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6 ヴォーゲオス生態講座

「ドクター・ゲラだ。よろしく」

 差し出された手は、とても医者とは思えぬごついものだった。太くて短い指。分厚い手のひら。白衣の下に隠された腕も、相当太そうだ。激しくウェーブした褐色の髪と、やや赤味がかった浅黒い肌。黒縁の眼鏡。顔立ちは、明らかにラテン系だ。白衣の下には着古した栗色の開襟シャツを着込んでいる。ズボンの裾は、明らかに短過ぎた。……服装には頓着しない人のようだ。

「城山渚です」

 渚は手を握り返した。

「話は聞いている。ヴォーゲオスについて知りたいのだね。資料を取ってくるから、ちょっと待っていてくれ」

 座るように促しながら、ドクター。

 ドクター・ゲラの医務室は、日本の小さな個人病院の診察室とほとんど変わりがなかった。ファイルケースが載った大きな事務机。レントゲン写真を見るためのバックライト付きの装置……正確にはなんと言うのだろう? カルテを保管するためのファイルキャビネット。合成皮革張りの診察台。薬品戸棚。銀色に光る様々な器具が整然と並べられたカート。タオルやガーゼ類を収めた棚。壁には、人体の骨格図や神経系統を図示したものが張られている。空気は、当然ながら消毒薬臭い。渚は患者用の丸椅子に腰を下ろした。

 ほどなく戻ってきたドクターは、大きなダンボール箱を抱えていた。……ケチャップであまりにも有名な企業のロゴマークが描いてある、古びた箱だった。

「これが、わしの前任者のドクター・アルベリンが残したヴォーゲオスに関する資料のすべてだ。スウェーデン語は読めるかね?」

 診察台に箱をどしんと置いたドクターが、訊く。

「まさか」

「そうか。わしも読めん。彼は膨大なメモを残してくれたが、ほとんど母国語で書き残したのでね。まあ、オームラにも何人かスウェーデン語が読める者がいるから、より詳しいことを知りたければ彼らに頼めばいい。おおよその事柄は、ここにファイルしてある」

 ドクターが、箱の中から一冊の分厚いファイルを取り出した。事務机に戻り、最初のページを開く。渚はファイルを覗き込んだ。横たわるDDの写真だった。

「では始めよう。ヴォーゲオスは明らかに昆虫だ。それも甲虫の一種と考えられる。節足動物門、昆虫綱、甲虫目だな。身体が対節に分かれ、肢に関節があり、体表が外骨格に覆われていることなどがその証明となる。ちなみに外骨格は分厚いが普通の甲虫類と同様、クチクラ類で出来ている」

「クチクラ?」

「セルロースに似た物質だ。主成分はキチン質」

「キチン質って、聞いた事はあるんですけど。たしか、蟹とかの殻を形成している物質でしょ?」

「そうだ。思い違いをしている人が多いが、甲殻類……いわゆる海老、蟹の類だな……も節足動物だからな。虫嫌いの奥方様が、その親戚たるロブスターや海老を旨そうに食べてるんだから、無知とは恐ろしいものだ。それはともかく……キチン質というのは、グルコースにアミンとアセチル基が付いたものが重合して出来た長い鎖状分子のことだ。まあ、一種の多糖体だな」

 渚は化学はあまり得意ではない。キチン質に関するドクターの説明はほとんど理解できなかった。

「ヴォーゲオスが他の昆虫と違い、巨大な身体を持つことができたのは、部分脱皮をするからだ。脱皮の仕組みは、判るかね?」

 ドクターが、訊く。

「大体は、理解しているつもりですけど」

 蝉の抜け殻を脳裏に描きながら、渚は答えた。

「なら話は早い。昆虫は、脱皮して古い外骨格を脱ぎ捨て、一回り大きな身体となる。場合によっては、脱皮に伴って身体の構造が大きく変わる場合もある。陸棲の節足動物の脱皮は、重力との戦いでもある。体重を支えてくれる外骨格を、一時的にしろ失うわけだからな。だから、昆虫は大型化できない。しかしながら、ヴォーゲオスは身体の一部分だけを脱皮させることができる。例えば、体節ごとに順番に脱皮してゆくことも可能だ。そうすれば、重力に抗することもできるし、脱皮に伴う脆弱さとも無縁でいられる。もっとも、あれだけ大きければ捕食されることもないだろうがね」

