1 謎の村
「おりゃーっ!」
まっすぐな枯れ枝で作ったドリルの先端から白い煙が漂い出したのを認めた城山渚は、気合を入れなおして右手に握った弓の往復速度を速めた。左手に握られた押さえ板によって上部を保持されているドリルが、巻きついている靴紐により高速で回転し、倒木を利用した発火台のくぼみを激しく擦りたてている。
頃合よしと見た渚は、弓と押さえ板を手放すと、破り取ったレディースコミック誌のページに載せた火口……砕いた樹皮と枯れた苔を、細かく裂いた紙と混ぜたもの……を発火台のくぼみに押し付けた。軽く息を吹きかけ、着火を促す。
ぽっと、小さな炎があがった。火口に充分に火が回ったことを確認してから、渚はそれを点火材……枯れ枝を薄く削いだもの……の上に置き、火の具合を確かめつつ削り屑と紙片を加えていった。炎が見る見る大きくなり、白っぽい煙が上がり始める。
「はっはっは。『シロクマ』の娘をなめたらあかんぜよ」
渚は昔テレビで見た仁侠映画の台詞をもじって、無意味に威張った。父親は元SAS士官が書いたサバイバル教本の翻訳も手がけている。その娘が初歩的な火熾し程度に失敗したのでは、物笑いの種であろう。渚は焚き火に太目の枝を加えていった。簡単には消えないまでに炎があがったところで、一番太い枯れ枝を放り込む。そうなってから初めて、渚は生木の枝を削って作った串に刺した魚を炙り始めた。
魚は合計八匹。一番の大物で体長20センチくらいある。釣りを趣味としない渚には名前までは判らなかったが、側面に楕円の斑点がいくつかあるところなど、図鑑などで見たことがある鱒に似ている。おそらく、その仲間なのだろう。川に何匹もいるのを見つけ、ためしにいわゆる『ガチンコ漁法』……水面に接している岩に石をぶつけたりハンマーで叩いたりして水中に衝撃波を生じせしめ、魚を気絶させて捕まえるという禁断の……日本国内の大部分の河川で禁止されているやり方……を敢行したところ、十五分ほどでこれだけの戦果を挙げることができたのである。
「……疲れた」
ため息混じりに言い、渚は発火台として活躍してくれた倒木の上に座り込んだ。あらためて、周囲の風景を見渡す。延々と続いているなだらかな丘陵地帯。点在する濃緑色の小さな森。やけにまぶしい太陽が燦々と輝く青い空には、真っ白な千切れ雲が浮かんでいる。やや乾いた空気は、かすかに枯れ草のような匂いを含んでいた。
呆れるくらい人工物に乏しい……いや、人為的なものがない風景だった。人家はもちろん、道路も送電線も電波塔も見当たらない。植林がなされた形跡すらない。どう考えても、神奈川県内ではない。今時、丹沢の山奥だってもう少し賑やかである。
魚が焼けるのを待ちながら、渚は携帯電話を取り出した。祈るような気持ちで、電源を入れる。
表示時刻は16:32。その隣には、やはり圏外の表示が出る。財布を取り出し、もう一度レシートに記された時刻を確認する。10:15。……とすると、もう六時間以上もここにいることになる。
渚はため息混じりに電源を落とした。携帯は、圏外にいる場合自ら電波を飛ばして中継局を探そうとするから、電源を入れっぱなしにしておくと急速に電池を消耗してしまうのだ。圏外ではこまめに電源を落とすのが、サバイバルの基本である。
「どこなのよ、ここ」
ぼそりと呟いてみる。
