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玉手箱の恋

作者: 伊織ライ


「──へぇ、うちの旦那(ひと)、貴女みたいなのが好みだったのね」


 艶々とした黒い髪をさらりと流し、白い肌に真っ赤な口紅が映えるその美人は、私を頭の先から爪先まで舐め回すように観察してからそう言った。

 ──ああ、今日だったんだ。

 そう遠くないうちにやって来るだろうとは思っていたけれど。早かった、かな。でもやっぱり、十分過ぎた。だってこんなに、好きになってしまった後だもの。



 彼と出会ったのは、職場でのこと。いつも通りの商談で、いつも通りに話を進めて。いつも通りでなかったのは、上司と彼の関係か。


「いやぁ、まさかここで緑大ラグビー部の先輩に会えるとは!」

「いえいえそんな。ここではどうかただの吉永とお呼び下さい」

「やだなぁ堅苦しいことは無しにしましょう!」


 どうやら大学の部活の先輩後輩にあたるようだ。直接世代は重なっていないらしいが、体育会系の部活というのは私には理解できない()と上下関係があるらしく。

 後輩にあたる私の上司が、今や商談の決定権を持つ立場になって。先輩であるらしい吉永さんは、相手企業の交渉担当だ。

 もちろん会社のお金を動かす話だから問答無用で採用するわけにはいかないが、幸いにも吉永さんの持ってきた話はうちの会社にとっても利が大きかった。


「では、今後とも末長いお付き合いを! 乾杯っ!」

「乾杯!」


 契約成立に伴う食事会。メンバーは担当の上司とその補佐の私、吉永さんの3人だ。


「おう祭理(まつり)ぃ、吉永さんのグラス空だぞ!」

「はい、お()ぎしますね」

「あぁ、ありがとう。相澤さん、下の名前まつりって言うんだね」

「はい、覚えやすいねってよく言われます。あの──高橋部長、酒癖が悪いので。あまり無理して付き合わなくても大丈夫ですからね」


 上司は自分が飲むのも、人に飲ませるのも好きなのだ。そのわりに強いわけでもなく、くだを巻いたり絡んだり、時には泣いたりもする面倒な人。仕事上は有能なのに、飲み会となると毎回こうなのだからやっていられない。私がこうしてついて回るのも、取引先に迷惑をかけないための処理係のようなものだ。

 吉永さんのグラスにビールを注ぎながら、耳元で小さく囁く。必要ならば途中からお茶に変えてしまったとしても、この様子ならバレはしないだろう。


「──大丈夫だよ、ありがとう。まつりちゃんも無理しないで」


 吉永さんは目尻に皺を寄せてふっと笑い、そして同じように私の耳元で囁いた。その息がふわりと髪を揺らし、まつりちゃん、と呼ばれた名前がなんだかくすぐったく感じた。


「まつりぃ、おかわりだよぉ、おいはやくぅ。吉永先輩がよぉ、待ってるだろうがぁぁ」

「──もう駄目みたいですね。ご迷惑をおかけして申し訳ありません」

「いえいえ、まつりちゃんのおかげで僕は全く。でも高橋さん、このままじゃ駄目そうだよね? いつもはどうやって?」

「ええ、近くのビジネスホテルを押さえてあります。そこまでなんとか連れていけば明日にはケロッと復活しますので」

「はは、本当に用意周到だ。こんな至れり尽くせりの部下がいて羨ましいな」


 ──僕にも欲しい、と聞こえたのは空耳か私の願望か。

 吉永さんは僅かに白髪の混じる髪を綺麗に後ろへ流し、三揃えのスーツにお洒落なネクタイ、ぱりっと糊の利いたシャツに磨かれた靴を履いている。どう見てもある程度の立場を持ち、その身を飾る物ひとつひとつにもかなりのお金をかけている。仕事も有能で隙がなく、溢れる自信と余裕が大人の魅力を感じさせた。

 もし、そんな人に欲しがってもらえるのならば。そんなに光栄なことはないだろう。確かに楽な仕事ではないし、残業も多ければ気を遣わなければならない場面も多い。でも私は今の仕事を案外好いているし、やればやっただけ評価してもらえるところも恵まれた環境だと思っている。

