過去に捧げる薔薇①
ヴォルフにとって、彼のせいで死んだ者の墓に詣でるのはほとんど初めての経験だった。「ヴォルフリート将軍」に与えられた狼の仮面は、要は彼に嵌められた首輪だった。汚い秘密を知っている犬を、好き勝手にうろつかせないための。あまりにも悪名高くなってしまった仮面をつけたままの姿で墓参をしようというのでは目立ちすぎる。墓を荒らして死肉を食らうとか、死霊を従えるとか──「ヴォルフリート将軍」を彩る多種多様な与太話がひとつふたつ増えたところで彼自身は気にしないが、そんな噂に巻き込むことで死者の尊厳を傷つけるのは憚られたかといって火傷の痕も無残な醜い素顔を晒したら、それこそ幽鬼がさ迷っている、などという噂が立ちかねない。だから心苦しく思いつつも、彼は自らが築き上げた屍の山から目を背け続けてきたのだ。
(一番の理由は、自分の罪と向き合うのが怖かったから、かもしれないが……)
とにかく、今日、ヴォルフは妻を伴ってトラウシルト家の墓所を訪れている。妻、と──口に出すのも心の中でそう呼ぶのも、気恥ずかしくて信じられなくて、いまだに慣れないのだが。アポロニア王女の命令で、夫婦ふたりで行動する機会も増えてきている。だから、黒い衣装に身を包み、白い薔薇の花束を抱えたエリーゼに手を差し伸べる所作も、それなりに形になってきていると思いたかった。
「雪が積もっている。気を付けて」
「ええ、ありがとう、ヴォルフ」
馬車から降りたエリーゼは、ヴォルフが差し出した右腕にすっと掴まると、白く染まった景色を見渡してしみじみと呟いた。
「すっかり冬も深くなってしまいましたね。……葬儀があったのは、初夏だったというのに。こんなに、遅くなってしまって……」
「傷を癒していたのだから、死者も怒らないだろう。万が一文句があるようなら、俺が斬り捨ててやる」
「まあ……」
ヴォルフの強い言葉に、エリーゼの唇が緩く弧を描いた。数か月に渡って墓参を怠った不義理、その罪悪感によって曇った顔が少し晴れてくれたのを、嬉しく思う。
彼ら夫婦が花を捧げようとしているのは、エリーゼの婚約者だったコンラートという青年だ。ヴォルフにとっては軍の部下のトラウシルト中尉として記憶されている。彼が用いた策によって巻き添えのように命を落とし、その遺体は戦場の灰と消えた──美しく快活な青年だった。
コンラートの死によってこそ、ヴォルフはエリーゼという妻と出会うことができたのは間違いのない事実だ。しかし一方で、あの青年はエリーゼに許しがたい行為を働いたのだという。彼が死なせたという罪悪感と、卑劣な行いへの嫌悪と怒り。それらをどう折り合いをつけたら良いかヴォルフは分からないままだし、エリーゼの心中はなおのこと複雑だろう。だが──あるいはだからこそ、何かしらの区切りが必要だろうと、ふたりして今日の墓参を決めたのだ。
エリーゼの案内に従って、薄く雪が積もった墓石の間を歩いて行く。春や夏なら、木々の緑や咲き乱れる花が死者の慰めになったのかもしれないが、冬の今では雪の白さも葉が落ちた木の枝の黒さもひたすら寒々しいだけだった。鳥の鳴く声もなく、ただ、雪を踏むふたり分の足音がさくさくと響く──その静寂を、エリーゼの声が破った。
「ヴォルフ、お顔が冷たくはありませんか?」
言いながら、彼女はヴォルフの顔の右側にそっと指を触れさせている。古い火傷が痕を残している方、今は仮面で覆われている方の頬に。かつては、彼が人前に出る時は兜のように頭全体を覆う狼の仮面をつけていたものだったが、今は違う。