今から六時間三十分ほど前に、渚は自宅から徒歩四分半のコンビニにいた。お菓子数点と雑誌三点……女性誌、テレビ情報誌、レディースコミック誌……合計税込み千六百八十五円を購入し、千円札二枚と五円硬貨一枚を出して、三百二十円のお釣りをもらった。それは間違いない。倒木に立てかけてあるコンビニのロゴ入りポリエチレン袋の中には、買った物すべてが入っているし、ここにレシートもある。
買い物を終え、コンビニを出て家に向かって歩き出したのも確かである。最近廃業し、更地になった蕎麦屋の前を通ったのも覚えている。その先、よく玄関先で雉トラの野良猫が昼寝している家の前を通り、猫がいない……行きの時もいなかった……のを確認したあたりで、記憶は曖昧になる。
気が付いたときには、見たこともない土地の芝草の上でへたり込んでいた。犯罪にでも巻き込まれたかと思ってとりあえず携帯を開いてみたが、圏外で役に立たない。仕方なく、ロスト・ポジションの場合のセオリー通り、近くの高所……この場合は丘の上……に登って見たところ、数メートルの川幅を持つ緩やかな流れを発見したので、それに沿って川下へと歩いてきたのである。
……やはり誘拐だろうか。
合理的でない説明なら、いくつも頭に浮かんだ。UFOにさらわれた、異世界に召喚された、タイムスリップした、突然テレポーテーション能力が芽生えた、等々。しかし、合理的かつ論理的に考えれば、答えはひとつしか出てこない。
誘拐。
渚の父……城山拓真は一部業界では有名人である。『シロクマ』の愛称で知られる軍事評論家として何冊も著作を出しているし、様々な専門誌やマニア向け雑誌に記事を書いたりコラムを持ったりしている。某民放テレビ局とも懇意で、軍事ネタのレポーターや北○鮮がミサイルを発射した時のコメンテーターとして仕事もさせてもらっている。最近では、サブカルチャーに造詣が深いこともあり、ゲームの監修にも手を伸ばしている。
かく言う渚も、ごくごく一部では有名人と化していた。父親のコネで、軍事マニア向け雑誌三誌に『城山汀』という安直なペンネームでイラスト入りコラムを書かせてもらっているのだ。手違いで『AFVジャーナル』のホームページに写真と現役女子高生という正体が載せられたことからファンが急増し、一時は月に百通近く『手紙』……純然たるファンレター以外を含む……が届く事態になったほどだ。いまはかなり沈静化しているが、それでも週に四、五通は怪しい手紙や宅配便が自宅に届けられる。
……ギャラに目がくらんだ『シロクマ』が某テレビ局にあたしを売った。
渚がたどり着いたもっとも合理的な説明がこれであった。『現役女子高生のガチンコ無人島サバイバル』とかなんとかくだらない企画。こうしている間にも、超望遠カメラと隠しカメラが撮影を続けているに違いない。
……違いない。
違う。
渚は一度も染めたことのないセミロングの髪をかきあげた。そのような企画、おそろしく予算を食うだろう。渚が自由意志で行動し、移動する以上、それらを漏れなく収録するためには何百台もの隠しカメラが必要なはずだ。そこまで金を使うバラエティー番組など、成立し得ない。
……合理的でない説明の方が、信憑性が高そうな気がしてきた……。
渚は不意に寒気を覚えて、焚き火ににじり寄った。実際、空気がややひんやりとしてきている。気温としてはまだ二十度近くはあるだろうが、連日三十数度を越える猛暑に慣れた身体には、爽やかな涼風も寒々しいとしか感じなかった。なにしろ、恐ろしく軽装である、紺色のぴっちりとしたタンクトップと、膝上20センチほどのデニム地のタイトスカート。素足にピンクのスニーカー。日焼け防止の白いキャップ。
「そろそろいいかな」
