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土壇場  作者: 沖田秀仁
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隠密同心事件帖

 町方同心の次男・中村真之亮は「厄介者」として八丁堀の組屋敷で暮らすのを潔しとしないで家を出た。そしてその日のあることを見越していた手先の茂助は先代の病没と同時に中村家を暇乞いして、柳原土手の床店の沽券を手に入れて古手屋を開いていた。

 真之亮は茂助の店の用心棒として居つき、昼間は千葉道場に通っていた。その茂助の知恵を借りに界隈の岡っ引・弥平が解決の糸口すら掴めない奇怪な殺人事件を持ち込んだ。

土壇場

                                 沖田秀仁

 風に乗って切れ切れに太鼓が聞こえてくる。

 両国橋西広小路の芝居が跳ねた打出しの櫓太鼓だ。

西広小路から家路を辿る人々が切れ目なく夕暮れの土手道を行く。

日毎に温かさを増しているものの、陽が傾くと寒が忍び寄り背に貼りついてくる。

 両国橋西広小路は江戸随一の盛り場たが、元々は両国橋袂に設けられた火除地だ。その広小路に芝居や見世物などの小屋が掛かりると見物客が押し寄せ、屋台や飯屋や茶店や四ツ目屋などが立ち並んで連日祭りのように賑わった。

両国西広小路の西外れ、浅草御門から筋違御門までの神田川南河岸を柳原土手といった。元々は飢餓などによる難民救済のお救い小屋や御籾蔵などが建てられて、土手道には柳並木が植えられていた。江戸も時代が下ると御籾蔵などは移転し、その跡に神田川を背にして数百もの古手屋や道具屋などの床店が切れ目なく建った。ただ柳原土手も新シ橋辺りまで行くと人通りも疎らとなり床店も途切れる。西広小路に詰め掛ける見物客などの人出のお零れに預かって、結構な繁盛を見せるのもその辺りまでのようだ。新シ橋の更に西の柳森神社あたりまで来ると、人々は昼でも気味悪がって早足に通り過ぎるほどだった。

 だが柳原土手に建ち並ぶ床店が賑わうのも陽のある内だ。床店はそこに住まうことを禁じられているため、店の者は落日に追われるように店仕舞をして住処へ帰る。あたかも逢魔が時を恐れるかのように夜の帳が下りるころには土手道から人の姿は掻き消える。人っ子一人いないどころか辻斬りが出ないとも限らない寂しさだ。やや日脚が伸びたとはいえ、床店の者たちは日暮れと競うように店仕舞いに追われた。

柳原土手の床店か途切れる新シ橋から西広小路へ向かって五軒目に、色とりどりの古着を店先に所狭しと吊り下げた『丸新』があった。他の店では店の者が忙しく商品の仕舞や戸締りに働いているが、丸新の店先にはまだ店仕舞する者の姿がなかった。店先は留守だが泥棒がいたとしても決して丸新の店先から古着を盗もうとはしないだろう。なぜなら先刻尻端折りした御用聞きが下っ引を従えて店へ入ったからだ。

丸新の奥には他の床店にはない三畳ほどの切り落としの座敷がある。その座敷の上り框に行儀よく四つの雁首が並んでいた。向かって右から店主の茂助とその居候真之亮、それに界隈の岡っ引の弥平と下っ引の仙吉だ。

本来なら、岡っ引が古手屋へ顔を出すのは碌な用件ではない。盗品を売り捌いているのではないかと嫌疑を掛けられ、こってり絞られて袖の下を求められるのがオチだ。客も岡っ引が顔を出すと蜘蛛の子を散らすように店先から立ち去る。岡っ引に目をつけられた店で多少安く買ったところで、いかなる後難が降りかかりるか分からない。だから客はもちろん店主も敬遠するが、丸新の場合は少しばかり様子が違った。

茂助はつい二年ばかり前まで町方同心の手先を勤めていた。手先とは同心の下僕で俸給が三十俵二人扶持と定められているため、少なくとも二人は置くことになっている。手先の身分は町人だが八丁堀同心の家に住込み、同心が出掛ける時には必ずお供した。同心の共として奉行所にも出入りするため、出かける際は同心と同様に必ず羽織を着用した。懐に十手を差しているのは岡っ引と同じだが、羽織を着る分だけ手先の方が格上だと世間は見ていた。

弥平が丸新に顔を出したのは故売の詮索ではなく、茂助たちから知恵を借りるためだった。弥平の手に余る事件があったのは昨日の夕暮れ時だという。三十前の弥平のよく知る男が浅草待乳山聖天宮の境内で殺された。名を庄治といって浅草広小路の小料理屋で中居をしている女と元鳥越町の裏長屋で暮らしていた。

 事件の発端は元鳥越町の裏長屋の庄治の家に投げ込まれた文だ。昼下がりに近場の普請から帰っていた庄治の家に、路地から明かり障子を破って石に包まれた文が投げ込まれた。庄治は張り替えたばかりの障子に穴をあけられ、向かっ腹を立てて表へ飛び出てみたが誰もいなかったという。誰がこんな真似をしたのかと、庄治は往来に立ったまま握りしめていた文に目を落とした。文の内容は呼び出しだったが、人を誘うにしては文面が穏当とはいえなかった。

誰からも呼び出される心当たりのない庄治は相談に界隈の岡っ引弥平を自身番に訪れた。弥平は町廻りで疲れ上り框に腰を下ろしていたが、いきなり庄治がやってきたため何事が起こったのかと弥平は少しばかり身構えて庄治が差し出した文を見た。

金釘流の読み辛い文字を拾うと、文面は悪い冗談にしても少々剣呑だった。どんな野郎が庄治を呼び出したのか、と弥平は岡っ引の性分で確かめることにした。

初午から数日過ぎたばかりの肌寒い夕暮れに、弥平は用心深く庄治の後をつけていた。だが、いきなり庄治が石段を駆け上がったため、弥平はほんの僅か庄治を見失った。その間隙に惨劇が起きたというのだ。

「庄治は四年前にあっしがお縄にした盗人ですが、今ではすっかり悔悛してあっしの手下を勤めていました。それが昨日のこと投げ文があって『一晩限りの仕事を五十両で手伝わないか』と持ち掛ける者がいまして。暮れ六つに浅草寺本堂裏に呼び出されたンだがどうだろうかと、新旅籠町の自身番にいたあっしの許まで律儀にもわざわざ知らせて来たンでさ」

 辛そうに顔を歪めてそう言うと、弥平は真之亮と上り框の茂助を順に見廻した。

 弥平は感情を抑えるように手炙りに手を翳して、店に吊り下げられた古着に目を遣ってからゆっくりと話の接ぎ穂を紡ぐように口を開いた。長年の岡っ引稼業で日灼けがシミとなって顔に浮き出て、黒くくすんだ狸顔は泣き顔になっていた。

「盗人稼業から足を洗って、おけいとやり直そうとしていた矢先だったから、庄治は堅気の暮らしを邪魔する野郎は勘弁しねえと怒っていやした。あっしもどんな奴が庄治を呼び出したのか知りたくて、慎重に後をつけたと思って下せえ。陽が落ちて辺りは急に暗くなり、さしもの奥山も人影は疎らになっていやした」

 挑むような眼差しでそう語って、弥平は辛そうに顔を歪めた。

「ところがそこで待っていたのは餓鬼だったンでさ。年端も行かない子供が波銭の駄賃を貰って庄治が来るのを待っていた。庄治があたりを見回していると餓鬼が『おめえが庄治か』と聞いてきた。「おう、そうだ」と答えると、餓鬼は握りしめていた紙切れを渡した。庄治が急いで紙を開けて文字を拾うのを、あっしは離れたところで見ていやした。それには『すぐに聖天宮へ来い』とでも書かれていたのかと。庄治はあっしに目配せすると急いで待乳山まで駆けて行き、走る勢いそのままに参道を駆け上ったンでさ」そう言うと、弥平は辛そうに首を左右に振った。

 庄治は四年前にお縄になるまで鳶をしていた。普請場の高い丸太の足場の上を自在に動き巡り、その身軽さと向こう意気の強さから『山猫の庄』と呼ばれていた。身軽さは昔取った杵柄で長い石段を駆け上る三十前の庄治の足と、五十前の腹のせり出した弥平の足とでは足が違った。待乳山は七丈余りの小高い丘だが、庄治の後を追った弥平は石段の途中で息が切れて足が止まった。それでもやっとの思いで頂上の聖天宮境内へ行ってみると、夕暮れの境内の木蔭の暗がりで庄治は心ノ臓に匕首を突き立てられてすでに事切れていた。

弥平はまだ下手人が近くにいるものと思って、残照の消え残る明かりを頼り社の床下から周囲と見渡せる限り様子を窺った。しかしそれらしい人影はどこにもなく、間もなく残照も消えて闇に閉ざされていく聖天宮の境内には参詣人の姿すらなかった。

「境内や麓を調べたが怪しい人影どころか、人の気配すらなかったというわけか」

 話の続きを茂助が引き受けて、弥平に念を押した。

 弥平は「へい」と頷いて、さらに表情を暗くした。

「庄治を呼び出した投げ文ってのはどこにあるンだ。良かったら見せてくンな」

 茂助が手を差し出すと、弥平は力なく首を横に振った。待乳山で庄治の懐を改めたが、下手人からもらった文は消え失せていた、というのだ。

「途中で掏摸取られたのか、殺されてから奪われたのかねえンでさ。庄治が懐に入れてたのは間違いねえンですがね」と言うと、弥平は面目なさそうに項垂れた。

 待乳山を東へ一筋の獣道を辿ると山谷堀の船着場に出る。江戸市中から猪牙船でやって来た遊客が船から降りて、ナカまで日本堤を徒歩か駕籠で行くかの中継ぎ地だ。昨夜も客待ちの駕籠掻きや船頭たちやナカへ繰り出す遊客たちで賑わっていたはずだが、弥平が聞いて回ったところ別段怪しい者は誰も見掛けなかったという。

「四年前、庄治をお縄にしたのは弥平だったのか」

 茂助はぼそりと呟いて、肌寒くなったのか肩の間に首を竦めた。

 初午が過ぎたばかりで、僅かに暖かくなったとはいえ寒の戻りのある季節だった。

「真面目に三年の寄場送りを終えて、挨拶にきた庄治をわっしは町内の肝煎に頼んで、芝居小屋の書割りや裏方仕事に使って貰っていたンでさ。昔の悪党たちとはきっぱりと手を切って、恋女房のおけいにも喜ばれていたンだがな。顔を見知った界隈の悪党に妙な動きがあるとあっしに教えてくれたりしてたンで」

 そう呟くと、弥平はいよいよ表情を暗くして溜め息をついた。

 一度道を踏み外すとなかなか堅気の暮らしに戻れないものだ。世間もそういうものだという目で前科者を見ている。だから本人は足を洗ったつもりでも、いつしか悪仲間が纏わりついてきて簡単には手を切ってくれない。真っ正直に生きようと心に決めていてもつい誘いに乗って元の木阿弥と再び悪事に手を染めてしまうのだ。

 庄治が躓いた切欠は酒の上の出来事だった。鳶仲間と居酒屋へ行き、たまたま同席した人足が他愛ないことから口論を始めた。お互いの仕事自慢や男自慢から口論になるのはよくあることだ。いつもの他愛ない組自慢だと聞いていたら、口論が次第に熱を帯び、口喧嘩から罵り合いになった。ついには両方とも立ち上がって今にも殴り合いそうなほど殺気立った。そこで鳶小頭の庄治が男伊達に仲裁役を買って出た。

もちろん庄治に喧嘩をするつもりは微塵もなく、仲直りの手打ちをするつもりだった。が、庄治が両者の間に割って入るや、いきなり力自慢の人足に頬桁を張られた。

入り戸口まで二間ばかり殴り飛ばされると、何かの箍が外れた。酒の酔いも手伝ってたちまち喧嘩の血が沸騰し、庄治は戸口にあった心張り棒を手に立ち上がると、前後を忘れて殴った相手めがけて振り回した。弾みで人足の一人に腕の骨を折る大怪我を負わせ、一人の額を割ってしまった。人足の頭から血が噴き出ると庄治は正気を取り戻したが後の祭りだ。居酒屋を飛び出して姿を晦ますと、間深い仲になっていたおけいの家に身を潜めた。

相手が騒ぎ立てれば町方役人の手を煩わせる事態にもなりかねない。だがそこは鳶の親方が一肌脱いで人足頭と掛け合って丸く収めてくれた。しかし、それが元で庄治は鳶職をしくじり、破落戸とつるんで悪事を働くようになった。

 おけいは浅草広小路の小料理屋で仲居をしている女だった。石川島の寄場から帰った庄治が親方から許されて元の鳶に戻れたら所帯を持つと約束して、弥平の頼みで広小路の肝煎が心配してくれた見世物小屋や芝居小屋の裏方で下働きをしていた。

「悪事から足を洗い真っ当に生きようとする者を、誰が何のために殺めるのか」

 と静かな声で言って、真之亮は腕組みをして首を捻った。

 弥平の話では庄治は心ノ臓に匕首を叩き込まれていたが、腕や手に抵抗した痕跡の『庇い傷』はなかったという。それどころか弥平は近くにいたにもかかわらず、庄治が誰かと言い争う声も耳にしなかった。すると到底考えられないことだが、庄治は匕首を心ノ臓に突き立てられるその瞬間まで、木偶の棒のようにつっ立っていたことになる。五尺一寸余りと体躯は人並みだが、敏捷な身のこなしと腕力では誰にもひけを取らなかったはずだ。くだんの喧嘩でも大男の人足たちを相手に飛鳥のように立ち回ったと聞いている。

「近所へ使いに出していた仙吉が戻るのを待って、二人で後をつけていればこんなどじは踏まなかったンだ。おけいに合わせる顔がねえ」

 弥平は諦め顔にぼやきを何度か繰り返したが、茂助と真之亮は相槌も打たずに真剣な眼差しで考え込んだ。

 その真剣さに、弥平も釣り込まれるように口元に浮かべていた笑みを消した。

「親分、庄治が親しくしていた者の中で、恨みを呑んでいた者はいねえか」

 弥平の双眸を見詰めて、茂助が訊いた。

「茂助さん、庄治は寄場送りになった時に昔の悪仲間とは縁が切れていやしたぜ」

 弥平は庄治が心を入れ替えて、堅気者になろうと努めていたのを知っていた。

「悪仲間のことだけじゃねえ。たとえばだ、おけいを他の男が懸想していたとか」

 と、茂助は世間話でもするように聞いた。

茂助は下手人探索の手掛かりを得るために、考えられる様々な想定を並べてみた。しかしおけいに対する申し訳なさで意固地になっている弥平の気持ちを逆撫でしたようだ。庄治やおけいの身辺を丹念に調べるように勧めた茂助の気配りは弥平に通じなかった。弥平は忽ち口を尖らせると、髷根が崩れるほど大きく首を横に振った。

「小料理屋の仲居をしていやすがね、おけいは客に色目を使うような尻軽じゃねえ」

 取りつく島もなく、弥平は言下に否定した。

「それじゃ、誰が何のために庄治を殺したってンだ」

 怒ったように茂助が訊くと、弥平は口を閉ざして落ち込んだ。

 重苦しい空気が漂ったが、丸新の居候が口を開いた。

「少なくとも、下手人は庄治のことを良く知っていたはずだ。前科持ちで石川島の寄場にいたことから、今は何処で暮らし何をしているかと。だが、それだけじゃない。肝心なのは庄治も下手人を知っていたということだろう。息がかかるほど下手人が近寄って来ても、まさか匕首を心ノ臓に突き立てられ、殺されるとは露ほども疑わなかったってことだろうからな」

 真之亮がそう言うと、弥平は驚いたように目を剥いて「へい、確かに」と頷いた。

 さすがは八丁堀育ちだ。伊達じゃないと驚愕の色が浮いた。

「庄治が気を許す者とは、この界隈でいえば肝煎か弥平親分ということになるのか」

 と呟く真之亮の言葉に、弥平は「へえ」と曖昧に返答して考え込んだ。

「寄場から娑婆へ戻ったのが一年ばかり前。それから芝居小屋で働いていたが、親しくしていた奴が他にいたかどうか」

と真之亮を見詰めて、弥平は自信なさそうに首を傾げた。

 夕暮れ時の柳原土手の古手屋で茂助に愚痴を聞いてもらい、同時に事件の糸口でも掴めればとやって来たが、かえって岡っ引として考えの甘さを突かれて、弥平は下っ引の仙吉に力のない眼差しで振り返って「引き揚げるとするか」と声をかけた。

 しょんぼりと立ち去る弥平と仙吉の姿が家路を急ぐ人波の雑踏に紛れると、二人は地蔵様のように並んで座敷の上り框に腰を下ろして黙ったまま往来を眺めた。一間幅の上がり框に小柄でやや背の曲がり始めた茂助と、いかにも剣術達者な背筋の伸びた真之亮の後ろ姿が身じろぎもせずに並んで暮れなずむ表を眺めた。吊るした古着の間から見える夕暮れ時の往来の景色が珍しいわけではない、二人は腑に落ちない事件の謎と向き合っていた。 

丸新は間口二間に奥行き三間の粗末な板壁木皮葺きの小屋だが、丸新だけがそうなのではない。神田川を背にして柳原土手に並ぶ数十軒の古手屋や道具屋はすべて板囲いに板屋根の床店だ。しかも丸新以外の他の小屋は丸新よりもさらに小さかった。間口は同じ二間ばかりだが奥行きは半分程度だ。古手屋の屋号は『丸新』だが、それは茂助の心意気のあらわれだ。扱っている着物は紛れもなく古着だが、いずれも真っ新のまるで新品と変わりないとの意気込みからだ。

 茂助は考え込んでいたが諦めたように顔を上げると真之亮を横目に見た。

「真さん、庄治殺しの一件をどう思いやす」

 茂助に唐突に問われて、真之亮は「うむ」と戸惑ったように小さく頷いた。

 実のところ、真之亮も奇妙な事件だと首を捻っていたところだ。

本来、人殺しは下手人の目星がつきやすい。痴情怨恨に物取りといって怨みを晴らすとか物を盗み取るとかあるいは色恋沙汰とか、殺しという大それた事件を起こすには下手人にも誰にでも納得のいく理由があるものだ。しかし庄治の場合は殺されるほどの理由が見あたらない。二人はどちらからともなく顔を見合わせて首を捻った。

「ともかく良く分からぬ。庄治は懐に大枚の小判を持っていたわけでもなし、恋女房のおけいが間男をこさえたというのでもなさそうだ。殺された理由はともかくとして、そこへ行って確かめなければ分からないことだが、待乳山の頂きで待ち伏せていた下手人から浅草寺本堂の裏から聖天宮へ上って来る庄治が見えていたかどうか。つまり本堂裏で子供に文を言い付けて落ち合う場所を変えたのは、庄治を尾ける者がいないかどうか下手人が確かめるためだったのではないかと思えるが」

 真之亮が思いつくままに述べると、茂助は驚いたように目を剥いた。

「だとすると儂が思い描いていた下手人に対する考え方を改めなけりゃなりません。庄治に付馬がいるかどうか確かめたってことは、下手人が庄治のことを隅から隅まで知っていたわけじゃねえ。いや、庄治を殺したのは、弥平親分という付馬に庄治の口から持ち掛けた裏の仕事の一件が洩れるのを怖れてのことかも。いや待てよ、あるいは下手人の顔に特徴があって、広く世間に知れ渡っているためか。いやいや、それなら庄治が殺されなかったとしても、会った後で親分にしゃべれば同じことだな、」

 茂助は自問自答しつつ呟いていたが次第に声が小さくなり、ついに黙り込んだ。

「茂助、下手人の容貌に特徴のある黒子とか痣とかがあれば子供でも憶えているだろう。いずれにしても自身番でそれなりに子供から文を渡すよう頼んだ者の人相を聞き出して人相書を作っているはずだから後日弥平に頼んで見せてもらうとして、事件そのものを考えてみよう。まず、庄治に五十両もの大金を払う仕事とは何だろうか。夜盗が仲間を募っている、としたら数千両を盗むような大仕事だろうし、何処かの大店相手にしでかすつもりとしか考えられないが」

 茂助の疑問を引き受けてそう言うと、真之亮は表に目を遣ってから立ち上がった。

 軒先から差し込んでいた日脚が消えている。そろそろ店仕舞をする時分だ。

火事を出さないための用心に、柳原土手の床店は行灯を置かない決まりだ。そのため日暮れまでに店仕舞して古手屋は古着を柳行李に仕舞って近くの家へ持ち帰るが、茂助と真之亮は柳原土手の用心のために奥座敷に寝泊まりした。それが柳原土手の床店を差配する肝煎から頼まれた役目の一つだった。

いわば茂助は柳原土手の宿直の番人だ。闇に紛れて床店が破落戸に壊されたり火をつけられたりしないための用心棒だ。そうした役目があるため丸新は他の床店より奥行きが一間ばかり土手に張りだし、そこが切り落としの座敷になっている。手先をやめた茂助に肝煎が古手屋の沽券を安く世話してくれたのもそのためだった。

 茂助は南町同心中村清蔵の手先を三十余年も勤めてきた。二年ばかり前の冬、中村清蔵は凍えるような明け方に急な心ノ臓の病であっけなく亡くなった。町内の医師を呼ぶ間もなく、家人が見つけたときには布団の中で冷たくなっていた。

嫡男の中村清之介が跡を継いだのを汐に茂助は手先を辞めた。五十過ぎと年は取っていたがまだ足腰は衰えていなかったし、棒術や捕縛術などは若い者より確かなくらいで門前仲町界隈にたむろする破落戸たちも一目置いていた。中村清之介も茂助の腕を惜しんで五十で隠居とは早過ぎると翻意を促したが、茂助の決意は固かった。

 中村清之介が嫌いだったのではない。むしろ十四の齢で中村清之介が町奉行所へ見習奉公に上がると、茂助は古参の手先として役所の仕来りを細かく教えたりして、何くれとなく骨を折った。中村清之介の手先を勤めてもう一花咲かすのも悪くはないかと考えたりもしたが、中村清蔵にはもう一人の息子がいた。それが丸新に居候として棲みついている真之亮だった。真之亮は八丁堀の組屋敷で当主になった兄中村清之介の部屋住みとして暮らしていた。しかし中村清之介が半年前に嫁を娶ったのを機に家を出た。茂助はかねてからその日のあることを知っていた。