 満足している。お金は貰えるし、やりがいもある。


『──ホントうざいよね、あのお局』

『こうしたら? ああしたら? って、親切のつもりかね。余計なお世話だっつーの』

『ウチら良い男みつけたらさっさと退職するだけだしね。さすがお局はしがみつくのに必死だわー』

『やだーあんな行き遅れになりたくないわ』


 30歳も半ばを過ぎて、社内ではお局と呼ばれているのも知っている。偶然を装ってお尻を撫で上げられるのも、20代のうちまでだった。

 だから余計に仕事に打ち込むことが出来たし、結果が出れば嬉しい。楽しい。まだまだ頑張れる──はずだ。


「ホテルまで運ぶの、手伝うよ」

「いえっ、吉永さんにそこまでしていただくわけには」

「女の子には大変でしょう。年取っても相変わらずデカいしね、僕も彼も。──さあ、どっち? あ、僕のカバンだけお願いね」


 私を女の子と呼び、ぐでんぐでんの部長をひょいと担ぐ吉永さんの逞しい腕から目が離せなかった。私が女であるならば、目の前のこの人は紛れもなく男だった。私にはない背丈と、私にはない筋肉と、私にはない低い声。


「──ふう、これでいいね。お疲れ様」

「本当に助かりました。ありがとうございます」

「いいのいいの、契約まとまったのもまつりちゃんがフォローしてくれたお陰だしね。少し動いたらまた喉乾いちゃったな……良かったらもう一軒だけ、付き合って?」


 吉永さんは断られる可能性など全く考えていない様子で、すっと私の手を掴んだ。長い指、ごつごつとした節のある大きな手。


「──はい、喜んで」


 指を絡めて繋いだそこに、ひやりと冷たい金属が触れた。

 もしもこの時断っていたら、何かが変わっていたのだろうか?



「──お待たせ。さあ、乗って」

「はい!」


 ロータリーに現れた真紅のSUV。運転席に座る吉永さんは、カジュアルなシャツにニットのカーディガンを羽織り、薄く色の入ったサングラスをかけている。


「あ、この曲! 私好きなんです」

「本当に? 珍しいな。そんなに有名なアーティストじゃないけどね」

「学生時代に少しだけ声楽を齧っていて。その時の課題曲だったんです」

「なるほどね。どうりでまつりちゃんの声は落ち着く響きなわけだ」

「落ち着く、ですか? 女性にしては低いですし、可愛げがないと言われたことはありますけれど」

「可愛げがないって? 馬鹿だな、それはただ単に見る目がない──聞く耳がない? だけだ。僕なら朝から晩までその声を聞いていても飽きないよ」


 こちらをちらりと流し見ながら、吉永さんは悪戯っぽく笑う。朝から晩まで、の響きに私は僅かに頬を染め、横から伸びてきた大きな手がその頬をするりと撫でた。


「ほら、こんなに可愛いのに」

「──っ、揶揄わないで下さいよ」

「揶揄ってないさ。僕みたいなおじさんからみれば君はまだまだ可愛い女の子だ」

「吉永さんはおじさんなんかじゃないですよ。オシャレだし、格好いいですし」

「ひとまわり以上も年上なのに、嬉しいな。必死で若作りした甲斐があったよ」


 はは、と声をあげて笑う目尻の皺も、少し顎に生やした髭に混ざる白も、吉永さんのそれは年相応だ。けれど楽しそうにはしゃぐ姿は少年らしさも感じさせ、そのひとつひとつが私の心臓を騒がせた。

 すい、とハンドルを握る手に目をやる。幅広で、装飾のないプラチナのリング。石はない。薬指の根本だけが僅かに痩せて、その指輪をはめてからの年月の長さを感じさせた。


 私の視線に気付いたのか否か、吉永さんは努めて明るい声で言う。


「ほら見て、まつりちゃん。湖が見えてきた」

「本当ですね。綺麗……」


 私たちは、車で2時間ほど走った場所にある観光地に来ていた。大きな湖があり、その周辺には公園や散策路、地場産の野菜を売る市場や博物館などが並ぶ。

 その中でも、少し登った丘の上。スタイリッシュな建物の奥側は全てガラス張りになっており、そこからは一面の湖が見渡せた。広い湖の真ん中にぽかりと浮かぶ緑の島と、緩い風にキラキラと輝く水面の光。遠くに小さな点が動くのは、観光客のカヌーか、ボートか。


「お腹が空いただろ。食べよう」


 窓際の特等席に座り、ランチのセットを頼む。1000円と少しのそれは、1日に何千万というお金を動かす彼にとっては極めて安いものだろう。

 そんな彼の時間を拘束する私には、一体何が返せるのだろうか?


