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昔話異聞  作者: 藤村ひろと
海の章
10/11

乙姫様の後悔と涙

 

 注射器は、武器ではない。


 もちろん拳銃のような安全装置などあるわけもなく。


 その形から太郎がもっとも自然にできる動作、手を握るという動作によって、強力な薬液が、皮膚に浸透するほどの圧力で発射される。



ばしゅっ!



 彼我の距離は、薬液を浸透させるには遠かった。


 が、ドクターの目に薬液を浴びせるには十分な距離だった。



「うわぁ!」



 ドクターはあわてて目をぬぐったが、その動作で皮膚にすり込まれた薬液は、その本来の性能を十分に発揮し、あっという間にドクターの意識を奪う。


 彼はその場に昏倒した。


 自分のしでかしたことに、しばらく呆然としていた太郎は。


 やがてはっと我に帰ると辺りを見回した。


 そしてあわてて表に出ようとする。しかし、扉の開け方がわからない。



 どうしよう……



 不安におびえながら、考え込んでいると、突然、扉が開いた。


 刹那、考えるより先に、太郎の身体が動く。


 いくら思索好きで気のいい若者とはいえ、太郎だっていっぱしの漁師だ。鍛え抜かれた身体は、まるで獲物に飛びかかる獣のように、開いた扉に突進する。



どん!



 入ってきた人物は、太郎の強烈な体当たりを食らって、廊下の反対側に吹っ飛ばされる。


 後頭部を床に打ち付けて気を失ったその人物を見て、太郎ははっと身体を硬くした。



「お、乙姫様……」



 考えたのは、一瞬だった。


 強靭なその腕に乙姫……施設の所長を抱えると、後は振り向きもせず、一心不乱に駆け出す。



 闇雲に走って、走って、走りまくった。


 しかし、もちろんのこと、出口の見当など、つくはずもない。


 太郎は途方にくれ、それでも足を止めることなく走り続けた。


 と。



ウゥ~~~!



 突然、耳を劈くようなサイレンが、廊下中に鳴り響いた。


 太郎は驚いて、一瞬足を止める。



「ドクターが倒れているのを、誰かが見つけたんでしょうね。もう、逃げられないわよ?」



 突然、耳元で声がして、太郎は飛び上がった。


 それから、声の主が自分の抱えている乙姫様だと気づき、あわてて彼女を下に下し平伏した。



「数々のご無礼、どうかお許しください。ですが私は、父や、母、友達を忘れるわけには、ゆかなかったのです」


「どうして?」



 女はいきどおるでもなく、冷静な表情のまま、平伏する太郎の後頭部に話しかけた。


 太郎は頭を床にこすりつけたまま、黙っている。



「顔を上げなさい。怒ってなんかないわ。私たちのしようしたことの方が、ずっとひどいことなのだから。ただ、どうしてそんなに、忘れたくないのかを聞きたいの」


「はぁ、しかし、当たり前のことではないでしょうか?」


「そう……そうかもしれないわね。でもね、私たちには、そういう感覚が、あまり、理解できないのよ。父親も、母親も、いないから」


「な……」



 軽い口調で発せられたその言葉に、太郎は思わず絶句する。



「私たちはね、みな生まれる前から設計されて、きちんと管理され、目的を持って生み出されるの。さっき話した、桃の殿様が生まれたのと同じ、あの胎盤カプセルの中からね」


「みんな、桃から?」


「うふふ、そう言うと、なんだかとてもロマンティックに聞こえるわね」



 所長は、少しくすぐったそうに笑った。


 それから、太郎の顔をまっすぐ見て、優しい声で言う。



「あなたはとてもまっすぐな人ね。そして、とてもんだ魂と謙虚な心、優れた頭脳を持っている」


「とんでもない。私はただの愚かな漁師です」


「いいえ、愚かなのは私たちよ。少しばかり知識が多くたって、それを宿す魂がこうもゆがんでしまっていては、いったい何になると思う? 少しばかり科学が進歩したからって、それを扱うのが傲慢さに満ちた魂だとしたら、それが本当に進歩だといえる?」


「わ、わかりません。ごめんなさい」


「いえ、ごめんなさい。あなたを責めてるんじゃないのよ?」



 女は、いまやはっきりと好意を持った表情で、太郎を見つめていた。



「人はね、あなたの言うような意味でなら、愚かでいいの。ずっとバカでいいのよ。一日一日をまっすぐに生きて、澄んだ魂と少しばかりの勇気を持ってさえいれば、それでいいの」


「はい……」


「あなたをスタッフに引き渡してから、私は考えた。いえ、考えるだけなら、ずっと前から考えていた。己の好き勝手に星を使いつぶし、使えなくなったら逃げ出し、また勝手な都合でそれを修復し、最後には命まで勝手に生み出し、それさえも都合よく利用する」



 女は、ついに、ひとしずくの涙を落とした。



「何だってこうも、傲慢に生きてきたんでしょうね、私たちは」


「神様だからじゃないんですか?」



 真摯な、純粋な表情でこう言われ、ついに耐えられなくなり。


 女は、太郎に抱きついて泣きじゃくった。


 声を上げて、泣きじゃくった。



太郎は、されるまま身体を硬くして、その場に立ちすくんでいる。


やがて、女は泣き止み、のろのろと身体を離した。



「ごめんなさい。驚かせてしまった」


「いいえ。びっくりしたけど、乙姫様に抱きしめられたら、天にも昇る気持ちでしたよ。なんだかいい匂いがしますね。それにやわらかい。村の女とは違うなぁ。やっぱり、神様だ」



 妙な風に感心している太郎に、彼女は涙でくしゃくしゃになった顔をほころばせた。それは、彼女が何年かぶりにこぼした、心からの微笑だった。


 それから、何かを吹っ切った明るい表情で、彼女は太郎の手をとる。



「さあ、行きましょう。この箱を、もっていて」



 女が取り出した小箱を受け取り、太郎はしばらく考えてから。


 腰につけた魚篭びくの中に入れた。


 それから、彼女の顔を不安そうに見る。



「でも……」


「大丈夫、私に任せておいて」



 女はもう一度、やさしく笑った。



 

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