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9 E&E

 アルファジェットは、死んだ魚のように腹を見せていた。

 墜落した時に発火したらしく、機体は無残に焼け焦げていた。アルミ合金はあちこちが溶け落ち、焼死体の肋骨を連想させる黒く煤けたフレームがむき出しになっている。機首部は完全に潰れていた。地面には機体がこすれたような跡はない。背面となり、低空から急降下して突っ込んだのだろう。墜落のショックで中途半端に飛び出た主脚が、さながら死んで縮こまった昆虫の脚のように、宙を指している。

「ひどいものね」

 ヴァルヴァラが、言う。

「おそらく、こことあなたが降りた地点を結ぶ線上にいるはずだわ。引き返しましょう」

「そうね」

 ふたりは左右に眼を配りながら、歩み始めた。三分ほど歩いたところで、いきなり遠くで銃声が響いた。

「エリックだ!」

 異口同音に叫ぶ。マイラが対地射撃した音ではない。明らかに、軽火器の発砲音だった。

 走り出したヴァルヴァラのあとを、渚は懸命に追いかけた。その間にも、数回銃声が響く。眼前の低い土手のようなところを駆け上がると、視界が開けた。

 エリックの姿が、眼に入る。

 一匹のDDが、エリックに襲い掛かっていた。四本の肢で立ち、前肢を振り上げている。さながら、怒った時のクワガタムシのようだ。

 地面に尻餅をついたエリックが、両手撃ちで拳銃を続けざまに放つ。だが、DDは動じない。

「撃って、渚!」

 叫びながら、ヴァルヴァラが駆け出した。肩のサバイバルキットを振り落とし、猛然とダッシュする。

 渚は慌ててFALのセイフティを外した。DDとの距離は二百メートルというところか。いささか遠い。

 マイラのA−7が、ごうっという音を残して上空を通過した。さしもの彼女でも、これだけエリックとDDが近接していては、発砲することは不可能だ。

 渚は伏射の姿勢をとった。ストックをロックし、セレクターをRに合わせ、教本どおり床尾を肩の筋肉に押し付け、狙いをつける。

 弾を撃ち尽くしたエリックが、グリップから空の弾倉を落とし、新たな弾倉をはめ込もうとしている。

 渚は立て続けに発砲した。かなりの反動が、身体を揺らす。身長百六十七センチと日本人女性としては結構体格のいい渚でも、7.62×51の連射はきつかった。

 すぐに一弾倉を撃ち尽くす。玄人っぽく数えながら撃ったが、十九発しか装填していなかったようだ。標的が大きいために、全弾が命中していた。DDが、こちらをより差し迫った脅威と捉えたのか、その向きを変える。

 渚は素早く弾倉を入れ替えた。さすがにこれは教本どおり、眼を標的に据えたままとはいかない。視線を落とし、苦労してやっとはめ込む。ボルトを引き、構える。

 発砲。サブマシンガンの射程に達したヴァルヴァラも、撃ち始めた。新たな弾倉をグリップに押し込んだエリックも、連射する。

 最初に弾倉を撃ち尽くしたのは、やはりフルオートでTMPを撃ったヴァルヴァラだった。次いで、エリックの拳銃が沈黙する。

 渚の放った最終弾……こちらの弾倉も十九発しか入っていなかった……が、DDの外殻を貫く。銃声が消え、辺りが急に静まり返る。

 DDのサンドブラウンの巨体が、震えた。振り上げられていた前肢が、左右同時に力を失い、鈍い音を立てて垂れる。残る肢からも、不意に力が抜けた。さながら油圧で動いていた機械が、急に圧力を抜かれたような感じで、DDが崩れ折れる。埃が巻き起こり、腹ばいになっている渚の身体にかすかに振動が伝わった。


「俺が撃ち落したやつだ」

 ヴァルヴァラに余ったグエを載せてもらったエリックが、苦々しげに言った。

「まだ生きてやがった。ありがとう。お陰で命拾いしたよ」

「足をやられたのね。見せて」

 ヴァルヴァラが、エリックの左足からブーツを脱がせた。……足首が腫れている。

「着地の時にひねったんだ。完全に解傘しないうちに降りちまったんでな。折れてはいないと思うが……」

 ヴァルヴァラの指が、エリックの足首を探る。

「骨は大丈夫ね。打撲だけ」

 ヴァルヴァラが治療を始めた。さすがに大学で医学を学んだだけに、手際はよかった。医療キットのバトル・ドレッシングをあてがい、添え木代わりにTMPの空弾倉を添え、包帯とテープで固定する。