真之亮が家を出たのはもちろん兄嫁が気に入らないからではない。真之亮には家にとどまれないわけがあった。真之亮には惚れた娘がいた。真之亮が家にとどまり兄の部屋住みである限り、武家の定めで嫁を迎えることは適わない。生涯を独身で過ごし、厄介者として人生を送るしかない。万が一にも八丁堀同心から養子の話が持ち込まれ部屋住みでなくなったとしても、武士に町人の娘を嫁に迎えることは出来ない。

兄の祝言の翌朝未明に真之亮は八丁堀の組屋敷を後にした。家を出た当初の一月半は十年来通っている剣術道場の用人部屋で寝泊まりしていたが、茂助から誘われると古手屋に居を移して柳原土手の用心棒になった。

 日暮れて真之亮は店仕舞いに表へ出た。といっても古手屋に下ろす大戸があるわけでない。店の横壁に括り付けている四枚の板戸を表の鴨居と敷居の間に嵌め込んで猿落しの桟を落とせば終わりだ。三枚までを敷居に滑らせて、最後の一枚は敷居に滑らせておいて店の中に入ってから手探りで桟を落とす。板戸で戸締まりをすると店は窓一つない暗がりとなるが、そうする間にも茂助は店座敷の行灯に火を入れ手炙りの灰を穿って炭を足した。帳付けをするために茂助が文机を行灯の側に引き出すのを見て、真之亮は手炙りから立ち上がった。そして衣桁にかけてあった手拭いを手に取った。茂助が帳付をしている間に一膳飯屋へ行くついでに湯屋へ行くことにした。界隈の肝煎から柳原土手の番人を頼まれているため、二人揃って小屋を空けて柳原土手を離れるのは避けなければならなかった。

「済まないが、先に飯を食って湯に入らせてもらうよ」

 そう言うと、真之亮は手拭いを肩に担いで外へ出た。

 一膳飯屋は柳原土手を挟んで向かいの広大な郡代屋敷の右手、新シ橋寄りの神田富松町の裏筋にあった。屋号を神田屋といい、六坪ばかりの土間に大丸太を大鋸で縦に挽き割った二筋の飯台が並びその周りに空き樽が置かれていた。二十人も入れば肩が当たるほど狭いものだが、親爺と女房が板場で働き小女の二人が土間と板場を行き来した。一膳飯屋の食い物に乙な味を期待しないのと同じように、一膳飯屋の小女に愛想や色気を望むべくもないが客を待たせないのが何よりの取り柄だった。

 客は七分の入りで奥の空いている樽に腰を下ろすと、すぐに無愛想な小女が盆に飯を載せてきた。この辺りは小商いの表店が多く奉公人のほとんどが通いのため、一膳飯屋の客にはそうした仕事帰りのお店者が多かった。

 誰もが親の仇に出会ったような険しい眼差しをして、丼を抱えて飯を掻き込んでいる。真之亮も飯を掻き込んで腹を満たし、干し魚の身をほぐして口に放り込み赤出汁で呑み込んだ。競うように早く食い終えると銭を飯台に置いて一膳飯屋を出た。

 湯屋は通一筋隔てた隣町、豊島町一丁目の富士ノ湯へ行く。湯銭を一月分まとめて先払いすると通いの切手がもらえ、留桶といって自分の手桶を湯屋に置ける。そうすれば湯屋へ一日に何度でも入れるし、手拭い一本肩に担いで行けば良い。

 昔は湯屋の軒下に矢が突き刺さるように描かれた看板が吊り下げられ、「矢が入る」から客が入るの意に用いられていたようだが、江戸も時代の下ったこの時期そうした判じ物まがいの看板は姿を消していた。

肩で暖簾を分けて入ると真之亮は差料を番台に預けた。脱衣場に上って手際よく着物を脱ぎ洗い場へ行って石榴口を潜った。湯船に差し込む明かりは乏しく、もうもうと湯気が立ち込めるために暗い。烏の行水よろしく火傷しそうなほど熱い湯に浸かるとすぐに出た。浮世風呂などで描かれるように湯屋の二階がどこでも繁盛しているわけではない。ことに武家屋敷の多い町では寂しい限りだ。この界隈は武家割と町割が半々だった。古手屋へ戻ると茂助が湯屋へ行く支度をして待っていた。早い時刻に行かないと湯船に垢が浮いてドロドロになり、のんびりと入れた代物ではなくなる。

「先に行かせてもらったが、富士ノ湯は八分の入りで混んでいた」

 真之亮が声をかけると、茂助は帳面を畳んで立ち上がりさっと手拭を担いで「そうですか、それじゃ儂も早いとこ行かせてもらいやす」と言った。

 慌しく茂助が出掛けると、真之亮は四畳半の部屋へ上って大の字になった。昼間の雑踏が嘘のような静寂に、野良犬の遠吠えが寂しげに聞こえた。

真之亮は何かを振り切るように声を出して手足を大きく伸ばしたが、反対に心は小さく縮こまった。天下にたった一人置いてけぼりを食ったような寂寥感が身に沁みて気持ちが萎えた。真之亮は年が明けたため既に二十と五になっている。五尺五寸の体躯に漲る情熱を何処へ向ければ良いのか、と所在なく屋根底の天井を睨んだ。が、それほど嘆く必要もない。つい半月前のこと、南町のお奉行から役目を授かったため丸っきり浮き草の浪人者ではない。そのときのことを思い出すといまでも狐に摘まれたような心地がする。

 三ヶ月ばかり前のこと、お玉ヶ池の道場で代師範として門弟たちに稽古をつけていると櫺子窓から真之亮の様子を窺う鋭い視線があった。稽古を終えるのを待っていたかのように大師範に呼ばれ、奥の客部屋へ入ると先刻見た男が端座していた。

男は南町奉行遠山景元の側役だと名乗った。用件は真之亮を隠密同心に取り立てたい、という御奉行の意を受けてのものだった。突然降って湧いた話で何のことだか要領を得なかったが、ともかく真之亮は翌日に南町奉行所裏の役宅へ赴き、三十俵二人扶持の身分となり御役目を拝命した。青天の霹靂だったが、臆するものではない。いかに家を継がない次男とはいっても、そこは八丁堀組屋敷に暮らす男子だ。学塾へ通う傍ら心得として手先の茂助から十手術や棒術の手ほどきを受けた。十歳の春になると他の子供たちと同様に八丁堀の学塾へ入れられ、四書五経から一通りの武家の素養として必要な学問を学ばせてもらった。そして十二の春を迎えると学塾に通う傍ら、午後から神田お玉ヶ池の町道場へ通いはじめた。儒学が肌に合わなかったのか学塾は数年で勝手にやめてしまったが、その分だけ剣術修行に熱が入りお玉ヶ池の道場では頭角を現して代師範を勤めるまでになっていた。

剣術に打ち込んだのは剣術家を目指そうとしたからではなかった。ただ道場へ行くより他に身の置き場がなかったからだ。三つ年上の兄が十四の歳から見習い奉公で南町奉行所へ出仕すると、母も父も家人までも兄に掛り切りとなった。真之亮にとって家は居心地の悪いところになった。その真之亮にただ一人茂助だけが熱心に十手術や棒術から捕縛術まで教えてくれた。しかし他の使用人から茂助は何の必要があって次男の真之亮にそうしたことを教えるのかと白い目で見られたものだった。

二年前の冬、父が心ノ臓の病であっけなく他界すると中村の家は兄が継ぎ真之亮の立場は一変した。武家社会では長子による家督相続が厳格に守られ、個々人よりも家に眼目が置かれた。八丁堀同心でも武家の習いとして嫡男以外の男子は生涯を厄介者として兄の世話になる。人生のみならず人格のすべてまでも否定されたような立場は腹立たしかったが、武家の定めなら受け容れざるをえない。厄介者が厭なら家を出るしかなく、真之亮が中村家を後にしたのは出たくて出た生家ではなかった。

 何度目かの溜め息を吐くと、裏口が開いて茂助が帰った。

「やけに辛気臭い顔をして、どうかしなすったンで」

 茂助は声をかけて手拭いを衣桁に掛けると、ふたたび文机の帳面を開いた。

「無為徒食の居候だ。茂助には迷惑を掛けるな」

 勢いをつけて上体を起こすと、胡座をかいて真之亮は茂助に詫びた。

「そんなことを考えていらしたンですかい。真さんの一人や二人、気になさることはありやせん。この柳原土手の古手屋は小商いといっても、みんなそれぞれ立派に一家を支えているンですぜ。それに真さんは隠密同心として南町のお奉行から朱房の十手を下げ渡されているンだ。世間様に町方同心だと威張れないだけで、立派なお役目を授かっていなさる。そんなことより、弥平が気に病んでいた庄治のことですがね」

 硯箱から取り上げた筆を宙に浮かせて、茂助は首を傾げた。

「どう考えても解せねえンでさ。遺恨でもなく物盗りでもなく痴情でもねえ。すると庄治はどんな理由で殺されなきゃならなかったンですかね」

 眼差しに手先の光を甦らせて、茂助は真之亮を睨んだ。

「確かに、殺される明らかな理由が庄治にあって、曰く因縁のある者の影が身辺に差していたというのではなさそうだ。昔の悪が仲間に引き込もうとして不都合があって殺した、と考えるにしても下手人が庄治と会ってから殺すまで時間が短すぎる。碌に庄治の料簡も聞かないで、いきなり匕首を心ノ臓に突き立てたわけだからな」

 茂助の熱気に引き込まれるように、真之亮も声に力を篭めた。

「心ノ臓に匕首を突き立てて、そのまま下手人は逃げていやす。匕首を抜けば血飛沫が龍吐水のように吹き出て、下手人は返り血を浴びることになる。そこまで考えてのことだとすれば、下手人は相当に場馴れした殺し請け稼業ってことになりませんか」

 まだ何も分からない下手人に向かって、茂助は吐き捨てるように言った。

「茂助、理由は何であれ人を殺める者は悪党だ。ただ拙者が不審に思うのは、庄治が殺されるその瞬間まで、自分が殺されるとは露ほども思わなかったことだ。命を奪おうと襲っても相手に身構えられてはよほど腕が段違いでもない限り、たとえ相手が武術と無縁の藤四郎でさえ、匕首の一突きで仕留めるのは容易じゃないからな」

 そう言って、真之亮は浅く溜め息をついた。

 定廻同心なら岡っ引を指図したり手先を従えて町奉行所へ出入りして事件を探索したり事件綴に目を通すこともできる。しかし、隠密同心では遠山景元の下知で御奉行の手足として動くだけだ。事件探索に自分から表立って動く立場にない。

「弥平は庄治と夫婦約束したおけいという女に顔向けが出来ねえと愚痴っていたが、どうも事はそんなに単純なものじゃねえような気がしやす。まっ、儂の勘ですがね」

 長年勤め上げた手先の勘働きをみせて、茂助は眉間に深い皺を寄せた。

 捕物の勘が真之亮にもないわけではない。八丁堀同心の次男として歴代捕物を稼業とする家に生まれた。亡くなった父は本所改役定廻を長く勤め、その背中を見て育った。勘働きするというのか、慎之介の心にも不吉な予感が漠然と広がっていた。

 それはこの事件が庄治殺しだけでは終わらないのではないか、との漠とした予感だった。理由のない殺しには次も理由のない殺しが起きるのではないかという恐怖がつきまとう。慎之介の眼差しにその恐怖の色を読み取ったのか、茂助が一つ肯いた。

「頑是ない子供を使って庄治を浅草寺本堂裏に呼び出し、そこにも子供に文を持たせて待ち受けさせていた。今度は聖天宮へすぐに走って来いという。小判五十両を餌に庄治の五体を借り受けて、奴等は何を企んでいたンでしょうか」

 庄治を呼び出した下手人の本来の理由とは何か、と茂助は考えた。

「ふむ。分からないことばかりだな。ここは明朝にも待乳山まで足を運んでみるとするか」真之亮はそう呟いて、茂助が笑みを浮かべたのを見て口元を綻ばせた。

 亡父は手先や岡っ引に常々「骸に聞け、現場を見よ」と言っていた。下手人はその場で手を下したのだから、なんらかの手掛かりを残しているものだと。

 ことさら父のことを持ち出したわけではなかったが、真之亮が耳の奥底に父の声を聞いたように、茂助も往時に叩き込まれた捕物の心得を思い起こしたのだろう。茂助の肯きは恐らくそうした意味合いに違いなかった。

「血は争えねえや、さすがは八丁堀育ちですねえ」

 といかにも嬉しそうに言って、茂助は帳付けの筆を置いた。

「さあてと、夜鷹蕎麦でも手繰りに行きやすか。湯屋からの帰りに新シ橋の袂に屋台の角行灯が灯っていやしたぜ」そう言うと、茂助は綿入れの羽織に手を通した。

 夜の柳原土手は昼間の喧騒が嘘のように静まり返っていた。もっとも両国広小路も元来は火除地だから本建築は許されず、芝居小屋や見世物小屋も丸太の骨組に筵を掛けた程度の仮小屋だ。人が住まうとどうしても火を使うため、火除地から火事を出したのでは洒落にならないとして人が小屋で暮らすのを禁じた。ただ全くの無人にしては却って火付けや盗賊を呼び込まないとも限らないため、用心に必要な見張り役の寝泊まりのみを許した。そのため夜になると界隈から人影は消え去り、かすかに漂う人の気配は夜鷹とその客のものだけだった。

「親爺、夜鷹蕎麦を二杯くれろ」

 屋台の傍の七輪に屈み込んでいた親爺に茂助が元気に声を掛けた。

「へい、すぐに」と、四十過ぎの痩せた親爺が顔を上げて嗄れ声でこたえた。

 鍋から濛々と湯気が匂い立ち、それに引き寄せられるように夜鷹が二人ほど姿を現した。いずれも地味な藍江戸縞に身を包み、姉さん被りに手拭いの端を咥えている。

「姐さん方も儂たちと一緒に蕎麦を手繰るかい。そんなら親爺、つごう四ツだ」

 茂助は親爺に指を四本立てた右手を差し出した。

 手先を退いて茂助は変わった。本来なら夜鷹は御法度だ。気安く声を掛けて口を利くことなど、以前の茂助にはあり得ないことだ。真之亮の知る限り茂助は悪所に足も向けない堅物で通し、ついに所帯を持たないまま五十の坂を越えてしまった。

 しかし、古手屋の親爺になってから手先の重石が取れたのか、まるで別人のようになった。気軽に夜鷹たちに声を掛けたり、店先から往来の人込みから掏摸と見破って捕まえた者の世話を焼いたりする。尻端折りに羽織を着て十手を片手に法度破りは断じて許さなかった堅物の手先と、いま目の前で御法度破りの夜鷹と親しく話す砕けた古手屋の親爺とはあまりに違いすぎるが、いずれの茂助も真之亮には好ましかった。

 闇から角行灯の明かりに現れた夜鷹は三十過ぎの痩せた女と三十前の小柄な女だった。痩せた女が茂助と並んで縁台に腰を下ろして、不躾に茂助の顔を覗き込んだ。

「あら、お前さんはこのちょい先の、古手屋の旦那じゃないかえ」

 と、姉御肌の物言いで茂助に声をかけた。

「ほほう、儂を知っているか。確かに儂はこの柳原土手で古手屋をやってるが」

 嬉しそうに応えて、茂助は後ろに立つ真之亮を振り返った。

「儂らは床店に寝泊まりしている。何かあったら頼ると良いぜ」

 真之亮の顔色を窺ってから、茂助は女に力を貸すと言った。

 真之亮は驚いて目を見張った。元手先が御法度破りの夜鷹に肩入れしてどうするのか、との思いが走った。町方役人は夜鷹を取り締まり、お縄にすれば見せしめのために無期限無報酬で吉原に下げ渡す決まりだ。捕えられた夜鷹は生涯を苦界に身を沈めることになる。そうした御正道の埒外に生きる女たちを茂助は庇うというのだ。

「後ろの若い兄さんは鬢が面擦れしているけど、ヤットウの腕は確かなのかえ」

 女が問うと、茂助は誇らしそうに胸を張った。

「何処と名を明かすことは出来ねえが、憚りながら神田はお玉が池の世間にちったあ名の知られた町道場で代師範を勤めていなさる。辻斬りが出たら怪我をしないうちに逃げて来るがいいぜ」と得々として、茂助は夜鷹に話し掛けた。

「へええ、年は若いけど頼りになるじゃないか」

 驚いたように振り向くと、女は真之亮に流し目を送った。

 真之亮はどう返答したら良いか戸惑った。父の教えに従えば触らぬ神に祟りなしという。武家の学問として修めてきた儒学にも「君子危うきに近寄らず」、と夜鷹なぞとは関わりを持たないことと教えている。しかし、これほど生き生きと女たちと話す茂助を見たことがなかった。真之亮は黙ったまま、屋台の親爺から手渡された蕎麦を啜った。熱い出汁が五臓六腑に染み渡り、蕎麦の匂いが堪らなく懐かしかった。町衆の中に身を置き、町衆の中で暮らす。もはや八丁堀に戻ることはない。そうした感慨とともに蕎麦を手繰った。


 朝早く、真之亮は一人で出掛けた。

 柳原土手を浅草御門まで下り、御門を潜って神田川を渡った。

 大通を北へとり浅草御蔵を右手に見つつ片側町を足早に歩いた。駒形町を過ぎると床店の並ぶ仲見世通りへ入り、まだ見世開き前の人影の疎らな雷門を潜った。

 浅草寺の境内裏は寺の由来から奥山といい掛け小屋の見世物や寄席などがあった。朝早く出掛けたにもかかわらず、すでに小屋の者たちが興行の支度に集まっていた。

 真之亮は北新町の聖天社参道を登った。急斜面の石段を実際に歩いてみると、若さに任せて駆け登った庄治の足に腹の突き出た弥平が追い付けなかったのも頷けた。

 待乳山は七丈余りの小高い丘だが、眺望が開けて江戸市中が見渡せた。晴れた日には品川の海まで見えるというが、春霞なのか霞んで遠くまでは見渡せなかった。

 頂きの聖天社の周囲を廻ると、浅草寺の裏手から北新丁にかけて見通しが利き、本堂裏手からやって来る者は隠れようがない。あの夕刻、庄治が急ぎ駆けて来た姿もその後を尾けて来る弥平も、下手人からは裸の梢越しに手に取るように見えたはずだ。

 だが庄治に遅れて聖天宮へ登った弥平は下手人を見ていない。すると、下手人は参道を登って来る弥平とは別の道を逃げたことになる。参道の石段の他に下りる道があるのかと見廻すと、はたして聖天社の東角に山麓の新鳥越町一丁目に下りる一尺幅の獣道があった。それは途中から今戸橋袂山谷堀の船着場へ続く杣道と繋がっていた。

 山谷堀の船着場は専ら吉原へ通う遊客が利用することで知られていた。江戸市中から猪牙船で乗り付けた御大尽も山谷堀で下りて、日本堤を吉原へと駕籠に揺られて行くのだ。夕刻なら船着場は書き入れ時でさぞかし混み合っていただろう。待乳山の杣道を今戸橋袂に下りて来たのであれば誰かが見ていたはずだが、よほど派手な格好でもしていない限り山谷堀の人たちは気にも留めないだろう。しかし草履を泥で汚し着物に小枝を引っ掛けた下手人なら、通人を見馴れた船着場の者たちの記憶に残っているはずだ。杣道を下り来ると真之亮は今戸橋袂に店開きの支度をしている茶店を見つけた。そして着物の裾や袖に引っ掛けた小枝を払うと縁台に腰を下ろした。

「店はまだやってないンだよ。雑巾がけしたばかりの緋毛氈も敷いてない商売道具の縁台に、勝手に座られても困るンだけどさ」

 店の奥から真之亮に向けて若い女のつっけんどんな声が投げられた。

 驚いて立ち上がると真之亮は後ろを振り返りった。お仕着せの藍千本縞を着て店土間の縁台を雑巾がけしていた女の姿があった。齢に不似合いな厚化粧をしているが、頬のふっくらとした年の頃十四五と見えるどこか斜に構えた娘だった。

「聖天宮へ行って来たら喉が渇いた。なんなら水でも良いのだけどな」

 険しい眼差しを向けた娘に、真之亮は笑みを浮かべて見せた。

 すると板の間を拭いていた年嵩の小女が嘲りの笑みを浮かべた顔を上げた。

「茶店に来て水を呑ませてくれとからかうのはよしとくれ。かといってまだ釜に火が入っていないンだ、お茶の一杯も淹れられないよ。ご浪人は御苦労にも朝早くから聖天社様に縁結びの願懸けかえ」

――茶店に来て水を呑ませろという野暮な男に色事は無縁だろうけどね、との冷笑が女の顔に貼りついていた。

 雑巾を手桶の縁に置くと、塗り下駄を鳴らして店先に出て来た。十六、七の化粧前の浅黒い大造りな顔立ちをしていた。ただ目尻をつり上げ口元を歪めた顔付きには年増女の険があった。真之亮は臆すことなく笑みを浮かべて、のんびりと問い掛けた。

「一昨日の黄昏時に、そこの杣道を下りて来た男を見なかったかな」

 如才なく笑みを浮かべたまま、真之亮はやさしい物言いをした。

 しかし、娘は警戒の色を隠さずに真之亮を足の先から頭の先まで舐めるように見た。山谷堀の茶店で一休みして、取り巻きたちとナカへ繰り出すお大尽の派手な身形と比較されては真之亮に分はない。

「ここはナカへ遊びに出掛ける通人の立ち寄る船着場だ。裏勝りで着飾ったいろんなお大尽がやって来るのさ。わっちら茶店女は待乳山の木戸番じゃないンだ、誰が山からやって来るか見張っちゃいないンだよ」

 取りつく島もなく、女は真之亮を野良犬でも追っ払うように店先から追い立てた。

 しかし怒ってはいけない。およそ人は身形や顔かたちで判断する。浪人髷と呼ばれる月代を剃らない小振りな本多髷に、腰には差料の落し差しと素足に雪駄を履いている。とても主持ちの身分には見えない。しかも着る物に無頓着で、五尺五寸の身の丈に合う着物を茂助の商売物から適当に選んで着ている。真之亮はどう見てもただの若い貧乏素浪人だ。茶店の小女に軽くあしらわれても仕方ない。腹を立て肩を怒らして懐から朱房の十手を引き抜いて見せたところで野暮の上塗りというものだ。真之亮は曖昧に頭を下げて店先を離れた。

 待乳山から下りて来た下手人が普通の身形をしていれば誰の目を惹くこともなく、難なく夕暮れの船着場の人混みに紛れ込むことが出来るだろう。釘を隠すには釘箱の中という。田舎の寂しい土地なら余所者が来れば人の目を惹く。ここではそういうわけにはいかない。おそらく、下手人は人に警戒心を抱かせないような真っ当な格好をしていただろう。そうした思案をしつつ、真之亮は柳原土手へと戻った。