「わ……おいしい!」

「うん、本当に。出汁がよく利いている」


 私が綺麗だと思うものを、この人も綺麗だと言い。私が美味しいと思うものを、この人もまた美味しいと言う。

 水を注ぎ足した私に「ありがとう」と告げる笑顔も、湖を眺めながら無言で箸を動かす時間も。そのどれもが居心地良く穏やかで──愛おしい。


 認めてはいけない、と。

 こんなことは間違っているのだから、と。


 分かっていても──分かっているから、落ちるような恋だったのだ。



 私たちは逢瀬を重ねた。

 彼が連れて行ってくれる食事はどれも豪華で、美味しかった。買い物に行けば互いに服を選び合い、時には揃いの小物を身に着けて。


「この色、まつりに似合うよ」


 今まで手に取ったことのないような物も、彼がそう言えば輝いて見えた。胸に当てて「どう?」と見せると、「俺の見立てが間違っているわけないだろう」と何故か偉そうに言って。

 私が選んだタイピンを着けて会社に来た日は、別れ際に目を合わせて小さく口端を上げた。

 


「──ねぇ、吉永さん。私たち、もう少し早くに出会えてたら良かったね」

「──ま、こんなおじさんになってからひとまわりも下の若い子抱けるなんて、男の夢ってやつだよ」


 吉永さんは決して踏み越えて来なかったし、私も未来の話はしなかった。過去の話はしても。仮定の話はしても。



「えっ、じゃあ吉永さんの娘さんってアタシと同じ歳なんですかぁ?!」

「そうなるね。僕のことお父さんって呼んでくれてもいいよ」

「あははは! まじウケる! 吉永さんって案外面白い人だったんだぁ! お父さんお小遣い頂戴〜!」

「娘はもう甘えてくれないから寂しいんだ。こっちの可愛い娘にはなんでも買ってあげような」


 お茶を運ぶ新入社員の女の子と、吉永さんの笑い声が重なる。弾けそうなほどのエネルギーが、今の私には苦しかった。

 踵を返し、背中を向けて歩き去る。吉永さんは、追いかけて来なかった。



「貴女が相澤祭理(あいざわまつり)さん? ──へぇ、うちの旦那(ひと)、貴女みたいなのが好みだったのね」


 艶々とした黒い髪をさらりと流し、白い肌に真っ赤な口紅が映えるその美人は、私を頭の先から爪先まで舐め回すように観察してからそう言った。

 受付から呼び出され、「吉永祐美」という名前を聞いた時点で予想は出来ていた。

 エントランスから会社の向かいの喫茶店に場所を移し、互いにホットコーヒーを頼む。


「ミルクとお砂糖は──」

「いらないわ」


 カップを持つ手は細く白く、爪の先まで手入れの行き届いているのが見て取れる。少しの音も立てずにカップをソーサーへ戻し、長いまつ毛をゆっくりと持ち上げるとその女性は私を真っ直ぐに見つめた。


「──で、どうする気?」

「──奥様の、なさりたい様に」


 目は逸らさない。唯一残ったプライドだ。

 見つめ合った数秒、響くのは店内に響くクラシック。

 あの日の車で聞いた曲。あの日見た景色、美味しいねと笑いながらとった食事。

 最初から、仮初の時間だということは分かっていた。それでも選んだのは自分だ。

 どんなに傷付いても。誰かを傷付けてでも。


「──そう。覚悟は出来ているのね」

「はい」


 お金を失っても。職を失っても。信用を失っても。

 それ以上に得たい物を手に入れられると思ったから。

 私は自らこの穴に落ちたのだ。


「──っふ、貴女が何人目かは聞きたくないでしょうけれど。私に頭も下げず、謝りもしなかったのは貴女が初めてよ。流石にその年で、馬鹿ではいられないわよね。いいわ、気に入りました。あのひとどうせもう種な──」


