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2 サングラスの男

 夜型人間にしては、渚は寝起きのいい方であった。

 むくりと起き上がる。

 眠った時と同じ、コアラの家の中であった。

 ……やっぱり、夢じゃなかった。

 目覚めたら自分の部屋とか、病院のベッドの上とか、授業中にうたた寝しただけとかの展開を期待していたのだが、現実は甘くなかった。渚はため息をつくと、身体を覆っていた糸瓜座布団を取り除けた。

 室内には誰もいなかった。外はもう明るくなっており、窓をふさいでいる布に開いた穴から差し込んだ陽光が、いまだ用途のわからない漬物石にまばゆい円を描いている。夕食の後片付けはなされていたが、水の鉢だけは残されており、そこには一杯に清水が張られていた。

 ばりばりっ、という音が外から聞こえる。

 渚は素早く立ち上がった。そうだ、この音で目覚めたに違いない。なんらかの機械音。おそらくは、エンジンが発する音響。人間がいる証拠。機械文明の奏でる醜悪な音楽。

 渚は慌てて外へと飛び出した。コアラたちも音を聞きつけたらしく、三々五々家から出てきつつある。

 渚は音源を捜した。

 それは空にあり、低速で移動していた。……ヘリコプターだ。

 渚は巨大コアラの言葉を思い出した。……空飛ぶ善き者たち。

 ダークグリーンに塗られた比較的小型のヘリコプターは、村はずれの空き地へと向かい徐々に高度を下げていった。渚は足早にそこへと向かった。コアラたちも集まりつつあったが、彼らは空き地の周囲に立っているだけで、決して中央部に立ち入ろうとしていないことに、渚は気付いた。コアラたちはヘリコプターがどういうもので、それが今から何をしようとしているのか知っているのだろう。

 渚が空き地へとたどり着いたのは、ヘリコプターが着陸する数秒前だった。居並ぶコアラたちの後ろに立つ。どのコアラよりも渚の方が背が高いので、着陸を見物する分には何ら支障がなかった。

 ヘリはアルエートIIIだった。フランス製の、古い……たしか初飛行は1960年代のはずである……がベストセラーとなった機体である。キャビンの後上方に剥き出しになっているターボシャフトエンジンが、いかにもクラシックな感じだ。

 やかましい音と風を巻き起こしながら、アルエートIIIが高度を下げる。テイルブームに、黒いブロック・レターで『RQAF』と描いてある以外に、マークやロゴの類は記されていない。何の略だろうか? AFは当然エアフォース(空軍)だろう。ロイヤル・カタール? いや、カタールはたしか王国とは名乗っていないはずだ。他にQから綴る国なんてあっただろうか? 渚は思い出せなかった。あるいは、全く別の組織の略称なのか。色からすると、軍隊かなにかの所属っぽいが。

 アルエートIIIの降着装置は、スキッドではなくタイヤである。三つのタイヤが、緑の芝草を押し潰す。パイロットがクラッチを切り、ローターが空転を始める。

 キャビンのスライド式ドアが開く。中から現われたのは、コアラではなく人間だった。空色のカバーオールを身に付け、濃いサングラスを掛けた外国人男性。身長は百八十センチを軽く越すだろう。顔立ちは明らかにヨーロッパ系だが、やや浅黒い。髪は黒くて、ちょっとウェーブしている。歳は三十前後くらいか。サングラスのせいかも知れないが、イタリアかフランスのギャング映画の端役俳優、といった雰囲気だ。

 降りてきたその男性は、居並ぶコアラに臆することもなく、すたすたと渚に向けて歩み寄ってきた。渚の前にいたコアラがさっと脇に寄る。その男性は快活そうな笑みを浮かべながら、渚に向かって右手を差し出しつつ、何か言った。辛うじて、『パルドン』と『マドモアゼル』という単語だけが聞き取れた。

 ……わ、フランス語だ。

 反射的に右手を差し出し握手しつつ、渚はうろたえた。巨大コアラからもらった(あるいは、貸してもらっただけか?)グエを忘れてきたことに気付いたのだ。男性の左肩には、ちょこんとグエが載っている。

「あー、ボンジュール、ムッシュウ。ケ……じゃなくて、ジュ、マ、なんだっけ」

 慌てる渚を見て、男性がポケットからグエをつかみ出した。安堵の息を漏らす渚の肩に、そっと載せてくれる。

「これでいいだろう」

 途端に、男性の言葉が判るようになった。

「……ありがとう」

「えらく手間取ったぞ。こんなところに現われるなんて。向こうで指定された場所にいなかったのか?」

「……はあ?」

 男性の言葉に、渚は怪訝な顔で問い返した。『指定された場所』とはいったい何のことだろうか? 意味が判らない。……さしものグエも、日仏翻訳は苦手なのか?

