Remember(三十と一夜の短篇第32回)
暗く葉のしげる森に合成音声がひびく。
「このまま道なりに いち 時間です」
変にとぎれた女声の言うまま、ひとりの旅びとが進んでいく。古びた旅装にくたびれた袋を背おい、色あせた頭巾をかぶった旅びとは、黙々と歩きつづける。
森のそとでは日が暮れはじめたのだろう。けれど、だんだんと暗さをましていく景色に構うことなく、その足どりは速くなりもせず、止まりもしない。
ざく、ざく、ざく、ざ。
一定のはやさで動いていた旅びとの足どりが調子を乱したのは、それから三十分ほど経ったころ。森のはずれにたどりついたときだった。
立ち並ぶ木が途切れたそのさきに広がるのは、あかね色に染まる大地。起伏のすくないなだらかな平野がいく筋も線状におおきくえぐれて、あかね色と濃い影がしま模様をえがいている。
「……ここも、荒れちゃってるねえ」
「地形の変動を確認しました 周辺五里を今後 いち年間 探索範囲外に設定します」
旅びとの声に反応して、合成音声が告げる。
それを気に留めるでもなく荒れた大地をながめていた旅びとは、ある一点で視線をとめた。目を見開くと、そのまま見つめながらふらふらと進みでる。そして、たどり着いた旅びとは足をとめ、それを見上げた。
それは、残骸だった。本来はひとの住居であったのだろう。折れた柱とそこにしがみつくように残った木片、そしてそのしたにいくらか残る石の土台が、かつてそこに建っていたであろう物の存在を知らせていた。
見る影もなく壊れはてた建物を見つめて、旅びとはいつかの記憶を呼び起こす。
荒れ野に残された柱に刻まれているちいさな傷。あのうちのひとつを刻んだのは、いつのことであっただろうか。
その日も旅びとは歩いていた。
旅びとが歩くのは旅びとが旅びとであるために必要なことで、彼の存在意義でもあったから、いつの日も旅びとは歩いていた。
平地も山も、森のなかでもどこでも、音声案内に言われるがまま歩くある日のこと。
暗い森を歩いている途中、旅びとは木のうろにちいさな影を見つけた。
「……そこで夜を越すの?」
旅びとが声をかけると、ちいさな影がびくりとふるえる。それから背中をぎゅっとまるめて、振り向きもしないまま声をあげた。
「そうだよ! おれ、もう帰らないんだからな! きょうからひとりで生きるんだから、ほっといてよっ」
声変わりまえのおさない声が拒絶を示すのを聞いて、旅びとはきょとりとまばたきをした。そして数秒の静寂をはさみ、告げられたことばの意味を理解すると、旅びとの顔に笑顔が浮かぶ。
「そうなの? きみも帰るところがないの? だったらおれといっしょだね」
喜色をかくす気もない旅びとの声に、子どもはようやくそこにいるのが思っている相手ではないことをさとったらしい。かたく拒絶を表していた背中をほどいて、振りあおいだ顔が見知らぬものであることに驚き、動きをとめる。
にっこりと笑って見おろす旅びとのまえで、子どもの見開かれたひとみがみるみる濡れていく。
「うっ、うえぇっ」
「あれ? 泣くの? なんで?」
あふれ出す涙と悲しみに濡れたおさない顔に、旅びとは首をかしげた。そして唯一の仲間にすがる。
「ねえナビ、どうしたらいいの。置いてってもいいもの? ナビなら対処法しってるでしょ?」
子どもの泣き声と困りぎみの旅びとの声が占める空間で呼ばれた合成音声は、たっぷりの沈黙をはさんでから音をたてた。
「…………道なりに 三十分 進むと 煙が登っています ひとの居住地があると思われます 子どもを連れて 行きましょう」
告げる声はいつもどおりの無機質な電子音声であったが、どこか呆れているような響きを感じる。けれど旅びとにそれを気にするひまはない。
大声で泣く子どもの肩をつかんで、木のうろから引きずり出すべく力を込める。
「ほら、このさきの村まで送ってあげるから。立って歩いてよ」
