筋トレ女
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と内容に関する、記録の一篇。
あなたも共にこの場へ居合わせて、耳を傾けているかのように読んでくださったら、幸いである。
へええ、ボディビルを始めて2年で日本屈指のビルダーに……むう、確かにすごい筋肉のつき方しているな。
つぶらやは、筋肉には興味ねえの? まあ、一朝一夕に身に着けようと思ったら、ただじゃ済まねえだろう。この人だってやり始めたときには、家族に地獄の特訓を受けたって、書いてあるもんな。
だが、筋トレそのものはちょっとしたきっかけから、できるものだ。たとえば腹筋崩壊という言葉。
いまでこそ「笑い過ぎて腹筋が痛くなる」という意味合いが市民権を得ている。が、もともとは「笑ったことへの罰ゲームとして腹筋をする、ということを課した結果、その筋肉が壊れるくらい腹筋をする羽目になった」というのが正しいようだ。
罰として筋トレ。少し考えてみると、こいつの歴史は古い。
罪人に課される罰として古来、代表的なものは重労働だ。筋肉を鍛えることを、俗に「筋肉をいじめる」とも形容する。
肉体へのダメージ。これって俺たちが考えているより、重大な意味を持って接している奴もいるかもしれないぜ?
俺の兄貴が肝を冷やした話なんだが、聞いてみないか?
中学校時代の兄貴のクラスでも、一部で筋トレブームが来ていたらしい。
体育の着替えのとき、胸から腹にかけてマッチョボディの男子が何人かいて「おお……」と尻込みしそうになったとか。
そして男子以外に、女子にもマッチョな子がいたらしいんだわ。背の高さも、男子の平均以上にあってさ
水泳のとき、スクール水着越しに筋肉が浮き出ているレベルだったとか。水泳部所属だし、ピークが10代ともいわれる部活だけに、鍛え方もかなりのものがあるんだろう。それでも兄貴が感じたのは魅力よりも恐れの方がでかかったとか。
彼女、部や勉強での成績は上々なんだが、一方で悪いうわさもしばしば聞く。
いわく、大の男数人を相手に大立ち回りしたとか、下級生相手にカツアゲをしているとか。
あのガタイのよさだ。サシで迫られたとしても、威圧感あるだろうな……などと勝手に想像していたが、にわかには信じがたかった。
校内で見る限りでは、彼女は困った人をすすんで助けるような、お人よしに思えたからだ。もっとも、休み時間とみるとハンドグリップ握ったり、ダンベルを上げ下げしたりする姿がみられたらしいが。
それを疑い始めるようになったのは、とある日の放課後だ。
その日は水泳部の活動がないようだった。同じクラスにいる、別の水泳部所属の生徒が他の帰宅部の子と一緒に帰っていたそうだからな。
兄貴もたまたま部活がないときで、久しぶりにラーメンでも食べてから帰るかと、通学路から外れたラーメン屋へ足を向ける。
大通りを行くよりも、わき道を抜ければ数分は早く着く。ついっと角を曲がった兄貴は、やがて途中にあるお寺の前で、件の彼女の姿を見かけたんだ。
彼女は路駐してある、青いクーペの真ん前に立っていた。
兄貴の来た方向からは、彼女を斜め後方から見るかたちになる。制服姿の彼女は、ファスナーを開いた通学カバンを脇に置きながら、両腕を大きく広げていた。
エキスパンダーだ。彼女が両手に、青色のグリップを握っているのが見えた。そして、それにつながる、5本のバネたち。彼女はそれを引っ張っては縮め、引っ張っては縮めを繰り返している。
数メートル離れたところにいる兄貴にも聞こえる、金属のきしみ。そして彼女の、荒い鼻息。エキスパンダーの実物を見るのはこれが初めての兄貴は固唾をのんで、その光景を見守ってしまったらしい。
それから彼女は10回ほど大きく腕を広げた後、そっとエキスパンダーをカバンの上へ置く。
ようやく動くのかと、どこかほっとする兄貴だったが、彼女は次の瞬間、思いもよらない行動に出た。
さっと、彼女の頭の上にだしぬけに現れた、こげ茶色の角。
それが、彼女の大きく振り上げた足の靴だと分かった時には、すでにそれが勢いよく振り下ろされていた。
思わず飛び上がりかける、大きな衝突音。ほぼ同時に彼女の身体から横へひとつ、吹き飛んだものがある。
境内を囲う柵の間へ飛び込んだそれを見ることができたのは、ほんの一瞬。だが兄貴はそれが、金属製の部品らしきものだと分かったらしいんだ。
そして彼女の足はというと、クーペのボンネットに突き刺さったまま動かない。ボンネットの蓋の部分は無残にへこみ、足元には細かい破片が散らばっている。
そう。彼女は、クーペに強烈なかかと落としをかましていたんだ。
――こいつ、やべえ……!