「部分脱皮ねえ……」

 渚は首をひねった。進化の妙、といえばそうなのだろうが、なんとなく反則の気もする。

「話を先に進めよう。ヴォーゲオスの身体は、他の昆虫同様、三つに分けられる。頭部、胸部、腹部だ。頭部には口器、眼、一対の触覚。胸部には三対の肢と、二対の翅。腹部には消化器官、排泄器官、生殖器官などがある。典型的な昆虫の特徴だな。解剖の際の写真があるが……」

 ドクターがファイルを探り、数枚の写真を引っ張り出した。DDの解剖写真だ。渚は思わず顔をしかめた。昆虫とはいえ、大きいから見た目は結構グロい。

「では、DDの体の作りを説明しよう。まずは頭部だ。見ての通り細長く滑らか。触覚は短く、おそらくは通常の昆虫に比してあまり機能していないものと思われる。飛行の際にエアデータセンサー代わりに使われている節はあるがね。このカヌー型の膨らみが眼で、かなり高度な複眼だ。一番の注目点はここ、脳だ」

 ドクターの太い指が、一点を指した。

「通常、昆虫の脳は複数の神経球が融合したものに過ぎない。だが、DDの脳は明らかに肥大している。こことここにある神経球も、相当の肥大が見られる。おそらくは、小脳や中脳の役割を果たしているのではないかな。最大の脳の重量は、三百グラム程度に達する。それから類推すると、犬並みの知能があるのではないかと推察される」

 渚は写真を覗き込んだ。淡いピンク色の脳は、たしかに大きく見えた。

「少し脱線するが、ヴォーゲオスの社会はそれなりに高度なものと考えられる。彼らのコロニーは、単なる居住地域ではなく、ある種の農場だと思われるのだ」

「農業をやっているの?」

「ああ。偵察写真の分析によれば、きわめて原始的ではあるが、特定の食用に適した草を育てていると考えられる。まあ、もっと低知能の昆虫でも、農業の真似事をする連中がいるからな。驚くには値しない。……ついでに北部地域の生態系破壊についても説明しておこうか。その昔、北部地域にはかなり大型のものを含む非知的哺乳類が多数生息していた。しかし、現在ではほぼ激減している」

「ヴォーゲオスに殺されたのですか?」

「いや。それよりももっと深刻だ。ヴォーゲオスの大繁殖により、生息域を追われてその数を減らしたのだ。中型の……まあ、犬くらいのサイズの動物も、かなり減少したと見積もられている。……では、話を戻そうか」

 ドクターが、新たな写真を取り出す。

「続いてDDの胸部と腹部だが……胸部と腹部の第一節が融合しているのが判るかな? これは前伸腹節と呼ばれる、膜翅類まくしるい……蟻とか蜂の仲間だな……の特徴でもある。この腹の方を通っている線が神経線だ。典型的な梯子状神経線だな。太くなっているところが神経節で、ここから各所に細かい神経が伸びている。背中側に伸びているのが心臓だ。周知のように昆虫の血液は開放血管系になっている。血の色は見ての通りやや黄色味を帯びている。この辺りにある小さな器官は、用途不明だが……形状から見て、なんらかの腺だろう。胸部は筋肉がびっしりとついているのが判るかな? 昆虫は体重に比べ、筋肉の量が多い」

 ドクターが、写真を差し替えた。

「面白いのが消化系だ。普通、昆虫は大きな『そのう』を持っているものだが、DDにはそれがない。退化した跡は見られるが。胃はこれだ。繋がっているのが直腸。これが肛門。この細長い何本もの管がマルピーギ管だ。脊椎動物の腎臓の役割を果たす器官だな。で、これが……」

