プロローグ
コロンベラ島 1943年
「早く入れ! 急げ!」
富岡軍曹は臨時に預かっている部下たちを急いで防空壕に押し込めた。自らは壕の入り口に陣取り、海軍の将校から鯖の缶詰八個と交換に譲ってもらった七倍の捜索用双眼鏡を取り出す。
……なんて数だ……。
レンズには、南洋特有のコバルトブルーの空を背景に、米軍の双発中型機群が映っていた。B25かB26だろう。ざっと見て、四十前後か。その周囲には、双胴形式が特徴的な双発小型機が飛び回っている。一見すると、米軍爆撃機に味方戦闘機が攻撃を仕掛けているように思えるが、これは単に高速のP38が鈍足の爆撃機に速度を合わせようと動いているだけだ。いわゆるバリカン機動である。
「どうやら、徹底的にここを潰す気らしいですな」
いつの間にか富岡の隣にしゃがみこんでいた古参の井上上等兵が、のんびりとした口調で言った。渋面で双眼鏡を下ろした富岡に、火を点けた『桜』を差し出す。
「残しちゃ勿体ないですわ、班長」
富岡は渋面のまま受け取って、口に咥えた。井上が、根元近くまで吸った自分の分を旨そうに吹かす。井上の言う通りだった。『桜』は戦地では手に入れにくい煙草であり、富岡ら下士官兵が吸う機会は少ない。この爆撃で命を落とす可能性がある以上、今のうちに吸っておくべきだ。
「皆にも吸わせてやれ」
富岡は顎で壕内を指した。防空壕といっても、お粗末なものである。浅く穴を掘り、椰子の幹を並べ、余った土砂を被せ、擬装用に雑草を植え付けただけのいわば応急掩蓋陣地に過ぎない。米軍機の至近弾を受ければ、ひとたまりもあるまい。
富岡らは八八式七センチ野戦高射砲六門、九八式高射機関砲二門を定数とする陸軍独立高射砲中隊の所属だった。海軍が飛行場を設営したこの島の防空能力向上のために派遣され、近くの丘の上に布陣したのが半年前のこと。当初は楽な勤務であった。敵と言えば思い出したように訪れる偵察任務を帯びた単機のB24程度で、たいてい緊急離陸した海軍の零式艦戦がすぐに追い払ってくれた。
情勢が急転したのはちょうど一週間前だった。突如襲来した二十機を越える米艦載機群が海軍飛行場を中心に銃爆撃を繰り返し、海軍在地機の大半を破壊した。独立高射砲中隊も応戦し、各分隊合わせて六機撃墜を報じたが……富岡はその数字を信用していなかった。今までの経験から、よほど幸運に恵まれないと八八式七高で敵機を落とすことはできないと確信していたからだ。
次の空襲は二日後だった。今度現われたのは陸軍機の戦爆連合十数機。主に狙われたのは、高射砲中隊であった。椰子林をかすめるほどの超低空で飛来したB25が、十三ミリ機銃を撃ちまくりながら遅延信管付きの爆弾を投下する。発砲で機首をぴかぴかと光らせたP38が、ゴム林に逃げ込んだ兵を執拗に追いまわす。米軍機が去った時には、全ての高射砲と高射機関砲が鉄屑と化していた。中隊長以下陸軍将校は全滅。中隊の下士官兵もその九割が死傷した。富岡が無傷で生き延びたのは奇跡に近かった。
富岡は煙草を吹かしながら丘の下の海軍飛行場を眺めた。もはや稼動機はないと聞いている。陸軍側も防空に使えそうな武器は九六式軽機一丁のみ。むろん、そんな豆鉄砲で米軍機に立ち向かうほど富岡は愚かではなかった。馬鹿げた無駄遣いをするよりは、米軍の上陸に備えて弾と人命を温存しておくほうが、よほど気が利いている。
「そろそろ入りましょうや」
吸い終わった『桜』を赤茶けた水溜りに落とした井上上等兵が、富岡の肘をつついた。轟々たる米軍機の爆音が、すでに小さな島を押しつぶさんばかりに響き渡っていた。