「まあいい。乗っていてくれ。俺は、村長に礼を言っておく」

 男性が、親指でヘリコプターを指す。渚はうなずいて、エンジンをかけたままのアルエートIIIに向かった。キャビンの中に、頭を突っ込む。機内は狭かった。四人掛けのベンチのような簡素な座席があり、その前方に操縦席を含むシートがふたつ。右側の主操縦席に座るフライトヘルメット姿の人物が振り返り、白い歯を見せた。まだ若い男性だ。この人も先ほどの男性と同様浅黒いが、顔立ちはもっと東南アジア的である。肩の上のグエを見て、渚は安堵した。言葉で苦労しなくて済む。

「やあ。遠慮しないで座ってくれ」

 男性が大声で言う。エンジンが掛かったままなので、機内はそうとうやかましかった。渚はしばし戸惑ってから……何しろキャビンの床の高さが腰近くまであるので、ミニスカートでよじ登るにはちょっと勇気がいる……左手にパイプ状の足掛けがあるのを見つけ、それを利用してキャビンに入り込んだ。笑顔のパイロットが、無理やりに身体をひねって手を差し出す。

「ミゲル・ヴィダノ。ミゲルと呼んでくれ」

「城山渚です」

 渚の名乗りを聞いて、ミゲルの笑みが大きくなった。

「そうか、シロヤマというのか。お嬢さんは」

 渚はシートベルト付きの後席に腰を下ろした。ほどなく、先ほどの男性が乗り込んできた。

「忘れ物はないか?」

 渚はしばし考えた。携帯と財布、それに『ウェーブ』は身につけている。雑誌は仔コアラたちに持ち去られてしまった。新しいグエはもらった。コンビニ袋にはまだ手付かずの菓子と、焼き魚三匹が残ってはいるが……いまさら取りに戻るほどのものではない。

「ないわ」

「よし。ミゲル、離陸してくれ」

 スライド式ドアを閉めた男性が、言う。

「了解」

 ミゲルがクラッチを繋ぎ、止まっていたローターが回り始めた。

「自己紹介しておこう。エリック・ユステールだ」

 サングラスの男が、名乗る。……姓名からして、おそらくフランス人だろう。

「城山渚です」

「シートベルトを締めろ。ミゲルの操縦は荒いからな」

 渚は慌ててベルトを締めた。……自動車の後部座席のものとたいして変わらない、ちゃちなベルトだ。

「こいつも必要だな」

 エリックと名乗った男性が、左側の操縦席からフライトヘルメットをふたつ拾い上げた。ブームマイクの付いているヘリ用のタイプではなく、古いジェットパイロット用のものらしかった。エリックが、自分でひとつを被り、残るひとつを渚に差し出す。

 傷だらけで、あまり清潔そうでないヘルメットだったが、渚は文句を言わずに被った。とたんに、エンジンの騒音が和らぐ。

 ぐらりとヘリコプターが揺れ、地面を離れた。垂直上昇して高度を稼いでから、機首を下げ、加速する。

「どこ行くんですか」

 渚は口をエリックのヘルメットに近づけて訊いた。

「Fベースだ」

 ……ベースってことは、軍事基地なのだろうか。

「どこなんです、ここ?」

「詳しい話は後にしよう。この騒音じゃ、会話は重労働だからな」

 エリックが、声を張り上げた。

「風景でも楽しんでくれ。三十分近くのフライトになるから」

 仕方なく渚は、窓外へと眼を転じた。後部座席横の窓は幅一メートル、高さ五十センチくらいあって、視界は良好だ。ヘリコプターはそれほど高いところは飛んでいない。眼下を丘が流れ、樹林が飛び去さってゆく。遠くに見えている灰色の線は、河だろうか道だろうか。