「真さん、浅草寺から聖天宮まで歩いてどうでした」

 裏口から座敷に上ると、店土間から茂助が声を掛けてきた。

「別にこれといった収穫はなかったが、下手人は若く身軽な男だろう。そうでなけりゃ、日暮れた杣道を下りるのは困難だ。茂助が推察した通り、庄治と顔を突き合わせた時には下手人は殺害を心に決めていたはずだ。しかも、前もって弥平が後をつけているのを承知して、事前に逃げる手立てまで考えていたのだろう。待乳山の杣道は山谷堀の船着場に出る。遊客か所の者でなければ怪しまれるはずだが、誰も覚えていないようだ」そう言うと、手炙りの鉄瓶を取って真之亮は急須に湯を注いだ。

 先刻の茶店で水の一杯も飲ませてもらえなかった渇きがあった。切り落としの座敷に顔を出した茂助に「飲むかい」と目顔で問い掛けて、真之亮は畳の盆に湯飲みを二つ置いた。

「庄治を殺る決意を固めていたってことは、下手人は庄治の後を弥平がつけてると初っから知ってたってことですかね」

 上り框までやって来ると、茂助はそこに腰を下ろした。

「いや、そうじゃないだろう。庄治をつける者がいたとしても良いように、だろうよ。待乳山に登ってみて分かったが頂上の本堂裏から一帯が素通しに見渡せる。夕暮れの暗がりが気になるが、いかに慎重に弥平が庄治の後をつけたとしても、聖天宮から見下ろす下手人には丸見えだったろうぜ」

 そう言って、湯飲みを乗せた盆を茂助の横に置いた。

茂助は小さく頭を下げて、心に湧いた問いを投げかけた。

「それじゃ、弥平が後をつけていたから庄治は殺された、と」

――そういうことなンですね、と念押しするように聞いた。

「おそらく、そうだろう。庄治に岡っ引の付馬がついていたから始末したのだろう」

 真之亮がそう言うと、茂助は驚いたように顔を上げた。

 下手人は庄治の後を岡っ引がつけているのを知って殺した、ということは庄治に頼もうとした五十両の代価を払う仕事がどんなものかも想像がつくというものだ。

「下手人は悪事に庄治の腕を五十両で借りようとしたが、庄治が岡っ引の手下だと分かって殺したと、真さんはそう言いなさるンですね」

 手にした湯飲みを宙に浮かせたまま、茂助は目を見張った。

 悪事に引き込もうとした庄治を殺してしまったからには、下手人は代りの者を探さなければならないだろう。多分、一味には身軽な男が必要なのだ。

「いったい下手人は何を仕出かそうとしてるンですかね」

 庄治殺しの向こうに透けてみえる闇に、茂助は呟きを洩らした。

 真之亮や茂助に江戸の町に姿を隠して潜む下手人を探す手立てはない。姿をあらわすまで手を拱いて待つしかない。真之亮はゆっくりと茶を啜り、町道場へ出掛けた。

 その日の夕刻、丸新に帰ると奥座敷の上り框に弥平と下っ引の仙吉が座っていた。

「どうした、親分と仙吉二人とも揃って浮かない顔をして」

 と、店先から真之亮は揶揄するように声を掛けた。

「へい、今度は昌平橋袂の又蔵親分が使っていた手下が殺されちまったンでさ」

 首をうなだれたまま、弥平は視線だけを上げて真之亮を見た。

「なんだと、いつ何処で殺されたンだ」

 真之亮は弥平の隣に腰を下ろすと、土間の茂助の顔を見上げた。

 今朝話したばかりの悪い筋書きが脳裏に甦ったのか、茂助は顔を暗くした。

「照降町は下駄新道の下駄職人で半次って野郎なンですがね、仕事道具の鑿を巧みに使って音も立てずに雨戸を器用に外す技を持っていやした。五年前に夜烏の寅蔵の三下に加わって呉服町の伊勢屋に押し入ろうとして又蔵に捕まり、石川島の寄場で三年半ほど厄介になっていた男でさ。寄場帰りじゃ親方の細工場には戻れず、又蔵が身元引請人となって下駄新道の長屋で細々と下駄作りの手間仕事をしていやしたが」

 殺された半次について、弥平は独り言のように語った。

「それで、半次は何処で殺られたンだ」と、茂助が急かすように言った。

「いつものように裏長屋で下駄を作っていたら、間もなく暮れ六ツかという時分に近所の年端も行かねえ子供が文を持って来たと思って下せえ。開けてみると『一晩五十両の仕事がある。稼ぎたければ暮れ六つに神田明神の境内に一人で来い。厭なら来ないのがその返事だ』と書いてあった。半次はさっそくその文を持って又蔵の家へ駆け付けた。又蔵はあっしから庄治の一件を聞いていたので、間を十分に空けて下っ引と二人で半次の後をつけて行った。神田明神の境内入り小口の鳥居の前に近所の子供が立っていて、「おじちゃんは半次か」って聞かれて「そうだ」とこたえたようだ。すると、子供は半次に紙切れを渡した。半次はその紙切れを読むと駄賃と一緒に文を子供に渡して「後から来る岡っ引のおじちゃんに渡してくれ」と言って駆け出したそうだ。その文を又蔵が手にできるように前もって半次と打ち合わせてあったンだ。半次が立ち去ってから又蔵たちが子供から紙切れを受け取ってみると、『湯島天神へ駆けて来い』と書かれていた」

 そこまで言って弥平は言葉を切り、真之亮が差し出した湯飲みで喉を湿らせた。

「知っての通り、湯島天神は小高い丘にあるが参道の坂道は表と裏に二つ、男坂と女坂がありやす。又蔵は男坂から下っ引は女坂へと廻って二手に分かれて坂を登ったンでさ。手口からして庄治を殺った下手人と同じですから、逃すものかと必死の形相で坂を登った。登りきった茶店の前で下っ引と鉢合わせになったが、夕闇迫る天神様の境内に人の影はなかったというンでさ。しかも庄治と同じで、半次も湯島天神の鳥居の前で匕首を心ノ臓に突き立てられたまま、事切れていたっていうことでさ」

 弥平は首を折ってうなだれ、浅く溜め息をついた。

 話では手口は庄治の時と同じだ。茂助と真之亮は顔を見合わせて頷きあった。

「又蔵親分は下っ引と二人で暮れた境内を隈なく探したが、ついに怪しい者は見つけられなかったって、ということなのか」

話の先を急かせるように、手先の眼差しで茂助が訊いた。

「もちろんでさ。それこそ隠れんぼした餓鬼のように、二人が手分けして日の暮れた回廊の床下から社の裏まで、あますところなく探して廻ったが、参詣人はもちろんのこと怪しい人影もなかったということで」

 見つけられなくて当然だ、という顔をして弥平はこたえた。

 昼間であれば湯島天神は相当な賑わいを見せ、参道下や男坂の上にも茶店が出るほどだ。近頃では見晴らしが良いため参詣人ばかりか文人墨客までも足を運ぶ名所だが、日暮れとともに茶店は戸締まりをして無人となり境内から人影も消える。

「いや、今度は庄治の場合とは少しばかり異なるな。湯島天神の境内で下手人が待ち伏せていたとしても、遠く神田明神の鳥居までは見通せないはずだ。又蔵たちは十分に間を取って半次の後をつけた。しかも暮れ六ツをとおに過ぎている。だが、それでも半次は匕首で殺された。ということは半次の後をつける者がいる、と誰かが湯島天神の下手人に知らせたことになる」

 座敷に胡座を掻いていた真之亮が呟きを洩らした。

 その言葉を聞き咎めたように、弥平が首を後ろに捻じ曲げた。

「なんですかい、真さんたちは庄治や半次が殺されたのはあっしら岡っ引がつけていたからだと言いなさるンで。下手人は初っから殺す気でいたンじゃねえンですかい」

 気分を害したように、弥平は眉間に皺を寄せた。

 弥平がそう思いたい気持ちは痛いほど分かる。自分がつけていたために庄治が殺されたとあってはさぞかし寝覚めが悪いだろう。しかし最初っから殺すつもりだったら場所を変える必要はない。呼び出した場所で匕首を心ノ臓に叩き込めば済むことだ。

「庄治の件も半次の件も、非番月を盾にとって南町奉行所じゃ本腰を入れてくれねえンでさ。町方下役人に命じて聞き込みや探索に走らせないばかりか、旦那はあっしに他の用件を言い付ける始末で。所詮、庄治も半次も道を踏み外した半端者で、殺されたところで厄介の種が一つ減ったぐらいにしか思っちゃいねえのさ。貝原の旦那にしたところで……」と言いかけて、弥平はいきなり口を噤んだ。

 弥平が口を貝のように閉じたのにはわけがある。南町奉行所定廻同心貝原忠介の家と中村真之亮の家は生垣一筋隔てた隣同士だ。与力や同心は八丁堀の組屋敷に何代にもわたって暮らし、八丁堀の中で親戚よりも濃い付き合いをしている。中村真之介と貝原忠介とは一回りも歳が違っているが、真之介は幼い頃から枝折戸を自在に通って隣家へ我が家同然に出入りして、齢の離れた兄弟のようにして育った。

「貝原の旦那が乗り気でねえのなら、岡っ引にゃどうしようもねえな」

 弥平に同情したのか、茂助はくぐもった声をかけて腕を組んだ。

「前科者が半端者だっていわれりゃ、あっしも呉服屋の小僧をしくじった半端者でさ。又蔵もいまじゃ親分と呼ばれていますが、元を正せば染物職をしくじった破落戸だ。ですから半端者が世間の片隅でまっとうに生きてゆく辛さは痛いほど良く分かるンでさ」と独りごちて、弥平は哀れなほど肩を落とした。

 町方役人は不浄役人といわれている。百石以上の幕臣は将軍に拝謁できるお目見えだが、与力は二百石の身分にも拘らず不浄役人ゆえにお目見えを許されない。岡っ引も世間ではげじげじほどに嫌われ、借家への屋移りを大家に断られることもあった。

 真之介が八丁堀に住んでいた頃にはそれほどと思わなかったが、市井に暮らしてみて町方役人に注がれる視線に厳しいものがあるのを知った。

「又蔵に手札を渡したのは貝原の旦那ではないな」

 岡っ引は手札を与えられた定廻同心の組屋敷に日に一度は顔を出す。昔から弥平は貝原の家に姿を見せ真之亮も見知っていたが、又臓という岡っ引は知らなかった。

「へい、同じ南町奉行所同心ですが、又蔵の旦那は荒垣様でさ」

 茂助の問い掛けに、弥平は怪訝そうに応えた。

 荒垣は名を伝之助といい南町奉行所定廻同心の中でもなうての頑固者で通っていた。歳は五十過ぎと茂助と余り変わらないはずだ。見習奉公も含めると奉行所勤めは四十年近くになる古参の定廻だ。ただ定廻に昇進したのは貝原忠介が二十代半ばと早かったのと対照的に、荒垣伝之助の場合は十年ほど前の四十過ぎと遅い昇進だった。それも頑固な性格が災いしたのだろう。

 ひとしきり愚痴を並べて弥平と仙吉が帰ると、茂助が上り框に腰を下ろした。

「そういえば神田明神も小高い丘の上にありやすね。たしか七丈余の高さで江戸城下の総鎮守として広大な境内を持っている。一の鳥居に子供を待たせていれば半次も、その後から来た又蔵たちも境内の何処からでも見通すことができる、そうでしょう」

 茂助は座敷で手炙りを抱え込んでいる真之亮に問い掛けた。

 茂助と真之亮は誰かが前科者を悪事を働くために集めている、との思いは一致している。身軽な庄治を一味に加えることができなかったため、代りに雨戸破りの半次を誘ったとは思えなかった。他にも様々な前科者に声を誘っているのではないかと推察した。

「茂助の考えた通りだとして、どうやって遠く離れた湯島天神の境内まで又蔵たちが尾けていると知らせたンだ。半次に手を下した下手人は湯島天神で待ち伏せていたンだぜ」真之亮は空になった湯飲み茶碗を両手で包み込むようにして俯いた。

「そいつは儂にも分からねえですがね、いずれの場合もいったん別の目立つ所に、それも見通しの良い所に呼び出してから他の見晴らしの良い場所へ変えていやす。気になりやすのは、庄治も半次も同じように前非を悔いて岡っ引の手下になっていたことでさ」険しい手先の眼差しをして、茂助は真之亮を見詰めた。

「善行を積んでる者が良い人生を送れるとは限るまい。かえって人の嫉みを買うことだってある。ちょっと待てよ、下手人はそのことを確かめていたのかも知れないぜ」

 両手で弄んでいた湯飲みを盆に戻して、真之亮は眉根を寄せた。

「なるほど。夜働きのために腕の立つ前科者を集めても、その中に岡っ引の手下がいてはまずい。つまり、そういうことですか。岡っ引の手下になっている者を仲間に引き入れちゃ自分で自分の首を絞めることになると」

 茂助も飲み終えた湯のみを盆に戻して、真之亮に視線を遣った。

「明日は午前中で代稽古を切り上げさせてもらって、神田明神から湯島天神まで歩き、そのついでに八丁堀へ貝原殿の顔でも見に行くとするか」

 背筋を伸ばすと、真之亮は吹っ切れたような声を上げた。

 すると茂助も頬に笑みを浮かべて「へえ、八丁堀で用事があるのは貝原の旦那だけですかい」と揶揄するように問うて、他に寄る所があるのではないかと謎をかけた。

「なぜだね。兄上や母上と会うと何かと面倒だから、家には寄らないつもりだが」

 そうこたえて、真之亮は茂助から目を逸らした。

「いや、そうじゃねえでしょう。お良さんと逢って、この近くに家を借りる算段をしなきゃならねえでしょうが。いつまでも先延ばしにはできねえンですぜ」

 煮え切らない真之亮を責めるように、茂助は詰め寄った。

――悠長に構えている暇はねえんですぜ、と茂助の強い口調が叱っていた。

 確かに茂助の言うとおりだ。娘が年を取るのは男よりも早く、悠長に構えている暇はない。それを指摘されると真之亮は頭を下げるしかなかった。

 お良は八丁堀組屋敷の南端に寄り添うように貼りついた細長い町割、東南茅場町の町医者了庵の娘だ。歳は二十歳を過ぎて既に年増になっているが、父を助けて薬箱を手に提げて白い上っ張りを着て父の供をして組屋敷に出入りしている。しかし、いつまでもそうしていられない理由があった。それは兄の哲玄が長崎遊学から七年振りに帰って来るのだ。

 兄が帰ってくるだけではお良とは無関係だが、ただ哲玄は江戸に帰ると日本橋通の薬種問屋泰正堂の末娘お千賀と所帯を持つことになっている。そもそも、哲玄が長崎へ遊学するに際して学資を用立てたのは泰正堂だった。二人の婚姻は了庵と泰正堂の主人源右衛門が決めたことだが、長崎遊学から帰府すると哲玄とお千賀は所帯を持って、東南茅場町の家で蘭方医院を開業することになっている。

 当初長崎への医学修行は三年と期限を切って出立した。が、直後に蘭学嫌いの鳥井耀蔵が南町奉行に就任するとあからさまに蘭学弾圧を始めた。やむなくずるずると帰府を延ばしたが、番社の獄により何人もの高名な蘭学者が捕縛された。哲玄も通っていた江戸でも高名な蘭学塾の師匠伊東玄朴ですら幕府医学学問所教授を解任されて蟄居を命じられた。蘭方医は看板を下ろして医院を閉め蘭学者は鳴りをひそめて逼塞して、時代の嵐が通り過ぎるのを亀のように首を縮めて待つしかなかった。

 そうした時節に蘭学医の哲玄が江戸に戻るのは危険だとして、三年の予定を一年また一年と延ばしているうちに七年もたってしまった。それが去年、鳥井耀蔵が失脚し今年になって丸亀藩御預と決まると、江戸に吹き荒れていたさしもの蘭学弾圧の嵐も過ぎ去った。

しかし歳月は人を待たない。その間にもお千賀も年増といわれる二十歳を三年も過ぎてしまった。泰正堂にとってはもはや悠長に構えているわけにはいかない。哲玄はすでに江戸へ向かって東海道を下り掛川の宿場に着いたとの報せがあったという。

 茂助の苛立ちは尤もだ。真之亮は白い灰の下に覗く赤い炭火を見詰めて、深く溜め息をついた。哲玄が戻れば日を措かずして泰正堂のお千賀を娶り東南茅場町の家で暮らすことになり、狭い家にお良の身の置き場はなくなる。

真之亮は八丁堀の家を出る折にお良と二世を契った。いつまでも待たせておくことは出来ない。真之亮は茂助の怒ったような横顔を見て「そうだな」と力なく呟いた。

「ここは是非ともお良と逢って話さなければはらないだろう、が、」

 と、重い気持ちを引き摺るように、真之亮の物言いは歯切れが悪かった。

「ええい、じれったいな。好いた女と所帯を持つのに、すべてが整うまで先延ばししてたンじゃ、真さんもお良さんも白髪頭の年寄になっちまいやすぜ、儂みてえな」

 茂助はそう言って、店先から声をかける女客に「へい、ただいますぐに、参ります」と声を張り上げた。

 初午を過ぎて、もうじき方々に雛市の立つ時節になっている。

季節の変わり目は古手屋の書き入れ時だ。間口二間の同じような数十軒もの古手屋の建ち並ぶ柳原土手は古着を求める客でひきも切らない。糸を糸車で紡ぎ機織機で布を人の手で織る時代、反物は貴重品だった。たとえ一切れの古布でも継当てに使って粗末にしなかったし、江戸随一の呉服屋駿河町三井越後屋でさえ、反物を断ち切った残りの端切れを売っていた。大店の旦那か番頭でもない限り着物を新調することはなく、江戸の町人は古手屋を重宝したし、それは武家でも変わりなかった。大名か大身の旗本でもない限り武家の妻女も柳原土手の古手屋の店先で古手を買い求めた。

「ちゃんと言うンですぜ、茂助は古手屋を真さんに譲るつもりで丸新の用心棒に雇ったと。ナニ、万が一にも御用をしくじったって、倹しく暮らす分にゃ不自由はありやせん。この界隈の古手屋は商売の上りだけでちゃんと所帯を養ってるンですぜ」

 そう言って、茂助は余計なことを口にしたと首を竦めて店先へ急いだ。

 真之亮が隠密同心の御用を賜っているのは極秘だ。そのことはお良にすら教えていない。もちろん母や兄にも隠しているし、今後とも隠し通さなければならない。

 ただ拝命した隠密同心は町奉行所の三廻りの一つの隠密廻りとは異なり、町奉行所の御役目ではない。いわば遠山景元直属の家臣とでもいうべき立場でしかなかった。

 与力や同心は一代抱席といいながら実は世襲で、実質的に身柄は奉行所に属す。その一方、御奉行は千石以上の旗本が命じられて就任した。任期は長くても十年、短ければ数ヶ月で罷免される。遠山景元の前任者鳥井耀蔵は老中首座水野忠邦の改革に与し、奢侈禁止令を発して苛酷な締め付けを断行した。厳罰を以って臨んだが、強権は強権さゆえに腐敗する。たとえ老中が清廉潔白でも政令は町奉行所へ通達され、直接権力を行使する者の手に移る。南町奉行所与力や同心は老中の考えとは関わりなく、直属上司の鳥井奉行の手足となって働く。熾烈を極める下命に従って与力や同心が町衆を厳しく取り締まると、彼らは箍が外れたように袖の下を要求しだした。

 失脚によって老中や奉行は代わっても、実務を取り仕切る与力や同心は代わらない。町奉行所の与力や同心はそのまま役所に残り与力や同心であり続ける。新任奉行の意向が町奉行所の隅々まで掌を返したように行き渡るものではない。その弊害を取り除くために歴代奉行は直属の隠密同心を用いた。真之亮の身分は他の同心と同じく三十俵二人扶持だが、一代限りで組屋敷はなく、市井に暮らして十日に一度の割で数寄屋橋御門内南町奉行所裏手の役宅に顔を出して復命するのが役目だ。

「弁慶橋袂の松枝町の借家だが、広すぎはしないか」

ためらうように、真之亮は言葉を濁した。

「何言ってるンですか。肝煎に頼んで探してもらったンですぜ。夫婦はいつまでも二人っきりじゃねえだろうし、奉公人だって置かなけりゃならないでしょうよ」

 店先で客の相手していた茂助が急に振り返った。

 真之亮は奉公人のことよりも茂助のことが気掛かりだった。茂助は柳原土手の古手屋株を手に入れる折り、肝煎と柳原土手の用心のため丸新に宿直を置くと約束していた。お良と所帯を持って松枝町に新居を構えると、丸新は茂助一人になってしまう。不用心なことこの上ない。

「茂助、半年ばかり丸新で寝泊まりしているうちに、拙者はここがすっかり気に入った。そこで、拙者が丸新に寝泊まりして、茂助が松枝町へ移るってのはどうだろう」

 存外に真面目な顔をして、真之亮は茂助に言った。

「冗談じゃねえですぜ、新妻のお良さんとわしが松枝町に泊まるだなんて。それに真さんは隠密とはいえお庭番ではなく同心だ。立場ってものをわきまえてくれなきゃ」

 子供に分別を説くように、茂助は口を尖らせた。

「それなら、土手道を挟んですぐ向かいの神田富松町の長屋で良いンじゃないか」

 真之亮は控えめな物言いで茂助に同意を求めた。

「儂を心配して下さる真さんの気持ちは嬉しいが、神田富松町は裏長屋しか空いてねえンでさ。いくらなンでも割長屋じゃお役目が充分に果たせねえ。真さんは自分たちだけのことを考えちゃいけねえンでさ、同心は町衆のために働くンですぜ」

 真之亮に意見する代りに、茂助は役目に就く心掛けを語った。

 町方役人の心得に関しては手先を三十年から勤め上げた筋金入りの茂助には敵わない。茂助の意図に従わざるをえないものと真之亮は観念したが、それでもやっとのことで茂助の言葉尻をつかまえて顔を綻ばせた。

「先刻、茂助は奉公人を置くと言わなかったか」と、真之亮は茂助に聞いた。

「へい、確かに言いやした。奉公人といってもまずは手先ですが、儂に当てがありやす。真さんも知っている銀公の野郎を使ってやっちゃもらえやせんか。何しろ元掏摸だから身が軽く手先は器用で勘働きも鋭い。肝煎に頼んで香具師の真似事をさせてもらっていやすがね、銀公の器量からすりゃあ広小路で屋台の啖呵売をさせるのは勿体無いンでさ」そう言って、茂助は真剣な眼差しを真之亮に向けた。