富岡と彼の部下……先日の攻撃で生き残った中隊員のうち数名を束ねた臨時分隊のひとつ……は狭い壕内で爆撃が終わるのを待った。投下される爆弾の軌道を意志の力で捻じ曲げようとするかのように、鬼気迫る形相で壕の天井を睨んでいる者。一心不乱に口の中で念仏を唱えている者。うつろな目で、時折揺れる壕の床を眺めている者。観念したのか、静かに瞑目している者……。井上上等兵は配給煙草の『八紘』をほぐしてはまた巻き直すことで時間を潰し、富岡は諦めに似た心境で腕組みし、壕の壁面の一点を見つめていた。
爆弾が炸裂するたびに、壕は揺さぶられた。音と振動から判断すると、主に狙われているのは海軍飛行場のようだった。もはや陸軍陣地は無力化したと、米軍は考えているのだろう。それでも、数回至近に投弾があり、そのたびに壕は激しく揺さぶられ、天井や壁から土くれが剥がれ落ち、壕内が土埃で満たされた。機銃掃射が壕を直撃した時は、さしもの井上上等兵も手にした煙草を落とし、富岡も慌てて身を縮めた。浅い角度で乱射された十三ミリだったらしく、天蓋を貫通することはなかったが、それでも弾が土を突き抜け椰子の幹に突き刺さる鈍い音は、全員の肝を冷やした。
米軍機が去ると、富岡は部下を引き連れ負傷者救護のために丘を駆け下りた。
飛行場は惨憺たるありさまだった。何棟もあった建物は土台を残すのみ。いたるところに、大小の弾孔が開いている。
「おーい、誰かいるか? 海軍さん!」
富岡は呼ばわった。だが、たなびく灰色の煙と立ち込めた硝煙の臭いの中から返事は聞こえてこなかった。
「……血の臭いがしませんぜ」
井上上等兵が、言う。
富岡は部下を散開させて、生存者の発見に努めた。だが、誰も生存者はおろか、死体すら発見できなかった。それどころか、まだ何機か残っていたはずの零式艦戦も消えていた。掩体とともに破壊されたかと考えて捜索してみたが、たとえ火災にあっても燃え残るはずの発動機の残骸すら見当たらなかった。
「なぜ、誰もいないんだ。どこ行っちまったんだ、海軍さんは」
富岡は首をひねった。
「爆撃でばらばらになっちまったのかな」
「馬鹿言え。それなら血溜まりがあるはずだ」
一人の二等兵が口にした意見を、井上が即座に否定する。
「稼働機がなかったんだから、空中退避したはずもないし……」
「海へ逃げたんじゃないですか?」
「まさか。浜にあった伝馬船一隻で、全員が逃げきれる訳はない」
「ゴム林へ逃げ込んだのだろう」
「それなら、もう戻ってきてもいいはずだが……」
富岡らは首をひねりつつ、捜索を打ち切った。
それから十日後、富岡ら陸軍の生き残りは沖合に現われた海防艦に収容され、飛行場は放棄された。その時点になっても、海軍将兵たちの行方は杳として知れなかった。富岡らはルソン島で二ヶ月間留め置かれ、その間に行方不明だった海軍将兵のうち将校の大半と下士官兵の一部が、かなり離れた小島で発見されたという噂を聞いた。おかしな話だった。浜に伝馬船は残されていたのに、どうやってその島に渡ったのだろうか? 残る将兵の行方は、依然として不明のままだった。
富岡らはその後内地へと戻され、そこで新編された三式十二センチ高射砲の部隊に配属され、後の本土防空戦に参加し、幸運なことに全員が生き残った。
プロローグをお届けします。お読みいただきありがとうございました。『女子高生なんて出てこないやんけ!』という突っ込みがあるといけませんので、第一話も同時投稿いたしました。ご挨拶はそちらの後書きに書かせていただきます。