「祐美ちゃんっ!! ──と、まつ……相澤さん」


 ガランゴロンと激しくドアを鳴らして飛び込んできたのは吉永さんだ。珍しく息を切らして髪を乱し、急いできたことは察せられる。

 この人が余裕を無くした姿を見たのは初めてだった。

 喫茶店にいた数名の客が、突っ立ったまま肩で息をする中年のおじさんを凝視する。

 そう、そこにいるのはただの中年のおじさんだった。


「あなた、いつまでそんな所に立ってるのよ。邪魔になってるわ。座るなら早く座りなさい」

「──祐美ちゃん……ごめん」


 しゅんと頭を下げるおじさん。

 肩を丸め、小さくなって座るおじさん。

 頼んだミルクティーに、これでもかと砂糖を投下するおじさん。


「──あなたね、今回はいい子を選んだとは思うけど。次は無いわよって言ったわね。忘れたの?」

「だって──」

「だってじゃない!」


 奥様の怒鳴り声にびくっとするおじさん。

 ちょっと目尻に涙を浮かべるおじさん。


「まつりちゃんが、祐美ちゃんに似てたから……」

「この子が? 私に?」

「仕事が出来て……しっかりしてて……恥ずかしがり屋で、強がりで、可愛くて……昔の祐美ちゃんを思い出して……」

「──だから、何なの?」

「祐美ちゃんにしたかった事して……。だって、僕だって本当はもっと格好付けたかったんだよ! スマートにエスコートして、祐美ちゃんに格好いいね素敵だわって言って欲しかった! でも祐美ちゃんはいつも完璧で僕よりもっと格好いいし、最近なんて紗耶に仕事を教えるのにかかりきりで僕のことなんてちっとも構ってくれないじゃないか!」


 逆ギレするおじさん。

 駄々をこねるおじさん。

 ミルクティーをこぼすおじさん。


 祐美さんはひとつ首を振ってため息をつき、私の方を見て口を開いた。


「──沙耶はうちの娘よ。この人も沙耶も、私の会社の従業員なの。沙耶は今年入社したばかり。あの子には何も話していないけれど……まあ優秀な子だから。きっとある程度は気付いてるでしょうね」

「えっ!」

「──あなた、だったら何のつもりで浮気相手とのデートのお土産買って来てたの? 馬鹿なの? 馬鹿なのね? 馬鹿だったわ」


 落ち込むおじさん。

 私が好きだったおじさん。


「まつりさん、と呼んでも? 貴女には迷惑をかけたわね。この人が馬鹿なのは昔からだけれど、こんな風に貴女を傷付けて──」

「いいんです。奥様に謝られたら、幸せだった日々まで幻になってしまう。偽物でも、身代わりでも、確かにあの時間だけは私、幸せだったので。そう思うことだけは、許してもらえますか?」

「──ええ。それじゃ、相応の額の慰謝料を請求させて貰います。会社の担当は他の者に変えるわ。纏まった商談はそのままで構いません」

「ありがとうございます」


 てきぱきと話を纏める私たちの横で、オロオロしながら汗を流すおじさん。

 そのおじさんが小さな声で呟いた。


「──まつり? まつりちゃんは……僕のこと好き、だよね?」

「好きでしたよ。本当に。こんなに幸せな日々があるなんて知らなかった。私がいつか死ぬ時に、この幸せな日々を思い出すことでしょう。貴方ともしもっと早く出会えていたら──何度も何度もそう思いました。だけど貴方は決して指輪を外さなかったし、貴方は、私のことを好きじゃなかった。ありがとうございました、楽しい夢を見させてくれて。夢は覚めるから良いんです。私はこれから現実世界を生きていく。吉永さんも……夢の中の貴方は夢の中にしかいないから。ひとりで寝ている間に、世界は変わっていくんです。浦島太郎になる前に、起きたほうがいいですよ? おじさんがお爺さんになる前に」

「──お爺さん……」

「よかったら頬を叩いて差し上げましょうか? 少しはその寝ぼけた頭が覚めるかも」

「あら、それ良いわね。まつりさん、向かって右ね。私は左から叩くから」


 合図もなく振り上げた2つの手は、はかったように同じタイミングで振り下ろされて。

 じんと痛む手でがっしりと握手を交わした私と祐美さんは、コーヒーの代金を置いて店を後にした。

 後に残された彼がどんな顔をしていたのか、私は知らない。


 確かに、私は恋をした。

 許されたいとは思わない。許されなくて良い。でも、だけど、恋をしたというその事実だけは。あのキラキラと輝く光の様な時間は、綺麗な箱に詰めて蓋をして。リボンをかけて、心の奥底に片付けて。

 玉手箱のように抱えて生きていくのだ。ずっと、ずっと、開けないままで。


不倫を正当化する意図は一切ありません。

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