「状況は?」

 痛みに顔をしかめながら、エリックが訊く。ヴァルヴァラが、マイラとの交信内容を説明した。エリックが、舌打ちする。

「簡単には直らないぞ、アルエートは。よくて二十四時間、悪くすると丸二日はかかる」

「無理して歩くべきじゃないわね。どこか水の得られる場所に隠れていましょう。渚、マイラに報告を」

「了解」

 渚はPRC−90のセレクターを音声交信にした。ゆっくりとした英語で、エリック救出と負傷の程度を告げる。

「了解。そちらの南東千ヤードに小川が見える。付近にコロニーなし」

 渚に気を遣ったのか、平板な発音でマイラが応えてくれる。

「ジョーカーまであと二十分」

「無理しないで。こちらは当面の安全を確保」

 渚はそう言った。ジョーカーとは、燃料の不足を意味する隠語である。いわゆるビンゴの一歩手前の状態だ。

「まだ大丈夫。絶対助けるから、待っていて」

 雑音混じりの英語が、頼もしく聞こえる。

「貸して、渚」

 ヴァルヴァラが、渚からPRC−90を受け取った。

「マイラ。とりあえず引き上げて。……ありがとう。頼りにしているよ。アウト」

 スイッチを切ったヴァルヴァラが、PRC−90を渚にを返してよこした。

「マイラって、結構いい人なのね」

 渚はそう言った。無愛想だが、いざと言う時は頼りになるタイプなのだろう。

「エレメント・リーダーとして、責任を感じてるんだろ」

 エリックが言う。

「とにかく、移動しましょう。南東千ヤードね」

 上部をナイフで切り裂いたブーツを、ヴァルヴァラがエリックに履かせる。自らそれをテープで固定したエリックが、ヴァルヴァラの肩を借りてゆっくりと歩み出した。

 渚は荷物の大半を引き受けた。FALを手に、周囲に眼を配りながら二人を先導する。


 三人は隠れるのにちょうどいい茂みを小川の岸辺に見つけた。一本のボトルの水を回し飲みして、ひと息つく。

 燃料が乏しくなったマイラが、名残惜しげに低空をひと旋回してから、Fベースへの帰途についた。

 渚は空になったボトルに小川の水を詰めた。浄水錠剤を念のために二錠入れ、シェイクする。

「ヴォーゲオスに見つからないように、祈るしかないね」

 弾薬の残数を調べながら、ヴァルヴァラが言う。

 エリックを助けるために、渚とヴァルヴァラはかなりの弾薬を消費していた。FALは弾倉一個を残すのみ。TMPは弾倉三個……九十発の弾丸がある。ファイブ・セブンは三丁あり、弾倉数は四個……八十発。

「案ずることはない。アルエートが来てくれれば、間違いなく帰れるさ」

 エリックが、自信ありげにいった。

「さっきはたまたまDDの小規模襲来と遭遇しただけだ。つまり、あと三日くらいはDDどもと出くわす可能性はない」

「焦らず待つしかないのね」

 渚は身体の力を抜いた。神経を張り詰めていては、緊張で参ってしまう。

 じっと動かず待つうちに、あたりが暗くなってきた。風もやや強くなる。

「たぶん夜はヴォーゲオスの活動はないと思うけど……念のために交代で起きていましょう」

 ヴァルヴァラが、提案する。

「腹が減ったな」

 エリックが言う。

 三人はコンパクトASのレーションパック、BP−5を開けた。どう見ても食欲をそそらない白っぽいブロックを齧り、水で流し込む。わずかに塩味が感じられるだけの、いかにも非常食といった代物だ。はっきり言って、不味い。渚は去年食べた航空自衛隊の救命糧食を思い出した。シロクマが、某基地の知人から賞味期限切れの物をこっそりと分けてもらったのを、味見してみたのだ。脂臭いできそこないのバタークッキーみたいで旨くはなかったが、これに比べればはるかにマシな味であった。

「四時間交代だ。最初は俺。次が渚。最後がヴァーリャ。いいな」

 エリックが言う。

「結構」

 ヴァルヴァラが、マグライトとTMPをエリックに渡した。

 渚は、ヴァルヴァラの隣に横たわった。サバイバル・ブランケットにくるまり、手の届くところにFALを置く。疲れていたのか、すぐに眠りは訪れた。気がついたときには、エリックに揺さぶられていた。

 渚はTMPとマグライトを受け取ると、見張りについた。月が三つ出ていたが、いずれも地球の月よりはずっと暗かった。渚は岸辺の岩に背中を預け、眠気を振り払おうとしきりに水を口に含んだ。なんとか四時間目を覚ましつづけ、ヴァルヴァラと交代する。