立派とはいえない体つきの旅びとがたいしたやる気もなくうながすと、子どもははげしく抵抗をはじめた。
「やだ、やだやだっ。帰らない! もうみんな、おれのこといらないんだ。だれもおれを探しに来ないんだもんっ」
「そう? ならいいか」
顔を真っ赤にして木のうろにしがみつく子どもに、旅びとはあっけなく手をはなす。
そのまま一歩さがった旅びとに、子どもは抵抗もわすれぽかんとくちをあけた。衝撃で涙は止まったらしい。
ねむたげな表情でぼんやり立つ旅びとと、ぼうぜんとした顔でそれを見あげる子ども。
両者のあいだに妙な間が落ちて、日の暮れはじめたうす暗い森のざわめきが、いやにひびく。
「…………迷子を見つけました 夜の森は危険です 子どもを連れて 保護者のもとまで送りましょう 一般的な社会のルールに従って 行動しましょう」
旅びとと子どもだけの空間に、合成音声の女声が告げた。
すがたの見えない第三者の声に、子どもがびくりと体をふるわせる。さきほど合成音声が話したときは、興奮していたためその声に気がつかなかったのだろう。
「だ、だれ?」
不安げな顔の子どもが、すがるように旅びとを見あげる。
「ナビだよ」
答えになっていない答えを返す旅びとに、子どもはすこし考えて質問をかさねる。
「……どこにいるの?」
「おれといっしょにいるよ」
ふざけるでもなく至ってふつうの調子で答える旅びとに、子どもはさらに考える。
「ナビは、にいちゃんの家族なの?」
「おれに家族はいないよ。帰るところもない。ナビは、おれの行く先を決めるナビだよ」
旅びとが答えるほどに、子どもは不可解なものを見る顔になっていく。旅びとは気にしたふうもなく、ぼんやりとそこに立っている。放っておけばそのままここで一夜を明かしてしまいそうな旅びとの様子を見ているうちに、子どもは肩に入っていた力がぬけた。
「……にいちゃん、変なひとだね」
「そうなの? ナビはそういうことは言わないから、わからないねえ」
あきれたように子どもが言っても、旅びとは怒るでもなく首をかしげる。
「ナビにきみを送るよう言われたんだけど、どうする?」
かしげた首をそのままにたずねる旅びとに、子どもはいよいよ眉を寄せて、変なものを見るような顔をした。
「……どうするって、そろそろ帰らなきゃ日が暮れちゃうだろ。にいちゃんも休むとこ探すのに、村に急がなきゃいけないでしょ?」
「そうなの? べつに森のなかで寝てもいいよ。ここでもいいし」
子どもが座るうろを指さして言う旅びとは、冗談を言っている様子ではない。どうして急ぐのか、と純粋な疑問を乗せたひとみに見つめられて、子どもは慌てて立ち上がった。
「だめだよ。夜は危ないから、森を出なきゃ。道が見えなくなるまえに、急ごう」
ちいさな手にうでを引かれ、旅びとはすなおに動きだす。ナビに言われていた方角に足を向けるが、その足どりは急いでいるようには見えない。
「家があるって大変だねえ。どこかに出かけるたび、そうやって日暮れを気にして戻らなくちゃいけないんだ。なんでみんな、テントを背負って歩かないのかなあ」
不思議でならない、というように首をひねる旅びとに手を引かれながら、子どもはおさない頭で精いっぱい考える。
「……だって、家に帰らないとひとりぼっちだろ。そんなのさみしいし、家族がいるところのほうが安心するし」
「ふーん。そんなものかあ」
いまいち反応のうすい旅びとに、子どもはさらにことばを探す。
「家族がいなくても、家に帰れば思い出があるだろ。いろんな楽しかった思い出、ぜんぶは持ち歩けないけど、思い出のつまった家に帰れば、また楽しかったことを思い出せるしさ。それに、帰ってこないひとがいると、待ってるほうは心配、するし……」