兄貴はすぐさま踵を返すも、不注意で足元に転がっていた、大きめの石を蹴り飛ばしてしまう。
「誰!?」
石がさほど転がらないうちに、彼女の刺すような咎めが飛んできた。
駆け出した兄貴だが、何歩も走らないうちに思い至る。
ここは十数メートルの直線。たいして彼女からここまでは5メートルあるかないかだ。どちらが速くたどり着くかは明らかで、確実に姿は見られてしまうだろう。
それは避けたい。自分はここにいなかったと思わせなかったら、何をしてくるか分からない。
ぱっと、兄貴は先ほど蹴とばした石を取ると、水の上を滑らすように勢いよく向こうへ転がした。
そして音が止む前に、兄貴もまた境内の柵へ手と足をかけている。
自分の背より、頭二つ分ほど高い石造りの柵だ。音が気配を殺してくれている間に、兄貴はほとんど転げるようにして、境内へ。背を柵へ預けて口鼻を手で抑えると、すぐ背後から足音が駆け寄ってきた。
荒い息づかいは、まだ止まない。音を探るに、同じ場所を行ったり来たりしているようだ。
――気づくなよ……気づくなよ……。
抑える手のひらが、押しとどめた息で生暖かく湿り出す。
頭上を見やって、兄貴はいつ柵に両手をついた彼女が、ぐっとこちらをのぞき込んでくるか、そればかりに心気をこらしていた。
足音が止む。かといって遠ざかった気配もなく、動けない兄貴の前で、またあの焦げ茶色のローファーが柵の上へ持ち上がる。
「ガッ」とそれが音を立てると、柵のてっぺんに叩きつけられたかかとが、細かい砂利をまき散らす。
今度こそ遠ざかる気配を、兄貴は十分に聞き届けてから、そうっと身を起こした。
柵のてっぺんには、真新しい陥没痕ができていたんだ。
その翌日から。
彼女は昼休みになると、クラスメートをサシで誘って、外へ出るようになった。
まずは女子陣。それが済むと男性陣へと、標的がうつる。
最初に呼ばれた男子なんて、帰ってくると、周りの思春期だらけの男の餌食よ。告ったの告られないのと、アホ騒ぎさ。
だが、かの男子はというと、引きつった笑いを浮かべるばかり。話によると、体育館裏へ連れていかれるや、そこに置いてあったエキスパンダーをおもむろに拾ってさ。ぐいぐいと引っ張りながら、何も言わずに息を荒くしていくんだ。
わけがわからず、突っ込もうとすると、いきなりかかと落としを出された。
足元の土がえぐれて、盛大に飛び散る。地中の小石が顔をかすめ、ひるんだ拍子に彼女がずいっと間合いを詰めて尋ねてくるのさ。
「あんた、なにを見た?」って。
突拍子もないことで、男子たちは一笑に付したものの、この個人面談――というか圧迫面接――は連日、続いたらしい。
――確実に自分を探している。
兄貴は平静を装いながらも、内心ではブルブル震えていたそうだ。
いずれの男子を呼ぶときも、彼女は様々な筋トレグッズを手にしながらの面接。質問に答えたあとも、しばらく険しい顔でこちらをにらんできて、いい気持ちはしない。
それがふっと、急に穏やかな顔になって、「迷惑料」として定食一杯分の金を出してくれるから、悪感情も一時的なものだ。腹が膨れれば、いっときの不快などなんのその。
そしていよいよ兄貴が呼ばれる。
ウソを突き通すか、正直に話すか。兄貴は現地へおもむくギリギリまで、迷っていたらしい。
選択を誤れば、あのかかとが脳天にめり込むのは避けられないだろう。もちろん、逃げ出しても。
おっかなびっくり、足を向けた体育館裏では、彼女があのときのように背中を向けて、エキスパンダーを引っ張っていた。息づかいとともに、あのエキスパンダーが音を立てる。
あの時とは比べ物にならない。黒板を引っかくような耳障りな音に、思わず兄貴が耳を塞ぐ。そのタイミングで、ちょうど彼女が振り返ったんだ。
「あんただったんだね。動かないでくれる?」
エキスパンダーを放り捨てた彼女が、間合いを詰めてくる。
「いやだ、といったら?」
「蹴り倒してでも、止める」
スカートの下からのぞく彼女の足は、男子のそれ並みに太い。
かかと落としどころか、ヘタな動きをとって急所を蹴られてはたまらない。
反射的に前かがみになってしまう兄貴に、彼女は「よしよし」と犬の頭をなでるような、優しい声音を出す。
だがそれもつかの間のこと。
彼女が近づいてくるや、ふおんっと風がうなる。
打ち出された右のハイキックが空気を切り、かがんだ兄貴の頭上すれすれをかすめて通り過ぎた。
はらりと髪の毛が何本がちぎり落ちたときには、すでに彼女は回し蹴りの要領で、身体を回転。ぴたりと足を土へ着けているも、その右足裏は左足裏と比べ物にならないほど、赤く染まっている。
てっきり、頭を蹴られたかと思って手をやる兄貴だけど、いくらさすっても痛みは感じず、出血もない。
「ごめんね。もう大丈夫だから」
にこっと笑う彼女だが、改めて見るその足は、蹴りを繰り出す前よりずっと細まっていたんだ。
兄貴についていた、悪い霊を祓ったと彼女は話したらしい。先日の車も、正規の契約に基づいた仕事のうちで、トラブルはないらしい。
「けれど、強引な祓いには祟りが伴う。祓う側がやせ細って死んでしまう例があるのは、相手が当ててくる『バチ』に自身が耐えきれないからなの。
だから、バチをあてられてもいいように、私は筋肉をまとう。持っていかれても、生きていけるようにね。
相手の居場所を奪う罪に対する、いわゆる罰の前借りってとこかしら」