独り言をつぶやきながら、渚は鱒に似た魚が刺さる串をいったん抜き、裏面が焼けるように配置しなおした。
女性誌の厚手のページを濾紙の要領で折ったものをカップ代わりに手にして、渚は川に近付いた。流れが速く、かつ水が澄んでいるところを選び、水深20センチあたりの水を汲む。それを飲みながら、渚は淡白な味の焼き魚を胃に流し込んだ。五匹食べたところで満足した渚は、レザーマンツール社のマルチツール『ウェーブ』を取り出し、ナイフの刃を出すと、残る三匹の頭を切り落とした。
『ウェーブ』は父親から贈られたもので、なんと十二歳の誕生日プレゼントだった。どう考えても女の子への贈り物として適切であるとは思えないが……おかげで火を熾す道具を作れたのだから、『シロクマ』に先見の明があったと言えようか。渚はレディースコミックのページ数枚を使って魚を丁寧に包んだ。コンビニで買った菓子はまだ手付かずのまま残してある。傷みやすい食料から消費し、保存の利くものは非常用に取っておくというのも、サバイバルの基本中の基本である。
火種を運ぶのはとりあえず諦め、ボウドリル……渚が作った火熾しの道具……や串、炭化した枯れ枝など役に立ちそうなものをすべて拾い集め、コンビニ袋に入れる。借用していた靴紐をスニーカーに通した渚は、川の流れに沿って再び歩みだした。
それを見つけたのは、携帯によれば20:05のことであった。
丘の麓に、集落があった。戸数はせいぜい十数戸と言うところだろうか。周辺には、一見してそれとわかる畑が広がっている。防風林や柵などはない。そして、集落の中から左手のほうへと伸びている赤茶けた細い道が一本。渚のいる川岸からは、単なる地面に穿たれた溝でしかない粗雑な用水路が掘られており、澄んだ水が畑のあちこちへと供給されている。
太陽はいまだ沈まずに、西とおぼしき空に浮かんでいた。感覚としては……初秋の午後四時といったところか。
「助かった……と思うんだけど」
渚は安堵しながらも、慎重に集落の観察を続けた。どうにも怪しげな集落である。第一に、立ち並ぶ家がどれも小さすぎるし、地味すぎる。家というよりも、小屋と言ったほうがふさわしいくらいだ。伸びている道もあまりにも細く、みすぼらしい。獣道よりは多少まし、といった程度である。電柱の姿は一本も見えないから、電気も固定電話も通じていないようだ。
……日本ではあるまい。
渚はそう見当をつけた。山深いところならば、いまだに電気が通じていないところがあってもおかしくはない……実際、小学生の時にランプ生活を売りにしている温泉宿に渚自身宿泊したことがある……が、今の日本でこのような広々とした丘陵地帯に電化されていない地区があるはずがない。
なぜ外国にいるのか? やはり某テレビ局の関与だろうか?
渚は頭を振った。そんなこと、今考えても仕方がない。集落があるのならば、人がいるだろう。とにかく誰かと接触して、情報を得なければならない。渚はコンビニ袋をつかみ直すと、足早に集落へと向かった。
近付くにつれ、集落の細部が見分けられるようになった。
やはり、日本ではありそうになかった。ごく簡単に整形した石を積み上げた基礎に丸太で柱を立て、その間に単純に板を張り渡しただけの壁。もちろんすべて平屋である。屋根は藁葺きとはまた違ったなにかの植物を利用して葺いてあるようだ。自動車、電気や内燃機関を利用した農耕具、テレビ用の八木アンテナやパラボラアンテナなどは影も形もない。
……タイムスリップ説が正しいのか?