しりすぼみになる声とともに足どりが遅くなるこどもに、つないだ手がひっぱられて、旅びとが首をかしげる。うつむいたちいさな頭を気にせず進もうとするが、ぴんと伸びたうでがその足を止めさせた。
「急ぐんじゃなかったの?」
ふしぎそうに問う旅びとに、子どもは顔をあげないままだまっている。
旅びとが退屈にまかせてあたりを見回すと、生い茂る木の葉のすきまに見える空は、ずいぶんと明るさをなくしていた。このままここにテントを張ろうか、と考えるけれど、ナビからの指示を思い出して踏みとどまる。子どもを保護者のもとに届けなければいけない。
けれど歩こうとしない子どもに、どうしたものか、とぼんやり考えていた旅びとの手が、ちいさいけれど熱い手に強くにぎりしめられる。
「……もうおれのこと、待ってないかもしれない」
ちいさなつぶやきは旅びとには理解できない。
「待ってないの? 帰ってこないひとがいたら、心配するものじゃなかったの?」
ふしぎに思ってたずねる旅びとに、こどもはますます手に力をこめる。
「……ふつうは、そうだけど。でも、おれんち、いもうとが生まれたから。ぜんぶいもうとが一番で、なんでも自分でやりなさいって言うし、心配なんてしてくれないし。もうおれのこと、待ってないかもしれない。だれもさがしに来ないし……」
言いながら、湧きあがる悲しみに子どもの目から涙がこぼれる。足元に落ちるしずくをながめて、旅びとはことばをさがす。
「うーん。きみの家族が待ってるかどうか、おれにはわからないなあ」
ぼたぼたぼた。こぼれるしずくは雨のようだ。
「わからないから、行ってみよう」
「え?」
ぽたぽた。涙をこぼしながら、子どもが顔をあげる。旅びとは泣きぬれたその顔を気にもせず、続ける。
「おれが歩いてるのは、このさきの土地がどうなっているかわからないからなんだ。歩いて、見に行って、土地が荒れていたらナビの言うとおりにまた違うところに歩いていく。この地上に危険じゃなくてひとの住める場所を見つけるまで、それの繰り返し。だから、きみの家族がきみを待っているかどうか、行って、たしかめてみよう」
そこまで言った旅びとは、ほかに言うことはなかっただろうかとすこし考えた。けれどとくに思いつかなかったので、つないだままの手をにぎり返して、視線をまえに向けた。
「……にいちゃんは、さみしくないの」
ぴんと張っていたうでをゆるめながら、子どもがこぼす。旅びとがかるく引いてみると、ゆっくりとだが子どもの足がまえに進む。
「さみしいを知らないからなあ」
急かすでもなく、のんびりと足を運びながら旅びとが答える。その声にことば以上の意味は感じられず、子どもをとまどわせる。
「じゃあ、えっと……うちに帰ってみて、だれも待ってなかったら……どうする?」
「そしたら、おれといっしょに旅しよう」
とまどい、質問を変えた子どもに気を使うでもなく、旅びとはつないだ手をぶらぶらとさせながら答える。
「きみの家族が待ってないなら、おれと旅しよう。それで、ナビが教えてくれないことをおれに教えてよ。おれには家族も帰るところもないから、いつまでだってきみが一番だって言ってあげるよ」
旅びとのことばに子どもからの返事はなく、ふたりは真っ暗になった森をゆっくりと歩いていった。
結論から言えば、子どもの家では家族が必死になって彼のすがたを探していた。家族どころか、近隣住民まで総出で子どもを探しまわっていた。
旅びとに手を引かれて戻った子どもを見て、だれもが一様に喜んだ。そのあと喜びのあまり涙を流す者、うれしさを隠しきれない顔で子どもを叱る者とさまざまに別れた反応が、旅びとには興味深かかった。
しかし、その様子をゆっくり観察するひまはなかった。
「いもうとが生まれたから、もうこの子はいらない?」
予定どおりに確認した旅びとに、あたりは騒然となる。それから子どもの家族が代わる代わるに子どもを抱きしめ、謝罪と愛情を伝えることばを繰り返し、近隣住民まで交えていかに子どもを愛しているかということをくちぐちに語りだす。