 茂助が銀公と呼ぶのは名を銀太という掏摸のことだ。歳は十八とまだ若いが、茂助がいままで数多く見てきた掏摸の中でも筋が良いという。

知り合ったのは去年の師走、銀太が柳原土手でお店者の懐中物を掏り取ったのを店先にいた茂助が見破って捕まえた。すぐに腕を捲くって入れ墨から銀太が三度も捕まっていると知った。掏摸はお縄になっても三度目までは右腕に墨を入れられ、『叩き』の罰を受けて解き放たれる。大した罰を受けないが、四度捕まると『仏の顔も三度まで』の諺通り、一も二もなく土壇場に据えられて斬首の刑に処せられる。それが掏摸の過酷な運命だ。茂助は銀太の手から紙入れをもぎ取るとお店者を呼び止めて「紙入れが落ちやしたぜ」と返してから銀太を睨み付けて放免した。それ以後、銀太はちょくちょく丸新に顔を出すようになり、茂助が肝煎に口を利いて仕事を世話してもらい掏摸から足を洗わせた。

どういうわけか茂助は銀太を気に入っている。

「とにかく茂助の言う通り、いずれお良と会って話をしなければならないが、」

 重い口でそう言うと、真之亮は裏口から雪駄を履いて土手へ出た。

 既に空は茜色に染まっている。店の横路地を土手道へ上ると、いつの間にか人の流れは疎らになっていた。昼間の暖かさが嘘のように去って、冬の冷気が舞い戻って背に貼りついた。店先に出て来た茂助は「店仕舞としますか」と真之亮に声をかけた。

 茂助が軒下の紐に吊るしていた古着を店の中へ移し、真之亮が戸板を梁と敷居の間に嵌め込んだ。戸締まりを済ますと、二人揃って一膳飯屋の神田屋へ出掛けた。

「先ほどの借家と手先の一件、話を進めやすからね。ようござんすね」

 並んで歩く茂助が顔を上げると、真之亮に念を押した。

 すぐにも松枝町の借家と銀太のことを決めておきたいのだろう。

「銀太を手先にするからには、拙者の御用を明かさなければならないな」

――隠密同心だと銀太にしゃべって大丈夫か、と真之亮は茂助を睨んだ。

「銀公はああはみえても性根の座った男でさ。五尺足らずと小柄な上、身体も細いが身の軽いのが何よりで。ヤットウと御用を真さんが引き受けりゃ、後は身軽で使い走りの足の速さと血の巡りの良さを兼ね備えた男が入用だってことでさ。銀公にゃ嵌り役だと思いますがね」と懇願するような茂助の口吻に、真之亮はふわりと笑った。

 顔を合わせればボロのチョンに貶すが、茂助は銀太とよほど肌が合うのだろう。

 銀太は親の顔を知らない。銀太の幼い頃に東北地方を中心に深刻な飢饉が襲い、江戸に流民が流れ込んだ。浮浪児として浅草境内を塒にしているのを掏摸の親方に拾われ、十を幾つも出ない頃には立派な掏摸に仕立て上げられていた。

「家も奉公人もすべて、茂助に任せるとしよう。後は拙者がお良にこれからのことを話さなければならないってことだな」

そう言って、真之亮は神田屋の縄暖簾を掻き分けた。

 一膳飯屋から戻ると茂助はさっそく銀太の件の話をつけに、陽のある内にと下柳原同朋町の肝煎甚十郎の家へ出掛けた。こうした場合、頼りになるのは界隈の肝煎だ。

 銀太を手先に置けば何かと助かるのは確かだ。茂助もすでに五十の坂を越えて、いつまでも古手屋の店番に座ることは出来ない。月に二度の古着市へ出掛けて仕入れるのも、荷が嵩張るだけに辛そうだ。腰の軽い男がいれば御用を勤める上でも助かるのは間違いない。銀太だけではなく古手屋の方にも人手が必要な気がした。

 手炙りを抱えて背を丸くしていると、茂助が銀太を連れて戻ってきた。

「銀公、遠慮しねえで上れ。真さんを知っているな」

 茂助の声がして、裏口が開いた。闇に銀太の挑むような眼差しがきらめいた。

「真さんて滅法やっとうの強い、爺さん所の居候だろう」

 銀太の声がして、二人の顔が裏口に覗いて行灯の明かりに浮かんだ。

 茂助に促されて二人は手炙りの傍らに座り、顔を見合って軽く頭を下げた。

「やい銀公、いや銀太。これから儂の言うことは金輪際誰にもしゃべっちゃならねえぞ。いいか心して聞け」

 茂助が手先の眼差しを向けると、銀太は訝しそうに首を傾げた。

「爺さんは夜盗の親玉かい、いやに鋭い目付きをしているが。ハハン、おいらを夜働きの仲間に引き込もうって魂胆か。どこの大店へ押し入るのか」

 茂助をからかうような目付きをして、銀太は切れ目なく言い募った。

 その強がりにまだ大人になりきっていない若い男特有の青臭さが透けてみえた。

「おい、黙らねえか。ここは性根を据えてきっちりお前の料簡を聞きてえンだ」

 そう叱り付けると、茂助は真之亮に「あれを」と目配せした。

――懐の十手を銀太に見せて下さい、と茂助が目顔で言った。

 真之亮は少しばかり躊躇して、懐から真新しい朱房の十手を引き抜いた。

「おっと。なんだ、そりゃあ。いったいなんの真似だい」

と、銀太は口を尖らせて腰を浮かせた。

「銀太、誰にもしゃべっちゃならねえぜ。真さんは、いや中村真之亮様は南町奉行附の隠密同心だ。お前はその配下になるってことだ。隠密だから世間様におおっぴらにゃ言えねえが、いわば銀太は同心付きの手先になるってことだ。分かったか」

 茂助が低い声で言い聞かせると、銀太は十手の朱房を見て目を剥いた。茂助の言う通り、朱房の十手は町方同心の持ち物だ。

「ちょいと待ってくれ。おいらは自慢じゃないが、元掏摸だぜ。それも三度もお縄になった筋金入りの掏摸だ。そんな男が同心の手先になって罰は当たらないのか」

 銀太は抜け目なさそうな細い目で茂助を見詰めた。

「罰は当たらねえから心配するな。掏摸だったお前はすでに叩刑の罰を受けてまっさらになってる。あとはお前の心掛け次第だ、真さんの手先になるンだな」

 そう言って、茂助は念を押すように銀太に頷いて見せた。

「おいらは面食らうばかりだが、同心の旦那の乾分になるとして、一体どうすりゃ良いンで」神妙な顔付きをして、銀太は茂助に訊いた。

 どちらかというと大きな顔に獅子頭を配置したような茂助の面立ちと違って、銀太はにきびの吹いた芋のような丸みと泥臭さを感じさせる顔付きをしている割に、目鼻立ちははっきりとしている。どうらんを塗ってにきびを隠せば舞台にでも立てそうな役者顔だった。

「明日にも、真さんは松枝町の仕舞屋へ移る。丸新の用心棒の真さんがいなくなったら、お前はここで儂と寝泊まりする。手先といっても隠密同心の手先だから、毎日南町奉行所へ出向くことはねえし、町方を差配して捕物をすることもねえ。ただ、真さんが御用を仰せ付かったら、その手助けをすりゃ良いンだ。世間様に対してはあくまでも古手屋の奉公人で通すからな」

 茂助が話すうちから、銀太は不服そうに頬を膨らませた。

「とか何とか言って、実のところは体良く古手屋でコキ使おうってンじゃねえのか。古狸の言うことは嘘が多くて当てにならねえからな」

 さっそく血の巡りの良さを発揮して、銀太は穿ってみせた。

 茂助と銀太の遣り取りを聞いていて、真之亮は無理もないと思った。こちらからは何も知らせないで黙って従えというのは乱暴だ。手先に任じたからには、いま関わっている事件について何も教えないわけにはいかないし、銀太の考えも聞いてみたくなった。

 真之亮は庄治殺しと半次殺しの事件を語って聞かせた。腕を組んで銀太は黙って聞いていたが、真之亮が話し終えるとさっそく口を開いた。

「腕の良い筋者を集めるにゃ前科持ちに当たるのが一番手っ取り早いだろうが、中には悪事から足を洗った者もいるわけだから、目を付けた前科者を面通ししなきゃならなかったンじゃないか。ただ、真さんは下手人を男だと決めてかかっているようだが、そりゃどうだかね」

 銀太が一人前の口を利くのに、茂助は慌てた。

「おいおい、お前が真さんと呼ぶのは十年早いぜ。旦那と呼べ」

 茂助は銀太を叱り飛ばしてから、銀太の言葉に「ふむ」と腕を組んだ。

 銀太の言うことに筋が通っていた。下手人を男と決め付けた根拠は何もない。

「いや、拙者は真さんで構わない。それより、下手人が女だと思うのはなぜだ」

 真之亮は銀太にやさしく訊いた。

 すると銀太はにやりと笑みを浮かべて「男ってなスケベだろうが」と切り出した。

「むさ苦しい野郎が近寄って来て、身構えない者はいないぜ。天と地ほど腕が違うのならまだしも、身構えた者同士が殺しあって瞬時に片がつくようなことはねえ。掏摸仲間でも腕の良いのは決まって女だ。掏られるのは大概男だから、女の方が都合が良いのさ。婀娜な年増が近寄れば、男なら誰だって鼻の下を長くして隙が生まれる。匕首で心ノ臓を一突きするのは懐から紙入れを掏り取るよりもた易いことだろうぜ」

 そう言うと、銀太も茂助を真似るように首を捻って見せた。

 なるほど掏摸は気を消して近寄り、気取られないうちに素早く指働きをする。人は殺気を放つ相手には自然と身構えるが、妖艶な女が品を作って近寄ればつい油断をするものだ。待乳山では不審な男がいなかったかと訊いて廻ったが、真之亮は銀太の話を聞いてなるほど男と決めてかかるのは危険だと頷いた。

「そういうからには銀太、女掏摸で心当たりの者がいるンだな」

 切り込むように、茂助が鋭く訊いた。

「下手人を見たわけじゃないし、これって思い当たる女がいるわけじゃねえ。が、おいらに指技を教えてくれた親方の娘にお蝶ってのがいてね。お蝶姐さんなら確かな指技を持っているし、にっこり笑って男を殺すぐらいヘとも思わないだろうぜ。ただ親方がお縄になって首を刎ねられちまってからこっち、仲間は散り散りになっちまったからな。なんでもお蝶姉さんも浅草を離れて品川宿あたりで江戸へやって来る物見遊山のお上りさんたちの懐中を狙っていると、風の噂を耳にしたことがあるけどな」

 そう言って口を結び、銀太は今一度「良いですかい」と断って口を開いた。

「真さんの話では、殺しを働いた下手人に庄治たちの後を尾けている者がいることをどうやって報せたか手配せの段がなかったけど、おいらが掏摸を働いている時には指で合図を送ったものだぜ。紙入れを掏ったまま持っていると捕まった時に申し開きができない。符丁を決めて合図を送り掏った紙入れを素早く仲間に渡してから、堂々と捕まるンでさ。そうすれば裸に剥かれたところで紙入れは出てこないって寸法だ。今度の事件はいずれも下手人が夕刻に誘い出している。ってことは闇に紛れて逃げるのに都合が良いのと、合図に明かりが使えるってことじゃねえかな。提灯じゃ明かりが四方八方に散って周囲の者に不審がられるが、龕灯なら相手を狙って合図を送れる。明かり口を小さく細工して、奥に明かりを撥ね返すギヤマンの鏡を仕込んでおけば、かなり遠くからでも光は見えるはずだ」

 銀太の話を聞いていて、茂助と真之亮は舌を巻いた。

 なるほど銀太の言う通りだ。日暮れに誘い出しているのは殺してから宵闇に紛れて逃げるためだとばかり思っていたが、知らせる手段に明かりが使えるということだ。そういえば、いずれも火種に困らない神社が待ち合わせ場所に使われている。神社の境内なら夕暮れに限らず、昼間からお灯明がともされている。

「銀太の言う通りだとして、下手人たちは何を仕出かそうとしているのかな」

 真之亮は銀太に茶を淹れて湯飲みを差し出した。

「普通に考えりゃ大店に押し入り、金品を奪うっていうのが通り相場だぜ」

 と言うと銀太は茶をひと啜りしてから「それより、もう一つ訊いて良いですかい」と顔を上げた。

「ただ、前科者ばかり誘いをかけて殺しているってのが良く分からないや。普通、寄場から娑婆へ戻った者は姿を晦まし、身を潜めて世間の片隅でひっそりと暮らしている。それを嗅ぎ出すだけでも大した手間がつくとは思いやせんか」

――なぜ手間のつく前科者をわざわざ探し出して夜働きを持ち掛けているのか、と銀太の双眸が疑問を投げ掛けた。

 夜盗一味は気心の知れた者で徒党を組むのが常だ。押し込み先の状況を探って段取りを決め、押込んだ後はほとぼりが冷めるまで時には半年近くも塒に潜伏することになる。周到な支度をして身を潜める塒まで探して、その上決して裏切らない気心の知れた仲間まで集めるとなると、押込み強盗はなかなか難しい割に合わない仕事だ。

「銀太の言う通り、儂もそこんとこはちょいとばかり引っ掛かるぜ」

 茂助も銀太と同じように首を傾げた。

 銀太の知恵は確かなものだった。茂助が手先にと連れてきたが、当の茂助にもこれほど銀太の眼力が鋭いとは思っていなかったようだ。

「今夜はこの程度でお開きにして、湯屋へ行ってきな」

 茂助は二人の顔を見廻してそう言って、急き立てるように手を振った。

 あまり遅くなると湯屋の湯は垢で泥湯のようになる。やむなく真之亮は腰を上げて、銀太と連れ立って残照の消え残る柳原土手を湯屋へと向かった。


 明くる朝、真之亮は銀太を連れて丸新を出た。

 柳原土手道の続きの神田川南河岸道をとって神田明神へと向かった。道々銀太は河岸道に口を開けている細い路地が何処へ続いているか、何処ぞの表店の主人は入婿で何処ぞに女を囲っているとか、どこの家の娘は器量良しだとか、どこぞで飼っている犬は良く吠えるとか、雑多で下世話な事柄を真之亮に語った。銀太の呆れるほどの博識と、江戸中の小道をすべて頭に叩き込んでいるかと思える記憶に舌を巻いた。

 半次の足取りを辿ってまず神田明神を検分して、そこから湯島天神へ足を向けた。

「半次が神田明神へいった時、下手人の一味は境内にはいなかったンじゃないかな。湯島天神までは離れすぎているし、駆けてゆく通りはこの一本道だ。又蔵親分が用心して十分に間を置いて離れていても、半次の後を尾けているのはバレバレだっただろうぜ。半次を殺すのに又蔵親分が石段を登りだしてから、天神下の示し合わせた場所から龕灯で丘の上の下手人に合図を送っても十分間に合うわけだ」

 銀太はそう言って、辺りに意を払いつつ慎重な足取りで歩いた。

 昨夜に続いて、真之亮は銀太の眼力に感心した。

「どうしてそんなに手に取るように、銀太には分かるンだ」

 真之亮が訊くと、銀太は振り向いて寂しそうに笑った。

「場所を良く見るってことでさ。掏摸ってのは掏り取ったら終わりじゃないンだ。実は掏ってから後始末の方が大事なンだ。何処をどうやって逃げるか、町方がこっちから来たらあっちへ逃げると、細かな路地の隅々まで下調べしておくものだぜ。何しろおいらたちにとっちゃ命懸けだぜ」

 厳しくも後ろめたかった日々を思い出してか、銀太は眉を暗くした。

 神田明神から湯島天神までの道々、真之亮は黙ったまま銀太の話を聞いた。

 湯島天神を男坂から上ると銀太は裏口へ走って、切り通しへと続く女坂を丹念に見回した。そして境内の周囲を走り廻って杣道を探した。しばらくして得心したのか、鳥居の傍らに立っていた真之亮に「これといった杣道はありませんや」と言った。

「十中八九、下手人は男坂の参道の石段を下りた。女坂は切り通しに出て、上野不忍池へ出るか本郷の武家屋敷へ抜けるしかない。上野はいわずと知れた不忍池の水辺に多くの出会い茶屋が軒を連ねる男女の密会場所だ。そうした街には、悪党や破落戸が儲けのネタが転がってないかと目を光らせている。婀娜な女が逃げるのにそうしたややこしい場所はまず通らない。それかといって本郷の武家屋敷へ逃げれば、町女は辻番小屋で見咎められる。そうこう考えれば、下手人の女は堂々と参道の石段を戻ったと考えるしかない。途中で又蔵は下手人と擦れ違ったはずだが、親分に下手人は屈強な男との思い込みがあったのと、一刻も早く境内に辿り着こうと気が急いて、すれ違った女を見咎めなかったのだろうよ」

 銀太はそう言って「そのことを又蔵親分に会って確かめたいンだが」と真之介を覗き込んだ。

 真之亮は銀太の申し出に頷いた。いずれにせよ、八丁堀へ行くには神田明神へ引き返さなければならない。昌平橋袂の又蔵の家はその先の通り道にある。

 弾むような足取りで先を行く銀太に追いつこうと真之亮も大股に急いだ。十年来剣術で鍛えて足腰に自信のある真之介だが、銀太の健脚ぶりには顎が出そうになった。銀太は足腰のばねの強さを感じさせる足運びで疲れ知らずだった。

 又蔵の家へ行くと親分は照降町の自身番へ行っていると聞かされ、その足ですぐに照降町へ向かった。又蔵と面と向かって銀太がどのような知恵を使って聞き出すのか、と真之亮には楽しみですらあった。しかし浮浪児を生き延びた銀太の身の上にどれほど過酷な日々があったのか、その過酷さが銀太の知恵を鍛えたのだと思い至ると、真之亮の心に暗い翳りが差した。

町名が変わるとそこかしこの軒下に、立て掛けて乾かしている材木や下駄の形に挽いて重ねた木が山と積み上げられ、濃い木の香が町中に漂った。

又蔵は照降町の自身番にいた。肩幅のあるずんぐりとした体付きの男だが、上背は五尺を幾らも出ていない。大きな顔に人の良さそうな団栗眼をしていた。真之亮は自分を古手屋丸新で厄介になっている居候と紹介し、銀太はそこの使用人だと話した。

「おいらに何の用だ」

 切り落としの座敷の端に腰を下ろしたまま、又蔵は不機嫌そうに真之亮と銀太を睨んだ。銀太は真之亮の前に出るとお店者らしく、上がり框に腰掛けたままの又蔵に丁寧に頭を下げた。

「一昨日の夕刻、親分が湯島天神に行かれたと耳にしたもので」

 愛想笑いを浮かべるというのでもなく、銀太は真剣な眼差しを向けた。

「この旦那がワケありの女と夕刻に湯島天神で待ち合わせていたンですが、野暮用があって行けなかった。それで女が境内にいたかどうか知りたくて、へい」

 銀太がそう言うと、又臓の眼差しに嘲りの色が浮かんだ。「女がらみの下らない話をしに、わざわざ俺を自身番まで訪ねてきたのか、暇な野郎だぜ」とでも言いたそうだった。

「境内にゃ誰もいなかったが、女に振られたか。待てよ、そういえば石段を下りてくる婀娜な年増と擦れ違ったぜ」

そう言うと、又蔵は記憶を手繰り寄せるように目を閉じた。

「ああそうだ。あの時、あの女は境内にいたンだ。そうか、女は下手人を見たかもしれねえな」

 そう言うと又蔵は食い付くような眼差しで睨むと上り框から腰を浮かし、顎を突き出しすようにして土間の銀太に向かって口を開いた。

「おう、おめえたちが探しているのはどんな女だ」

と、又蔵は野太い声で銀太に訊いた。

「へい、年の頃は二十歳過ぎ、五尺を超える大女でやや太り肉と、」

 銀太は気圧されるように腰を引いて愛想笑いを浮かべた。

「そりゃあ、まるで違うぜ。暗がりで顔までは分からなかったが、石段で擦れ違った鳥追は三十前後の色年増、五尺どころか四尺余りの小柄な上に華奢な体付きだった」

 銀太を追い払うように手を振ると、又蔵は溜め息をついて腰を下ろした。

 又蔵の見た女が銀太の尋ねる女なら、これから下手人の手掛かりを知っているか聞き込みに行けるが、違っていては女が何処の誰とも分からない。下手人の糸口を掴んだかと色めきたったが当てが外れてしまった、と又蔵は落胆の色を隠さなかった。

 しかし、自身番から出ると銀太は「違いねえ」と囁くように呟いた。

「違いないとはどういうことだ。又蔵の憶えていた鳥追と銀太の言った女とはまったく異なっていたではないか。お蝶ではないということだろう」

 下駄屋の多い一画を通り過ぎると、真之亮は銀太に訊いた。

 すると銀太は「藤四郎だな」と軽蔑するように吐き捨てた。

「又蔵親分の言った女がお蝶姐さんだ。おいらは出鱈目を並べ立てたンだよ」

――当然だろう、と言いたそうな目を向けて銀太はこともなげに言った。

「お蝶姐さんの特徴をしゃべってドンピシャなら、又蔵親分が喰らいついて来て面倒になるのは目に見えてら。おいらはそんなドジは踏まねえ。しかし、風の噂に品川宿を縄張りにして稼いでいると聞いていたが、お蝶姐さんは誰と組んで何をしているのだろう。殺しまでしでかして、掏摸の風上にも置けねえな」

 独り言のようにそう呟いて、銀太は足を速めた。

 小柄な銀太が大股に神田鍛冶町を急ぎ、真之亮がその後をゆったりとした足取りで追った。陽も高くなり町を行き交う人が目に見えて増えた。

 町奉行所与力や同心は四ツに役所へ出仕することになっている。南町奉行所は非番月のため、同心貝原忠介は時刻通りに組屋敷を出る。まだ一刻ばかり余裕がある。同心の家に生まれ育ったため、非番月の同心の日課は熟知していた。

 日本橋は橋巾が大通りの半分しかないため行き交う人の肩が当たるほど鈴なりになっていた。真之亮と銀太は混雑する日本橋を渡り堀割に沿って南へ下った。人波を掻き分けるようにして歩いた大通から一筋外れると人影は疎らになり、表通りの雑踏は嘘のようだった。青物町から海賊橋を渡って八丁堀の一画に着いた。