燻し銀の、鋼に似た色の仮面が覆うのは顔の右半分、火傷の部分だけだ。恐ろしげに牙を剥く狼の仮面よりも意匠はずっと繊細で、装飾品のようですらある。右の耳にかける金具と、左側は眼帯のように絹紐で顔に固定する構造になっている。戦場ではすぐに取れてしまうだろうし、防具の用も為さない──だが、とりあえず傷を隠すだけなら十分だ。無事な顔の左半分を剥き出しにすることで、ヴォルフは前よりもずっと人間らしく見えているはずだ。美しい妻の隣にいても、さほどは引け目を感じられないでいるほどに。
「長く屋外にいるのは良くないかもしれないな。だが、貴女がいるから温かい」
エリーゼが心配そうに尋ねた通り、雪に触れて冷え切った銀は彼の肌に刺さるような冷気を伝えている。長く冷気にさらされれば凍傷になる恐れもあるかもしれない。とはいえ雪を見越して厚着しているし、愛する妻と寄り添っていれば寒さも冷たさも気にならない。軽く微笑んだヴォルフに、でも、エリーゼは重々しく告げた。
「次は、内張りの素材もちゃんと考えなければなりませんね」
「いくつ作るつもりだ……? それよりも貴女のドレスや装飾品を──」
「旦那様の身だしなみも妻の役目ですもの。アポロニア様も賛成してくださいますでしょう」
確かに、あの美しくも勝気な王女は喜んでヴォルフの仮面をいくつでも誂えるだろう。今日の銀の仮面も、王家御用達の職人の手によって細工される栄誉に浴している。つまりは、これはヴォルフの新しい飼い主によって嵌められた新しい首輪という訳だった。繊細で美しい仮面は、新しい飼い主の趣味を窺わせるもの。ヴォルフリート将軍はもはや野蛮で残虐な獣ではなく、王女に大人しく従う忠実な猟犬になったのだと知らしめるためのもの。
政争に利用される身の上には変わらないが、少なくともアポロニア王女はヴォルフたちをおろそかには扱っていない。社交界に不慣れなふたりを厳しく指導し、側近に相応しい存在に育て上げようとしてくれている。彼の前に姿を見せることさえなく、戦果だけを手中に収めようとしていたマクシミリアン王子に比べれば、はるかに尊敬すべき主人といえるだろう。
「アポロニア様のご命令となれば仕方ないな」
「でしょう?」
「だから、俺も貴女の装いについてご相談することにしよう。美しい妻がなかなか相応しく着飾ってくれない、似合う衣装を見立てていただきたい、と」
エリーゼの耳元に悪戯っぽく囁くと、瞬時に頬が朱く染まった。狐の襟巻に覆われた首元までもほんのりと色づくのが愛おしい。死者が安らぐ園で抱くには、とても不埒な思いではあるのだろうが。
「もう……そんなことを申し上げたら──」
「ふたりして着せ替え人形にされてしまう、かな?」
「私にはもったいないのに……」
「俺にも、だと思う。だが、貴女の華やかな姿を見るためなら耐えられそうだ」
エリーゼがヴォルフの腕に添えた指に、ぎゅっと力が篭った。白い顔がわずかに俯き、彼の視界に細い項が眩しく映る。思えば、出会ったばかりのころも、彼女のこんな姿をよく見ていた。いつも戸惑ったような表情で、声をかけると跳び上がることさえあったから、平民上がりの残酷な男に嫁がせられて、さぞ怯えているのか見下しているのだろうと思っていた。けれど、ヴォルフにももう分かっている。エリーゼは美しさと優しさに見合った扱いを受けて来なかっただけだ。自信も自尊心もたわめられて育ったために、真っ直ぐに立つ方法を知らなかっただけ。出会ってからの短い間に、彼女は驚くほどの勇気と強さを備えるようになった。だからもう、俯いたままではいないだろう。
ほら──数秒の沈黙の後、エリーゼはゆっくりと目を上げると、少し背伸びをしてヴォルフの耳に唇を寄せた。
「……はい。私も、です」
小声の囁きに、妻を抱き締めたいという衝動が込み上げるのを、ヴォルフは必死に抑えた。何といってもここは死者が眠る場所で、その中にはあのコンラートもいるのだから。
カクヨムから後日談を転載しています。