 ドクターが、いったん言葉を切った。渚は彼が指し示す器官を見つめた。肛門付近にある、さして太くはない管。何であるかは、渚の生物学の知識でも容易に判った。

「生殖口ね」

「うむ。……若いお嬢さんに説明することに慣れていないのでな。……これが卵巣。これはおそらく受精嚢だ。今のところ、解剖されたDDはみな雌であることが判明している。蟻や蜂と同様だな」

 渚はすっと消毒薬臭い空気を吸い込んだ。やはり、ヴォーゲオスの社会も蟻や蜂に近いのだろうか。

「DDの一番の特徴が、上翅だ。普段は甲虫同様、後翅を保護するカバーの役割を果たしている。飛行の際には、これが左右へと開かれ、揚力を生む。前縁の一部と、後縁のかなりの部分はある程度の柔軟性を持っており、その翼面積を変化させ、飛行速度に応じた最適の翼形を形作るわけだ。前肢のパドル状の先端も、ある程度の揚力を生みつつ、飛行姿勢の制御に貢献していると思われる。後翅は軽量かつ高い強度をもっている」

「いまだに二百五十ノットで飛べるというのが信じられないんですけど……」

「わしもそうだよ」

 ドクターが笑いつつ、新たな写真を出した。上空から撮影した、BVの写真だ。相当拡大したらしく、かなり画素が荒い。

「BVに関しては、一匹も捕らえられた事がないので、詳しいことは判らない。DDとの見かけ上の相違点は、飛行しないことと、体が若干小さいことくらいだ。おそらく、体の構造はそれほど変わらないだろう。ただし、消化系と生殖器官はおそらくBVの方が発達していると思われる。ヴォーゲオスの食糧は、先ほども述べたとおり、草だ。推測だが、DDはBVによって、食べやすく加工されたものを与えられているのではないかな。それで、『そのう』が退化している理由の説明がつく。それと、おそらくDDの生殖器では交尾して子供を作ることは無理だろう。BVがもっぱら生殖と生産にいそしみ、DDを養っているに違いない」

「蟻や蜂みたいに、女王ヴォーゲオスがいる可能性は?」

「それはない。第一に、隠れる場所がない。ヴォーゲオスは、地面を掘ったり巣作りをすることはないからな。第二に、BVが出産するところを写真に撮られている。ええと……」

 ドクターがファイルを探り、写真を引っ張り出した。

 そこには、一匹のBVが写っていた。無理して拡大したようで、細部はぼけている。

「ここだ」

 ドクターが指し示す。

「えっ」

 渚は思わず絶句した。……BVの尾部から、やや茶色がかった白い塊が出ている。それは卵でも糞でもなかった。あまりにも小さく、また弱々しかったが、それは紛れもなく小さなヴォーゲオスだった。

「……卵じゃないんだ」

 昆虫イコール卵、という渚の認識が崩れた。

「正確に言えば、卵胎生だろう。胎内で卵を孵すやり方だ。卵胎生自体は珍しいことではない。蛇やサメの一部、貝の仲間、ハエにも見られる。アブラムシも有名だ。言うまでもなく、高度な脊椎動物は胎生だ。ヴォーゲオスは昆虫としては、高度な発達を遂げている。ひょっとすると、完全な胎生への移行する過渡期にある生物なのかも知れない……」

 ドクターがそこまで言ったところで、医務室の扉にノックがあった。返事を待たずに扉が開けられ、褐色のアナウサギが顔を出す。

「ドクター、患者さんです。発熱と腹痛を訴えてらっしゃいます」

 アナウサギが、言う。声からすると、雌のようだ。

「悪いが、仕事だ」

 ドクターが言って、ファイルを渚に押し付けた。

「ジャスレイン、患者を入れて。それからこのお嬢さんの相手を頼む」

「判りました、ドクター」

 ウサギが引っ込む。渚は広げられた写真を集めると、ファイルに突っ込んだ。入ってきた若い黒人男性……整備班の一員だろうか、油の染みがついたカバーオールを着ている……に、椅子を譲る。