「真さん、おいらは町方役人の暮らす町御組屋敷へ行くのはあまりぞっとしないな。なんだかこのままお縄になって引っ立てられて、土壇場に押さえつけられるような厭な心持ちがしてきたぜ。役人に肩を押し下げられ、首を地面の穴の上に突き出して、バッサリやられるような気分だぜ」

 銀太は真之亮を振り向き、ブルルと首を竦めて見せた。

 南へ下って茅場町の町医者了庵の家の前を横目に見て通り過ぎ、真之亮は三叉路で右へ曲がった。二百石取り与力の組屋敷は三百坪ほどの広さがあり冠木門があるが、同心の場合は百坪程度の屋敷に三十坪足らずの平屋が建ち、入り小口に門柱が立っているだけだ。三十俵二人扶持の御家人としてはそれでもまだましな屋敷といえた。漆喰の白壁道の表通りから一筋裏へ入れば生垣で区切られ同じような組屋敷が整然と並んでいる。

「夜更けて酔っ払って帰ったら、家を間違えないか」と、銀太が皮肉っぽく笑った。

「いや、存外間違えないものだ。正体をなくすほど酔っていても、朝起きるとちゃんと帰っている」真之亮が真面目な顔をして応えると、

「チッ、冗談が通じねえンだな」と呟いた。

 貝原忠介の家は山茶花の生垣に囲まれた一角にあった。門を入って真っ直ぐに玄関へ行くと、真之亮は開け放しの家へ向かっておとないを入れた。

「御免、南町同心貝原忠介殿は御在宅でしょうか」

 玄関土間に立っていると、玄関脇の手先部屋から顔見知りの徳蔵が顔を出した。

「誰かと思ったら、いやだね他人行儀な。お隣の真之亮様じゃねえですかい。旦那なら庭で岡っ引と会ってまさ」そう言うと、庭へ廻ったらどうかと目顔で勧めた。

 徳蔵は四十過ぎの小柄な男だった。見た目にはただの貧弱な親爺だが、十手術や棒術では同じ手先の茂助よりはるかに上だと聞いている。勝手知った家のように、玄関から出ると犬走りを辿って庭に出た。組屋敷は何処も造りは同じだった。

 庭先には岡っ引弥平が仙吉を従えて立ち、貝原忠介は縁側の日溜りに受け板を持って座り髪床に髷を結わせていた。庭に入った真之亮を見つけると、弥平との話を打ち切って顔を向けた。

「おう、珍しいな。朝早くから何の用だ。連れの男は誰だい」

 貝原忠介は南町奉行所定廻りでも評判の切れ者だった。一見したところ中肉中背、平凡な体躯をしている。しかし貝原忠介は学塾での出来が良かっただけではなく町方同心として知恵の巡りも良く、真之亮と一回りしか違わない若さで早くも定廻に取り立てられている。剣の腕も二十歳過ぎには早くも八丁堀の道場で麒麟児と謳われた。

「これは茂助の古手屋を手伝うことになった銀太という者です」

 真之亮は貝原忠介に銀太を紹介した。

 すると、弥平が鋭い眼差しで銀太を睨み付けた。

「お前は掏摸の銀公じゃねえか。真さん、こんな男を抱え込んじゃ、」

 と言って、弥平は咎めるように真之亮を見詰めた。

「おいおい弥平。お前だって岡っ引になる前の行状は余り褒められたものじゃなかったぜ」と弥平の言葉を遮って、貝原忠介が笑って見せた。

「銀太とやらはまだ若い、人生はこれからだ。とりあえず真之亮の用件を聞こう」

 そう言うと、貝原忠介は真之亮に頷いて見せた。

 真之亮は弥平と肩を並べるまで縁側に近寄り、弥平に軽く会釈した。

「拙者も町衆の中で暮らし始めると噂好きになったのか、庄治殺しと半次殺しがどうなったのか町方同心でも出色の旦那のご意見を聞きたいと思って参りました」

 真之亮がそう言うと、貝原忠介は苦笑いを浮かべた。

「ご意見を聞きに来たンじゃなくて、おいらを叱りに来たンだろう。こいつらも朝っぱらからしっかり探索しろとおいらを叱りにやって来たのさ」

 そう言うと、貝原忠介は弥平と真之亮を見比べるように眺めた。

「だがな、今月の当番は北町だ。おいらたち南の定廻が北を差し置いて、殺しのあった聖天社や湯島天神へ出向くことは出来ねえ。弥平がいくらやいのやいの言って来ても、悔しいだろうがおいらは動けねえンだよ」

 苦笑いを浮かべてそう言うと、貝原忠介は肩を落とした。

「それじゃ、あっしらが足を棒にして歩き廻るしかねえンですかい」

 声をくぐもらせて、弥平は不満そうに呟いた。

 岡っ引は同心が私的に雇った手先にすぎない。同心から手札とともに十手取り縄を預かるが、下手人を逮捕する権限はなかった。給金も年に一両か二両といった小遣い程度しかなく、副業を持たなければ暮らしが成り立たない。そのため、何かと界隈の金持ちに袖の下を求めて評判を悪くしていた。

「弥平、真之亮に手伝ってもらえ。あいにく次男坊で町方同心にはなれないが、八丁堀育ちの上、剣術の腕は折り紙付きだ。古手屋の茂助にしても本所改役定廻同心中村清蔵殿の手先を長年勤めていた男だ。捕物の腕は確かなものだぜ、そうしろ」

 軽い口吻で貝原忠介が茶化すように言うと、弥平は益々不満を募らせた。

「旦那、あっしは旦那のお父上から手札をもらったンですぜ。あっしが密かに手下に使っていた庄治が殺されただけじゃねえ。又蔵が手下に使っていた半次だって殺されたンですぜ」と憤慨して、弥平は顔を赤くした。

「それじゃ、非番月のおいらにどうしろっていうンだ」

 怒ったように貝原忠介も鋭く声を放った。

「分かりきったことですぜ。旦那の力で殺された日の夕刻に浅草界隈と神田界隈のすべての自身番に怪しい者を見掛けなかったか、回状を廻して欲しいンでさ」

 探索が手詰まりなのを打開するには人海戦術しかない、と弥平は腹を決めたようだ。しかし南町奉行所同心は貝原忠介だけでなく、又蔵に手札を渡した荒垣伝之助も庄治や半次が殺されたことにそれほど心を痛めていない。前科者は世間では関わりを持ちたくない嫌われ者ということなのだろうか。

 真之亮は弥平の申し出に貝原忠介がどのような決断を下すか静かに見守った。

「縄張りからして、南町奉行所から北町奉行所に働きかけることは出来ねえ相談だ。北町には北町のやり方があるだろうし、それなりに探索しているだろうぜ」

 それだけ言うと、髪結が元結の端を鋏で切り取ったのを汐に、貝原忠介は立ち上がった。それはどんな異存をも跳ね除ける決然とした振舞いに見えた。

 そろそろ与力同心が奉行所へ出仕する刻限だ。お暇すべき時と心得て、弥平たちと連れ立って真之亮も貝原忠介の屋敷を後にした。

「弥平、庄治が殺された夕刻に聖天社の参道で誰かと出会わなかったか」

 組屋敷の門を出ると、何気ない素振りで真之亮は弥平に訊いた。

 弥平は怪訝そうに見上げて、僅かに首を横に振った。

「聖天社から下りて来る怪しい者がいて、あっしが見逃すはずはねえでしょう。確かに江戸の切絵図を片手に下りて来る色年増の芸者と擦れ違いやしたが、それは参道の入り小口のことで。暗がりにも婀娜な浮世絵から抜け出たような女だったですがね」

 そう言って弥平は怪訝そうに小首を傾げたが、すぐに笑い飛ばした。

「旦那、まさかその芸者が下手人だっていうンで。間違ってもそんなことはありやせんぜ。その色年増は小柄な上に、体付きも小娘のように華奢だったンですから」

――庄治があんな女に殺されるわけがない、と弥平の目顔は断言していた。

「そうか」と応えて、真之亮は何事もなかったように歩き始めた。

 思い込みとは怖いものだ。世間では庄治のような男を匕首で刺し殺す下手人は極悪非道な乱暴者に違いないと決めて掛かっている。まさか又蔵も弥平も小柄な色年増が寄場帰りの男の心ノ臓に匕首を突き立てた張本人だとはとても考えられないのだ。

弥平の語った女は間違いなくお蝶だ。又蔵も小柄で華奢な体つきだが色っぽく婀娜な女だったと言った。どんな女に変装しようと、お蝶とはそうした印象を男に与えるようだ。銀太が言ったように庄治を殺したのもお蝶だろうと考えはじめていた。

「それじゃ、あっしらはここで」

弥平は東南茅場町に差し掛かると、真之亮に声をかけた。

 帰る方向は同じなのにどうして弥平がそう言ったのか、銀太は分かりかねて真之亮の顔を覗き込んだ。真之亮は銀太の眼差しを無視すると、

「ああ、夕刻にでも丸新でまた会おう」

 とこたえて『本道医』と看板を掲げた門の中へと入って行った。

 真之亮がなぜ町医者の屋敷へ入ってゆくのか分からず、銀太は戸惑いを見せつつその後をついて入った。裏手から金槌を使う音や威勢の良い声が聞こえていた。

 開け放たれた屋敷には大工が入って、増築や造作の手直しをしていた。もうじき帰って来る哲玄とお千賀のために泰正堂が差配したもののようだった。

 真之亮がおとないを入れると、若い女の返事がして白い上っ張りを着たお良が姿を見せた。五尺にやや満たないが女としては大柄だ。色白の瓜実顔にすっきりとした柳眉、その下に切れ長の双眸が輝き、鼻筋の通った鼻と形の良い唇は八丁堀小町と呼ばれていた。

「大工や左官が来ているようだが、早くも家に手を入れているのか」

 真之亮が声をかけると、お良は「ええ」と言って後ろに立つ銀太に小さく頭を下げた。

「ああ、これは銀太といって、こんど茂助の古手屋を手伝って貰うことになった」

 真之亮は銀太を紹介して、お良に微笑みかけた。

 何かにつけて軽口を叩く銀太だが、軽く頭を下げただけで何も言わなかった。

「茂助の心配で松枝町に小体な一軒家を見付けたンだ。薬研堀に来る用事のついでにでも古手屋に寄ってくれないか。遅くなって申し訳ないが、了庵殿にはしかるべき人を立てて日柄を見て挨拶に参るゆえ」

 真之亮は同意を求めるようにお良に小さく頷いた。

 数日に一度の割でお良は薬研堀の薬種屋へ父親の使いで来ていた。そのつど柳原土手に寄っていたのだが、ここ七日ばかり丸新に顔を見せていなかった。

「兄が帰ることになって、薬種一切は泰正堂から入れることになりましたの。それで薬研堀へ行くついでに柳原土手へお寄りする機会はなくなりましたけど、家が決まりましたのなら折りをみてお伺い致します」

「ああ、よろしく頼む。拙者は家の造作や調度にはまったく疎く、暮らしにどんな道具を揃えれば良いのか皆目分からぬ。お良が差配してくれなくては何も出来ぬゆえ」

 何一つ差配できない自分を恥じて、真之亮は頬を赤くした。

「事前に揃えるものといっても、まずは暮らしてみてから考えた方が無駄がなくて良いでしょう。私は小商いをはじめようと思います。そのために家の造りがどうなのか、見ておかなければ支度もできませんから」

 そう言うと、お良は恥ずかしそうに微笑んで見せた。

「小商い、とな」と、驚いたように真之亮はお良を見詰めた。

「はい、父は膏薬医と蔑まれて来ましたが、お蔭様で膏薬の調合は良く分かっています。それに近くの薬研堀には各種の薬種屋があって、材料も容易に揃いますから」

 悪戯っぽく笑ったお良を、奥から呼ぶ家人の声がした。

 これから患者の家へ往診に出掛けるのだろう。十五六の頃から、お良は薬篭を下げて父親の往診に付いて歩いている。「きっと、近いうちに」と真之亮は声をかけて、お良はそれに頷いた。

 玄関を出ると待ちかねていたように銀太が口を開いた。

「へええ、驚いたな。真さんはあの色っぽい姐さんと所帯を持つのかい。ヤットウ狂いの朴念仁かと思ってたけど」

 心底から驚いたように、銀太は真之亮をまじまじと見上げた。

「ヤットウ狂いとは恐れ入るな。ああ、近いうちに松枝町の仕舞屋でな」

「姐さんは働くって言っていたが、同心として扶持がもらえるからそれほど本腰を入れて働く必要はないンだろう。それとも御用のことをきちんと教えていないのか」

「うむ、十日に一度ほど奉行所に顔を出す程度の雑用を南のお奉行から仰せ付かっている、とは言ってあるが、隠密同心に取り立てられているとは教えていない」

 真之亮は銀太に応えると、海賊橋を渡って本材木町へ入った。

「そんなことで良いのかな。おいらは聞き分けの良い手先だから悶着は起こさないが、筋道にこだわる乾分を抱えたら、しっかりと説明しなきゃならないだろうぜ」

 世話焼き女房のように、銀太は心にかかる懸念を口にした。

「いや、拙者は銀太の他には採らないつもりだ。銀太より出来の良い手先にはお目に掛からないだろうし、銀太一人がいれば大丈夫だ」

 問答を打ち切るためにも、真之亮は銀太を褒めて蕎麦屋に誘った。

 まだ昼には間があったが縄暖簾を掻き分けて青物町の蕎麦屋に入ると、奥の釜場から湯気が濛々と上がっていた。真ん中に通路の土間があり、左右は入れ込みの座敷になっていた。二人は明かり障子の窓から陽射しの差している右手の座敷に上がった。

「おいらは切り蕎麦だ。天婦羅の乗ってるやつが良いな」

 出て来た小女に注文してから、銀太は慎之亮の様子を窺った。

 好きな蕎麦を注文したらよいと頷いて見せて、真之亮は狐蕎麦を注文した。

「真さんが訊いたら弥平も聖天社の参道で女と擦れ違ったと答えた。下手人は間違いなくお蝶姐さんだ。しかし、どうして前科者を殺さなければならなかったンだろう」

 銀太は声を曇らせて真之亮を見詰めた。

 お蝶という女を真之亮は知らない。話では三十前後の小柄で器量の良い女のようだ。掏摸の親方の娘だというが、そのことで銀太が格別心を砕いているようにもみえなかった。

「銀太、この一件はまだ分からないことだらけだ。どうやらお蝶が下手人だと判明したが、お蝶を操っている者がどこかにいるはずだ。そいつが親玉だろうが、そいつの狙いが何なのか皆目分からない。ところで銀太、お蝶が今度の事件に関わっていてお前はやりにくくないか」

 真之亮が問い掛けると、銀太は心外そうに首を振った。

「冗談じゃねえ。親方に指技を仕込んでもらった借りならとっくに返してるぜ。お蝶姐さんが掏摸で四度目のお縄になりそうになった時、おいらが罪を引被って三本目の墨入れと叩きの罰を受けたンだ。身代わりに捕まるってことは、掏摸の場合は土壇場で打首になることから助けるってことだぜ。おいらはお蝶姐さんにとっちゃ命の恩人だ。だから親方にもお蝶姐さんにも貸し借りはねえンだ」

 そう言うと、銀太は右腕に巻いている晒をさすった。

寒い間は銀太は長袖の下着を着たが、春になって長袖を着なくなると晒を右腕に巻いた。それは三本の墨を隠すためだった。

まもなく天婦羅蕎麦が運ばれて来ると、銀太は勢いよく手繰りはじめた。


 昼下がりの八ツ過ぎ、真之亮と銀太は柳原土手の古手屋に帰った。

 午後の客足も一断落ついた頃合いか、茂助は奥の上り框で休んでいた。

「茂助、庄治や半次に手を下したのは、どうやら女らしいぜ」

 茂助の並びに腰を下ろすと、真之亮が「銀太のお手柄だ」と銀太を顎で指した。

 座敷に上がって茶を淹れていた銀太が「お蝶姐さんのようだ」と茂助に教えた。

「お蝶といえば、おめえの親方だった掏摸吉の娘じゃねえか」

 茂助は驚いたように目を剥いたが、二度三度と頷くと「女の方が存外肚が据わっているからな」と呟いた。

「しかし掏摸としてお蝶は指働きに誇りを持っていたはずだ。それが荒っぽい殺しを引き受けるとは、飛んだ宗旨替えをしたものだな。お蝶に何があったンだ」

 湯飲みを手渡した銀太に、茂助は覗き込むようにして訊いた。

「ここ二年ばかり会ってないから知らねえや。三味線堀で親方が御用になってから一家は散り散りになって、姐さんは品川宿に移ったと聞いていたンだが」

「お蝶は一人だったのか。一緒に品川へ移った仲間がいたンじゃないか」

 茂助が訊くと、銀太は「姐さんは藤四郎じゃねえんだ」と呟いた。

「一本立ちした掏摸は独りで稼ぐものだ。役回りを決めて大勢で掛かりコトを運ぶのは、腕に自信のない半端者のやる仕事だぜ。お蝶姐さんにゃ余計な人の助けはいらねえのさ」

 銀太も湯飲みを持って上り框に座ると、一人前の御用聞きの顔をして見せた。

「誰とも組まず、姐さんは一人だったと思うぜ。なんなら品川へ行って探ってみるけど」と言って、銀太は茂助の顔色を窺った。

 茂助は「だめだ」と言うように首を横に振り、

「銀太が岡っ引の真似事をするのは十年早いぜ。ここはじっくり町方役人のお手並みを見せてもらおうじゃないか。北町の当番月だしな」

 そう言って、茂助は店先から女の声がしたのに腰を浮かせた。

 柳原土手に吹く風はまだ肌寒いが、季節の変わり目は陽射しにもうかがえた。ひっきりなしに客は訪れて、春先の古手屋は繁盛していた。

「親爺さんはおいらが半人前だと馬鹿にしているのかな」

 茂助が店先に立つと、銀太が真之亮にむくれたように呟いた。

「いや、そうじゃないさ。茂助の親心で銀太に危ない真似をさせたくないだけだ」

 真之亮は取り成すように言ったが、銀太は納得できないようなむっとした顔をして黙りこくった。

 人は成長の過程で、年よりも背伸びしたい時期があるものだ。十八の銀太がちょうどそうした年頃に差し掛かっているのだろう。

「聖天社や湯島天神の下手人を女だと推察して、お蝶と睨んだのはけだし銀太の慧眼だ。年季を積んだ岡っ引でも見当のつかないことだぜ。しかし、それを手掛かりとして下手人一味をお縄にするには、それ相当の下調べをして言い逃れのできないように証拠を固めないとな」そう言って、真之亮は銀太を励ました。

 一網打尽にするには一味の人員構成を掴み、動かぬ証拠を掴まなければならない。たとえお蝶の居場所を探って、お蝶一人だけを縛り上げても始まらないのだ。

 今度の事件の裏でどんな連中がつるんで何をしようとしているのか、それすらもまだ分からない。事件の探索はやっと端緒についたばかりだ。

「親方やお蝶たちと暮らしていた家は何処にあったンだ」

 日暮れまで間があるため、真之亮は出掛けてみようと腰を上げた。

「新寺町の門前町でさ。ドブ店とも稲荷町とも呼ばれている、小さな寺と町割が複雑に入り組んでいて、捕り手に囲まれても逃げるに便利な所だぜ」

 顔に笑みを浮かべて、銀太も身軽に立ち上がった。

 店先の茂助に「出掛けて来る」と声をかけると、真之亮と銀太は連れ立って土手道を新シ橋へと向かった。ドブ店へ行くには向柳原の大通を北へとれば良い。大身の武家屋敷の連なる大通をしばらく歩くと右手が堀割となり片側町となる。その道が右へ鍵曲がりになっている辺りの堀割を三味線堀といった。堀割の形が三味線の棹と胴の形に似ているためにそう呼ばれた。この辺りで銀太の親方は捕り方に御用となり、土壇場に据えられて首を刎ねられたのだ。

 銀太の心持ちはどのようなものかと顔を覗き見たが、何も変化は見られなかった。先刻古手屋で銀太が言った通り、銀太の中では過ぎ去った出来事に過ぎないようだ。

 三味線堀が行き止まると、そこから先はこれまでと一変して、粗末な貧乏旗本の屋敷が通りに建ち並ぶ。しかし、下谷七軒町で右へ曲がると雑然とした武家屋敷を睥睨するように大身の旗本屋敷があらわれた。が、通りの左手には見るからに小体な貧乏寺とその門前に町家が寺の塀にへばりついていた。通りを挟んで貧富が歴然としている町並は見る者にやりきれない感慨をもたらした。

「武家屋敷は逃げ込むにゃ便利だぜ。塀を乗り越えて屋敷に入ってしまえば町方は追ってこない。どこのお武家も人手がなくて荒れ放題だ。隠れ場所にゃ事欠かないぜ」

 白漆喰の剥げた土塀に目を遣って、銀太は呟くように言った。

 新寺町という名の通り、喩えでなく小さな末寺のような寺が通りの辻々に軒を連ねるほどあった。その寺々に門前町が山門の両側に貼りつくように細切れにあり、四ツ割の一軒家や軒の崩れた名状し難い貧乏長屋が隙間なく建っていた。

「ここでさ。酷いところでしょうが」

 と立ち止まった銀太が玉泉寺の門前棟割長屋を見詰めた。

 軒は破れ屋根も雨露を凌げる代物とは言い難く、饐えたような悪臭が鼻を突いた。

「腕を磨いて巧みに人様の懐を狙っても、結局はこの程度の暮らしを支えるのがやっとなンだ。堅気者の稼ぎにゃ追い付けないってことさ」

 銀太はそう言って、傾いだ軒先を見上げた。

「まともに親がいてまともに飯が食えて、まともな仕事があったら、誰だって掏摸なぞにゃなっちゃいねえや」と拗ねたように、銀太はぼそりと洩らした。

 真之亮は銀太の肩に手を置いて、その場を離れた。この町には香具師や大道芸人、それに夜の町角や柳原土手に立つ夜鷹たちが暮らしていた。

 ドブ店通りを菊屋橋まで行き、新堀の河岸道を南へとった。

「お蝶は小判に目が眩んで殺しに手を染めたのかな」

 河岸道を歩きながら、真之亮が問い掛けた。

「いや、そうじゃないと思う。殺しは掏摸にとっちゃ外道ですぜ。相手に気付かれず傷さえ付けず、周囲の誰にも気取られないうちに仕事を済ますってのが掏摸の神髄でさ。お蝶姐さんは人一倍厳しく親方から仕込まれていたンだ」