そう思い至った渚はふと足を止めた。それならば、色々と筋が通ってくる。何百年も昔の神奈川の農村なら、こんな風に見えてもおかしくはあるまい。
……おや。
渚から見て集落の右手の畑に、動きが見えた。渚は眼を凝らした。どうやら、誰かが農作業をしているらしい。
しばし考えてから、渚は167センチの身体をやや沈めて、慎重に歩き出した。なんとなく、いやな予感がしていた。この集落の様子から見て、畑にいるのは只者ではあるまい。よくて日本語を一言も理解しない外国人。下手をすれば鎌倉時代くらいの農民。もっとひどければ、渚の姿を見たとたんに奇声を発し、蛮刀かなにかを振りかざして襲ってくるかもしれない。
幸いなことに、件の畑と渚の間には、緑の葉を茂らせた小さな茂みがあった。渚はその茂みを盾にしながら、足音を忍ばせて畑に近付いていった。茂みにたどり着くと、ひとつ深呼吸をしてから、そろそろと首を伸ばして向こう側を覗いてみる。
コアラが一匹、鍬を振るって畑を耕していた。
渚は息を呑んだ。いったん首を引っ込め、眼の周囲を軽くマッサージしてから、再び首を突き出す。
どう見てもコアラだった。灰色の柔らかそうな毛。大きな黒い鼻。特徴的な丸い耳。ただし、巨大である。おそらく……体長は1メートルを優に越えるだろう。それが、器用に鍬を振るっている。
……やっぱりテレビ局の企画か。いや、着ぐるみにしてはリアルすぎる。
渚は熟考した。仮にあのコアラが本物だとしても、話し掛けて見る気にはなれなかった。日本語が通じるわけがない。ひょっとして、オーストラリア訛りの英語なら……まさか。
いずれにしても、もっと色々と調べる必要がある。
わき目も振らずに鍬を振るうコアラに気付かれないようにその場を離れた渚は、足音を忍ばせて集落に向かった。途中作物と思しき緑の植物が栽培されている畑で足を止める。どう見ても、コアラの好物ユーカリではない。なんとなくアブラナに似た植物だったが、茹でたブロッコリーを思わせる濃い緑色をしている。
ひょっとするとコアラがそぞろ歩いているかと思われた集落の中は、静けさに満ちていた。渚は恐る恐る家々の間へと足を踏み入れた。聞き耳を立ててみるが、人の気配もコアラの気配もない。
立ち並ぶ家は近くで見てもやはりみすぼらしかった。ペンキやニスなどの人工的な塗料が使われている形跡はない。窓はあるもののむろんガラスなど嵌まっておらず、ただの開口部に黄土色の革か布のようなものを吊っただけの代物だ。入り口と思われるところにも、同じく黄土色の『カーテン』が掛かっている。
……あれ一枚あれば、ショールの代わりになるな……。
剥き出しの肩に肌寒さを感じていた渚は、そんなことを考えつつ埃っぽい道を慎重に歩んだ。やがて、集落の中心部らしいちょっとした広場に出た。真ん中あたりに、切石を膝くらいの高さに円筒状に積み上げ、上に板を被せたものがある。渚は周囲に眼を配って安全を確認してから、そこまで歩んでみた。石組みの脇に、ロープを縛り付けた木桶があることに気付く。
井戸だ。
渚は木桶を拾い上げてみた。きれいで、湿り気を帯びている。頻繁に使われている証拠だろう。不意に喉の渇きを覚えた渚はコンビニ袋を置くと、蓋の板を外してみた。新鮮な水の匂いが、ぷんと鼻に届く。ロープを握って、木桶を井戸の中へとそろそろと入れてみる。しばらくすると、ロープがふっと軽くなった。水面に木桶が着いたのだ。ロープを適当に揺らして木桶の中に水が入るようにした渚は、頃合を見て、引き上げにかかった。
重い。
渚は唸りながら、徐々にロープを引き上げていった。滑車の発明というのは偉大だったなあ……などと感慨にふけりながら、渚はロープを手繰り続けたが……それが不意に軽くなった。
……水がこぼれたか?
とっさに渚はそう考えたが、次の瞬間、ロープを握る腕さえも後上方に引っ張られたことに気付いた。びっくりして思わずロープを手放した渚だったが、木桶は落ちることなく、見る間に彼女の眼前へと水を満たしたまま上がってきた。
渚は振り向いた。
彼女の傍らで、コアラがロープを握っていた。
渚とコアラの眼が合う。
渚は動けなかった。コアラも動かなかった。ただロープを支えたまま、静かにたたずんでいる。
先ほど畑を耕していたコアラとは別の個体のようだった。ずっと小さい……体長は1メートル以下だろう。それが、あまり知性の感じられない黒い大きな眼で渚を見上げている。その傍らに、取っ手のついた空の木桶が置かれていた。
……水を汲みに来たのか?