「こちらへどうぞ」

 資料が詰まったダンボール箱を抱えたアナウサギに促され、渚は隣室に入った。倉庫のようで、大きな戸棚に各種の薬瓶や小箱の類がぎっしりと詰まっている。一方の壁にはダンボール箱の山。隅には、よく医療ドラマで見かけるような医療機器が数台、半透明のカバーが掛かった状態で押し込めてあった。消毒薬とは別の、薬品臭い空気がこもっている。渚は通っている高校の理科準備室を思い起こした。

「ジャスレインよ、よろしく。ドクターの助手なの」

 箱を置いたウサギが握手を求めてくる。渚は名乗り、手を握り返した。

「ヴォーゲオスのことを調べていたのね。何を知りたいの?」

「ええと……大体のことは判りました。あと知りたいのは、DDの正体です。ヴォーゲオスのなかで、DDはいったいどのような役割を果たしているのですか?」

「それはまだ定説がないのよ」

 すまなそうな表情で、ジャスレイン。

「いわば兵隊蟻のような存在で、わたしたちを敵と認識し、襲撃しているという説。繁殖域を広げるための、移住集団だという説。ある種の偵察部隊だという説。雄蜂のように、なんらかの繁殖行為ないしその準備段階として飛行するという説。どれも証明しようがない。BVの解剖が出来たりすれば、いろいろ判ることもあると思うんだけどね」

「BVを手に入れる方法はないかしら?」

「まず無理ね。ヴォーゲオスのコロニーまであなた方のヘリコプターで行けない事はないと思うけど、そこからBVを捕まえてくるなんてことは、あまりにも危険すぎるわ」

「うーん」

 渚はヴォーゲオスの生態を思い描こうとした。草を育て、食むBV。交尾するBV。生まれてくるDDとBV。小さなDDに食物を与えるBV。大きく育つDD。やがて、その立派な羽根で飛び立ち、群を成して南下するDD……。

「DDは、他の方向に飛ばないの?」

「南以外は、海だもの。ヴォーゲオスは海では生きられないわ。DDの目的が何であったとしても、海に用事はないでしょう」

 黒い鼻面をぴくぴくと動かしながら、ジャスレインがそう指摘する。

「昔はこの島にヴォーゲオスはいなかったのでしょう? どこから来たのかしら」

「ちょっと待って」

 ジャスレインが、言い置いて倉庫を出る。すぐに戻ってきた彼女の手には、一枚の手書きの地図があった。書き込まれている文字は、どう見ても人類のものではない。知的哺乳類の手書き地図らしい。

「見て」

 差し出された地図を、渚は受け取ってしげしげと眺めた。大半は、海だ。真ん中にぽつんとあるのは、その細長い形からしてキャリエス島だろう。その西方に、ほぼ正方形の大きな陸塊がある。ただし、その北側と西側にはっきりとした海岸線は描かれておらず、陸域がさらに地図の外へと続いていることが表現されている。大きさは……キャリエス島の長さが約五百キロだから……一片が八百キロ程度か。陸塊からの距離は、ざっと見てキャリエス島三つ分……千五百キロほどだろう。

「おそらく、この大陸からなんらかの状況で渡ってきた、と考えられているわ」

「DDって、そんなに飛べるの?」

「暴風で飛ばされたとか、あるいはBVが樹木のような水に浮くものに乗って、流れ着いたのかも知れないわ。ともかく、この西の大陸に、ずっと以前に……あなた方の時間の単位で百年以上昔に探検隊が向かったことがあったの。その時の記録に、ヴォーゲオスに関する記述が見られるわ。その後探検隊は送られていないけど、七十年ほど前に急にこの島でもヴォーゲオスが繁殖するようになった。その後の展開は、知っての通りよ」

「他に、近くに陸地はないの?」

「ないわ。小さな島は別だけど」

 ジャスレインが答える。渚はもう一度手書き地図を見た。キャリエス島の周囲に針で突いたような小島がいくつか描かれているが、この大きさではヴォーゲオスのような超大型昆虫が繁殖するのは無理であろう。