――よほどのことがない限り姐さんが殺しをするはずがねえ、と銀太は口惜しそうに肩を落とした。

「掏摸の掟を破って殺しを働くとは、お蝶の身の上に余程の事があったという事か」

 そう言うと真之亮も肩を落として、道なりに新旅籠町の角を曲がった。

 御蔵前片町と森田町の間を通り抜けると、御蔵前の大通に出た。そろそろ二月の切り米の支給日なのか、札差の法被を着た若い者の牽く荷車が行き交っていた。

 俸禄として旗本や御家人に与えられる扶持米の支給は年に三回、十月の新米時期と二月と五月だった。

 武家にとって扶持米は食糧としてだけではなく、売り捌いて生活費を得る大事な暮らしの糧だ。元来、札差は切り米を武家に代わって受け取るのが役目だが、扶持米の売り捌きまで一任されたため実質的に武家の金蔵を握ってしまった。そうした札差がこの界隈に集まって蔵屋と呼ばれた。江戸時代も下ったこの時期、吉原で花魁を相手に大尽遊びをするのは札差の旦那衆と相場が決まっていた。その勢いが使用人にまで乗り移っているのか、札差の屋号を染め抜いた法被を着た男たちの威勢はかなりのものがあった。

 堀割には橋が二本並んで架かっているが、二つの橋巾を併せても大通の道幅の半分に満たない。大八車の所有が届け出制になっていたように、幕府は陸送よりも回漕を奨励した。そのため架橋に制限を行い、左手の橋を天王橋といい右手を鳥越橋といった。真之亮と銀太は左手の橋を渡って浅草御門へ向かった。

 大通も瓦町に差し掛かると道幅は半分になり、夕暮れを迎えて広小路から帰る雑踏に行く手を遮られた。人の流れに逆らうように歩き、真之亮と銀太は大きく離れた。

 浅草御門に辿り着いた頃には完全に銀太を見失った。芝居小屋の打ち出しを知らせる櫓太鼓が響き、道端で声を嗄らしていた香具師も屋台の幟を片付けていた。しばらく御門の傍で待っていたが銀太の姿は見えず、ついに諦めて一人で古手屋へ帰った。

「真さん、何処へ行って来たンで」

 帰るなり店先で茂助に声をかけられた。

「いや、浅草ドブ店まで出掛けたンだが、帰り道で銀太とはぐれちまった」

 申し分けなさそうに、真之亮は頭を下げた。

「銀太なら、とっくにけえって神田屋へ飯を食いに出掛けやしたぜ」

 そう言って、真之亮に笑いかけて茂助は店の中へ入った。

 掏摸を働いていた頃の銀太の古巣を見に行ったのは、茂助に断ってのことではなかった。予め断ってのことでないため、真之亮は茂助に声をかけた。

「実は銀太の古巣を見に行ったンだ。お蝶の手掛かりでもあればと思ってな」

 真之亮が白状するように言うと、茂助はにやりと笑った。

「ドブ店と聞きゃ、それぐらいのことは分かりまさ。ただ、儂は一味がお蝶をどうやって仲間に引き摺り込んだンだろうかと、そこんとこが心に引っ掛かっているンで」

 茂助は鉄瓶から急須に湯を注ぎ、真之亮にも茶を淹れた。

「掏摸ってのは指技に誇りを持っているものだ。それが誇りを捨てて殺しを働くとは、よほどのことがあったと考えるのが普通でさ」

 湯飲みを一口啜って、茂助は溜め息を洩らした。

 分かっていることと、分かってないことをきちんと仕分けて、探索の方途を考えるのが捕物のイロハだ。しかし今度の一件は分からないことだらけだ。何処から手をつければ良いのか。ただ一点お蝶が一味に加わっていることだけは確かなことだった。

「銀太は一人で神田屋へ行ったのかな」

「そんなことはねえでしょう。おそらく昔の仲間と一緒でしょうよ。真さんは行きか帰りの人混みで誰かに懐の十手を触られちゃいやせんか」

 と、茂助は気になることを聞いた。

 瓦町から浅草御門にかけて雑踏を人の流れに逆らって歩いた。何人と体が触れたか分からない。懐の十手に触られれば、真之亮が町方役人との身元が割れてしまう。当然のことながら、一緒に歩いている銀太は手先とみなされることになる。

「拙者が町方役人だと分かれば、銀太の身が危ないのか」

「いや、そんなことはないでしょうが、銀太が町方同心の手先になったってことは町を舐め尽くす火の手よりも早く昔の仲間に知れ渡るでしょう。もう、引き返すことの出来ねえ川を渡っちまったということでさ。それならそれで、昔の仲間にとって銀太は重宝な男になったということで。その筋の者は裏で町方役人と繋がりを持ちたがっていやすからね」

 茂助はこともなげにそう言い、店先から呼び掛ける女の声に立ち上がった。

 上り框に腰を下ろしたまま店先を見ると、お店の内儀と見える年格好は三十前後、丸髷の女が男物の着物を手にとって選んでいた。眉を剃り鉄奨をつけているが色香の漂う器量の良い女だった。並んだ茂助より四寸ばかり低く、小柄で全体にほっそりとしている。

 ふと、見知っている女のような気がした。何処で逢った女かな、と真之亮は記憶を手繰った。八丁堀界隈の内儀にしては柳原土手まで出掛けて来るのは遠すぎる。記憶の中を探っても店先の女に繋がる糸口は見つけられなかった。はてさて、と腕を組んで考え込んでいると、弥平が仙吉を従えて店先に顔を出した。

「親分、真さんなら奥にいやすぜ。さっ、どうぞ入ってくだせえ」

 茂助の声がすると、女は吊り下げられた着物の間に顔を伏せた。

 弥平は女の後ろを通って狭い土間を奥まで入って来ると、真之亮にくたびれた顔を見せた。庄治殺しの下手人探索がはかばかしくないようだ。

「真さん北町の動きが亀みたいに鈍くて、下手人をあげる意気込みは微塵も感じられませんぜ」

 そう言うと、弥平は肩を落として崩れるように上がり框に腰を落とした。

「何があったンだい。ひどくご機嫌が斜めのようだが」

「米沢町の亀蔵に探索はどうだ、と聞きやしたら「知らねえや」って抜かしやがるンだ。南の岡っ引の手下が、それも前科者が殺された事件で、なぜ北がやらなけりゃならねえンだってね。まるで餓鬼の言い分でしょう」

 と、弥平は悔しそうに顔を歪めた。

 亀蔵は弥平と同じ年格好の岡っ引だ。二人とも広小路から柳原土手にかけてを縄張りとしていたため、なにかにつけて張り合っていた。しかも、亀蔵は北町奉行所定廻同心から手札を受けているため、普通なら当番月同心の岡っ引として必死になって事件探索に当たっているはずだが、冗談に言ったことを真に受けたのだろう。

「ところで親分、あの店先の女だが、」

 と、真之亮は店先に目を遣って、すでに女の姿がないのに落胆した。

「どれどれ、どの女ですかい」

 弥平が真之亮の指先に目を上げて、反対に聞き返した。

「あそこに、いやもういない。どうやら帰ったようだ。いたら弥平にちょっと見てもらいたかったンだが」

「色っぽい女ですかい。それともワケありそうな女ですかい」

 女と聞いて、弥平は頬ににやけた笑みを浮かべた。

「眉を落とし鉄奨をつけていたが、弥平が待乳山で擦れ違った女じゃないかと……」

 真之亮がそう言うと、弥平は驚いたように目を剥いた。

「どうして真さんは女にこだわるンで。あっしはあの夕刻参道の入り小口で切絵図を持った芸者と擦れ違っただけですぜ」

 そう言うと、弥平は不服そうに頬を膨らませた。

 庄治や半次を匕首で一突きに殺した下手人は冷酷で狂暴な男だ、と弥平はまだ思い込んでいる。下手人の後ろ姿さえ見ていないのに、おそらく大柄で肩幅もあり相撲取りかと見紛うような大男だと決めてかかっている。犯行の手際良さから勝手な思いを膨らませて、その想像に当て嵌まる男を探そうとしているのだ。そうした探索を続けている限り、何年たっても庄治殺しの下手人に辿り着くことはできないだろう。

「それがちょいと良い女だったもので、親分にも見せたいと思ってな」

 弥平の不満を鎮めようと、真之亮は冗談を言って笑った。

「あっしは人の持ちものに懸想なんざしやせんや。そんなことより今朝、貝原の旦那が真さんに力を貸してもらえと言いやしたが、何か下手人の手掛かりでも掴んでいるンですかい」

 そう言って、弥平は真剣な眼差しで真之亮を見詰めた。

「いや、それは貝原殿の冗談だ。八丁堀同心の次男に生まれたというだけで、拙者になにがしか力があるわけではない。しかし、ただの素浪人でも同心の倅として育ったからには世間の並みの者よりは少しは勘働きがするかもしれないがな」

 弥平が妙な期待を持たないように、真之亮は否定してみせた。

 真之亮は自分の身分を弥平に知られるわけにはいかない。貝原忠介にも知られてはいけない。肉親にさえ知らせていない。隠密同心とはそういうものだ。

 間もなく銀太が戻って来ると、それを汐に弥平は帰って行った。

「茂助さん、先に飯を食って来ました」

 銀太は店先で茂助に詫びて、店番を代わった。

 茂助は前掛けを取るとくるくると丸めて上り框に置き、「それじゃ真さん、今度はわっしが飯を食いに行って来やす」と声をかけて出掛けた。

 銀太は前掛けをして、奥座敷の上り框に腰を下ろした。

「途中で昔の知合いに出会っちまって、そこの一膳飯屋で一緒に飯を食っていたンでさ」

 そう言って、銀太は一人で帰ったことを詫びた。

「しかし、銀太のすばしこさは目にもとまらなかったぜ。いつの間にかはぐれて、帰ってみるとすでに神田屋へ行ったと聞かされて、少々面食らったが」

 真之亮がそう言うと、銀太は申し分けなさそうに頭を掻いた。

「昔の仲間で、名を勘治っていうンだが知らないかな。おいらの兄弟子に当たるンだけど『巾着切りの勘治』っていえば、仲間内ではちったあ知られた顔だがなあ」

 そう言ったが真之亮が首を傾げたのを見て、銀太は残念そうに笑った。

「まあ真さんが巾着切りを知らなくて、当り前といえば当り前だな。親方は勘治の腕を見込んでお蝶姐さんと夫婦にしようと考えていたようだったけど、姐さんにその気がなかった。勘治はお蝶姐さんに惚れて尻を追い廻していやしたが、品川じゃ一つ屋根に暮らしていたようで。それが一月前、姐さんは姿を晦まして、どうやら御城下の膝元で暮らしているとか。それで勘治も躍起になってこの界隈を探していて偶々おいらを見掛けたって」

 銀太は纏まりのつかないまま、心に浮かぶ言葉をしゃべっている様子だった。

 熱を帯びた話し振りはいつも冷ややかに世間を斜に見て、皮肉で冷静な男にしては珍しかった。

「お蝶の身の上に何かがあって品川宿からいなくなり、勘治もお蝶の後を追うように御城下へ移って来たのか」

 真之亮は銀太の言葉を遮るように訊いた。

「何があったのか勘治はしゃべらなかったが、お蝶姐さんには男の影が差していたようだとか。それもお蝶姐さんが袖にして逃れられないかなり恩義のある人のようだが、そいつが『悪党』だったと勘治は悔しさを滲ませていたっけ。真さんが同心と承知の上で、頼みがあるから引き合わせて欲しいと言っていましたぜ」

 そう言うと、銀太は鉄瓶の湯を湯飲みに注いだ。

 銀太は茶に頓着しない、白湯でも構わない男だった。そうした面では真之亮も銀太と似ている。

「もしかすると、お蝶姐さんが惚れた男は町方役人、それも定廻かも知れないな。勘治が同心の真さんに相談したいということだから」

 注いでいた鉄瓶の注ぎ口を上げて、銀太は眉根を寄せた。

 真之亮は驚いて目を剥くと、湯飲みを差し出した銀太を見詰めた。

 銀太の推察は時として真之亮の常識を超える。しかし、真之亮の常識が常に正しいとは限らない。庄治や半次を殺したのが女だと看破した銀太の推察力の方に理があった。今度の場合もそうなのか。

「相手が町方かどうかより、お蝶の惚れた男が手強いため手出しできず勘治の手に余るからじゃないのか」

 白湯を啜って、真之亮は銀太を軽くいなした。

 別段、気色ばんだ色も浮かべずに銀太は一つ頷いて真之亮に説明を始めた。

「真さん、勘治はすでに真さんの懐を探って、十手持ちだってことを知っているンですぜ。ヤットウで正面に向き合えば真さんに敵わないだろうが、出会い頭に匕首を肝ノ臓か心ノ臓に叩き込んで真さんの命を奪うのなら、勘治にとっちゃわけのないことなンだぜ。その勘治が真さんに相談があるって頼んでるでさ」

 そう言って、銀太は「どうですかい」と言いたそうに真之亮を見詰めた。

 多分、この場合も銀太の言うことの方に理があるのだろう。掏摸は指技だけでなく人物観察が必要な、結構知恵のいる稼業のようだ。

 江戸っ子は余り理にこだわらない。理よりも情にこだわりがちだ。銀太が理に基づいて思惟を展開するのはおそらく幼い銀太に指技を仕込んだ親方が理にこだわる人だったのだろう。つまり掏摸の技を道理から説明して、手取り足取り教えたのだろう。だからこそ、掏摸吉は掏摸たちから一目置かれる存在だったのかもしれない。

「先刻、店に商家の内儀を装った小柄で婀娜な三十女がきた。しかし弥平が姿を見せると風を食らったように立ち去ってしまった。拙者にはどうもそれがお蝶だったように思えてならないが」

「姐さんの変装はピカ一でさ。鳥追から瞽女から芸者、町娘から商家の内儀と千変万幻だぜ。だがお蝶姐さんがここに来たということは、下手人一味がこの店を見張ってるってことなのだろうか」

――だがどうしてだろうか、と銀太は考え込んだ。

 真之亮と銀太が行動をともにしたのは今朝からだ。勘治は蔵前の通りで銀太を見掛け、同行している浪人者の素性を改めてから銀太に声をかけてきた。だが、勘治はともかくとして、どうしてお蝶までがこの界隈に姿をあらわしたのだろうか。

「見掛けたといっても、真さんはお蝶姐さんを知らないンだろう」

「ああ、お蝶なる女掏摸は知らないが、先刻見たような婀娜な内儀も拙者は知らない。あの内儀は玄人の色年増が変装したとしか見えなかったが」

 そう言って、真之亮は腕を組んで首を傾げた。

――あの内儀がお蝶だったとすると、隠密同心の自分の前に姿を見せるのは少しばかり早すぎはしないだろうか、と真之亮は腑に落ちないもどかしさを感じた。

 確かにお蝶が真之亮の前に顔を出すのは余りに早過ぎる。勘治ですら真之亮が十手持ちだと知ったのはつい先刻のことだ。お蝶とは道で擦れ違ってもいないし雑踏で色年増に懐を探られた憶えもない。

「勘治の居場所は何処だ」

 と聞くと、銀太は真之亮を睨んだ。

「裏稼業の者が居場所を聞くのは仕事を一緒にする時か、町方の犬になった時だけですぜ。まともな五分の付き合いの時には聞かないのが仁義ってものでさ」

 従って銀太は知らないし聞くのも野暮だ、とその眼差しは言った。

 真之亮は掏摸の仁義とはそういうものかと頷いた。

この世はいろんな約束事で成り立っている。裏稼業の者が居場所を聞かないのも町方に垂れ込まないとの証だろうし、長く付き合うためには必要な約束事なのだろう。

「真さん、飯食ってきて下せえ」

店先から呼び掛ける茂助の声がして、真之亮は腰を上げた。


 西広小路芝居小屋脇の広場で、一日と十五日の月に二度ほど早朝に古着市が立つ。

 集まってくる古着は質流れの品や他の古手屋が換金目的に投売りする品、呉服屋が誂えたものの客が引き取らなくなった処分品などだ。いかに良い品を安く買い入れるかの目利きに、店主の手腕がかかっている。損をするのも儲けを出すのも仕入れ次第だ。明け六ツの鐘が鳴るのを待ちかねて茂助は銀太を連れて古着市へ出掛けた。

 夜明けからほんの半刻ばかりで古着市は終わってしまう。広小路が見物人で賑わう頃には荷を大風呂敷に包んで持ち帰り何も残らない。まごまごしていると目をつけた古着を余所の古手屋に落とされてしまうが、あせって高値で襤褸を掴んでも仕方ない。古手屋をはじめた当初は商売の勘所がなかなか分からなくて、茂助も何度か損を出したものだ。

 五ツ前に茂助と銀太が帰ってきた。銀太は店先の梁につかえるほどの大風呂敷きを背負っていた。真之亮はまだ掻い巻きを引き被った格好で手炙りに噛り付いていた。

「昨日の夕刻、また匕首で刺し殺されたようですぜ」

 店土間に入ると、いきなり茂助が声を張り上げた。

 茂助が古着市で聞き込んできた話では昨日の夕暮れ、大川の辺は元柳橋袂の船着場で『波萬』の法被を着た船頭が心ノ臓を一突きに刺し殺された。橋袂で船を待っていた女が着いたばかりの船頭に声をかけ、船から下りたところを桟橋でいきなり刺したという。

「その女ってのは何者だ」

「さあ、船遊びする時節でもなし、なにぶん辺りは暗くて悲鳴を聞いて駆け付けたときには下手人の女は男が乗って来た船に身軽に飛び乗って、逃げた後の祭りだったってことのようでさ」

 茂助は銀太の背から荷を下ろし、座敷に広げていた。

「波萬っていえば仙台堀上之橋袂は佐賀町の船宿ではなかったか」

 真之亮はそう言って、父に連れられて行った深川の記憶を思い浮かべた。

 佐賀町は永代橋から仙台堀にかけて大川端に貼りついた細長い町だ。大川河岸に船着場を持つ白壁の米蔵屋敷が建ち並び、所々に船宿が点在している。

 元来、船宿とは抱えの船頭を置いて客に川遊びをさせる宿のことだ。釣り客や花見客を猪牙船や屋根付き船に乗せて相手をし、船から上がると座敷に料理をとってもてなすのが生業だが、女を置いて客を取る別名曖昧宿とか売笑宿と呼ばれる宿も珍しくなかった。

「波萬とはちょいと隠微な匂いがするが、その店は曖昧宿のたぐいか」

 と、炭火から顔を上げて真之亮は茂助に訊いた。

 真之亮の父中村清蔵は本所改役定廻同心だった。茂助はその手先として父の供で本所深川には毎日のように見廻り、そこに暮らす人にも地理にも明るかった。

「まあ十中八、九そう思って間違いねえでしょうよ」

 そう言うと、茂助は手を止めて真之亮に目顔で頷いてみせた。

 波萬が曖昧宿なら、そこで働く船頭も叩けば埃のでる男ということになる。殺された波萬の船頭が前科者であれば、先の二件の殺しと共通点が見出せることになる。ただ、これまでは殺しの下手人は姿を見られていないが、今度の場合は船頭たちに見られている。はじめて下手人が女だと明らかになった。

「姐さんが店に来たと真さんが言ったのは、本当だったかも知れませんぜ」

 そう言って、銀太は真之亮を見詰めた。

「銀太、朝飯を食ったら深川へ行ってこよう」

 真之亮は銀太に応えるように言って、茂助に「良いかな」と目顔で問うた。

「ああ、銀太と行ってきなせえ。辰蔵も喜ぶでしょうよ」

 茂助は自分も行きたそうな、弾んだ物言いをした。

 辰蔵とは父が岡っ引に取り立てた男のことだ。まだ三十前と若いが腕は良く、いまでは臨時廻りの兄を助けている。真之亮も辰蔵とは顔見知りだった。元は木場人足をしていたが、喧嘩三昧の日々を過ごした挙句お定まりのしくじり人生を送った。父が亡くなる二年前、寄場送りになる寸前の辰蔵を岡っ引に取り立てた。五尺七寸と仁王様のように大柄で腕っ節も強いため、年取った肝煎に代わって門前仲町の町衆から頼りにされている。

古着の仕分けを済ますと、茂助は棚から布に包んだ品を取り出して銀太に渡した。

「わしが若い頃に使っていた棒十手だ。これからはお前に使ってもらうぜ」

 茂助はそう言ってから「十手に恥じるような真似だけはしないようにな」と付け加えた。

 二年前に中村清蔵が亡くなるまで、茂助は尻端折り紺股引に羽織姿の手先だった。その棒十手を懐に差して、茂助は自分の庭のように本所・深川を歩いたものだ。

棒十手を押し頂くと、銀太は少し面映い顔をして懐に差した。同心にしろ岡っ引にしろ、十手を見せびらかすように腰に差したりはしない。

 銀太の顔付が改まった。

 手先の顔になった銀太に微笑み、真之亮は先に立って店を出た。

腹ごしらえをしてから深川へ向かうことにして、まずは神田屋へ行った。

船で大川を渡らない限り、本所・深川へ行くには両国橋を渡り、本所から河岸沿いの道を下るしかない。長い道のりを歩いて行くことになる。

五ツ過ぎの西広小路はまだ人影は疎らだ。店の者が芝居小屋に沢山の幟を立てかけたり、茶店も葦簾囲いを外して縁台を軒下に運びだしたりして客を迎え入れる支度に追われている。真之亮たちはまだ人出で賑わう前の閑散とした両国橋を渡った。

両国橋の東袂にも火除地はあるが西広小路とは比べ物にならないほど狭い。二十間も行かないうちに元町の路地に入り、それを抜けると大伽藍の回向院が目の前にある。春と秋に勧進相撲が回向院の境内で開かれているが、子供のころに真之亮も本所改役の父親に連れられて来たことのある寺だ。縁起は振袖火事と呼ばれる明暦の大火で亡くなった十万人余を幕命により葬った「万人塚」がもととなっている。

真之亮たちは回向院の前で右へ折れて竪川を一ツ目之橋で渡り、大川端の水戸屋敷の石置場から御舟蔵と続く河岸道を下った。

 急ぐ道ではない。真之亮は次第に木の香の濃くなる町を父親に連れられて来た記憶を手繰りながら歩いた。そして小名木川を万年橋で渡るときや、仙台堀を上ノ橋で渡る時に記憶は一段と鮮明になり、その頃の深川の潮と木の香の入り混じった匂いまでも思い出した。

深川は江戸の材木を一手に引き受ける木場を持つため、川並人足や木場職人が多く暮らし御城下の雰囲気とは異なっていた。この町には潔さとがさつさがない混ぜに感じられ、それがいなせとか粋とか呼ばれていた。正直なところ真之亮にはあまり良く分からないが、深川の町には御城下にはないある種の伸びやかさが満ちていた。