とりあえず、襲ってくる気配はないようだ。渚は色々な意味で強張った筋肉を無理やり動かして、水が満たされた木桶を手に取った。視線は、コアラの眼から離さない。離したら襲われるのではないか、という不安感があった。
思い切って、木桶をコアラに向けて突き出してみる。
ごく自然な動作で、コアラが両手を差し伸べ、木桶を受け取った。そして器用な手付きで、持参の木桶に水を注ぎ込む。水は三分の二くらいまで木桶を満たした。
コアラが動いた。びびって思わず飛び退いた渚を無視し、慣れた手付きでロープ付きの木桶を井戸に投げ込み、するすると引き上げ始める。
自分の木桶を満たしたコアラは、まだ水の残る木桶を渚に押し付けると、自分の木桶を持ってすたすたと歩み去った。
……よく判らない。
渚は首をかしげつつ、木桶に手を突っ込んで中の水を掬い出し、飲んだ。きれいな水だった。三口目を含んだところで、渚はやっと周囲の異常な状況に気付いた。
あちこちの家から、コアラが顔を覗かせていた。その数……十匹はいようか。
「ははは。ども」
適当なことを言いながら、コンビニ袋を拾い上げた渚はその場を逃げ出そうとした。だが、歩み始めた渚の目の前に、ひときわ体の大きなコアラが立ちふさがる。体長は、渚よりも優に20センチは低いが、これだけの体格ならばその筋力は熊並みだろう。押しのけるわけにもいかず、渚は足を止めた。焦って逃げ道を探すが、ぞろぞろと家々から出てきたコアラたちに、渚はいつの間にか完全包囲されていた。数もいつの間にやら二十匹前後に増えている。コアラ特有の無表情さが、なんとも不気味だ。
渚の脳が打開策を探った。だが、ろくなアイデアは浮かばなかった。コアラの弱点など知るわけもないし、『ウェーブ』のナイフ刃ごときではとても対抗できないだろう。……いっそ、死んだふりでもするか?
巨大コアラが黒い鉤爪のついた手を伸ばし、渚の腕を取った。やさしいといえるほど、丁寧な取り方だった。
「ど、どうしたいのかな?」
強張った笑みを浮かべる渚の背中に、巨大コアラの腕がまわる。コアラの体臭だろうか、わずかな獣臭さが、鼻をつく。半ば引き摺られるようにして、渚は一軒の家の中へと連れ込まれた。
1.コアラは肉食ではない。
2.コアラは怖がったそぶりは見せなかった。したがって、過去に人間を見たことがある可能性が高い。
3.家や井戸、農耕の様子からしてこれらコアラはそれなりに知的である。
……などと指折り数えて、渚はとりあえず殺されることはないと信じ込もうとした。
コアラの家の内部はまことに質素なものであった。寝床だろうか、あるいは保存食なのだろうか、乾燥した植物の葉や茎が積まれた一角。水が満たされた大きな壷がひとつ。なんに使うのか判らない特大の漬物石のようなものが二つ……椅子なのか? 床には、畳半畳ほどもある植物繊維の平べったい塊……見た目も手触りも乾燥糸瓜にそっくり……が、何枚も敷き詰めてある。
渚はそこに大人しく座っていた。向かい側……唯一の出口側には、例の巨大コアラが短い脚を器用に折りたたんで座っている。いまさらじたばたしても仕方がない。かえって危険な相手だと思われ、警戒されるだけである。
……これで、タイムスリップ説とテレビ局説は消えた。
渚は頭を抱えてわめき散らしたい気持ちをぐっとこらえて、状況を客観的に分析しようとした。こうなってくると、UFO説も怪しい。異世界なのか? それとも『コアラの惑星』? ……馬鹿な。それとも『コアラの里』? ……それじゃお菓子だよ。
ひとり突っ込みをしながらしばらく待つうちに、家の中に新顔のコアラがのっそりと入ってきた。手に、クリーム色のさほど大きくはない物体をふたつ載せている。
巨大コアラが、新顔コアラからその物体をひとつ受け取って、なぜか自分の肩にひょいと載せた。次いで近づいた新顔コアラが、渚にもその物体を差し出す。渚は躊躇しながらも、それを受け取った。
見た目も大きさも、それはシロップをかける前のカスタードプリンによく似ていた。掌でぷるぷると震えている様は、そっくりとしか言いようがない。違いといえば、見た目よりも重いことと、結構温かいことくらいか。出来たてなのか?