「他に聞きたいことはある?」

 ジャスレインが、訊く。

「ひとつだけ。なぜヴォーゲオスは、あんなに大きいの? 少なくとも地球の常識では、昆虫は小さな身体を保つことによって生き延びてきたと考えられているわ。大きければ身体の維持により多くのエネルギーを費やさなければならないし、脊椎動物との競争にも打ち勝たなければならない。肉食や雑食性ならともかく、低カロリーに甘んじなければならない草食で身体が大きいというのは、有利とは言えないわ」

「それについても諸説あるけど……一番有力なのは、捕食を避けるために大きく進化した、というものね。脊椎動物でも、開けた場所に生息する草食動物は、大型化する傾向が見られるものよ。通常の昆虫とは逆の生残方法を選択したんじゃないかしら。ヴォーゲオスの茶系の体色も、ある種の保護色であると考えれば、その説の補強材料になるわね。あるいは、長距離飛行の必要性の為に大型化したのかも知れない」

 淀みなく、ジャスレインが答える。

「……ずいぶん、生物学に詳しいのね。凄いわ」

「勉強したもの」

 渚にほめられたジャスレインが、誇らしげに大きな耳を揺らす。

「あとひとつだけ頼まれてくれる? その探検隊とやらの記録が見たいわ」

「原本は王宮に保管されているわ。でも、学術語で書かれているから、あなたには読めないわね」

 慎み深く前脚で口元を隠しながら、ジャスレインがくすくすと笑う。

「でも、英語に翻訳したものがあるわ。たしか、このあたりに……」

 ジャスレインがダンボール箱の中を探り、A4くらいのサイズの紙を束ねたものを取り出した。かなり黄ばんだ、古い物のようだ。渚は受け取って顔をしかめた。タイプした書類を昔のコピー機で複写したものらしく、活字が潰れて読みにくい。

「これ、借りていい?」

「もちろん。でも、必ず返してね」

 渚はジャスレインに礼を言って、宿舎に戻った。


 翌日の渚の行動は、王都の見学に費やされた。

 立派な都市であった。碁盤目状に伸びる広い通り。両側に立ち並ぶ商店。商われているのは、食糧、飲料、雑貨の類。渚はエリックの案内で、小動物が売られている店……いわばペットショップだ……に入り、鮮やかなオレンジ色の毛が美しいフェレットもどきを一匹買った。経営者らしいビーバーに二十ドル紙幣を差し出すと、金色に輝く錠剤のようなものが三粒、お釣りとして返ってきた。まるで江戸時代の豆板金のようだ。

「名前は何にする?」

 さっそく渚の肩に載って甘えだしたフェレットもどき……ミャーシェを見ながら、エリックが訊く。

「そうねえ。あなたのサビーヌってのは、女性の名前でしょ?」

「そうだ」

「この仔は雌? それとも雄かな?」

「なんだ、確かめずに買ったのか?」

 エリックが、ミャーシェをひょいと摘み上げた。股間を一瞥し、言う。

「雌だな」

「じゃあ、女の子の名前にしましょう。フランス名前でいいかな?」

「シュザンヌだけはやめてくれ」

「どうして?」

「女房の名前だ」

 真剣な表情で、エリック。

「じゃあ、なんにしようか……」

「日本風の名前をつけてやれよ」

 悩む渚に、エリックがそう勧める。

「シュザンヌって、どういう意味?」

 渚はそう訊いてみた。

「聖書に載っている名前だ。英語で言えばスザンヌ。ユリを意味するらしい」

「決まった。この仔の名前はユリよ。きれいな名前だわ」

 渚はユリを肩に載せ、エリックをお供に引き連れてあちこちを見てまわった。様々な知的哺乳類がいた。青物を商うシマリスの店に買い物にきた、ウォンバットの親子。なにやら声高に議論しながら歩いているヒトコブラクダとフタコブラクダ。どう見てもカフェにしか見えない一軒の店では、ボウルに入った飲み物を楽しむイボイノシシや何頭かのアンテロープの間を器用にすり抜けて、二頭のブチハイエナがウェイター役を務めていた。