 不意に、渚の眼に街が飛び込んできた。コアラの集落よりずっと大きな街だ。整然と立ち並んだ家屋がいくつかの街路を形成し、四方へと車でも通れそうな立派な道が伸びている。平屋建てだが、一般の家屋よりももっと大きな建物も眼についた。学校か何かだろうか。相変わらず機械文明の証拠たる電柱やコンクリートを使った建造物、自動車などの姿はない。小さ過ぎて細部は見極められないが、多くの住人が街路を歩んだりたたずんだりしているのが判った。彼らもコアラなのだろうか。それとも、別の動物か。あるいは、人間なのか。

 街との遭遇をきっかけにしたかのように、眼下は急に賑やかになった。畑や集落、川に掛かった橋、何の用途か定かでない石造建築物などが、次々と現われる。渚は飽かずそれらを眺めた。どうやら、アルエートIIIはこの妙な文明の中心地に近付いてゆくらしい。

 渚の感覚で三十分が経過したころ、前方に空港らしきものが見えてきた。白っぽい滑走路と、広々としたエプロン。大きないくつもの建物。あれが、Fベースだろうか。

 パイロットのミゲルが、無線交信を始めた。タワーを呼び出し、進入許可を求めている。交信相手は、Fベースコントロール、と聞こえた。

「そろそろ到着だ」

 ずっと腕組みをして微動だにしなかった……寝ていたのかも知れないが、サングラスのせいで定かではない……エリックが、あくび混じりに言った。

「あれがFベースね」

「そうだ。正式にはフュルステンベルク・エアベース。長くて面倒くさいからFベースで通っている」

 ヘリコプターが旋回し、高度を下げ始めた。Fベースの細部が見えてくる。建物のいくつかは普通の鉄筋コンクリート造りのようだ。管制塔と思しきタワーも見える。頂部には、オープン・ラティス式のレーダーアンテナが付いており、それがゆっくりと回転していた。向こう側のいくつかの大きな建物は、格納庫だろう。エプロンには飛行機も並んでいる。いずれも小さく、日本の空港で普通に見られるような大型のジェット旅客機は一機もいない。どうやら、飛行機はみな小型の軍用ジェット機のようだ。渚は機種を識別しようと眼を凝らした。直線翼のMB326かMB339、デルタ翼のコンパクトなA−4が三機、ホークみたいに見える低翼機、高翼のアルファジェットかS211と思しき機体、ミラージュIIIか5、見間違いようのない後期型のフィッター、おそらくL−39、これも間違えようのないハンター、A−7、二機のF−5といったところが、ずらりと並んでいる。……旧式な戦闘機や攻撃機と、新しいとは言えぬ練習機が中心のようだ。機種もその生産国もばらばらで、どう見ても普通の正規空軍の装備とは思えない。まるで一昔前の航空ショーの展示機列線か、航空博物館の野外展示場のようだ。

 すこし離れたところには駐車場があった。タンクローリーを含む数台のトレーラーやトラックと、もっと小さな車が何台か停めてある。さらに離れたところには円筒形の貯油タンクが数基並んでいる。渚の眼は、Fベース周囲に等間隔に設けられた円形の土盛りと、その中心に据えられたいびつな形の物体を見つけ出した。一見すると、布かなにかで覆われた銅像か野外展示の彫刻作品に見えるが、軍事基地の周辺にそんなものが並んでいるはずがない。まず間違いなく、防水カバーを掛けられたSAM(地対空ミサイル)かAAA(対空砲)だろう。

 アルエートIIIがさらに高度を下げる。軽い衝撃とともに、着陸した。ミゲルがエンジンを切るのを待ってから、エリックがスライドドアを引き開ける。

 エリックの手を借りて、渚はヘリコプターを降りた。あらためて、古臭い機体をしげしげと眺める。

「ずいぶん年季が入っているみたいだけど……」

「それを言わんでくれ。アルエートIIIは名機だぞ」

「このRQAFって、なに?」

 渚はテイルブームの四文字を指差した。

「ロイヤル・キャリエス・エア・フォースの略だ」

「……キャリエス王国空軍?」

 渚の地理の成績は悪くない。だが、キャリエスなどという国に聞き覚えはなかった。

「そうだ。言ってみればRQAFは国王と契約した傭兵空軍だ。……まあ、詳しい説明は落ち着いてからにしよう」

 エリックが、渚の身体をじろじろと見る。不意に渚は赤面した。昨日はお風呂に入れなかったし着替えもしていない。そうとう薄汚れた姿のはずだ。おまけに、タンクトップとミニスカートという軽装である。

