいれる双子は無視。
「その後、か」
「その後、です。俺たちは貴方を支え、貴方に使われ、貴方に付き合って死にたい。そしてそれは、おそらくラインバック家の利とは反りが合わないでしょう」
それはそうだろう。領軍は領のために戦う。ゲイルが次期領主であるなら話は早いが、ゲイルは次男であり、ガーノートが次期領主であることに異存もない。
「ふむ。すぐに良い案は浮かばんな。とりあえず凱旋……終戦祭か。それが終わるまでは、おまえが取り纏めろ。そのつもりで来たのだろう」
「はい。大隊長からは、将軍代行に話を通していただければと思います。領軍の方でも第三大隊を持て余すことになるのは、おそらく察しているでしょうから、渡りに船の提案になるはずです」
「承知した。まあ、機会を見つけて言っておこう。実際に少し困ってからの方が、提案の有り難みが出るだろうからな」
「ありがとうございます。手綱を握るのに大隊長の名を借りることもあるかと思いますが、お許しください」
「いいさ。そんなもの、好きなだけ使え。手間をかけさせて悪いな」
「ジェイムズが生きていれば……いや、これは詮のないことか。それより、あいつが言えなかったことを言います」
「なんだ?」
「結婚おめでとうございます、大隊長殿」
にやり、と性格の悪い笑みを見せるレイエン。
ゲイルも似たような笑みを返し、優男の胸板をドンと叩いてやった。
「礼を言う」
「私からも、お祝いの言葉をお送りしますわ。そして、なによりも感謝と喜びを、ゲイル様に申し上げます」
不意に――いつの間にか近づいていたイニアエスが、そんなことを言った。
黒い布が目隠しのように両目を塞いでおり、騎士とも兵士とも異なるゆったりした灰色のローブに身を包んだ彼女は、赤い唇を三日月に吊り上げて言った。
「私たちを召し上げてくださったこと、心底からの喜びに、この身が打ち震えるかと思いましたわ。どうぞ私をお使いください。ゲイル様。ゲイル・ラインバック様。私は、貴方様に全てを捧げます」
「全ては要らん」
と、ゲイルは即答した。本当に要らないからだ。
しかしイニアエスの笑みは、まるで変わらなかった。
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