 翌早朝飛来したのは、プラサーンのF−5Eだった。もたらされた報せは、悲観的なものであった。『アルエートIIIの修復絶望的』

「いま、Fベースの北に燃料集積所を設けています。そこで給油すれば、S−58でも救出を行えるでしょう。ただし、コンボイが丘陵地帯を越えなければならないので、時間はかかります。それと平行して、シェルパで回収できないか検討中です」

 PRC−90から、プラサーンの声。……アジア人特有の平板な発音の英語なので、渚には聞き取りやすかった。

「無理はするなとXOに言ってくれ。シェルパが脚でも折った日には、救出人数を増やすだけだからな」

 エリックが、答える。

「できる限り南へ進んでください。午後にはジェットストリームを飛ばして空中補給をする予定です」

「ありがたい。美味いランチを入れておいてくれ」

 そう返してから、エリックが肩をすくめた。

「どうやら、処置なしのようだ」

 三人は小川で水を補給すると、ゆっくりと南下した。エリックの足首の腫れはやや引いたが、まだまともに歩ける状態ではない。

 昼前に、一同はブランチを採った。味気ない食事を済ませ、チャートを検討する。

「どこで印刷したのかしら」

 渚は布にプリントされたチャートを見て疑問を呈した。英語表記だが、細かいところまできれいに印刷してある。こんなもの、外部の専門業者でなければ作れないだろう。どうやって、機密を守ったのだろうか。

「ああ、ロンドン・オフィスがアメリカで発注したそうだ」

 答えたのは、エリックだった。

「イギリスで人気のあるファンタジー小説の舞台の地図だと偽ったらしい。読者プレゼントに使うと称して、千枚ほどまとめて印刷させたそうだ。うまく考えたもんだよ」

「なるほど」

 渚はくすくすと笑った。たしかに、怪しまれぬうまいやり方だ。

「さて、出かけましょうか」

 ヴァルヴァラが、腰をあげた。渚もFALを肩にかけようとして……凍りついた。

 ぐおん、という異音が三人の耳に届き始めていた。

「くそっ、DDか?」

 エリックが、ファイブ・セブンを抜き、スライドを引いた。渚はFALを手に、あたりを見回した。

 音が大きくなる。

「あそこ!」

 ヴァルヴァラが指差す。

 肢がつきそうなほど低い位置を、砂埃をあげつつDDが飛行していた。距離は二百メートル程度。こちらへ向けまっすぐ突っ込んでくる。

 渚は大慌てでFALを構えた。伏せている暇はなかった。立射するしかない。

 一足先にヴァルヴァラがTMPを放った。渚も撃った。距離はもう五十メートルもない。四発撃つのがやっとだった。渚はDDが眼前に迫ったところで前方に身を投げた。エリックは拳銃を撃ちながら身を伏せ、ヴァルヴァラも渚同様身を投げ出す。DDはそのまま三人の上を通過した。

 膝立ちのヴァルヴァラが、荒い息をつきながら弾倉を代える。DDはいったん百メートルほど離れた場所に着地するとくるりと向きを変え、再び飛び上がった。加速しつつ、先程とは逆の方向から三人に迫って来る。渚は伏せたままFALを向けた。

 発射。

 渚の放った弾はDDの頭部に次々と突き刺さった。ヴァルヴァラも撃ち、三十発すべてが命中する。エリックの拳銃弾も全弾がDDを捉えた。だが、効いた様子はない。

 DDは今回は通過せず、どしんと音を立てて至近に着地した。もうもうと埃が立ち込める。渚は撃ち尽くしたFALを放り出すと、ファイブ・セブンを抜いた。

 DDが狙ったのは、エリックだった。三人のうち一番火力の弱かったエリックを狙ったのか、それとも負傷していることを悟って、本能的に狙ったのか。

「おわっ」

 DDが、前肢を振る。エリックは避けようとしたが、傷めた足首のせいでその動きは鈍かった。ラグビー選手の太腿ほどもある前肢が、エリックの下半身をかすめる。それだけでも、威力は絶大だった。エリックの身体が軽々と宙に跳ね飛ばされる。

「エリック!」

 渚は地面に叩きつけられたエリックに駆け寄った。彼を庇うように、DDの前肢の届かない位置から、両手撃ちで拳銃を連射する。

 全弾を撃ち尽しても、なおDDに効いた様子は見られなかった。昨日のDDはアルファジェットに12.7ミリを連射されていたからこそ、渚らの銃撃だけで止めを刺す事が出来たのだ。軽火器だけでDDを仕留めるのは、やはり不可能なのだろうか。