「宿舎へ行こう。まずはシャワーと着替えだな」


 案内された宿舎は狭かったが、きれいであった。リゾートホテルの一番安いシングルの部屋、といった程度のグレードだろうか。

「これを着てくれ」

 エリックが、ビニール袋に入った衣類とシューズを渡してくれた。

「シャワーはそっちだ。湯は出るが、無駄遣いしないでくれ。終わったら、ドアを出てまっすぐ右に行けば、食堂に出る。そこで待っているから」

 そう言い置いて、エリックが出てゆく。

 渚はとりあえず渡された衣類を調べた。淡いオレンジ色のカバーオールと、ベージュのボディスーツのような下着、厚手のソックス、それに簡素な白いブラとショーツが入っていた。いずれも新品らしい。サイズは合っているようだ。シューズはありふれたバスケットシューズのように見えた。靴底には『メイド・イン・タイワン』と記されている。こちらも、サイズはぴったりだった。……直接測ったわけでもないのに、即座にこれだけサイズの合う衣類を用立てることはまず不可能だろう。この着替えは、渚がこの世界に現われることを、エリックらが予期していた証左といえる。

 渚はバスルームで念入りに身体を洗い上げた。さっぱりとしたところであてがわれた服を身につけ、ざっと部屋を調べてみる。備え付けの備品は、見事なまでの多国籍だった。LGのテレビに東芝のDVDプレーヤー。ハイアールの小型冷蔵庫。電気ポットはエレクトロテックス……スウェーデンの製品で、天井の蛍光灯にはフィリップスのロゴがついている。渚は試しにテレビの電源を入れてみたが、リモコンをいくらいじってもひとつも電波を捕まえることができなかった。あきらめて、部屋を出る。言われた通りに左へと歩んでゆくと、すぐに広々とした部屋に出た。いくつものテーブルが置かれ、壁際にはずらりと自動販売機が並んでいる。そのうちのいくつかは、日本の街角にあってもおかしくないブランドの飲料を売っていた。

 エリックはすでにテーブルのひとつに座り、マグカップの飲料をすすっていた。サングラスは外しているので、想像していたよりもずっと柔和な薄茶色の眼が見えている。テーブルの上には、よく使い込まれて縁がぼろぼろになった紙製の書類フォルダが置かれていた。

 渚を見てすっと立ち上がったエリックが、椅子を引いてくれた。渚は礼を言って座った。このあたり、さすがにフランス人男性である。

「腹が減っているなら、何か食べるといい。中途半端な時間だから、あまりいいものはないが……」

「ぜひいただきます」

 朝食抜きの渚はそう応じた。

「フリーメスになっているから、好きなものを取って食べればいい。スウェーデン方式……いや、カフェテリアみたいなものだと言ったほうが判りやすいかな」

 マグカップを持って立ち上がりながら、エリックが説明した。端にあるカウンターに、銀色に光る保温式の寸胴や食物を盛ったアルミパンがずらりと並んでいる。渚は盆をひとつ取ると、それに適当に食物を盛った。エリックが、自分のマグカップにコーヒーのお代わりを注ぐ。