 上之橋を渡り終えると右手に船宿「波萬」がある。仙台堀河口の大川に突き出たような佐賀町の角に何隻かの船を舫った船着場があって、小体な二階建がなぜか思わせぶりだ。白漆喰の海鼠壁を巡らした米蔵屋敷の連なるすっきりとした町並にあって、板壁に囲まれた波萬の一画だけが異質な色気を感じさせた。近寄ると板塀の隙間から干し棹に洗濯物の赤襦袢などの下着が風に靡いているのが見えた。

「これは船饅頭をやっていると疑われても、仕方ないような船宿だぜ」

 手先の顔をして、銀太が声をひそめた。

「まともな商売だけで暮らせるほど世の中は甘くないのかもしれないが、裏稼業も思うほど甘くはないのだろう。御法度破りの商売に手を染めると、破落戸たちがすぐに目をつけて群がってきて食い物にする。波萬が裏の商売に手を出していたのか分からないが、いずれにせよ辰蔵と会って昨夜殺された者の名と前科の有無を聞かなければなるまい」

 真之亮は銀太に応えて、足早に永代橋袂へと急いだ。

 御法度に背く者を取り締まる町方役人もあまり大きな顔はできない。町方同心の内証が裕福なのは袖の下があればこそだ、というのは誰もが周知のことだ。昨今では七十俵五人扶持の御徒士組の者たちですら困窮に喘いでいる。町方同心の身分は御徒士組よりもさらに低い三十俵二人扶持の御家人でしかない。御上から頂戴する俸禄だけでは町方同心の台所は到底賄えないのも分かりきっている。

 米蔵屋敷の海鼠塀の続く佐賀町の大通を下って、永代橋袂から左へ折れて門前仲通へと入った。陽射しは日一日と春めいて暖かくなり、花の蕾も膨らみ始めたことだろうと思われた。そろそろ富岡八幡宮の参詣人が門前仲通に姿を見せはじめ、広い通りに面した表店は日除け暖簾を軒下に張出していた。 

 黒江町の一の鳥居を過ぎると町は急に門前町の色合いを濃くして、二の鳥居の両脇には仲見世や屋台が華やかな幟や旗を風になびかせていた。

「銀太、浅草や両国広小路も悪くはないが、深川門前仲町も良い所だろう」

 真之亮が声をかけると、銀太はフンと鼻先で笑った。

 浅草界隈を縄張りとしていた銀太は沽券にかけて浅草広小路が江戸一番の盛り場でなければ気が済まない。深川門前仲町の雑踏を斜に見て肩を張るのも銀太の若さだ。

 富ヶ岡八幡宮二の鳥居から八幡宮に背を向けて蓬莱橋へ向かって門前広小路を南へ歩いた。そして十間ばかり行くと右手に『升平』と軒下行灯に書かれた居酒屋があった。その店がお正がやっている居酒屋で、辰蔵はお正と夫婦のように店の二階で暮らしていた。辰蔵たち二人は木場人足の子供で同じ材木町の長屋に暮らしていた幼馴染だったと聞いている。

 真之亮の知るところでは、お正は子供屋「巴屋」抱えの辰巳芸者だったが、二枚証文の例にもれず二十歳過ぎに旦那を取らされ一時期囲われ者になっていたようだ。辰蔵は喧嘩三昧とすさんだ暮らしで木場人足をしくじったばかりで、当時は破落戸となって深川界隈では結構な顔になって暴れまわっていたという。

だが幸か不幸か、お正を囲った呉服問屋の旦那はわずか二年半後に卒中であっけなく世を去った。すると倅が跡を継ぎ初七日も済まないうちに番頭がやってきて、雀の涙ほどの手切れ金を投げ付けられるようにして一色町の妾宅を追い出されたようだ。

門前山本町の子供屋「巴屋」から戻ってこないかと誘われたがお正は断った。そして貯めていた月々のお手当てと手切れ金を元手に居酒屋を始めた。それが三年ばかり前のことだった。

 辰蔵は真之亮の亡父から手札を受けたばかりのまだ駆け出しの岡っ引だったが、お正に誘われるままに用心棒代りに棲みつきそのまま夫婦のように暮らしている。二人は夫婦の届けを町役に出していないが、誰もそんなことは少しも気にしなかった。

「辰蔵親分は居酒屋の居候かい」

 と小さな声で聞いて、銀太は怪訝そうな顔をした。

「そうかもしれないが、元々幼馴染の女将と紆余曲折あって、今では一つ屋根の下で暮らしているのさ」

 そう言って、真之亮は微笑んで見せた。

 縄暖簾も出ていない昼前の居酒屋は昼行燈のようで、店を畳んだ仕舞屋のような寂しさがあった。真之亮は升平の前に立ち、無愛想な腰高油障子を引き開けた。

 升平は間口二間に奥行き三間ほどの土間に二筋の飯台が置かれた手狭な店だった。十数人も入れば鮨詰めになるかと思われた。

「邪魔するぜ。誰かいないか」

 おとないを入れると、板場に三和土を刻む駒下駄の音がして、

「あいにくと、まだ店はやってないンだよ。宵の口に出直しとくれないか」

 弾むような声とともに板場の仕切りの暖簾を掻き分けて、大首絵から抜け出たような年増が顔を出した。

 そして真之亮に僅かに微笑んで引き込もうとして、女は動きを止めて小首を傾げた。お正は着流しに落とし差の若い浪人者の面影に見覚えがあった。身につけている着物はくたびれた古着だが、若い精悍な面差しは溌剌としていた。

「間違っていたら御免なさいよ。もしや中村様の若旦那じゃありませんか」

 暖簾を片手で掻き上げたまま、お正は真之亮を見詰めた。

「若旦那じゃない。中村家の厄介者だが、今じゃ古手屋の用心棒だ。おっと、辰蔵親分も升平の用心棒だったか。ところで、その用心棒はいるかい」

 そう言うと照れたように顔を俯けた。

お正は悪戯小僧を叱るように真之亮を睨んでから、

「なんの支度もしていませんけど、ささっ、中へ入って下さいな」

 と、お正は真之亮を迎え入れた。

真之亮は入り小口の空き樽に腰をかけた。銀太も真似たようる真之亮の隣に腰を下ろした。

 お正は板場へ振り向き「ウチの人は仲町の自身番にいるから、呼んできておくれ」といった。そして真之亮に振り返ると「月行事の打ち合わせに行っているのさ。すぐ帰って来るからね」と安堵の笑みを見せた。

「善吉が殺されて、夜明け前から御城下へ出掛けたりして大変だっていうのに」

――町内の野暮用に引っ張り出されて、とお正は辰蔵を労るような眼差しを見せた。

 茶でも淹れるのか、お正は板場へ姿を消した。

「善吉っていうのか、昨夕御城下で殺された船頭は」

 真之亮は板場へ向かってお正の言葉を繰り返して、銀太と顔を見合わせた。

「はい、善吉の行方が分からなくなったと、昨夜から一晩中心当たりを走り廻っていたンですがね。こんなことになっちまって、親分はしょげ返っていますよ」

 板場から応えて、お正は盆に湯飲みを載せて来た。

 真之亮と銀太には昨日善吉に何があったのか、聞かなくてもおおよそのことは分かっている。おそらく子供が駄賃をもらって善吉に渡し、そこに「駄賃五十両にて、一晩だけ船頭の腕を貸せ。引き受けるのなら暮れ六ツに○○の船着場へ来い」と書いてあったはずだ。善吉はどうしたものか辰蔵に諮って、誘いに乗る振りをして出掛けた。辰蔵が善吉の後をしっかりとつけて行くから心配するなと言って。暮れ六ツに善吉が文に記された場所へ行くと、また別の子供が文を持って待っていた。それには「一人で猪牙船に乗れ」との文面が書かれていたはずだ。いくら辰蔵が急いで河岸道を走ったとしても、猪牙船で大川を横切る善吉には勝てない。善吉を乗せた猪牙船は川面を滑るように元柳橋の船着場へ船を着けたが、そこで待っていたのは大店の内儀に化けたお蝶だった。

 真之亮と銀太は黙ったまま熱い茶を啜りながら、同じことを考えていた。

 こうも他愛なく似た手口で次々と殺されるのはやり切れない。せめて重大事件として北町奉行所から町方下役人や自身番に今回の一件が回状されていれば。しかし、町奉行所が本気で一連の事件に取り組まないのは前科者が仲間内で殺しあうのなら、町方は直接手を下さないで世間の厄介者を始末できるからだ。北町奉行所としては下手人が自首して来るのならともかく、わざわざ手を煩わせて下手人を追い廻す必要はない。できることなら前科者をすべて始末してくれたらお江戸は清々しくなる、くらいにしか思っていないのだろう。今のところ読み売りの瓦版でも世間の噂話でも、下手人を早くお縄にしろと騒いでいない。

 眉根の皺を深くして、真之亮は宙を睨み付けた。前科者は確かに罪を犯してお縄になった者だ。世間に害を成す悪党だったかも知れないが、罰を受けて娑婆に戻って来た者を暖かく迎える世間こそが必要なのではないか。前科者を排除していてはいつまでたっても悪の芽は摘み取れない。次から次へとと恨みつらみの蔓が伸びるだけだ。

「若旦那、いつお見えで」

 と、低い声がして目の下に大きな隈を作った辰蔵が戻ってきた。

「ナニ、つい先刻だ。どうした、ひどく参っているようじゃないか」

 のそりと入ってきた辰蔵を、真之亮は労うような眼差しで迎えた。

「善吉が殺されちまって。昨夜、元柳橋まで行きましたが、寄らずに帰りやした」

「良いってことよ。何も遊興で来たンじゃないンだ。ああ、これは茂助の店を手伝うことになった銀太という者だ」

 辰蔵が不審そうな眼差しで銀太を見るのに気付いて、真之亮はさりげなく銀太を紹介した。銀太からそこはかとなく漂う掏摸の匂いが、岡っ引の鋭い嗅覚に触ったようだ。茂助の古手屋を手伝う者だと紹介してからも、時折り辰蔵は銀太へ訝しそうな視線を投げた。

「ところで、親分。善吉は初っから元柳橋へ呼ばれたンじゃないな。最初は何処かの船着場に呼び出されたンだろう」

 真之亮がそう訊くと、辰蔵は大きく目を見開いた。

「その通りでさ。しかし、どうしてそんなことが分かるンで」

「同じような殺しが、御城下じゃここ五日の間に二件も起こっている」

 目を剥いた辰蔵に、真之亮は手妻の種明かしをするように優しく言った。

「それで、善吉は誰に何処へ呼び出されたンだ」

「小名木川河口の御船蔵の裏の船着場でさ。七ツ過ぎに近所の子供が駄賃をもらって文を届けて」

 思い出すように、辰蔵はぼつりぼつりと語った。

 御船蔵といっても開府当時幕府軍艦の安宅丸が格納されていた大きな蔵のことではない。小名木川河口の御船蔵は町奉行所の管理下にあって、水害に備えて鯨と呼ばれる快速艇が収納されていた。大川に向かって観音扉があって、川端には石組の船着場があった。

「親分は善吉に教えられて、悪党を捕まえてやろうと御船蔵を張ったンだな」

「へい、『一晩身柄拝借値五十両』ってね。まともな仕事じゃねえと誰にでも分かりまさ。ふざけた野郎だ引っ括ってやれ、と松吉と二人して萬年橋袂と佐賀町の大川端で張ったンですが、善吉は御船蔵の船着場の猪牙船に乗せられて、大川を渡っちまった」

「どうして、善吉は親分を待たずに猪牙船に乗ったンだ」

「御船蔵に願人坊主が文を持って、善吉が来るのを待ってたンでさ」

「その願人坊主っていうのは」

「僅かな駄賃さえ貰えば、何だってする乞食坊主でさ。おそらく坊主は事件と関わりないでしょう」

「そうか。願人坊主が胡乱な者ではないとして、どんなやつが坊主に文を届けさせたかは、訊いちゃいるンだろう」

 真之亮が聞くと、辰蔵は言いにくそうに逡巡した。

「それが、四十半ばの小柄な八丁堀の手先ふうだったって言うンで。町人の形をしていたが、匂いで分かるって抜かしやがる。どうせ嘘っぱちに決まってまさ」

 ためらった後、辰蔵は真之亮の様子を窺うように言った。

 真之亮は目を剥いて辰蔵を見詰めた。驚き以外のなにものでもない。八丁堀同心がこの事件に一枚噛んでいるというのだろうか。

「その願人坊主は何処の坊に寄宿しているか、聞き込みは済んでいるのか」

「へい、海辺大工町の裏手の霊厳寺でさ」

 と、辰蔵は界隈でも由緒正しい寺の名を言った。

「その願人坊主のことを霊厳寺に確かめてあるのか」

「へい、確かに修行僧として一月前から宿坊に泊めていると」

――まともな坊主だ、と辰蔵の話を聞いて真之亮は頷いた。

 嘘を言って得するわけでもなく、また嘘を言うような人物でもないだろう。

 では、今度の事件に八丁堀が関与していると認めるのか。いや、そんなことは間違ってもあり得ない。八丁堀同心は身分こそ低いが不浄役人を勤めることで袖の下を手にして、幕臣としては低い身分に似合わず裕福な暮らしをしている。その八丁堀同心が犯罪に手を染めるだろうか。世襲で受け継いだ結構な身分を失うことになりかねない危険な橋を渡るだろうか。

 並んで座る真之亮と銀太は思わず顔を見合わせた。

「親分、願人坊主からその町人の人相を聞いて、事件の口書を取っておいてくれないか」

「へい。しかし、取調べには八丁堀同心の指図が入用ですが……」

 と言い難そうに、辰蔵は言葉を濁した。

 岡っ引には十手捕縄が下げ渡されているが、その実ほとんど何の権限も付与されていない。たとえ下手人を取り押さえても、縛り上げることすら岡っ引の裁量では出来ない。建前では手札を受けた同心の差配によって、岡っ引は下手人を探索し縛り上げることになっている。真之亮は八丁堀に生まれ育ったが、町奉行所同心でないため辰蔵を差配できない。そのことを辰蔵は言外に仄めかした。

 真之亮は懐から十手を引き抜いて見せた。それは朱房の付いた町方同心の証だった。辰蔵は驚いたように目を見開いて真之亮を見詰めた。

「拙者は南町の御奉行から直々に仰せつかった隠密同心だ。何かあった折りには拙者が責めを負うゆえ、願人坊主から口書を取っておいてくれ。それから隠密同心だということは兄上にも誰にも内緒だ」

 そう言って、真之亮は十手を懐に仕舞った。

「ところで善吉のことだが、やつは前科者だったのか」

 真之亮は低い声で聞いた。

「へい、確かに善吉は前科者です。三年前、南町奉行所で船饅頭の取り締まりがあった折りに。たまたま善吉が船頭をしていて捕まって、石川島の寄場へ二年ばかり行っていやした。しかし、体を売るしか仕方のない女だっています。あっしは善吉が悪吉とは思えなくて。寄場から戻った善吉を波萬に紹介して、あっしが身元請人になったンです」

 辰蔵は善吉に非があって殺されたのではない、と言いたそうに言葉を重ねた。

――分かっている、と真之亮は頷いた。

「さきほど御城下で二人殺されたといったが、実はその二人とも前科者だったンだ」

 そう言って、真之亮は辰蔵の懸念を解いた。

 一連の殺しに関して、唯一の共通点は被害者が前科者ということだ。

「それじゃ、願人坊主の勘が正しければ、八丁堀が前科者を狩っているってことですかい」

 怪訝そうに眉根を寄せて、辰蔵は聞いた。

 辰蔵の言葉を聞いて真之亮は考え込んだ。前科者を狩るとはどういうことだろうか。一晩の仕事に五十両を払う、というのは前科者を釣るための方便なのだろうか。確かに八丁堀同心と女掏摸のお蝶とは奇妙な取り合わせだ。

 困惑した面持ちで、真之亮は大きな溜め息をついた。

「いや、単に殺めているだけとは思えない。前科者はそれなりに盗人の技を身につけている。徒党を組むのに藤四郎を集めて技を教え込むより、腕っこきの前科者を集めた方が仕事が確かだろう。今度の一連の殺しは目星をつけた前科者が従前通りの悪党か、それとも前非を悔いて真っ当になっているかどうかを確かめているンだろう。それが証拠にいずれも一度は近くの見通しの良い場所に呼び出し、それから次の場所へ行くように命じている。何処からか後をつけている者がいるのかいないのかを見張って、悪党仲間に引き込めないと踏んだ場合は始末してるンじゃないか」

――と考えているが辰蔵はどう思うか、と真之亮は目顔で訊いた。

「なるほど、そう考えると辻褄が合うような気もしますが。すると善吉の場合は船頭の腕を買われたってことですかい」

 どうも違うようだ、とでも言いたそうな眼差しで辰蔵は問い掛けた。

 なるほど、善吉は腕の良い船頭だったのだろう。しかし、船頭なら深川の船宿の前科者に目をつけなくても、御城下の山谷堀や日本橋河岸、鉄砲州から越前堀あたりの荷船の船頭にも前科を持つ腕の良い船頭はいくらでもいるはずだ。それがなぜ、よりによって深川の船頭の善吉を誘い込もうとしたのだろうか。

「佐賀町の船頭善吉を仲間に引き込もうとしたってことは、悪事をたくらんでる連中は堀割沿いの屋敷を狙っているってことだろう。それも本所深川の入り組んだ堀割を熟知した深川の船頭でならなければならないってことだ。つまり夜盗一味が狙っているお屋敷は深川にあるってことじゃないのか」

 真之亮は心に浮かんだことを口にして、辰蔵と銀太の意見を伺うように見た。

 自信があるわけではないが、突き止めた一つ一つの事実を積み上げたらこうなる。誰かが口を開く前に板場から近づいて来る下駄音に三人は話を中断した。お正は盆に丼を三つ載せていた。話に夢中になっている間に、とうに昼を過ぎていた。

「深川丼を作ってみましたが、お口に合いますかどうか」

 お正はそう言って、丼を飯台に並べた。

「やや、これは。まことに相済みませぬ。いかいご造作をお掛け致します」

 真之亮と銀太は礼を言って箸を手にした。

「腕っこきの前科者を集めて悪事を働くってのは前代未聞ですが、真之亮様のお考えが図星なら、下手人の頭目が八丁堀でもおかしくないってことですぜ」

 辰蔵は丼を抱えて、天井を睨んだ。

 真之亮は八丁堀に生まれ育った者として、下手人が八丁堀だと言われて良い気はしない。眉根を寄せて深川丼を親の仇のように睨み付けて掻き込んだ。

「御船蔵の周囲に怪しい者がいなかったか、これから虱潰しに探ってみましょう」

 早くも食べ終えて、辰蔵は茶を啜った。

「これから探るのなら小名木川河口の御船蔵の対岸、稲荷の境内に誰かいなかったか、海辺大工町の者にでも聞き込んでみたらどうだろう。親分が善吉の後をつけていたと、対岸の元柳橋の者に知らせたはずだから。場所としては萬年橋袂の稲荷の祠の裏辺りか」

 真之亮がそう言うと、辰蔵は不思議そうな眼差しを向けた。

「小名木川河口の稲荷から、どうやって大川の対岸へ知らせるンで。いかに喚いたところで声は届かないし、昼間ですら対岸の者の身振り手振りを判別するのは困難ですがね」

「辰蔵親分、それはこの銀太が謎解きをしたンだ。これまであった一連の事件はすべて陽が落ちて暗くなってから殺されている。ってことはおそらく下手人の仲間は合図に龕灯の明かりを使ったンだ。その火種には稲荷のお灯明があるだろう」

 真之亮が説明すると、辰蔵は「なるほど」と頷いた。

 夜に対岸の明かりが見えるのは、大川の川辺に暮らす者なら誰でも知っている。川霧がなければ対岸の大川端河岸道を行く者の灯す提灯ですら朧げながら見える。

「あまり親分の邪魔をしても悪い。そろそろ帰るとするか、」

 真之亮は立ち上がり「女将さん馳走になった」と板場へ向かって声をかけた。

「善吉の一件でわざわざ深川へ来られたのですかい」

 辰蔵も立ち上がって、不審そうなな面持ちで聞いた。

「ウム、不幸にして善吉は殺されちまったが、善吉殺しは善吉殺しだけで探索しても始まらない事件だ。善吉の件もあったが、実のところは親分の様子を伺いに来たンだ。善吉が殺されてしょげかえってるンじゃないかと思ってな」

と、真之亮は辰蔵に笑みを見せた。

「これから、どちらへ」

と、板場から出て来たお正が訊いた。

「けえるよ。茂助一人に古手屋をやらせて、居候が遊んでいては申し訳ないからな」

 真之亮が応えると、お正が「お前さん」と辰蔵に目配せした。

 それに辰蔵は「ああ」と応じて、真之亮に「宜しかったら」と言った。

「元柳橋まで、そこから船で送らせやす」

そう言うと、辰蔵が先に立って腰高油障子を開けた。

 深川はいたる所に掘割が走っていて、ここかしこに船着場があった。辰蔵は真之亮たちを黒江町入堀の船着場へ案内した。知合いの船頭に真之亮たちを元柳橋袂の船着場へ送るように依頼した。真之亮たちは猪牙船に乗り、油堀を経て大川へ出た。

 元柳橋袂の船着場を目指して、猪牙船はそのまま大川を斜めに漕ぎ上った。

「善吉が昨夜殺されたが、同じ船頭として何か気になることはないか」

 真之亮は胴の間に渡した横板に腰を下ろして、艫の船頭に声をかけた。

 年の頃は四十前、ねじり鉢巻きに法被姿と、粋を地でいく井出達だ。

「善吉がどんな船頭だったかわっしは知らねえが、以前は船饅頭の船頭をしていたっていうンだろう。闇夜の大川で櫓を任せるには一番の船頭だったンじゃねえかな」

 船頭は多少皮肉めいた口調で言った。

「闇夜の大川で櫓を操る腕は船饅頭の船頭が一番なのか」

 真之亮は皮肉な調子に合わせて、突き放したような口吻で船頭に訊いた。

「へい。良いですかい。たとえば今、おいらは辰蔵親分に言われてお客人を元柳橋へ送っている。これは長年の勘がなくても周りの景色を見ながら櫓を押せばよいわけだから年季はいらねえ。だけど、船饅頭の船頭は女と客を船に乗せて、闇夜の大川に船を出して半刻なり一刻なり流れに漂わせてから、ぴたりと元の河岸へ船を着けなければならねえ。それは一つの技ってものでさ」

