王子と王女は睨み合う①
「アポロニア、そなただけでも無事で良かった」
「ありがとうございます、お兄様」
アポロニアに手を差し伸べた兄は、蕩けるような美しい笑みを見せた。王宮の一角が血で塗れ、あまつさえ武器庫が燃えて崩れ落ちた。王女である彼女でさえも、凶賊に襲われて辛くも生き延びたばかり。煌びやかな夜会のはずが、緊迫した表情の兵が行き交う王宮は戦場のよう。アポロニアが浴びた返り血も広間の血だまりも乾ききっていないところにしては、やけに緩んだ表情ではないだろうか。
(私だけでも、って……エリーゼはもう助からないと決め込んでいるのね!)
ヴォルフリート将軍の奥方が、錯乱して彼女の手を振り払い、炎が上がる武器庫に飛び込んでしまった、と。兄が笑ったのはそう告げた瞬間のことだった。痛ましい報せに相応しくない笑顔は、けれど一秒にも満たないうちに気遣いと憂いに満ちた表情に取って代わられた。一応は血の繋がった肉親でなかったら、きっと見落としていただろう。とはいえ兄が浮かべる表情はどのようなものでもうさん臭くて信用ならないのだけど。
「将軍夫人のドレスはそなたのものを貸していたようだったな。残念なことだ、そなたの友人も、ドレスも」
「ドレスなんて……どうでも良いですわ」
ほら、傷心の妹を支える振りで、この人は人の命とドレスを同列に扱うようなことをさらりと口にする。いかに高価でも繊細でも気に入っていても、エリーゼの命とドレスが引き比べられるはずがないのに。
粘り始めた血が肌に触れる不快さよりも、その悪臭よりも、この兄に触れられているということが耐え難い。アポロニアが身体を退いてそっぽを向くと、視界の端で兄が不思議そうな面持ちで首を傾げた。まるで妹が理不尽に機嫌を損ねたとでも言わんばかりの態度が、実に腹立たしい。殴ってやりたいくらいだと思う。
(私に殴らせたいのかしら。まさか、ね……?)
密かにヴォルフリート将軍と近づいていた妹に対して、裏をかいてやったぞ、と勝ち誇っているならまだ分かる。というか、先ほどの笑顔には、実際その意味も多分に含まれているだろうとは思う。あるいは、兄の悪事への加担を拒んだというエリーゼが、自ら死地に向かってくれたのを喜んだのか。でも──兄の表情も口調も真摯そのもので、もしかしたら心からドレスとエリーゼを等しく惜しんで悼んでいるのではないか、とも思えてしまう。いつのころからだろう、この人の言うこともやることも、どこまで本気なのか分からなくなってしまった。だからこそ、アポロニアは同じ年頃の令嬢たちのように兄の容姿に見蕩れる気にはなれない。見た目は非の打ちどころなく美しいのに、内面を知ってしまうとこの人の言動は不気味で仕方ない。
「私は、エリーゼこそ心配なのです」
「とはいえ、自ら死を望んだ者にとっては救いかもしれぬ。よほど罪悪感で気が咎めたのだろう」
白々しく眉を寄せる兄を、あからさまに睨みつけないためには相当の気力が要った。邪魔な妹の命を狙ったばかりか、その罪を将軍に押し付けて瓦礫の下に葬ろうとした。さらにはエリーゼの決死の行動までも、兄は都合の良い筋書きに当てはめようとしているらしい。
でも、兄の非道への怒りも不快も嫌悪も、今は見せてはならない。アポロニアは深く息を吸って吐き、返り血に汚れたドレスを強く握りしめた。
「……アンドレアスに向かってもらっています。助け出してくれるものと信じていますし、エリーゼたちが見つかれば何があったかも明らかになるでしょう」
「ヴァイデンラント伯爵か。忠実な臣下に、危険かつ無為な役目を与えるのは感心しないな。そなたは王族なのだから」
「お兄様……!?」
(貴方が言うの? それを!?)
今度こそ驚きを隠しきることができず、アポロニアは目を見開いた。見上げた兄の表情は変わらず真剣で、かつ美しかった。何も知らない者が見れば、強情な妹を教え諭す聡明な王子だと信じ込んでしまうだろう。この顔とこの声で、兄は支持者を増やし声望を得て来た。でも、兄が自らを輝かせようとするときは、常に誰かほかの者を貶めるのが常になっているのを、いったいどれだけの者が気付いているだろう。
年少の者として、アポロニアは兄の踏み台にされることが多かった。だから、彼女は早くから兄のやり口に嫌でも気付かざるを得なかった。それで最初は反発してあからさまに逆らって──それで、両親や臣下に窘められたことも、また多かった。幼かったからこその失敗の数々が蘇って、アポロニアの口内に苦々しい味が広がる。もしかしたら、歯を食いしばり過ぎて血が滲んでしまっているのかもしれない。でも──
「痛み入ります。肝に銘じますわ」
深呼吸を、再び。そして辛うじて笑みを取り繕う。これが挑発であれ得体の知れない兄の本心であれ、王位を狙うつもりなら、この場で激高してはならない。兵も使用人もいくらかの貴族も、この場に残って彼女たち兄妹の言動を窺っているのだから。外面の良い兄に対して声を荒げて、自ら点を落としてはならないのだ。
何より──兄に先手を取られて策に嵌められてなお、彼女にはまだ勝機が残っている。兄の余裕は、エリーゼも将軍もどうせ助からないだろうという勝手な希望に基づいているに過ぎない。
(アンドレアスは急いでくれている。エリーゼも、将軍のために諦めないと言っていた。証人のことだって、お兄様はまだ知らない……!)
頼もしい人たちの顔を思い浮かべて、アポロニアは必死に自分に言い聞かせた。彼女自身やエリーゼの命が助かっただけで幸いと、負けを認めてはならない。兄に勝つことを、考えなければ。
エリーゼは、諦めかけたアポロニアを叱咤してくれた。王女のためというよりは愛する夫のためだろうけど、あの儚げで気弱な少女が驚くほど強い眼差しを見せてくれた。エリーゼの想いは、兄の手先だったという娘さえも動かしたという。アンドレアスが連れ帰ったミアという少女は、王女の私室にしっかりと匿っている。
彼ら彼女らの命がけの行動を、無為などとは言わせない。まして、彼女の短慮によって無駄にすることなどできるはずがない。血臭漂う広間のただ中で、襲撃による衝撃も深い中で、その一心がアポロニアを支えていた。