 カウンターの奥は、厨房だった。渚はどんな人がこの料理を作ったのかと覗き込み、あやうく爆笑しかけた。

 白い前掛けを着け、中華包丁で野菜を刻んでいるジャイアント・パンダなんて、ギャグ以外のなにものでもあるまい。


「ムッシュPか。腕は確かだよ」

 なぜパンダが、という問いに、エリックが澄まして答えた。

 たしかに料理は美味しかった。特にスープは絶品だった。和洋中どの味ともとれる微妙な無国籍の味わいだったが、実に旨い。

「いろんな国の奴が働いてるからな。自然に味が無国籍になる」

 渚の指摘に、エリックがにやりと笑う。

「……俺もいつも間にかこんな薄いコーヒーを旨いと思うようになっちまった」

「さて」

 一通り食べ終えて人心地がついた渚は、あらためてエリックを見据えた。

「ここ、どこなの?」

「キャリエス王国北部辺境地区のフュルステンベルク・エアベースというのが正確な答えだな。もちろん、こんな答えで君が納得するはずはないが」

 しごく真面目な表情で、エリックが続ける。

「映画か何かで見たことがあるだろう。主人公が、まったく別な世界へ……言わば異世界へ飛ばされちまう話を」

「異世界なの、ここ?」

「……というよりも、どこか別の惑星だろうと言われている。地球と繋がっているけどね」

「別の惑星?」

「どこにあるかは知らんが」

 エリックが、いかにもヨーロッパ人らしい仕草で肩をすくめた。

「日が暮れたら、夜空を見上げてみるといい。知っている星座はひとつも見えないから。月は大小あわせて七個もあるしな。ちなみに、ここの一日は二十六時間と七分程度だ。一年はなんと二年半近い」

「めまいがしてきたわ」

 渚は頭を振った。異世界に来てしまったということは薄々気付いてはいたものの……とんでもないところに来てしまったようだ。

「住民は、あのコアラとかの動物なの?」

「そうだ。知的な哺乳類が住人だ。人間はいない。地球からやってきた我々を除いてね。他にも色々動物がいるが、人間に匹敵するほど知的なのはいない」

「あたしは何でここに連れてこられたの?」

「……それはおいおい判ることになっている」

 渚の質問を、エリックがはぐらかす。

「別に悪意があるわけじゃない。目的を知らせないのは、先入観なくこの世界を見学して欲しいからだ」

「見学?」

「そう。君はいわばRQAFのゲストなんだ。俺はその案内役を仰せつかっただけだ。……おそらく君が一番心配しているのは、元の世界に帰れるかどうかだと思うが……それについては安心してくれ。希望すれば、いつでも帰ることができる。それは保証する。俺も、半年に一回くらいは帰ってる」

 エリックが、断言する。

「どうやって帰るの?」

「猫どもの力でだ」

「猫ども?」

「キャリエス王国国王陛下直属の技術者集団さ。平たく言えば、宮廷魔術師どもだな。この世界の猫は、自由に地球との間を行き来できるんだ。他の人間や物品を移動させることもできる。……地理的な精度はやや甘いがね」

「……どうやってそんな芸当が……」

「俺に聞かれてもわからんよ」

 エリックが、ゆっくりと首を振った。

 渚はぬるくなってしまった紅茶を一口飲み下した。誰の意思によってかは教えてもらえなかったが、渚が計画的にこの世界に連れて来られたことは確かなようだ。とりあえず、このエリックは悪意ある人物ではないと判断していいだろう。……少なくとも、黒幕たる誰かさんの真の目的が判明するまでは。

「じゃあ、この国……キャリエス王国について聞かせて」

「よし。……こいつを見てくれ」

 エリックが、書類フォルダから一枚の紙を抜き出した。

 それは一枚の多色刷りの地図だった。海と思われる水色の中に、サツマイモを連想させる細長い形状の島が浮かんでいる。

「これが、キャリエス島だ。縮尺は百万分の一。この尖った岬がある方が、北になる。……ああ、北というのは磁方位ではなく、便宜上チャートの上で天頂方向を北と呼称しているんだが……島は南北に約五百キロと言ったところだ。幅は最も広いところで百二十キロ。見てのとおり、細長い島だ」

 エリックが、地図を指差しながら説明する。

「最も南側、濃い緑に塗ってあるところが大森林地帯で、住人は住んでいない。そのすぐ北側から平原地帯が始まる。住人の大多数はそこに住んでいる。あの赤い丸が王都の位置だ。すぐそばにある紫色の四角がオームラAB。RQAFの本拠があるところだ」

「オームラ?」

「ベースの名前さ。あちこちにあるオレンジ色の丸が、地方都市だ。オームラから北へ約百キロ行った紫の四角が、このFベース。この周辺は辺境地区と呼ばれる丘陵地帯になっていて、見てのとおり街は少なく、当然住人の数も少ない。ここから三十キロほど北上すると、キャリエス王国の領域が終わる」