 皮肉からではなく、船頭は真面目顔でそう言った。

 真之亮は船頭に「うむ」と頷いた。当然のことながら大川には流れがある。しかしそれは海へ向かって流れるだけではない。満潮時には海水が浅草辺りまで溯る。暗闇の大川で船を操るには一定の流れに抗っていれば良いというのではないのだろう。

善吉に目をつけたのはそういうことか、と真之亮は腑に落ちるものがあった。単に目的地へ着けば良いだけではないのだ。川から狙った屋敷へ一味を送り込み、疑われないように河岸から川へ漕ぎ出して仕事が終わるのを待って、頃合いを見計らって戻り仲間を拾って逃走する。その合図にも龕灯を使うのだろうか。

 そうした考えを巡らせているうちに、猪牙は元柳橋の船着場についた。

 春の陽射しに誘われて、広小路は肩が触れ合うほどの人出だった。

「巾着切りも出張って来ているンだろうな」

 振り返って真之亮が声をかけると、銀太は当然のことのように「ああ」と応えた。

「たとえば、あの屋台の傍に立って人待ち顔にしている野郎、あの目配りは掏摸のものでさ」

 銀太はにこやかに笑って、次々と指差して真之亮に教えた。

「それでは、盛り場は鷹狩りの草原のようなものではないか」

 真之亮が驚きを表すと、銀太は「だから」と吐き捨てるように応じた。

「学問でいろんなことを学ぶのは人としての礼節を知るためなンだろうけど、家が貧乏で学問を修められなかった者に、礼節を弁えろというのは筋違いじゃねえのかってことでさ」

 そう言って頬を膨らませた銀太に、真之亮は「そう怒るな」と嗜めた。

「銀太、盗人にも五分の理といってな、誰にでもお天道様と理屈はついてまわる。しかし、大事なのはその理屈が道理として世間の人々に受け容れられるかどうかだ」

 そう言うと真之亮は銀太の肩を叩いて、柳原土手の古手屋へ急いだ。

 丸新の店先が見えると、真之亮は急に足を速めた。

 通りから見るだけでも何かがあったのは明らかだ。丸新の店先にいつもとは比較にならないほど客が群がっている。店先で茂助が客の対応をしているが、どうやら捌き切れないようだ。

 なぜだろうかと、いつもの丸新の客の入りと異なる様子に、真之亮は柳原土手道を急いでに店に近づくと、その理由がなんとなく解った。どうやら店を切り回しているのは茂助一人だけではなさそうだ。目を凝らすと紐に吊るされた色とりどりの古手の上で動く白髪交じりの島田髷とその相手をしている艶やかな銀杏返しがあった。

――誰が来ているのか、と真之亮は背伸びして女の顔を見て驚いた。

 お良だった。白い上っ張りを脱いで藍千本縞の着物に白襷をして、奥の上り框でかいがいしく四十年配の内儀に振袖の晴着を勧めていた。おそらく身内の娘に急な慶事があって、呉服屋で反物を買求めて仕立てをしていては間に合わないのだろう。

「茂助、お良が手伝いに来てくれたのか」

 店先の茂助に声をかけると、茂助は嬉しそうに笑みを浮かべた。

「何言ってるンですか、仕舞屋を見に来られたンですよ。昨夜、兄上が長崎から帰って来られたようで」

 と言って客の相手を銀太に任せると、茂助は嬉しそうに真之亮を奥へ引き込んだ。

 茂助にいわせれば一人前の男とは養うべき所帯を持ち、世間様に胸の張れる真っ当な仕事を持つことだ。その点、表向きは古手屋の用心棒だが、真之亮には隠密同心という立派なお役目がある。元来が生まれも育ちも八丁堀だから、ヤットウが強いだけの隠密同心とはわけが違う。お役目上、真之亮が広小路の界隈で暮らすのになんの心配もない。手先として申し分のない銀太も来てくれた。それだけでも良いが、欲を言えばお良と所帯を持ち、家を構えることだ。わざわざ松枝町の仕舞屋を借りる必要はないのだが、四角四面の茂助の考えではそうはいかない。客人を迎える式台のある、ちゃんとした家に暮らすのも一人前の男のありようの一つだ、と茂助は自分が叶えられなかった人生訓を語って聞かせた。

「お良さん、これから松枝町へ行ってご自分の目で仕舞屋を見て下せえ。建具や間仕切りの手直しが必要なら大工を手配しますから。場所は真さんが知ってまさ」

 と、茂助はお良を急き立てるように言った。

 追い出されるようにして、お良と真之亮は丸新を後にした。

 松枝町へ行くには新シ橋に背を向けて神田富松町の路地へ入り、豊島町一丁目の角で三叉路を西へとる。そのまま真っ直ぐに行くと、間もなく松枝町に辿り着く。近くに玉池稲荷があって御城下の町中にしては木立の多い一画だった。

 お良を案内した仕舞屋は屋根瓦の載った行灯建ての二階家だった。間口は四間ほどと八丁堀同心の組屋敷と遜色がないばかりか二階がある分だけ部屋数は多かった。元は口入れ屋だったようだが、請人で不始末をしでかし鑑札を取り上げられて夜逃げしたと聞いている。

 隣の薪炭屋が仕舞屋の持ち主で、商売は四十過ぎの大柄な愛想の良い内儀が仕切っているようだった。

「拙者は中村真之亮と申します。隣の借家の件で参りました」

 真之亮が声をかけると、炭俵の間を縫って内儀が通路を転がるように出て来た。

「あなたが真之亮様ですかい。古手屋の茂助さんから聞いています。八丁堀育ちでヤットウが滅法強いと聞いて、この界隈の者は頼もしいと喜んでるンですよ」

 潰し島田の頭を下げてそう言うと、内儀は真之亮の手を引くように仕舞屋へ案内した。

 茂助が八丁堀同心の手先だったということを界隈の者は知っている。八丁堀生まれの真之亮が松枝町に越して来れば、西新井大師や川崎大師の厄除け札よりも火付や夜盗除けの厄除けにはうってつけだと喜んでいるのだろう。

 油障子を開けて仕舞屋へ入り、後をついて来るお良に内儀は曖昧に頭を下げた。

「ああ、この娘はお良といって、拙者とここで暮らすことになっている」

 真之亮は内儀の疑念を払拭するように明るい声で言った。

「それは、お近いうちにお二人が夫婦になるってことですかい」

 と言うと、内儀は満面に笑みを浮かべて土間から座敷に上がりお良を案内した。

 仕舞屋は建ってから十数年と、新しいともいえないが古びてもいない、ほどほどの家だった。もっとも江戸の町は火事が多く、建ってから五十年以上も経つ家は皆無といえるほどだ。家の造作や間取りや裏庭を内儀が事細かに教えながらお良を案内している間、真之亮は入り小口の上り框に腰をかけて待った。

 親子ほどに歳の違う二人の女は楽しそうに語らいながら、順に部屋を見て廻った。

 四半刻もの間、真之亮は女たちの声が奥の間から二階へ移り、裏庭へ移るのに耳を澄まして聞いた。話の内容は真之亮には大して興味のない他愛ないものだった。この部屋は日当たりが良いとか、この部屋は使用人部屋にすると良い、いや使用人なぞ置ける身分ではありません、お武家様でしょう、いえそれは以前のことです……、などといった話をコロコロと良く笑う内儀の甲高い声が展開して、お良の控え目な抑制された声がそれに混ざって聞こえた。

 家とは暮らしを営む『巣』でしかないが、家をめぐって女はこれほどにも飽きず延々と話が出来るものかと感心した。武士たるものは衣食住に拘泥すべきでなく、いつでも主君のために潔く死すべきものと幼少の頃から教えられて来た。この世は仮の住まい。この世で暮らす家に関して、真之亮がこだわるとすればお良が気に入るか否かだけだった。

「ここで膏薬を商って下さいな。ウチの使用人にも腰痛持ちなどがいてね。八丁堀の了庵先生のお嬢さんなら秘伝薬の調合もご存知でしょう」

一通り見終わって土間へ戻ると、薪炭屋の内儀がお良に勧めた。

――ねえ、と立ち上がった真之亮にも内儀は馴れ馴れしく膏薬を商うように促した。

 お良の口から真之亮は浪人者だと聞かされたのだろう。浪人者は差料を帯びてはいるが武家ではない。しかも町人の人別にも入れず、厳格な身分社会では無宿人の浮き草だ。内儀の口調が先ほどと比べて随分と砕けたものになっていた。

 真之亮は内儀の問い掛けるような眼差しに曖昧に頷いた。

「まるで大家さんから人別調べでも受けているようでした」

 弁慶橋を渡ると、お良は真之亮に話し掛けた。

 部屋を案内しながら、内儀は新たに隣で暮らす者の身元や出自を細かく聞いたようだ。それは大家として店子を町役に届けなければならないため、当然のことなのかも知れない。近所の者から聞かれて、なにも知らないでは大家の面目が潰れる。

「ところで、あの家で良いか」と、真之亮はお良に聞いた。

 それはあの着物で丈は合うのかと、古着でも買う程度の物言いでしかなかった。

「はい、十分です。むしろ広すぎるかと」

 お良は喜びを控え目な態度に隠して、真之亮を上目に見た。

「そうか、お良に不都合がなければあれに決めよう」

 そう言うと、真之亮は古名大門通りを八丁堀の方角へと向かった。

 きちんと話をつけて、今後のことを取り決めなければならないのだが、そうしたことになると真之亮は逡巡した。それは気持ちが決まっていないからでもなく、世間の常識が真之亮に備わっていないからでもない。ましてや面倒に思っているわけでも、ほんの形式だと軽々しく考えているわけでもない。早く切り出さなければならないと思いつつ、ついに長い帰路も尽きて江戸橋を過ぎ、八丁堀は目と鼻の先になってしまった。

 堀割に沿った河岸道を下りながら、真之亮は足運びを緩くして振り返った。

「すでに帰ってこられたようだの、兄上殿が」

 真之亮はそう言って、言葉の継ぎ穂を探した。

「お良を妻に迎えたいと、了庵殿に申し込みに行かねばならぬが」

 真之亮が思案顔にそう言うと、お良はクスリと笑った。

「お早くして下さいませね。良は家の中に身の置き所がなくなりました。明日にでも家を出なければならないかと、思案していますの」

 とお良が言うと、真之亮は顔色をなくしてうろたえた。

「ややっ、誠に申しわけござらん。一日一日と日延べして、ついには兄上が戻られる日を過ぎてしまった。ついてはこれより拙者が参って、了庵殿にお会い致そう」

 真之亮は慌てふためいた。

 その様子を見てお良はクスリと笑った。

「いいえ、その儀には及びません。先日、中村清太郎様がお見えになり、父にお話しして下さったようですから」

「えっ、兄上が」

「ええ。父に弟真之亮はお奉行直属の抱席として分家を許された、しかも町中で暮らすも勝手である、とお奉行様から有難いお言葉を下された、と申されたようです」

 真之亮には思いも寄らないことだった。あの堅物だけが取柄の兄が諸々の手続きを済ませてくれるとは。

兄の好意は好意として有難く感謝しなければならないが、兄の配慮はあながち弟に対する好意だけでもなさそうだ。部屋住みが悶着の一つでも起こせば中村家に災難が降りかかる。部屋住みを抱えるということは厄災の種を抱えるのと同じことだ。

考えたくはないが兄は中村家の厄災の種にならないようにと、早めに手を廻しただけかも知れない。しかしいずれにせよ、中村家当主としては部屋住みの弟が町人の娘を娶るからには、まずは真之亮の武家身分を剥奪しておかなければ御定法に障ることになる。そのために南町奉行所の長たる奉行に「人別除外伺い」を出して、その際に奉行から直々に真之亮を取り立てたことを知らされたのだろう。

「真之亮の身分がどういうことになっているのか分かりかねるが、と清太郎様も父の前で首を捻っておられたとか」

そう言って、お良は屈託なさそうに笑った。

「まっ、そういうことだ。拙者は市井に暮らしてお奉行の手足となる」

 肩の荷を下ろしたように気が軽くなり、真之亮はお良に笑みを見せた。

 そうこうするうちに八丁堀茅場町につき、お良と門前で別れた。

 それこそ近いうちに兄と会い、お良と所帯を持つ了解を得なければならない。ふたたび気が重くなるのを感じつつ、真之亮は柳原土手への帰途についた。


 柳原土手に夕暮れが迫っている。

 陽の匂いが通りから薄れて、寒気が舞い戻ろうとしている。

 裏口からではなく真之亮は店先から古手屋へ入り、茂助に声をかけた。

「茂助、世話をかけるな。お良も借家を気に入ってくれたようだ」

 真之亮は茂助に頭を下げた。

「何の真似ですかい。わっしは真さんの手先のつもりでいやす。真さんは儂の旦那ですぜ。住むところぐらい探すのは何でもないことでさ。それより本来のお役目に力を注いで下せえ。今度の事件を解決しなければ何も始まりませんぜ」

 そう言うと、銀太と二人して神田屋へ行って来るようにと言った。

「銀太、真さんと飯を食ってきな」

 茂助が奥に向かって声を上げると、銀太がすぐに飛び出て来た。

「真さん、江戸にゃ古着しか買えねえ貧乏野郎ばかりだぜ。柳原土手の古手屋がこんなに忙しいとは思わなかった。心底、クタクタに疲れて腹が減っちまったぜ」

 銀太は悪態をついて空いた腹を擦った。

「銀太、なんて罰当たりなことをいうンだ」

 茂助は怒ったように打つ真似をしたが、銀太は身軽に腕の下を潜り抜けた。

「銀太、古手屋を悪し様に言ってはいけないぞ。茂助が古手屋で稼いでくれるお陰で、拙者たちは飯が食えるンだ。拙者の俸禄なんぞ、あってなきが如しだからな」

 笑みを浮かべて、真之亮は盆の窪に手をやった。

「三十俵二人扶持だろう。それだけ頂ければ食うに困らないンじゃないか」

 銀太が指摘するまでもなく、単純に米に換算すれば一人扶持が五俵で二人扶持だから十俵、それに三十俵のつごう四十俵だ。それで一家と二人の手先を養うことになる。米一俵はおよそ千六百文(十分の四両)だから、年間十六両で過ごさなければならない。扶持だけで同心の所帯を賄うとすれば夫婦が食べるだけでぎりぎりだ。さらに松枝町に借家を求め手先を置くとその分はそっくり足が出る。若い夫婦がいつまでも二人っきりということもないだろう。やがて子が生まれれば諸事万端に掛りが要るようになる。当然のように俸禄だけでは首が回らなくなってしまう。

そうした心許ない三十俵二人扶持の俸禄だが、茂助の考えは銀太とは異なる。武家とは貧しくとも卑しくない者のことだという。だからこそ権力を握って二百年以上も御正道を執ってこられた。武家の矜持とは百姓や町人には真似できない大真面目な痩せ我慢だ。

「銀太、お武家様にとって俸禄は飯の種だけじゃねえンだ。扶持米を頂ける身分こそがありがてえンだよ」

――お前にゃ分かるめえが、と言いたそうに茂助が店先から銀太を睨んだ。

銀太は「ああ、わからねえや」と吐き捨てる声が聞こえそうな眼差しで茂助を睨み返したが、肩の力をふっと抜いて「そういうものかね」と応じた。思慮分別が備わっているのが大人の資質の一つだとすれば、いつの間にか銀太は大人の資質を獲得したのかも知れない。

 真之亮は銀太と連れ立って神田屋へ急いだ。

 道には仕事を終えた職人やお店者が家路をたどり、どことなく開放された安堵感が満ちている。そうした人たちの群れに混ざって、真之亮は眉間に皺を寄せていた。

「銀太、下手人は何をたくらんでいると思うか」

 神田屋まではせいぜい二十間ほどでしかない。余り真剣に話し込んでいると店の前を通り過ぎてしまう。

「よく分からないが、腕扱きの前科者を集めて長屋のドブ掃除をやろうってンじゃないのだけは確かだな」

 仕事を終えた人たちの心持が移ったのか、銀太は軽口を叩いた。

「長屋のドブ浚いでないとすれば、やはり夜盗しかないだろう」

 真之亮は真面目に応じて、神田屋の縄暖簾を掻き分けた。

 押込み強盗か夜働きだという予測はついている。それがどのようなものか、何処に狙いをつけているのか、銀太の勘を聞きたかった。

 しかし、ここで真之亮の気に懸かることが一点だけあった。殺された三人の前科者はいずれも南町奉行所と関わりのある者ばかりだ。北町奉行所に関わりのある者は一人もいない。町奉行所は北と南しかなく公平に考えれば関わりを持つ前科者は半々、三人も殺されれば一人ぐらいは北と関わりのある者がいて当然だ。しかし、この偏りに何らかの根拠があるとすれば、事件に南町奉行所の者が関わっていることになりはしないだろうか。思い到った事の重大さに、真之亮は黙ったまま飯を掻き込んだ。

 その夜、真之亮はある推論に到って一人で悶々としていたが、ついに腹を割って茂助と銀太に話してみた。

「殺された前科者はいずれも南町がお縄にした者ばかりだが、なぜと思うか」

 と、真之亮は問いかけるた。すると、

「北の当番月に南の岡っ引の手下を始末しているって考えられないかな」

 偶然でないとすれば殺された前科者たちが南の岡っ引が使っている手下だ、と下手人は承知して殺っているのではないか、と銀太は言った。

「銀太、端っから手下だと分かっていて、その者を始末するつもりなら擦れ違いざま匕首を叩き込めば済む。いちいち場所を変えていることと突き合せれば、下手人たちは前科者が岡っ引の手下かどうかを確かめた上で殺害しているのではないか」

と真之亮は言って、さらに踏み込んだことを口にした。

「南町奉行所の者がこの事件に一枚噛んでいるとすれば、すべてが腑に落ちる」

 と呟いた真之亮に茂助は「えっ」と驚愕の色を刷き、銀太は眉根を寄せた。

 それは驚きというよりも衝撃だった。茂助は雷に撃たれたように目を閉じたが、やがて眼を見開くと小さく頷いた。金輪際認めたくないが、判明した事実をつき合わせて考えると、そういうことになる。

「真さん、南町奉行所の者が下手人の一味にいるとすれば、前科者の名や居場所も容易に手に入るってことだ。しかも、南町奉行所が扱った事件の咎人なら、それ以後も南町奉行所の岡っ引と関わりを持つのが自然でさ。前科者が殺されたところで北町奉行所が当番月なら、北町の岡っ引が本気で探索しないと踏んでのことかも知れねえ」

 真之亮の考えを引き取って、茂助が肝心な点を解き明かした。

 町奉行所が北と南に分かれて仕事を分担し合うのも、悪党たちと変な癒着が生じないようにとの配慮だが、それを逆手にとって事を起こしたとなると用意周到な悪党ということになる。

「そこなンだ、南町奉行所の者が知りうることは前科者の名だけではない。書庫の事件綴には事件の顛末から押し入った屋敷の見取図まで詳細に書かれているはずだ」

 真之亮がそう言うと、茂助は眉根を寄せて考え込みハタと手を打った。

 吟味方は自白主義を採り、下手人の口述を取って爪印を押させる。そのためには過酷な拷問は勿論のこと、親兄弟から親しい者まで類が及ぶことを言い聞かせて自白を強いた。そうして作成した事件綴りには仲間のことから押し入った屋敷の図面、さらには後日の逃げた足取りまで仔細漏らさず残されている。

「清蔵旦那が本所改役から定町廻に上がる目前だったのを棒に振っちまった事件ですがね。そういえば、こんなことがありやした」

と、茂助は話の順序を整理するように視線を宙に漂わせた。

「あれは、旦那が亡くなられる二年ぐらい前のことでさ。佐賀町は米問屋摂津屋の米蔵屋敷に忍び込んだ盗人がいたと思って下せえ。時恰もちょうどこの頃、二月の切り米支給日だったかと思います。米屋が雇い入れていた用心棒に叩きのめされてお縄になった男でさ。吟味してみると前科もあって盗んだ銭が十両どころじゃなかったため、獄門首は間違いない。そこで、旦那が三途の川を渡ってから閻魔様の前で言い足す必要がないように、ここで洗いざらい喋っちゃどうかと水を向けた。すると、盗人が一度だけ面白い夜働きをしたことがあると言ったンでさ」

――ああ、思い出して来やがった、と呟いて茂助は拳を握った。

「確かムササビの盗兵衛って二つ名の野郎でしたがね『一晩の夜働きに付き合えば金百両だ』と見知らぬ男から誘いを受けて、軽い気持ちで承知した。が、諾意だけを確かめるとその後は何の繋ぎもなく、からかいやがったかと思い始めた頃になって繋ぎがあった。それが忍び込む当日の昼下がりで、集まる場所だけを知らせてきた。『陽が落ちたら元大工町の谷房稲荷の境内に蘇芳色の布で顔を包んで集まれ』ってンだ。元大工町の谷房稲荷といえば八丁堀と町奉行所の中ほどに位置して危険極まりない場所じゃないかと案じたが、とにかく繋ぎ役の男は伝言だけを言って消えた。詳しくは集まってから教えるってことだった、と」

 茂助は記憶を手繰るように話し、口を閉じて再び記憶を手繰り寄せた。

「それじゃ、押し入る屋敷内部の詳細を誰が教えるンだ」

 と、銀太が口を挟むと、茂助は目を剥いて「黙って聞いてろ」と叱った。

「当夜、稲荷の境内に黒頭巾で顔を隠した仲間が集まり日本橋通り町の呉服問屋に押し入ったと語った。実際に事件綴を例繰方に頼んで調べてもらったら、ムササビのいった押込み強盗は北町が当番月に実際にあって、ざっと四千両ばかり盗まれていたンでさ」

 そう言って、茂助は銀太に頷いて見せた。

「ムササビが驚いたのは、集合場所へ行くと呉服問屋の詳しい見取り図から奉公人の寝泊まりしている部屋の位置のみならず、奉公人の人数から内所の家人の寝所まで、細大漏らさず書き記した絵図面を見せられたってことで。ムササビの盗兵衛は親からもらった名を熊蔵ってンですが、集まった仲間からは『くの字』と符丁で呼ばれ、他の仲間も符丁で呼び合って誰が何処の誰だか一切分からなかったってことでした。清蔵旦那は何とも面妖な事件に手をおつけになったものだと恨んだものでさ」

 そう言って茂助は茶を啜って、一つ大きく溜め息をついた。



続きはいよいよ物語の核心に近づくが、同時に辛い別れが待っている。

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