「すごいわね」

 渚は半ば呆れつつ街路を歩んだ。やがて二人は、緑の多いちょっとした広場に行き当たった。

「ここはなに? 公園?」

「ある意味ではそうだ。興味深いものがある」

 エリックが、指差す。

 公園のほぼ中央に、二体の彫像が並んで突っ立っていた。近寄った渚は、それをじっくりと眺めた。

 二体とも、ほぼ等身大と思われる石像であった。低い台座も、白っぽい石でできており、何本もの花束で覆われている。右側の一体は鉤鼻が特徴的な中背の男性で、軍服のようなものを纏っている。左側の一体はクラシックな飛行服を着用したやや小柄な男性で、東洋系の顔立ちの優男だ。渚は二人が誰であるかをすぐに察した。

「フュルステンベルク少佐と、大村大尉ね」

「そうだ。RQAFの二大英雄さ。ここは、墓地兼用の公園なんだ」

 エリックが、誇らしげに言いつつ、石像の向こう側を手で指し示した。そこで初めて渚は、芝草の中に整然と埋め込まれている多数の小さな石板に気付いた。……おそらくは、戦死したRQAFメンバーの、終の棲家なのだろう。

「ここは、知的哺乳類が自主的に造ったんだ。それもわざわざ王都の真ん中にな。墓地なんて、郊外でも構わないのに。連中、受けた恩はいつまでも忘れないんだ」

 台座からこぼれ落ちた花束を拾い上げながら、エリックが言った。

「義理堅いのね」

「ああ。悪く言えば馬鹿正直だよ、ここの連中は」

 花束をそっと大村大尉像の足元に載せながら、エリック。

「今のCOも、亡くなったらこの隣に像が立つだろうな。君も、COとして勤め上げれば……」

「それは恥ずかしすぎるわね」

 渚は苦笑した。

 二人は並んでしばしのあいだ石像を眺め続けた。涼しげな風が、手向けられた花々を優しくなぶっている。ユリも、渚の肩の上でおとなしくあたりを眺めていた。遠くで、複数の知的哺乳類が騒いでいるのが聞こえる。子供たちが、遊んでいるのだろうか。

「そろそろ行こうか」

 エリックが、小さく伸びをしながら言った。

「次はどこ? わたし、ちょっと小腹が空いたんだけど」

 渚は胃の辺りを撫でた。 

「よし、次は俺のひいきの店に行こう。あそこは旨いぞ」

 エリックが言って、親指を立てる。


 路地に折れたエリックが、前方を指差す。

「あそこが、俺のひいきのレストランだ」

「……ていうか、屋台?」

 路地の突き当たりにあったのは、差し掛け小屋と見まがわんばかりの粗末な小屋であった。黒ずんだ壁板が、その歴史を感じさせる。板張りの低い屋根には、長方形やL字型など様々な形状の板で補修がなされている。地の板と新たに張られた板の色合いが全く異なるので、テトリスの画面上部を見ているかのようだ。

「注文は、パスタがいい。絶品だぞ」

 エリックが勧める。

 オーナーシェフのシロサイが出してくれた『パスタ』は、鉛筆くらいの太さを持つ黄緑色の麺の上に、中華風に味付けした細切りの野菜と肉の炒め物が載っているという奇妙なものであったが、味はエリックが勧めるだけあって上々であった。

「さて。そろそろ戻るとしようか」

 店を出ると、エリックがそう言って、路地を歩みだした。

「そうね」

 渚は同意した。本音としてはもっと色々と見てまわりたいところだが、エリックの都合も考慮せねばなるまい。

「どうだ。気に入ったか?」

 気さくな調子で、エリックが訊く。

「うん」

 渚は正直にそう答えた。馬鹿正直で、可愛らしい知的哺乳類たち。こんな住人を守る仕事ならば……やりがいがあるかもしれない。

 ……でも、石像が立っちゃうのは、ちょっと、ねえ。


第六話をお届けします。  用語解説 レントゲンを見るための装置/シャウカステンという名称だそうです。作者も初めて知りました そのう/消化管の一部。摂取した食物を一時的に蓄えておく場所

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