 渚は地図をしげしげと眺めた。島の北部には大まかな地形が描き込まれてはいるが、街や施設を表す記号が絶無であることに気付く。

「島の北のほうはどうなってるの?」

「高原地帯は、ヴォーゲオスの領域さ。我々の、敵だ」

「ヴォーゲオス?」

「知ってるだろう? 例の虫さ」

 エリックが、フォルダの中を探って一枚の写真を取り出した。二十五センチ×二十センチくらいの大きなものだ。

 写真には、一匹の昆虫と思しき生物が写っていた。地面に横たわったところを写したもののようだ。甲虫の一種らしく、カブトムシに似た印象だが頭部が細長く、そこだけ見ると蜂のようにも見える。胸部と腹部は一体化したかのように繋がっており、かなりスマートだ。前肢も妙な形をしていた。まるで先端に卓球のラケットを付けているかのようだ。色はやや光沢のある濃い黄土色で、砂漠地帯の軍隊が車両や航空機の塗色として多用するサンドブラウンに見えないこともない。……全体の形状をしいて例えれば、カミキリムシに蜂の頭部をくっつけたような、というところか。

「見たことのない昆虫ね。何なの?」

「これがヴォーゲオスだ。正確には、DDと呼ばれるヴォーゲオス」

「DD?」

「ドブリュートなんとか・ダリヴァン。ここの学術語で、飛行する戦士と言う意味だ。ドブリュートなんとかが長い上に発音しにくいんで、通常DDと呼ばれている」

「この昆虫がどうかしたの?」

「俺たちの敵さ。RQAFは、飛行昆虫DDを倒すために設立された傭兵空軍なんだ」

「……たかが昆虫相手にジェット戦闘機を飛ばすの?」

 渚は呆れた。ネズミ駆除に対戦車誘導ミサイルを持ち出すようなものではないか。あるいは、サメ退治に原子力潜水艦を出港させるようなものか。

「たかが昆虫と言うな。スケールを理解してから言ってくれ」

 エリックが、別の写真を滑らせてよこす。

 今度も横たわるDDの写真だったが、すぐ脇に人間がしゃがんでいた。

 ……でかい。

 渚は息を呑んだ。DDは昆虫の常識を超えた大きさだった。写っている人間の大きさと比すれば、おそらく全長五メートルくらいはあろう。

「信じられない……」

 渚は首を振った。状況が状況でなければ、どこか外国のふざけたタブロイド紙がでっち上げた合成ジョーク写真にしか見えない。

「連中の巡航飛行速度は百八十ノット。最高速度は二百五十ノット近く出る。ヘリコプターじゃ追いつけないし、ターボプロップのCOIN機でもろくにアドバンテージを得られない」

「二百五十ノット!」

 渚の眼が点になった。メートル法に直せば、時速四百六十キロというとてつもない高速である。いくら大きいとはいえ、昆虫ごときがそれほどの高速で飛行できるのだろうか?

「実際飛んじまうんだから仕方がない。秘密は上翅じょうしにある。昆虫に詳しいか?」

 エリックが訊く。渚は首を振った。さしもの彼女も昆虫に関しては、ごく普通の女の子と同様興味も知識もない。

「有翅の昆虫は通常二つの羽根……前翅と後翅を一対ずつ持っている。トンボや蝶の羽根を思い浮かべてくれればいい。甲虫では前翅が上翅と呼ばれる硬いカバーに変化し、後翅はその内部に折りたたまれている。だから飛行に際して使われるのは後翅だけで、ゆえに甲虫はトンボやハエや蜂に比べ飛ぶのが下手くそだ。だが、DDはとんでもないことをやってのけた」

 エリックが言葉を切り、薄笑いを浮かべる。

「翼を持つ動物は、すべてが羽ばたきによって推進力と揚力を同時に生み出して飛行している。鳥だろうが、蝶だろうが、蝙蝠だろうが、それは変わらん。人間も長い間同じ方法を試みて、ことごとく失敗してきた。ヴォアザン兄弟やライト兄弟が成功したのは、翼を揚力発生の手段に限定し、別個に推進機関を設けたからだ。そう。DDは巡航の際に、後翅を推進力を得るためだけに使っている。身体の左右に張り出された上翅が大きな揚力を生み出すんだ」