食物を与えて歓待しようというわけだろうか。渚はそっと匂いを嗅いでみた。かすかに甘い匂いがする。バニラに似た、柔らかい匂い。
「食べるな。それは食べ物ではない」
巨大コアラが言った。
そのプリンそっくりの物体の名は、グエと言うらしい。
「ひとつひとつの塊が個体であると同時に、巨大な集合体の一部でもあるのだ」
渚の問いかけに、巨大コアラはそう答えてくれた。
「グエは触れている者の気持ちを汲み取り、発した言葉の意味合いを別のグエに伝える。情報を受け取ったグエはその意味を別の言葉に直し、触れている者に教えてくれるのだ」
「はあ。便利なものね」
有体に言ってしまえば、感情移入補助機能つき万能翻訳機代用生物、といったところらしい。
「そなた、空飛ぶ善き者たちの客人であろう?」
巨大コアラが、訊く。
「……そうらしいけど」
やや逡巡した後、渚は曖昧にそう答えた。空飛ぶ善き者たちが何者だか知らないが、コアラたちが渚の正体をそう思い込んだ上で友好的に接していてくれるのならば、とりあえず否定すべきではない。
「若い者をキツネの村まで走らせた。あそこにはモトローラがあるから、明日には迎えが来よう」
「モトローラ?」
渚は首をひねった。モトローラといえば、アメリカの高名な通信機器メーカーである。無線機や携帯電話の分野では、かなりのシェアを誇っている。それが、キツネの村(コアラだけじゃないのか!)にあるということは……。
人間がいるのだ。この世界には。
「まあ、くつろがれるがよい。食事でも運ばせよう」
「食事はありがたいけど……」
渚は苦笑した。大皿に盛られたユーカリの葉でも出てきた日には、笑うしかない。
「安心されよ。人間の好む食物くらい、知っておるでな」
「……すっごい食べにくいんだけど」
出された食事は思ったよりまともなものであった。大きな鉢一杯の水。よく茹でてある正体不明の白っぽい肉の塊。セロリに似た植物の茎三本。胡桃にそっくりなナッツが盛られた木椀。どう見てもリンゴにしか見えない果実ひとつ。傍らには高級旅館の仲居さんのごとく、一匹のコアラが控えていてくれる。
食べにくい原因はギャラリーの存在にあった。七匹ほどのコアラが押しかけてきて、渚を注視しながら座っているのだ。いずれも身体が小さいから、おそらく子供なのだろう。人間を見かけても驚かない程度に慣れてはいるが、それでもその存在は興味深いものらしい。……外国人旅行客を見かけた昭和三十年代の田舎の小学生といったところか。
出て行ってくれ、と言いたいところだが、あいにく仲居役のコアラを含めてだれもグエを載せていない。しばらく考えた末に渚はコンビニ袋を探り、中から三冊の雑誌を取り出した。適当なページ……もちろん写真やイラストが派手なところ……を開き、仔コアラたちに差し出す。
すぐに仔コアラたちは読書に夢中になった。書物を読む習慣はないらしく、ページをめくる手付きはぎこちないが、新たな絵や写真が現われるたびにはしゃいでいるのが判る。渚はそれを横目にしつつ、添えられていた木製の二股フォークを使って食事を開始した。おっかなびっくり噛んでみた肉は思ったよりも柔らかく、塩気が少なくて美味しいとは言えなかったが、鶏肉に似た味わいだった。植物の茎は味も香りもセロリにそっくりで、青臭い野菜が苦手な渚には食べられなかった。リンゴはまず間違いなくリンゴだった。果肉がやや柔らかく、『ふじ』によく似た味と食感だ。ナッツは胡桃よりも甘く感じられた。