あまりの騒ぎに「いらないなら、おれにちょうだい」という旅びとのことばは、出る幕をなくしたのだった。
崩れ落ちた建物を見つめ、旅びとがちいさくつぶやく。
「あのあと、なぜかすごく感謝されて、子どもにはなつかれたよね。いっしょにごはん食べたり、背くらべしたりして、楽しかったなあ」
思い出をたどって、旅びとはほほえむ。
「ナビも、あのときは時間をくれてありがとね。おかげでおれ、はじめて布団で寝られたけど、ナビって素直じゃないよねえ。地図情報の更新をはじめます、なんて言って三日もだまってるんだからさあ」
「……三回まわってワン と言ってください そこから 跳んで 土下座で着地 してください」
くすくす笑う旅びとに、告げるナビの声はいつになく冷たい。本来、温度など存在しないはずの合成音声の思わぬ冷たさに、おどろく旅びとの背へ声が投げかけられた。
「あんた、ここでなにしてる」
振り向いた旅びとは、そこにまぼろしを見た。
おさない子どものまぼろしだ。森で出会って、ことばを交わしていたときの不可解なものを見るような子どものあの目が、そこにあった。
その目を旅びとに向けているのは、少年期を抜けた年ごろの男。ちいさくおさない子どもとはちがう、旅びとよりもおおきなしっかりとした体を持つ若者だ。
それなのにその目もとやくちもと、すこしくせのある髪の毛が、旅びとにとおい記憶のなかの子どもを思い出させた。
返事もせずたたずむ旅びとに、若者が眉をひそめたとき。ふたりの間を風が吹き抜けて、旅びとの頭巾が背に落ちる。
夕焼けよりも赤い旅びとの髪を目にして、若者はじっとその色を見つめた。そして、すこし考えてから、ぽつりとこぼす。
「……あんた、道案内の妖精を連れた、旅びとのにいちゃんか?」
「え?」
きょとりとまばたきする旅びとに近寄り、上から下までまじまじと見つめた若者は、ひとりうなずき旅びとの背をたたく。
「じいさんから、赤毛のにいちゃんが来たらしっかりもてなすように言われてるんだ。すこし先にこのあたりの者が集まって暮らしてる広場があるから、ついて来てくれ」
言うなり、さっさと歩き出そうとする若者に、旅びとはあわてて声をかける。
「じ、じいさんって、この家に住んでた男の子? まだ生きてるの?」
「ああ、その子どもであってるはずだ。年齢不詳のあんたとちがって、じいさんは年取ってもう死んじまったけどな」
いっしゅん湧いた希望は、あっけなく砕かれる。旅びととひとの時間の流れは変わらないはずなのに、いつだって旅びとは置いていかれるばかりだ。しかし若者のことばには続きがあった。
「じいさんは死んじまったけど、そのいもうとは生きてる。それと、となりに住んでたじいさんの幼なじみがまだ生きてるよ。しわくちゃのばあさんだけど、ひとを捕まえちゃ変な赤毛の旅びとのにいちゃんの話を聞かせるんだ」
あんた、ちょっと話し相手になってやってくれよ。そう言った若者にうなずきかけて、旅びとはためらう。ナビの告げた今夜の目的地は、ここではない。言われるがまま歩くことが存在意義である旅びとは、若者についていくことができない。
「せっかくだけど……」
旅びとが断りのことばをくちにしようとしたとき。
「地図情報の更新をはじめます 更新に必要な期間は 三日 間です これで 音声案内を終了します」
合成音声の女声がそう告げて、静かになる。
旅びとはさがっていた口角をゆるゆると持ちあげて、若者のとなりに立ち歩きだす。
「ナビ、ありがと」
ちいさなつぶやきに応えはなかったけれど、旅びとはかまわなかった。
「妖精が許したなら三日間、泊まっていけ」と言う若者のことばにうなずいた旅びとは、かつて理解できなかった子どものことばが、いまならばなんとなくわかる気がした。