「逃げて、渚!」

 ヴァルヴァラが、後ろからTMPを撃つ。9ミリ弾が、DDの頭部を次々と襲う。

 渚は最後の弾倉を拳銃に差し込んだ。ここで渚が逃げれば、DDは倒れているエリックに襲い掛かるだろう。そうなれば、エリックの命はない。だめだ。少なくとも、弾薬がある限り退くわけには行かなかった。

 ヴァルヴァラのTMPが沈黙した。DDが、渚の方を向いた。明らかに、DDは渚の存在を屠るべき敵として知覚していた。その前肢が、脅すかのように左右に振られている。渚は全速力で逃げ出せと命ずる生存本能を気力でねじ伏せると、ファイブ・セブンの銃口をDDに向けた。

 DDが一歩踏み出した。渚は矢継ぎ早に長いストロークの引き金を引いた。

 頭部に銃弾が集中する。だが、DDの巨体の勢いを止めることはできない。一歩ずつ確実に、DDは渚に迫ってきた。

 ヴァルヴァラのTMPが再び吠える。最後の弾倉だ。

 渚の手の中で、ファイブ・セブンが最後の銃弾を吐き出した。

 ヴァルヴァラのTMPも沈黙した。全弾を、撃ち尽くしたのだ。

 DDと渚の間には、空気しかなかった。わずか三メートル分の空気しか。

 DDが、鈍い動きで前肢を振り上げた。多少は傷付いているようだ。渚は吹き出るいやな汗を意識の隅で知覚しつつ、身構えた。こうなったら、エリックの運命は天に任せるしかない。DDがこちらを追いかけてくれば、エリックは助かるだろう。……空を飛べる化け物相手に、どれだけ逃げられるか判らないが。

 DDの前肢が、高い位置で止まった。複眼は、確実に渚の姿を捉えていることだろう。ここから先は、反射神経の勝負だ。渚はPKを止めようとするキーパーのごとく、つま先に体重をかけて前かがみになった。前肢が振り下ろされた瞬間に、左へと跳んでこれを躱し、脱兎のごとく逃げ出せば、あるいは……。

「渚!」

 ヴァルヴァラの叫び声。

 次の瞬間、渚の眼前で凄まじい激突が起こった。

 DDとDDの衝突。

 渚は逃げることも忘れて、その光景を見つめた。突如横合いから飛び出してきたDDが、渚を屠ろうとしたDDに体当たりを喰らわしたのだ。

 ……いや、違う。

 新手のヴォーゲオスは、DDではなかった。やや色が薄く、小さい。DDではなくBVだ。

 乱入したBVは、明らかにDDと争っていた。前肢をDDの頭部に激しく叩きつけ、攻撃している。DDの方が身体は大きいが、銃撃で弱っているのだろう、その抵抗は不活発だった。時折外殻の隙間から、黄色い体液がほとばしり出る。

 なぜ、BVがDDと戦うのだろうか?

「渚!」

 ヴァルヴァラが、唖然としてヴォーゲオス同士の戦いを眺めている渚の腕を引っ張った。右手には、ファイブ・セブンが握られている。

「今のうちにエリックを!」

 ……そうだ、すっかり忘れていた。

 二人は地面をのた打ち回っているエリックに駆け寄った。アイアイとうめきながら、股間を押さえている。渚は落ちているグエを拾って肩に載せてやった。

「くそう、もう少しでデプレオーになるとこだったぜ」

 股間を押さえ、荒い息をつきながら、エリック。

「大丈夫。骨は折れてないわ」

 素早く身体を探ったヴァルヴァラが、そう診断を下す。

「骨よりも大事なものが折れちまった気がする……しかし……どうなってんだ、ありゃ」

 なおも股間を押さえつつ、エリックが訊いた。

 ヴォーゲオス同士の戦いは、終局に近付いていた。勝負は明らかにBVの勝ちであった。すっかり動きの鈍くなったDDは、体液まみれで横たわっている。BVが、その上に馬乗りになり、容赦なく攻め立てる。渚は、某アニメのエ○ァが使○を喰らうシーンを思い出した。