食事を終えると途端に眠気が襲ってきた。携帯を取り出し、時刻をチェックする。22:18。夜型人間の渚にしてみれば、これから元気が出てくるといった時間帯である。だが、今日はもう限界のようだった。なにしろ十時間近くに渡って慣れぬ山歩きをしたのだ。
……シャワーとか要求しても無理だろうな。
渚は雑誌の取り合いをしている仔コアラを眺めながらそう考えた。このコアラたちが入浴の習慣を持っているとは考え難い。水浴びくらいはするのかも知れないが、いくら相手がコアラとはいえ彼らの前に裸をさらす気にはなれなかった。
……結局、異世界に飛ばされたと言うわけか。
自分の置かれた状況をもう一度吟味した上で、渚はそう結論付けた。翻訳生物の力を借りてとはいえ喋る巨大コアラが存在するなどというふざけた世界など、通常ではありえない。いささか安直だとは思うが、よくファンタジー映画やアニメ、あるいは小説に出てくるような『異世界』に居るのだと考えざるを得ない。……これからどうすべきだろうか?
最優先で考慮せねばならぬことは、まず身の安全だろう。次いで、健康の維持。これもサバイバルの基本である。映画であれば、主役は冬の海に落ちたりしても決して風邪などひかないが、現実はそうはいかない。医者もおらず薬局もないところにおいては、軽い疾患でも命取りになりかねないのだ。そして可能性がある限り、元の世界へと戻る算段をつけねばならない。……どうやってかは、知らないけど。
巨大コアラの言を信用すれば、明日には空飛ぶ善き者たちの迎えがくる。渚のことをその客人だと思い込んでいることから見て、その連中が渚のような人間である可能性は高いだろう。運が良ければ、彼らが元の世界へと帰る方法を知っているかもしれない。
……だめだ。眠いや。
渚はそれ以上の思考を諦めた。窓に掛かった粗い織り方の布越しにも、外の光が薄れてきているのがわかる。こちらの世界にも、やはり夜があるのだ。コアラたちにもう寝ることを判らせようと、部屋の隅に行ってごろりと横たわる。察した仲居コアラが、仔コアラたちに鋭い口調で何か言う。仔コアラたちは意外にあっさりと家から出て行ったが、雑誌は三冊とも手にしたままだった。何匹かが渚に向かって一声ずつ掛けていったが……おやすみなさいとでも言ってくれたのだろうか。
仲居コアラがささやくように何か言いながら、糸瓜座布団を渚の身体に何枚か掛けてくれる。渚は眼を閉じた。
……ノミとかいたら、やだな。
第一話をお届けします。本作は生物学的SF風味の異世界空戦もの中篇小説です。あくまでSF分は風味ですので、ご理解のほどを。投稿は週一回、土曜日の予定です。ゆっくりとしたペースですが、一話の分量が結構ありますし、新作が書きあがるまでのつなぎ連載ですので、ご容赦下さい。これでなんとか三ヶ月ばかり時間を稼げば、次は新作をお届けできる……かもしれません(汗) 本作は数年前に書いたものであり、年代設定も数年前になっております。ご注意下さい。
では前作および前々作をお読みいただいたありがたい読者様へのご挨拶を。まことに申し訳ありません。今回も空ものです。執筆順に言えば、本作→バタメモ→殻竿の順になります。最初に断言しておきますが、本作はハッピーエンドです(笑) どうぞ安心してお楽しみ下さい。