「……はあ」

「進化の妙というやつかな。DDの上翅の断面形は、その昔にNACAが開発したんじゃないか思えるほどに見事な翼断面をしている。しかも、前縁と後縁は柔軟な材質でできており、飛行速度に応じて翼面積や断面形状を変化させることができる。身体自体も空気抵抗が少なく、大きさの割には軽量だ。……なにしろ、フルモノコック構造だからな」

 エリックが笑う。フルモノコック構造というのは、外皮だけで構造を支える様式のことである。たしかに、甲虫は外骨格で身体を支えているだけだ。

「しかし……これくらいは手紙に書いてあっただろう。手紙を読まなかったのか?」

 エリックが、怪訝そうな表情で訊ねる。

「……手紙?」

「COの手紙だ。……受け取らなかったのか?」

「怪しい手紙の類は受け取らないようにしているけど……」

 渚はとりあえずそう答えた。いわゆるファンレターの受付は各掲載誌の編集部気付のものしか受け取っていない。本来住所を公表していない自宅に送りつけられる手紙や小包の類は、気持ち悪いのでその大半は即座にゴミ箱行きとなる。

「だから自宅にいなかったんだな。どうりで、コアラの村なんて変なところに現われたわけだ」

 エリックが、嘆息した。

「どういうこと?」

「猫どもの移動の魔術を正確に行うには、二点間の位置があらかじめ判明していることが必要なんだ。もしずれがあれば、移送先の出現予定位置も大幅にずれてしまう。君の場合出発地が自宅、移送先がFベース近傍になっていた」

 エリックが、身振りを交えて説明する。

「COってのは、コマンダー・オフィサーのこと?」

 渚は訊いた。英語圏の軍隊、特に空軍では指揮官を意味する一般的な呼称である。

「そうだ」

「その手紙って……」

 不意に鳴り出したブザーのような耳障りな音響に、渚の問いが中断される。

「おっと。ヴォーゲオスのお出ましのようだ」

 エリックが素早く立ち上がる。渚も、釣られるように腰を浮かした。

「どうしたの?」

「ヴォーゲオス。正確に言えばDDの出現さ。ちょうどいい。ブリーフィングルームに一緒に来てくれ」


 第二話をお届けします。用語解説‥‥アルエートIII/フランスのシュド・アビアシオンが製造したSA316およびその改良型SA319 オープン・ラティス/レーダーアンテナ形状のひとつ。やや湾曲し、むき出しになったラティス状で、対水上/対空捜索や航空管制などに多用される MB326/イタリアのアエルマッキが製造した直線翼練習機兼軽攻撃機 MB339/MB326の後継として開発された直線翼練習機兼軽攻撃機 A−4/ダグラスがアメリカ海軍艦上攻撃機として開発したデルタ翼機 ホーク/イギリスのホーカー・シドレーが開発した練習機。アメリカ海軍採用のT−45のベースでもある アルファジェット/フランスのダッソーと西ドイツ(当時)のドルニエが共同開発した練習/攻撃機 S211/イタリアのSIAI・マルケッティが開発した練習機 ミラージュIII/フランスのダッソーが開発したデルタ翼戦闘攻撃機 ミラージュ5/ミラージュIIIの攻撃機バージョン フィッター/ロシアのスホーイ設計によるSu−7/17/22系列のNATOコードネーム L−39/チェコスロバキアが開発製造した練習機 ハンター/イギリスのホーカー・シドレー開発の戦闘攻撃機 A−7/アメリカのLTV開発の艦上攻撃機 F−5/アメリカのノースロップ開発の戦闘攻撃機 AB/Air Base 航空基地 COIN機/COINはCounter Insurgency(対暴動)の意味 軽度な戦闘に使用される対地攻撃機 ヴォアザン兄弟/ガブリエル&シャルルのフランス人兄弟 ヨーロッパで二番目に動力飛行を成し遂げた NACA/National Advisory Committee for Aeronautics 国立航空諮問委員会 アメリカ政府が航空技術発展のために設立した組織 のちのNASAの母体である

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