「異なるコロニーの個体による闘争じゃないかしら。いわば、縄張り争い」

 ヴァルヴァラが、推定する。

「いずれにしても、あの威勢のいいBVが俺たちを襲ったら、勝ち目はないぞ」

 エリックが言って、痛む足首を庇って立ち上がった。

「そうね」

 ヴァルヴァラが、握った拳銃に視線を落とす。もはや、残っている弾薬は装填してある弾倉の二十発のみ。

「あのBVが、あたしたちを助けてくれたという可能性はないかしら」

 渚はそう言ってみた。

「まさか」

 異口同音に、ヴァルヴァラとエリック。

「ヴォーゲオス同士の闘争が縄張り争いのように頻繁ならば、偵察の際に写真に撮られたり目撃されたりしてたんじゃない?」

「一理あるけど、それに命を賭ける気にはならないわね」

 エリックに肩を貸しながら、ヴァルヴァラ。

 同意した渚は、落とした装備を拾い集めると、逃げる二人のあとを追った。

 だが……。

「追ってくる!」

 渚は叫んで立ち止まった。エリックとヴァルヴァラも、足を止める。

 先程のBVが、六本の肢をせかせかと動かして、逃げる三人に急速に迫りつつあった。むろん、人間の駆け足よりも速い。逃げ切れる見込みはなかった。

「銃を貸せ、ヴァーリャ」

 エリックが、静かに言った。

「俺が、多少なりとも時間を稼ぐ。二人で別々の方向へ逃げろ。運がよければ、助かるだろう」

「だめよ。渚、エリックを連れて逃げて。助けに来てくれたあなた方を見捨てるわけには行かないものね」

 ファイブ・セブンを構えながら、ヴァルヴァラがきっぱりと言う。

 渚は迷った。走って逃げ切る自信はない。それに、この二人を置いて逃げることもできない。

「早く行って、渚!」

 ヴァルヴァラが怒鳴る。しかし、渚は動けなかった。エリックも、動かない。

 BVは、三人の手前十メートルほどで止まった。ヴァルヴァラが、拳銃の狙いをつける。

 両者は、三分ほどそこでにらみ合った。BVがこちらを知覚していることは、まず間違いない。意図して追いかけてきたことは、明白だった。だが、仕掛けてこないし、身体を起こして前肢を振り上げるといった攻撃態勢も取っていなかった。頭部を低い位置に保ったまま、じっとこちらの様子を窺っている。

「何を待ってるんだ、あいつは」

 エリックが、苛立たしげな声をあげる。

「仲間を待ってるのかも」

 拳銃を握り直しながら、ヴァルヴァラ。

「くそう、何考えてやがんだ、あの化け物は!」

 エリックが、怒鳴る。

 ……BVの考え。

 まてよ。

「ねえ、ヴァーリャ。ヴォーゲオスって、言語を持ってると思う?」

「犬並みの知能なら、原始的な言語システムを持っていてもおかしくないわね」

「じゃあ……」

 渚は、エリックの肩に手を伸ばし、グエを取り上げた。牽制球の上手なピッチャーがマウンドにいる時の一塁ランナーのように、いつでも逃げ帰れるように用心しながら、じりじりとBVに近付く。エリックが後ろでコナールとかサングレとか喚いているのは、無視した。

 五メートルまで近付いても、BVはほとんど動きを見せなかった。これが限界だろう。渚は、グエをぽいと放り投げた。狙いどおり、グエはBVの頭部にちょこんと着地した。

「ええと、あたしの言葉が判るかな?」

 ……沈黙。

「やっぱり無理か」

 渚は肩を落とした。万能翻訳機たるグエといえども、言語システムを持たぬものには無力なのだ。

「渚!」

 エリックとヴァルヴァラが同時に叫ぶ。渚は反射的に飛び退いた。

 BVが、動きを見せていた。ゆっくりと、上体を起こす。

 ヴァルヴァラが、いったん外していた拳銃の狙いを付け直す。

 不意に、BVがひと啼きした。黒板を爪で引っかいたような不快な音だったが、渚にははっきりと意味が伝わった。

『困っているのか?』


第九話をお届けします。おかげさまで本作のPVおよびユニークアクセスが、まだ中盤であるにもかかわらず前作「蝶の記憶」を上回りました。……ていうかバタメモどんだけ人気ないんだよ……。ということで読者の皆様、本作を御愛顧いただきましてありがとうございます。もし本作以外の高階作品を読んだことがない、という方がいらっしゃいましたら、他の長編にも眼を通していただければありがたいです。以上宣伝でした。では用語解説を。 E&E/Escape and Evasion 脱出および回避。敵地や競合地域において敵を回避しつつ脱出する行動 7.62×51/いわゆる7.62ミリNATO弾。51はケース(薬莢)の長さを表す デプレオー/ニコラ・ボアロー=デプレオー Nicolas Boileau-Despr&eacuteaux (1636−1711)フランスの詩人。幼少のみぎりに鶏に股間をつつかれ、不能になったという逸話がある

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